現代人の私たちは、自分からこういうのもなんですが、かなり理屈っぽいと思いま
す。これは現代文明が、科学という二元論的な物理空間の基盤上で成り立ってい
るせいでしょうか。そのために、納得のいく説明をしなければ、なかなか入って行けな
いというところがあるようです。道元禅師は“只管打坐(しかんたざ/ただひたすら座禅すること)”
主張されましたが、現代はもはや当時とは時空間が変質してしまっているのではな
いでしょうか。
私が、自我という局所系を否定するのに“ベルの定理”を使ってみたのも、こんなと
ころに理由がありました。特に技術系や理科系を好む人には、当初はしっかりとした
理由付けがないと受けいれ難いのかもしれません。しかし、いずれにしても、言って
いることはごく単純なことです。“自我”だとか、“自分の心”などという独立した存在
(完全に独立した系/局所系)は、本来何処にも存在しないのだということです。完全に独立し
た存在、つまり局所系が存在しないということは、全体が一つだという事です。この
宇宙は、1点を突つけば、その影響は全体に響くということです。
この世界は“唯心”、唯一つの心だという絶対主体性の意味も、ここにあるので
す。
<参考: 私の心はいったい何処にあるのか/達磨安心>
科学とは、現代文明を支えるしっかりとした二元論で構成される学門です。この二元
論の権化が、現在の私の最も大切な道具の1つとなっている、コンピューターと言えるか
もしれません。21世紀はまさにコンピューターの時代になりそうですが、これは、0と1の
みで表現される二進法の世界なのです。
しかし、“悟り”への関門である“無門関”は、この二元論的概念の超越がスタートにな
ります。まず、この科学万能の時代にあって、二元論的慣習を越えるのは、容易ではあ
りません。結局、私は、この科学という二元論的パラダイムを超えるために、辛くもこの
二元論的科学の手法を駆使しているわけです.....

< 修練.3−1 /
リアリティーと認識の考察 >
さて、私たちが毎日見ている、この視覚から来る風景.....この、飽き飽きするよ
うな眼前の日常世界は、いったい何者なのでしょうか。私たちはこの仮想的な風景
の中で、笑い、怒り、出会い、一生懸命に働き、それぞれの人生を送っているわけで
す。つまり...これが、ごく一般的に言うところの“世界・この世”の概念です。この
眼前に展開している世界をしっかりと把握しようとする時、
私たちはこれをリアリティー
と呼びます。
このリアリティーとは何者なのか...なぜ、このような時空関数の世界
が流れているのでしょうか.....
一方、認識とは何者なのか...認識とは、なぜ時間と空間の関数で表
現されるのでしょうか.....
さらに、記憶とは何者なのか...虚無の世界に歪が生じ、二元対立的
な概念が生まれます。そして、その波動が複雑に絡み合い、このリアリ
ティーの世界を人間原理ストーリイとして描き出していきます.....そう、
まさに “何者か”の上に、時空間の関数として記憶して行きます.....
さて...この“何者か”とは、何者なのでしょうか...
“この世”と“何者か”との関係.....
“この世”と“認識形式”との関係.....
“認識”と“この世”と“主体性”との関係.....
結局、これらは“一つのもの”なのではないでしょうか
<
自分自身で、じっくりとお考え下さい。そこから、教わるのではなく、学ぶことが始まます。悟りを得るに
は、自分で道を学ばなければなりません。>
いずれにしても、ここはこの眼前に展開する最も基本的なリアリティーの再認識か
ら入ります。この基本領域での変容こそが、“無門の関”となるからです。繰り返しま
すが、端末の変容ではなく、“人間原理”の基幹領域での変容ということに、その影
響の大きさがあります。
< 修練.3−2 /
2つの円が一致する所に、 >
さて、まず...
この世界を...見ているのは...誰か......
これは、言うまでもなく、“私”です。では、“私”以外に、この眼前の世界を見ている
者はいるのでしょうか.....
ここは冷静に、じっくりと考えてみて下さい。あまりにも簡単で、あまりにも常識的
すぎて、私たちは日頃こんな事は全く考えなくなっていたのです。つまり、考えるまで
もなく、目の前には友人がいるし、ビルの林立する街があるし、大勢の人がいて、そ
れぞれがこの共通する社会を構成しているではないかと見ていたわけです。
むろん、この見方も、間違いとは言いません。なぜなら、この真実の結晶世界に
は、“真の間違い”などというものは存在しないからです。したがってこの風景を、こ
の章のテーマである“2つの円”の内の <第1の円> とします。
さて、ではもう一つ.....こうは考えられないでしょうか...
