武蔵国分寺跡  その1

天平13年(741)に聖武天皇の詔により、60余の諸国に鎮護国家を目的として、僧寺(金光明四天王護国之寺と呼ばれ20名の僧侶を置く)と尼寺(法華滅罪之寺と呼ばれ10名の尼僧を置く)の造営が始められました。武蔵国の場合、国府(現府中市)の北の広大な平地と東西に連なる丘、丘の麓には豊かな湧水のあるこの地一帯が適地として選ばれました。
寺地がどの位の広さであったかハッキリした結論は出ていないようですが、現在迄の発掘調査により、寺地を区画すると考えられる溝が何カ所も発見され、東西8町(約900メートル)、南北5町(約550メートル)が創建時の僧尼寺を含めた寺地と推定されているようです。
金堂跡前に建つ武蔵国分寺跡石碑
武蔵国分寺跡では僧寺の寺域(中心伽藍)を囲む一辺約3町半(約360メートル)の溝も調査されていて、諸国の国分寺がおおむね2町四方といわれるのと較べてみると、ここ武蔵国分寺は諸国国分寺中でも有数の規模であったことが判明しました。

武蔵国分寺の僧寺は発掘調査の結果、八脚門の中門を南から入り、本尊を安置する東西36.1メートル、南北16.6メートルの金堂が石積みの基壇の上に建ち、その北側には教典の講義などを行う東西28.1メートル、南北16.3メートルの講堂が建てられていました。この金堂の大きさは全国の国分寺中(東大寺は別)の最大規模であるそうです。
ところで、金堂の東西幅の36.1メートルというのはどの位の大きさなのかと調べたところ、現存する正面7間の建築物は平均して20〜25メートルで、比較的大きい唐招提寺の金堂でも約28メートルであることがわかり、36メートルというのがいかに大きいかが伺われます。ちなみに比叡山延暦寺根本中堂が11間で37.6メートルということです。

国分僧寺金堂跡の礎石
金堂と講堂の東西には、僧が起居した南北に長い僧坊があり、東僧坊(南北44.5メートル、東西9メートル)の一角が発掘調査されています。また、金堂の北東には鐘楼と推定される建物の基礎も発見されているそうです。

以上の建物跡以外に、南東にやや離れた地点に七重塔跡が確認されていて、これらを総合したこれまでの調査の結果(出土瓦の研究等)から、武蔵国分寺は大きく三期の変遷をたどったことが想定されているそうです。

第一期(創建期)
天平13年(741)の国分寺創建の詔が配布されて直後に、塔周辺を中心とした寺院地で造営が着手される。その後、天平19年(747)に郡司層の協力要請を受け、組織的な造寺体制が整備される。造寺計画の変更とともに造営が進展し、天平宝字2年(758)までには創建事業が終了したものと考えられる。

第二期(再建期)
承和12年(845)の塔再建と層尼寺の大改修等が行われた9世紀後半代の整備・拡充期に当たる。北院建物の新築、講堂の増築、寺地内付属諸院の整備等が行われた時期と考えられる。

第三期(衰退期)
寺院地並びに伽藍地区画溝の埋没を契機とする縦穴住居の進出等が始まり、国分寺の存在意義が失われてくる10〜11世紀代の衰退期にあたる。

(多摩のあゆみ103号・国府・国分寺・東山道より)

国分僧寺講堂跡
国分寺北院跡
国分寺薬師堂は建武2年(1335)に新田義貞の寄進により、現在の金堂跡付近に建立されたと伝えられています。その後、享保元年(1716)に修復されましたが、宝暦年間(1751〜1763)に現在地に再建されました。堂内表面の長押には、明和元年(1764)に造献された深見玄岱(薩摩藩及び幕府登用の儒書家)の筆と伝えられる「金光明四天王護国之寺」の寺額がかけられています。

薬師堂に安置されている木造薬師如来座像は、平安時代末期か鎌倉時代初期の作といわれ、寄木造の漆箔仕上げで、蓮華座に座して、印想は右手が施無畏印、左手に薬壺を持っています。台座、後背、日光・月光の両脇士菩薩は後世の補作と思われています。この薬師如来像は国指定重要文化財に指定されていて古い武蔵国分寺を偲ぶ唯一の遺品となっています。

国分寺薬師堂

武蔵国分寺跡 その1 その2