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大阪←→釜山航路
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写真 関連写真がありませんので悪しからず。欧州の航路の頁を開いた愛読書トーマスクック時刻表

1985年 夏 親子(父娘)旅行 大阪国際フェリー<おりんぴあ88>特等 昼夜行便
初めての海外への船旅は大阪から釜山への航海、瀬戸内海から関門海峡を抜けて
●航海
@往路 大阪→釜山 大阪国際フェリー<おりんぴあ88>特等室
A復路 釜山→大阪 大阪国際フェリー<おりんぴあ88>特等室

●旅程 船中二泊+ソウル二泊+船中二泊 六泊七日
第一日目 京都→大阪南港かもめ埠頭→
第二日目 →釜山港→釜山空港→ソウル空港→ソウル
第三日目 ソウル
第四日目 ソウル→カンファドウ→ソウル
第五日目 ソウル→釜山→釜山港→
第六日目 →大阪南港かもめ埠頭→京都

 

 当時小生は仕事で毎月一度以上韓国ソウルを訪れていた。娘は小学校の六年生。日頃忙殺され、その上年間百二十日以上の海外滞在が常態化していて日常的には全く親らしい行いも出来ずにいたので、せめてもの罪滅ぼしにとこれからは夏休みの一週間ほどを娘とふたり切りで旅に出ようと決めた最初の旅であった。
 まだ幼い娘は
「パパを占有できる・・・。」
 と喜び勇んで諸手をあげて賛成? 小生は普段は飛行機での往復で旅情も何もないただ忙殺されるだけの韓国への出張に辟易としていたのだがいざ娘を連れてのんびり出掛けるとなるとまぁ勝手知ったる安堵感も手伝って韓国への父娘の旅を決め込んだ。今はなきこの航路はかの許永中氏が健在なりし頃に設立された日韓合弁の会社で大阪・釜山間を二十二時間で結んでいた新鋭船による国際航路である。お盆の時期に当たるために予約状況を気遣いながら7月の末に直接大阪国際フェリーへ電話で問い合わせてみるとラッキーにも特等室が予約できた。気心の知れたいつもの旅行社へ連絡し発券をして貰い乗船券を手にしたのは数日後であった。
 出発は確か八月十日頃だった。大阪南港出港は12:00だが乗船手続きは二時間前から出来ると言うことで午前八時過ぎには家を出て阪急電車、大阪地下鉄、ニュートラムを乗り継ぎさらにそこからタクシーでかもめ埠頭へ午前十時頃には辿り着いたが小さな2階建てのターミナルビル。狭いロビーは既に出発客でごったがえしていた。さすがに韓国へ向かう船、賑わう乗船客の殆どは韓国または韓国系の人たちの様子でちょっと異様に活気?ある雰囲気に満ちていた。韓国語の会話もあちこちで飛び交い既にここは韓国の様相を呈していた。
 以前に一度韓国へ連れていったことのある娘は辺りを見渡しながら
 「パパ、韓国に着いたみたいね・・・。」
 と微笑む。あどけなく屈託がない。
 乗船用紙に必要事項を記入し、混雑した窓口に列を成すこと数十分。パスポートと予約クーポンを差し出し乗船券を手にした頃には既に一旅終えたような疲れさえ覚えた。程なく乗船開始のアナウンスに大挙して人々は税関の入り口に並ぶ。まぁ入国とは違い出国のための税関検査は何処の国でも何となく簡単なような気がする。大挙して並んでいてもそんなには時間を要することもなく出獄手続きを終えるとやっと小さなターミナルの裏へ出た。そこから囲われた通路が少し続いていて岸壁に出る。目の前に真っ白な巨体が横たわっている。
 タラップは左手にあり登り口にクルーがにこやかに出迎えている。
 「パパ、これがお船? 壁みたいね・・・。」
見上げながら娘が驚くように語りかける。タラップを上り船内に入ると案内所で部屋の鍵を受け取り船室へ。右舷側(岸壁側)の部屋であった。窓から見下ろす岸壁の人々は小さく見える。
 こうして始まった船旅は瀬戸内海を通り関門海峡を抜けて対馬海峡を横切り釜山へ向かい翌朝10時に釜山港へ到着する。釜山港から釜山空港へ。シャトル便でへ、ソウルへ向かいソウルに数日滞在。帰路はソウル駅から特急セマウルで釜山へ、釜山に一泊の後、翌日釜山港から往路のこの航路で帰路に就く旅であった。

●往路 大阪→釜山
 初めての国際航路への乗船はそれが行き先が隣国の韓国、二十二時間の船旅とは言え何とも新鮮な体験である。
 やがて定刻12:00出港。ドラを響かせ汽笛を鳴らし<おりんぴあ88>は静かに巨体を岸壁から話し航海の途に就いた。ぎらぎらと太陽が真上から降り注いでいたが室内は適度な冷房が効いていて爽やかそのもの。大阪港の港内は全くの凪、この分では瀬戸内海はまず平穏無事に違いない。娘は船旅は初めての体験でとにかく船の大きさ、結構快適な部屋の様子に大喜び。たわいない会話も弾んだ。
 設備の整った船内にはレストランを初めゲームコーナーやバー、カラオケの部屋などもあり自動販売機や売店もあるのだが不思議なことに総ては日本円での支払いとなっていた。

