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| 上の写真は現在の東山道武蔵路が保存されているところに建つ「東山道武蔵路」と書かれた石碑です。アスファルトの味気ない保存空地の中で、歴史的な趣を感じさせてくれる石碑です。現在のこのアスファルトの下に下の写真のような遺跡が保存されていると思うと不思議な感じがします。 実は何を隠そう、東山道武蔵路とい古代の道路遺跡があることを私が知ったのは、つい2年ほど前でして、私が鎌倉街道上道のホームページを作成している最中に資料をあさっていて、たまたまこの遺跡のことが書かれているものを拝見してからです。遺跡が発見された当時(平成7年)には私はこの遺跡のニュースを知らなかったのでした。同じ時期に青森県で発見された「三内丸山遺跡」が大きな話題となっていたということでした。 |
上の写真は現在の東山道武蔵路が地中保存されているところの、アスファルトの空地の風景で北側から南側を撮影したものです。写真を斜めに伸びる線が保存空地と歩道を分ける境の線で、駅のホームなどで視覚障害者が杖で付いて確認するタイルが敷かれています。 左側のラインの不規則な黄色い太めの線が、発掘当時の東側の側溝を平面再現したものです。 一般に道路遺跡というものは土地面積が広いために、遺跡が保存されることはほとんどありません。保存されたとしても部分的にだけです。ここの遺跡は全面保存がされています。これは開発者や地元住民などの理解がないと、なかなか実現できるものではありません。しかし、これからの街造りは古いものを破壊するだけではなく、古いものは地域の歴史的遺産として、うまく共存させていくことが求められるものと思います。ここはそのような街造りの先駆的な例でもあると思えます。 |
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| 上の写真は遺跡の北側から道路遺構の北端部分を撮影したものです。両側の側溝から左(東)に逸れていく白く輝いた道路面が確認できるのではと思います。この白く輝いた道路面は第四期の道路面で遺構の最終期のものと考えられているものです。この道路の廃絶時期が11世紀の中頃と考えられていて、その頃は東国では奥州征伐の前九年の役などがあった頃です。この第四期の道路面は他の道路遺構などでもよく見られる、波板状凹凸面なども確認でき、また中世道とも大いに関連がありそうです。 | 上の写真は遺跡の北端の状況を撮影したものです。第一期の両側溝の中にやや細い溝が右(東)の側溝に近づき最終的に両溝が重なるのが確認できます。この細い溝は第三期目の東側の側溝です。三期目の遺構は武蔵国が東山道から東海道に所属替えされた後の道と考えられ、駅路としての機能を失った後に使用され続けた道と考えられます。平安時代の延喜式の駅路の路線は武蔵府中へは東海道の店屋駅からの往還路と推定されていて、ここの第三期の道は北関東方面への伝路のような役目の道であったのではと思います。 |