若宮大路・・・・その6

若宮大路も一ノ鳥居を過ぎると古道や参道といった雰囲気は薄れていきます。右の写真は鎌倉消防署前の大路で、この付近が鎌倉時代から中世頃の波打ち際ではなかったかと思われます。それはこの辺りを発掘しても遺跡が検出されないことからそのように考えられています。前にも説明しましたが現在の一ノ鳥居付近は砂丘の名残の土手状で周りよりやや高くなっています。今までの考古学などの調査結果からこの砂丘を境に海側の浜地には一般庶民の生活空間が東西に広がっていたと考えられています。またこの一般庶民の生活空間は墓地と隣り合わせか或いは墓地と生活空間がミックスした場所であったようなのです。

若宮大路も鎌倉消防署を過ぎれば由比ヶ浜はもうすぐそこです。波の音が聞こえてきて海も見えてきました。

由比ヶ浜の遺跡
一ノ鳥居の南側から現在の鎌倉海浜公園の北側付近一帯は集団墓地や一般庶民の生活場跡の遺跡が集中しています。この辺りは前浜と呼ばれ西は甘縄辺りまで広がっていたようです。この遺跡地帯から発掘されたものの代表が沢山のおびただしい人骨です。時代的には中世のもので中には頭蓋骨だけを集積したものもありました。これらの人骨は土壙墓に埋葬されたものもあるようですが全般的には竪穴内に投げ込まれたか放棄されたような状態で発見されているようです。

捨てられたような状態で発見されたこれらの人骨は何を意味するのでじょうか。当初は新田義貞の鎌倉攻めのときに亡くなった人達のものとも考えられていたようですが、時代的には13世紀後半から15世紀後半までとかなり幅広く、特に14世紀後半から15世紀前半のものが主であるらしいのです。今ではこの浜地は元々が墓域であったと想定されています。また墓地と重なり合うように方形竪穴と称する半地下式の建物跡も多数発見されていてそれらは無秩序に立ち並び時代的には人骨と同時期のものであるといいます。
右の写真は若宮大路の終点で海岸を通る国道134号線とのT字路でその下は由比ヶ浜の浜辺になっています。

鎌倉時代の前浜は都市として人口が増えた狭い鎌倉の中で一般庶民の生活圏であったと思われています。一向堂などの宗教的な建物も存在したことが知られていて、一向宗や日蓮宗の宗教活動者の拠点であったともいわれています。また鹿骨の加工品や鉄製品、そして鋳型なども出土していて、鋳物師や鍛冶師などの職能人も多く住んでいたようなのです。このようなことから前浜には工房があったのかも知れません。中には大仏鋳造に携わった人達もいたのではないでしょうか。このように前浜はにぎやかな場所であったようですが、鎌倉公方が古河へ移ってからは前浜でも急速に人々の営みがなくなっていったようです。

玉川学園の「鎌倉時代の勉強をしよう」のホームページに由比ガ浜遺跡の調査のページがありますので参照してみてください。写真が載っていますよ。

右の写真はT字路交差点角にある魚藍観世音の石碑

魚藍観世音の石碑
魚介ハ捨身シテ人ニ愉樂ヲ與エ且ツ養フ功徳マサニ宏大無量ナリ吾等魚鱗ヲ愛スルノ有志挙ツテソノ霊ニ供養シ併セテ浜海不易ノ安全ヲ祈念シコノ碑ヲ建ツ
昭和四十一年六月吉日
鎌倉市立図書館長 澤壽郎                       鎌倉市仏教会々長 具山宣泰

左の写真は滑川が相模灘にそそぐ河口です。鎌倉時代頃の滑川の河口は現在よりも内陸の一ノ鳥居の東側付近まで入りこんでいたようです。材木座の南半分は海面で九品寺は海岸線付近であったと考えられています。

800年もの昔から東国の都鎌倉のメインストリートであった若宮大路は現在もなお、町のメインストリートとして生き続けています。鎌倉は東国のつわものどもの精神のよりどころでした。ふり返って見ると鎌倉とはつわものどもの血みどろの権力抗争の舞台であったようです。人間という生き物はなぜ争いあうものなのか。鎌倉幕府誕生以来明治維新までの日本の歴史はつわものどもが引っ張ってきました。800年前に源頼朝が見ていた鎌倉の海はどんな眺めだったのでしょうか。現在はウインドサーフィンの若者が波と戯れて、そして犬を連れて散歩する女性が波打ち際を通り過ぎていくのでした。

出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな 

由比ヶ浜の浜辺から稲村ヶ崎と霊山ヶ崎を見る

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