●飛行機で釜山からソウルへ、翌日北朝鮮を見られるカンファドウへ「
 ソウルへは釜山空港からのシャトル便で向かった。

●特急セマウルでソウルから釜山へ
 帰路は鉄路で釜山へ。

●復路 釜山→大阪
 復路は予約が一等室しか取れなかったのだが乗船前の窓口での *韓国式? の交渉で往路同様の特等室に変更することが出来た。(^^)
 *韓国式? 小生の勝手な命名 の交渉
 要するに韓国は地縁血縁の縁故社会である。従って近時はともかく当時は地縁血縁が間違いなく幅を利かしていた。小生は過去数十代(仏壇の過去帳による)日本人であるからそのどちらも持ち合わせては居ないのだが。
「すみません。このチケットを特等に変えてくれませんか?」
「駄目です。今日は満室です。」
 素っ気ない窓口嬢の言葉。ひるまず・・・。
「そうですか、日本の○○ですが支配人さんをおよび下さいませんか?」
「支配人ですか?」
「ええ、そうです。支配人をお願いします。あなたは金順姫さんですね。何なら社長さんでもいいですよ。」
 と彼女の氏名をメモる。<覚え立てのハングル文字で
「お知り合いですか?」
「ええ、まぁね。何なら電話でもいいですよ。ちょっと話します。あなた、金順姫さんには駄目だと言われましたが。」
「・・・ちょっとお待ち下さい・・・。」
 窓口嬢はそういいながらキーボードを叩く。
「特等室をお取りできます。お取りします・・・」
「そうですか、ありがとう。じゃ支配人には後ほど私からお礼の電話を入れておきましょうかね金順姫さんに非常にご親切にしていただきましたと。」
「・・・。カムサハムニダ チャアル ヨヘン オソセヨ。」
 窓口嬢は微笑みながら無言で頷き一等船室の予約を特等船室に変更してくれた。もちろん小生は支配人など知る由もないのだが丁重な言い方で慇懃無礼にこういったお願いの仕方をすると連休最終日の超満員のソウル空港でも数日後の予約を変更することも出来たからと同様の手口でお願いしてみたら上手くいったのである。蒸し返すような暑さの中でも特等船室への変更に成功して微かに爽やか。

 特等船室は入り口のドアを開くと右手にバスルーム、左手にロッカー、洗面台がありその奥の両側にベッドが通路を挟んで両側に配されていた。その窓寄りには向かい合ったゆったりとした椅子と間にテーブルが置かれていた。豪華という感じではないがスッキリとシンプルで清潔感があった。期待していたよりは狭い感じを抱いたが一等室は同様の感じでバスタブがなくシャワーであるとのことであった。ただこの船には特等室の上に貴賓室があると言うことを知ったのは復路の航海途中のことであった。次回は貴賓室をいかに確保しようかと思い描いていた。

 

■後日追記 2001年 秋 10月上旬
 この航路、大阪国際フェリーはかのイトマン事件で名を馳せた許永中氏の経営によるモノでした。そのため当時の事件の影響で既にこの航路は廃止され今はもうありません。一般には販売されていなかった貴賓室は多分、往時の氏のために設けられていたのかもしれません・・・。

■後日追記 2002年 春 4月24日
 この航路は久しく中断されていましたが、この春4月24日(釜山発は4月23日)大阪から釜山に向かう パンスターライン(韓国) <PANSTAR DREAM> 総トン数:9729.00 が初就航しました。昔日の思いがします。
 【京都新聞の記事】では次の通り報じていました。
「W杯の交流足がかりに」 釜山−大阪 フェリー就航
 釜山港(韓国・釜山市)と大阪港(大阪市)を結ぶ国際定期フェリー<PANSTAR DREAM>(9729トン)が就航し、二十四日、大阪港に初入港した。
 釜山−大阪間にフェリーが就航するのは一九九三年まで運行していた<オリンピア88>以来。サッカーのワールドカップ(W杯)開催を一ヶ月後に控え、関係者からは「交流拡大の足がかりに」と特需を期待する声が上がっている。
 フェリーは韓国の船舶会社「パンスターライン」(本社ソウル)が運行。週三便が就航予定で、五百三十人の乗客が乗船可能だ。
 政府間の協議で、日韓の新規航路開設に同意。W杯開催に伴う一時的な輸送需要の増加にも対応できるよう、就航の時期を間に合わせたという。
 大阪港を管理する大阪市は「W杯だけでなく、昨年オープンしたユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に向かう際の新しい交通機関としても利用してほしい」としている。

 

1985−1991 ETC
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思い出の船旅番外編