若宮大路・・・・その2

三ノ鳥居前は慢性渋滞
右の写真は鶴岡八幡宮の三ノ鳥居です。鳥居の前を横切る道は横大路と呼ばれ、東に向かうと金沢道(六浦道)で横浜市金沢方面へ行きます。反対の西に向かうとT字路になりそこを右に折れると山ノ内北鎌倉方面へ行き、左に折れてJR鎌倉駅前までの道はご存じの小町通りですがこの通りは古道ではありません。その少し先でまた右に折れる道は窟堂道と呼ばれ寿福寺前に出ます。寿福寺から先は武蔵大路といい化粧坂を通り武蔵国方面へ向かう道でした。写真の鳥居の前の交差点は休日には大変渋滞します。全く車は先に進みません。鎌倉観光はマイカーでのお出かけは避けたほうが宜しいかと思います。

若宮大路と段葛の関係は
右の写真は鶴岡八幡宮の三ノ鳥居前交差点から由比ヶ浜まで続く若宮大路です。道の中央で石垣の中の道は「段葛(だんかずら)」と呼ばれている参詣道です。『吾妻鏡』寿永元年(1182)三月十五日条にある「詣往道」は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至るまでの道であったといいますからこの若宮大路と考えることができるのですが、その後に続く政子の安産を祈念して御家人達が土石を運んで築いたというのは段葛のことであるともいわれます。若宮大路も段葛も同じ八幡宮の参詣道ですが古道研究の立場からは区分して考える必要があるようです。

段葛の道幅の違いは何か
左の写真は上の写真の八幡宮側から始まる段葛の入口(或いは出口)です。この写真のところで幅は約3メートルあるそうです。それに対して現在の段葛の南限の二ノ鳥居近くでは段葛の道幅は約5メートルといいます。この道幅の違いは遠近法を用いて実際よりも道が長く見えるようにしているという説がありす。そして段葛だけではなく若宮大路自体も発掘結果から八幡宮側よりも南の方が広くなっていたかも知れないようです。左の写真では狭いほうから広い方を眺めていますから道幅が遠くまで同じように続いて見えます。次ページの南側から北側を見た写真と見比べてみてください。

段葛の名前の由来は
現在段葛と呼ばれている参詣道は鎌倉時代の文献などには段葛という名前は見あたらないようです。実際に段葛の名前が出てくるのは江戸時代になってからのようでが、研究者によっては鎌倉時代から段葛と呼ばれていたとする説もあるようです。段葛以外の呼び方としては、置石(おきいし)、作道(つくりみち)、置路(おきみち)、千度壇(せんどだん)など、その他多くの呼ばれ方をしていたようです。寿永元年のことを記した『鶴岡八幡宮寺社務職次第』には「鶴岡社頭より由比浜に至る置路を造らるるなり」とあります。一般には段葛の名前の由来は道の中央を一段高くして葛石を並べた道ということのようです。

『新編鎌倉志』に次のようにあります。
一の鳥居より、大鳥居までを、若宮大路とあり。今は堅横ともに、若宮小路と云なり。社の西の町を、馬場小路と云なり。総名を雪下と云なり。此所に旅店あり。法印堯慧が歌に、「春ふかき跡あはれなり苔の上の、花に残れる雪の下道」と詠ず。社前より浜までの道、其中の一段高き所を、段葛と名く。又は置路とも云なり。
上記のとおり『新編鎌倉志』では段葛と呼んでいるようですが、現在と違うのは現在の三ノ鳥居が一の鳥居で、一ノ鳥居が大鳥居となっています。

『鎌倉年中行事』には七度小路というのが出ています。鎌倉公方が毎年二月に八幡宮に七日間参籠し、そのときに浜の鳥居を七度廻ることからそう呼ばれたようです。『快元僧都記』の天文3年(1534)六月十六日の条に収めてある勧進状の案に七度行路と下馬橋二ヶ所を修治したいというのがあるそうです。ここでいう七度行路というのは七度小路と同じもので『鎌倉市史』に七度小路は段葛のことであろうと書かれています。

さてこの段葛は『吾妻鏡』寿永元年のときに築かれた「詣往道」と考えてよいものなのか? 御家人達が石を運んでいるというから写真の段葛の路肩と縁は石垣になっているのでこの石のことではなかとも思われます。しかし明治初め頃の古い段葛の写真を見ると段葛の両側は土塁状になっているだけで石垣は見られませんし、今のように桜並木もありません。ただ石垣のことは何百年の間に崩れたりもしているでしょうからあまり気にすることではないとしても、問題は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで至る道であったということです。何故ならば段葛は現在二ノ鳥居までしかないことです。

段葛の南限はどこ
鎌倉時代の段葛はどんな道であったのでしょうか。段葛の研究資料をいろいろと見ていくとどうやら段葛は由比ヶ浜まで無かったらしいのです。段葛の南限がどこであったのか、有力とされる資料が明応年間(1492〜1501)に作成されたと伝わる「善宝寺寺地図」で、「置石」と記された切石列が延命寺橋と思われる西側の現在の下ノ下馬付近まで描かれているものです。その他にも享保17年(1732)の「鶴岡八幡宮境内図」などにも段葛らしき道は下ノ下馬付近まで描かれています。

左の写真は段葛のある若宮大路の西沿で「三河屋本店」前の風景です。三河屋本店は明治33年(1900)創業の酒店で現在の建物は昭和2年(1927)に建てられ、伝統的な出桁造りの店構えは鎌倉市景観重要建築物に指定されています。

現在の段葛で一箇所横切る道があるところ

段葛は鎌倉時代に存在したのか。そんなことを考えるのは私だけでしょうか。段葛は古都鎌倉の象徴でもあり鶴岡八幡宮の参道でもあり境内でもあるわけですから鎌倉時代に無かったなどと考えるのは常識から外れることだとお叱りを受けそうです。若宮大路の名前は『吾妻鏡』にも頻繁に出てきていますが、段葛と言う名前は見あたらないことは先にも書きました。ただ置路や作道などと呼ばれた道のことは古い文献にも見られます。私が言いたかったことは置路や作道が現在の段葛と同じような構造の道であったかということです。

若宮大路-2   次へ  1. 2. 3. 4. 5. 6.