武蔵国分寺跡  その2

左の写真は武蔵国分寺の七重塔跡を撮影したものです。国分寺造営の詔に「造塔の寺は国の華たり」と象徴的に記されている塔は「金字金光明最勝王経」を安置する国分寺の重要な施設でした。この塔は「続日本後紀」に、平安時代の初期の承和2年(835)に雷火で焼失し、10年後に男衾郡の前大嶺(郡の長官)であった壬生吉志福正がその再建を願い出て、許可されたことが知られています。
その後の調査により、塔基壇が修復されていることや、礎石の下に瓦片を大量に詰め込んでいることが明らかになり、再建されたことが証明されています。
武蔵国分寺跡の七重塔跡
武蔵国分寺の七重塔は主要伽藍から南東にやや離れた位置にあり、一辺18メートルの石積み基壇があり、当初は、この塔を中心とした伽藍計画であったことが発掘調査により判明しているそうです。
寺院の塔で七重塔が現在するものはありません。諸国に造営された国分寺の塔は七重塔であったとされますが、果たしてそれら全てが七重塔であったのかは知るすべはありません。奈良東大寺の七重塔は高さ100メートルとも言われていますが、武蔵国分寺の七重塔はどの位の高さがあったのでしょうか。金堂の大きさから考えて、その高さや姿を想像して見るのもまた楽しいものです。
武蔵国分寺跡の七重塔跡の礎石
武蔵国分寺は諸国に造営された国分寺の中でも最大の規模であったことは先に説明しましたが、それでは何故武蔵国分寺はそれほどの規模であったのでしょうか。現在の首都である東京があるから、武蔵国は特別な存在なのだと1300年前の人が考えるわけもないでしょうし、しかし東国に置いては奈良時代でも武蔵国は中心的な存在であったことは想像がつきそうです。
また国分寺の研究に欠かせないのが寺の古瓦です。武蔵国分寺では文字瓦が多く出土していて、文字瓦の性格が郡-郷-戸主に至る税制の負担体系を採用したもであると考えられています。
瓦の生産された窯跡群地は稲城市大丸と埼玉県鳩山町が初期瓦窯として知られ、鎌倉街道上道沿いの鳩山町赤沼・石田瓦窯は有名です。鎌倉街道の支道沿いの入間市東金子窯跡群は再建期の瓦窯跡群と考えられているようです。
現在の国分寺境内の東にある真姿の池
左の写真とその上の写真は現在の国分寺の東方の崖線下にある「真姿の池」とその湧水地域から流れ出す清水の用水路です。ここの湧水は環境庁の名水百選にも選ばれていて、「お鷹の道・真姿の池湧水群」として知られ、国分寺市崖線緑地保存地域に指定されています。
嘉祥元年(848)に不治の病に苦しんだ玉造小町が病気平癒の祈願のために国分寺に訪れ21間参詣すると一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池で身を清めるようにと言って姿を消したので、小町はその通りに池の水で身を清めると病は消え、元の美しい姿に戻ったという伝説が真姿の池の名の由来になっています。『新編武蔵風土記稿』に「広さ二間四方許、地中の弧嶼に弁天の祠宇を置き、この池水も田地へ濯ぐ」とあります。
真姿の池付近の名水の水路
左の写真は国分尼寺跡地にある尼坊跡を撮影したものです。尼寺跡付近は現在保存整備事業が進められています。尼寺は僧寺とくらべて小さく、現在までの調査で金堂・尼坊・中門・東門・掘立柱建物跡などが確認されていて、金堂と尼坊前には幡(幢)竿柱跡なども発見されています。その他に講堂・鐘楼・経蔵・南大門などもあったと推定されているようです。尼坊は尼僧の住まいで、東西44.5メートル、南北8.9メートルと東西に長い瓦葺の建物で、5房に間仕切りされています。礎石は全て失われていましたが、その下部に基礎工事の礎石据付跡が規則正しく並んでいることが確認されています。現在礎石は復元され写真のようになったいます。
国分尼寺はすぐ東を東山道武蔵路が通っていて、寺の中枢線は東山道武蔵路とほぼ並行になっています。
国分尼寺の尼坊跡
国分寺というと私は奈良の東大寺などを思いだし、壮麗で華やいだ寺院を想像し、そのような寺院が全国諸国に建てられていたと、表の輝いた部分だけでイメージしがちですが、しかし、実際に格国々に建てられた国分寺とはどのようなものであったのか。現在のようにハイテクな建設機械など無い1200年も昔に、これらの寺院を造営することは大変な労力が必要であったことは想像ができます。そして実際に寺の建設に駆りだされた一般の民衆はどのような思いで国分寺を見ていたのでしょうか。武蔵国分寺の七重塔が雷火によって承和2年に焼失していますが、この9世紀代に諸国の国分寺が焼失する例が多いことを反発する民の放火説と考えている専門家もいるほどです。

国家事業として造営された国分寺ですが、現在も寺として存続しているのは非常に少ないのは何故でしょうか。鎌倉時代の宗派の仏教寺院が民衆の心を捉えて大いに発展したのに対して、国分寺のそのほとんどが失われてしまった(或いは国分寺が建設されなかった国もあったかも知れないのでは?)のは一握りの権力者のものでしかなかったからなのでしょうか。

武蔵国分寺はその後元弘3年(1333)に討幕の新田義貞軍と北条氏の分倍河原の合戦最中に新田軍によって焼失されたといわれます。その後すぐに新田義貞は金堂付近に薬師堂を建立していますが、この薬師堂があったために武蔵国分寺は現在も残ることができたのではないかと思われます。僧寺の金堂跡前から南に向かう道は薬師道と呼ばれる古道であるそうです。

ここで紹介しきれなかった、国指定史跡武蔵国分寺跡周辺の見どころを簡単に述べておきます。

国分寺境内
万葉植物園・こうやまき・土師竪穴住居跡・国分寺楼門・国分寺仁王門 以上いすれも市指定文化財

国分寺境内の国分寺市文化財保存館
武蔵多喜窪遺跡むさしたきくぼいせき第一号住居跡出土品(重要文化財)

お鷹の道
江戸時代の寛延元年(1748)に国分寺市内の村々は、尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応3年(1867)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつのころからか『お鷹の道』と呼ばれ、昭和47〜48年に国分寺市が遊歩道として整備しました。

私立第四中体育館1階の国分寺市文化財資料展示室
銅造観世音菩薩立像・唐草四獣文銅蓋・緑釉花文皿 以上いずれも都指定文化財

武蔵国分寺跡 その1 その2