“私”以外に...この眼前の世界を...見ている者はいない...
何故、こんなことが言えるのか.....
うーむ.....
これは.....つまり、“全て”が、私の目の網膜に入った情報だからです。そし
て、“全て”が、私の五感から入った“私の情報”だからです。つまり、よくよく考えてみ
れば、“この世”の全ての認識形式は、完全に私に依存しているのです。そして、こ
れ以外のものは、厳密には何も存在していないように思えます。太陽系の星々も、
夜空に煙る銀河の星々も、隣にいる友人さえも、みんな“私”の中に入った認識なの
です。山も川も世界そのものも、“私”を通して認識された、“私の世界”です。
そして、ここで思い出してください。“私”というような、完全に独立した局所系は本
来存在しないのだということです。“ベルの定理”は数学による局所系の否定であり、
これは物理空間でのことです。一方、表裏の関係にあるこの眼前に展開するリアリテ
ィーの世界の最大特徴も、無境界です。こうした系の中では、独立した局所系などと
いうものはありえないのです。すると、“私とは何者か”というと、世界そのものという
ことになります。
<
リアリティーとは.....上下左右360度、切れ目がありません>
自然界には、様々な線や面、立体はありますが、それは切れ目や境界で
はありません。石ころを空中に投げても、それはリアリティーから切り離され
てしまったわけではないのです。ここで言う切れ目や境界とは、写真やテレ
ビ画面の切れ目のようなものとお考え下さい。写真やテレビ画面は、その枠
の中だけが見えていて、他はちょん切られています。しかし、家から外に出
て周囲を見回した時、写真やテレビ画面のようにちょん切れたところが1ヶ
所でも存在するでしょうか。確かに、大きな工場の壁にさえぎられるというよ
うなことがあるかも知れません。しかし、それは視界がさえぎられたのであっ
て、写真のように切断されているわけではないのです。この、ごく当たり前の
風景が、リアリティーの最大の特徴でもあるのです。
この“無門関峠の道場”では、このリアリティーというものを知り、理解し、
体得することが主要のテーマとなっています。つまり、ここに、“悟り”への“無
門の関”の一つが開いているということです。
もう一度、整理してみましょう...
この世界を...見ているのは...誰か...
“私”以外に...この眼前の世界を...見ている者はいない...
では...“私”とは何なのでしょうか...
局所系として何処にも存在しない“私”とは、何なのでしょうか...これは、つま
り、こういうことになります。
すなわち...私の認識している全てが私だということです。つまり、この世界とい
う風景そのもの、リアリティーそのものが、私だということです。山々が私であり、海
が私であり、雲が私であり、目の前にいる友人もまた私だということです。これはすな
わち、これまで述べてきた、“内外打成一片”の姿ということになります。そして、これ
が <第2の円>
です。
修行では、この2つの円が完全に重なるように修練してください。すなわち、今自
分自身が見ている風景、全認識そのものが、自分自身そのものなのだということで
す。そして、自分自身が、自分自身を見ているのだということです。いわゆる、
“内外打成一片”ということであり、言っている意味は同じです。
日常的な風景の<第1の円>と、“内外打成一片”となった<第2の円>を重ね合わ
せる修練をしてください。

通りすぎてしまえば、なんということもない風景ですが、今はこの“二つの円”を道
具として利用してください。
< “無門関”
第四十一則・達磨安心 > で、二祖・慧可(えか)は、菩提達磨に心を
持って来いと言われます。が、慧可は長年それを求めていましたが、ついに見つけ
る事が出来ませんでした。これは、腕を切り落として教えを請うという壮絶な風景で
す。そして菩提達磨は、それでよいのだと言っているわけです。
が、それはそれとして、“心は何処にあるのか”と言われれば、それは“自分自身
が今見ている風景が、自分の心”だということです。“自分自身が今聞いている音
が、自分の心”だということです。つまり、“自分が、自分自身という心を見つめ...
自分という音が、自分自身を聞いている”ということになるのです。
ここに、“趙州無字”、“倶胝竪指”、“内外打成一片”の風景があるのです。