若宮大路・・・・その5

大鳥居跡付近にある歩道橋上から一ノ鳥居をみる

浜の大鳥居跡から海側の若宮大路は歩道橋辺りから緩やかな上り坂になっています。上の写真は歩道橋上から海側の一ノ鳥居を眺めたものです。緩やかな坂を上り切ったところに一ノ鳥居が立っています。一ノ鳥居付近は由比ヶ浜の砂丘であったためにやや周りより高くなっているようです。若宮大路の東側を流れる滑川を地図で見ると一ノ鳥居付近では東側に大きくそれています。一方で滑川が大路に一番近づいている付近は下ノ下馬付近でその辺りの土地が低かったことがわかります。

明徳4年銘宝篋印塔
右の写真は若宮大路一ノ鳥居の西側に建つ大きな宝篋印塔です。この塔は基礎を含めると高さが約3.5メートルもあり、堂々とした立派なものです。明徳4年(1393)と大願主比丘道友の銘が刻まれています。そしてこの塔は謀反の疑いをかけられて由比ヶ浜で殺された畠山六郎重保と主従四騎を祀ったものであるといわれています。塔の隣には鎌倉青年団の「畠山重保邸址」の碑がありますが、この付近に重保邸があったという資料は見られませんので別の場所にあった可能性もあります。因みに重保の父の重忠邸は鶴岡八幡宮の東隣付近と伝えられています。

畠山重保の最後
畠山重保は畠山重忠の息子です。畠山重忠については川本・畠山館のページを参照ください。ことの発端は元久元年(1204)に将軍実朝の姫君を迎えに鎌倉から京へ来ていた重保が平賀朝雅邸での酒宴の席で朝雅と口論になったことです。ここでは事なきを得ますが、朝雅は北条時政の後妻である牧の方の女婿でありました。牧の方はこの諍いをねにもって時政に畠山一族を討つことを告げます。

翌元久2年、ついに畠山氏追討の事件が起こります。6月22日、由比ヶ浜に謀反人との知らせを受けた重保は郎党三人をつれて由比ヶ浜へ向かいました。そこで待ち受けていたのは稲毛重成の訴えで三浦義村の郎等佐久間家盛ら二、三十騎。「畠山重保、謀反人はお前のことだ」、重保等は奮闘しましたが数のうえでは及ばず、ついに討たれてしまいました。

その場所がここ現在の一ノ鳥居付近であったかはわかりませんが、現在ここに重保の墓と伝わる宝篋印塔があるからには何か関係が有るのかも知れません。ただ塔が造られたのはその188年後の明徳4年で、またこの塔は場所が移動しているとも伝えられています。この塔は重保に関連したものなのか、或いは全く別なものなのかそ、の真相は謎のままです。

一ノ鳥居
左の写真は若宮大路の一番海よりにある鶴岡八幡宮の一ノ鳥居です。現在の一ノ鳥居は寛文八年(1668)に徳川家綱が建てたものだといいます。二ノ鳥居と三ノ鳥居が朱塗りの鳥居であったのに対して、この鳥居だけ白い石の鳥居になっています。

この一ノ鳥居のすぐ南の道路の東側に若宮大路公園という小さな公園があり、その東の奥に若宮ハイツがあります。この若宮ハイツが建設される前に発掘調査が行われていて、多数の地下倉と鎌倉時代に遡ると思われる道跡が発見されています。道跡には砂の硬化面と、わだち跡も残っていてそこからは文永7年(1272)銘の木簡も出土しているそうです。この道跡は海岸から物資を積んだ荷車などが通った道ではないかと考えられているようです。

『吾妻鏡』仁治2年(1241)4月3日条
戌の刻大地震。南風。由比浦の大鳥居内拝殿潮に引かれ流失す。着岸の船十余艘破損す。

この時代の由比ヶ浜に拝殿があって地震の津波で流されたということです。その拝殿とは現在のどの辺りで、どのような拝殿であったのかは今では想像するしかないようです。

鶴岡八幡宮から若宮大路を一ノ鳥居まで歩いてきましたが、ここまでの大路沿いには歴史を感じさせてくれるものが沢山ありました。紹介できなかったものもありますが、私が大路を歩いて一番感じたことは、今でも街の人達によってこの古道(参道)は大切に守られているんだなということでした。

正応2年(1289)に『とはずがたり』の作者二条は鎌倉の由比ヶ浜に着いて次のように語っています。
「由比の浜という所へ出て見れば、大きなる鳥居あり。若宮の御やしろ、はるかに見え給へば・・・」
由比ヶ浜には大きな鳥居があり若宮のお社は遙か向こうに見えたと言っています。
「まず御やしろへまゐりぬ。所のさまは男山のけしきよりも海見はるかしたるは見どころありともいひぬべし。大名ども、浄衣などにはあらで、いろいろのひたたれにまゐりゐつるもやうかはりたり」
鶴岡八幡宮と石清水八幡宮の景色の違いをのべ石清水の男山よりは海が見渡せるのは見どころであるとのべ、大名達が浄衣ではなく色々な色の直垂で参詣しているのは都とは違うようだと言っています。

若宮大路-5   次へ  1. 2. 3. 4. 5. 6.