国分寺というと私は奈良の東大寺などを思いだし、壮麗で華やいだ寺院を想像し、そのような寺院が全国諸国に建てられていたと、表の輝いた部分だけでイメージしがちですが、しかし、実際に格国々に建てられた国分寺とはどのようなものであったのか。現在のようにハイテクな建設機械など無い1200年も昔に、これらの寺院を造営することは大変な労力が必要であったことは想像ができます。そして実際に寺の建設に駆りだされた一般の民衆はどのような思いで国分寺を見ていたのでしょうか。武蔵国分寺の七重塔が雷火によって承和2年に焼失していますが、この9世紀代に諸国の国分寺が焼失する例が多いことを反発する民の放火説と考えている専門家もいるほどです。
国家事業として造営された国分寺ですが、現在も寺として存続しているのは非常に少ないのは何故でしょうか。鎌倉時代の宗派の仏教寺院が民衆の心を捉えて大いに発展したのに対して、国分寺のそのほとんどが失われてしまった(或いは国分寺が建設されなかった国もあったかも知れないのでは?)のは一握りの権力者のものでしかなかったからなのでしょうか。
武蔵国分寺はその後元弘3年(1333)に討幕の新田義貞軍と北条氏の分倍河原の合戦最中に新田軍によって焼失されたといわれます。その後すぐに新田義貞は金堂付近に薬師堂を建立していますが、この薬師堂があったために武蔵国分寺は現在も残ることができたのではないかと思われます。僧寺の金堂跡前から南に向かう道は薬師道と呼ばれる古道であるそうです。
ここで紹介しきれなかった、国指定史跡武蔵国分寺跡周辺の見どころを簡単に述べておきます。
国分寺境内
万葉植物園・こうやまき・土師竪穴住居跡・国分寺楼門・国分寺仁王門 以上いすれも市指定文化財
国分寺境内の国分寺市文化財保存館
武蔵多喜窪遺跡むさしたきくぼいせき第一号住居跡出土品(重要文化財)
お鷹の道
江戸時代の寛延元年(1748)に国分寺市内の村々は、尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応3年(1867)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつのころからか『お鷹の道』と呼ばれ、昭和47〜48年に国分寺市が遊歩道として整備しました。
私立第四中体育館1階の国分寺市文化財資料展示室
銅造観世音菩薩立像・唐草四獣文銅蓋・緑釉花文皿 以上いずれも都指定文化財
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