法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室



ナショナリズム論


『アイデンティティの国際政治学』

『イギリス王室の社会学』 『エスニシティの政治社会学』
『エスノポリティクス』 『儀式・政治・権力』 『ことばと国家』
『国際社会学のパースペクティブ』 『国民形成の歴史社会学』 『国民国家と暴力』
『死産される日本語・日本人』 『昭和ナショナリズムの諸相』 『仁義なき戦争』
『増補 想像の共同体』 『大衆の国民化』 『大理石の祖国』
『単一民族神話の起源』 『地球時代の民族=文化理論』 『地図の想像力』
『創られた伝統』 『敵の顔』 『天皇の肖像』
『天皇のページェント』 『ナショナリズムとその将来』 『ナショナリズムの生命力』
『ナショナリティの脱構築』 『20世紀のナショナリズム』 『<日本人>の境界』
『ネイションとエスニシティ』 『不安型ナショナリズムの時代』 『文化ナショナリズムの社会学』
『<民主>と<愛国>』 『民族・国家・エスニシティ』 『民族という虚構』
『民族という名の宗教』 『民族とナショナリズム』 『よみがえる帝国』

アンダーソン・ベネディクト、白石隆・白石さや訳(1991=1997)『増補 想像の共同体』 NTT出版

 もはやナショナリズム研究の古典となりつつある名著です。ナショナリズムの普及を印刷資本主義の生成から明快に解き明かしてゆきます。活版印刷によりナショナリズムが生み出されたという指摘は、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』にも見られる指摘ですが、本書はその分析をさらに精緻化したものと言えるでしょう。アンダーソンは、国民というものが、いかにして人々の想像の中で形作られていったのかを解き明かしてゆきます。個人的な話をすると、ナショナリズムやエスニシティの問題に私が惹かれることになったきっかけとも言える本です。最近、増補版が出て、二章付け加えられました。(1997年)

イグナティエフ・マイケル、真野明裕訳(1998=1999)『仁義なき戦場』 毎日新聞社
 セルビア、クロアチア、ルワンダ、アフガニスタンなど、世界中の戦場を旅した著者の手による、現代における民族紛争の本質に迫った著作です。著者はジャーナリスト、歴史家、作家という多くの顔を持つだけあって、本書での分析は鋭く、含蓄に富んでいます。さすがに実際に戦場を歩いただけあって、日本の本屋で出まわっているお気楽な「戦争論」とは一味も二味も違います。たとえば、著者とセルビア人兵士との会話を記した、次のような一節(p.49)。

わたしは何食わぬ顔で、セルビア人とクロアチア人は自分には見分けがつかないとあえて言ってみる。
「どうしてお互いがそんなにちがうと思うのかね?」
男はなにを馬鹿なといった表情で、カーキ色の上着のポケットから煙草を取り出す。「ほらな。これはセルビアの煙草だ。向こうでは」彼は窓の外を身振りで示す。「クロアチアの煙草を吸っているんだ」
 

かつては友人だった人びとが自分たちを殺すのではないかという不安。実際にはほとんど違いがないにもかかわらず、お互いが絶対に相容れないことを譲らない狂気。それらが巨大な暴力となって、社会の根幹を蝕んでいく。マス・メディアの問題も結構扱っているので、別のところで紹介している『戦争広告代理店』と一緒に読んで欲しい一冊ですね。(2002年12月)

井上俊ほか編(1996)『現代社会学24 民族・国家・エスニシティ』 岩波書店
 今日の社会学の大きなトピックスである民族や国家、エスニシティといった問題に様々な観点からアプローチが試みられています。専門分野を異にする研究者の議論が展開されているので、社会学以外の見方も知ることができて、勉強になりました。特に、加藤典洋さんの「『痩我慢の説』考」が新鮮でした。ちなみに、この現代社会学のシリーズでは他に『メディアと情報化の社会学』を読んだのですが、そちらはイマイチでした。それにしても、このシリーズを見ると、やっぱり社会学の領域でも勢いがあるのは東大系の人たちなんだなぁ、と思ってしまいます。 (1997年)

小熊英二(1995)『単一民族神話の起源』 新曜社

 今や非難が集中している「単一民族の神話」。この神話はどのように生み出され、そしてどのように定着したのか?本書では、意外にも混合民族論が戦前においては主流であったことが明らかにされます。なぜなら、混合民族論こそが、拡大してゆく大日本帝国の異民族支配を正当化するのにもっとも都合がよかったからであり、単一民族論は非難と対象とされていました。ところが、戦争に破れると、日本の純粋性・単一性を主張する「単一民族の神話」が支配的になってゆく。ここから、著者は日本が弱いときには単一民族論で身を守り、勢力を拡大し海外に進出するときには混合民族論で進出の正当化を行なってきたと結論づけます。本書は戦前・戦後の様々な学者の論を分析してゆくわけですが、後知恵的に批判するわけでもなく、彼らが置かれたコンテクストから彼らの言説を見てゆくため、その葛藤や苦悩のありさまが鮮明に浮かび上がって来ます。小説のように読める学術書、というと失礼でしょうか。とにかく面白い本なので、一読をお勧めします。(1998年)

小熊英二(1998)『<日本人>の境界』 新曜社
 『単一民族神話の起源』で日本人のナショナル・アイデンティティについての鋭い論考を行なった小熊さんですが、本書では植民地統治というより大きな文脈から、「日本人」の境界がどのように形成されてきたのかを論じています。なにせ分厚い本(本文だけで680ページ近く、全部で780ページ近くある)なので、読むのに一ヶ月ぐらいかかってしまいました。理論的な考察は最初と最後だけで、あとは全て沖縄・朝鮮・台湾における日本の統治についての記述なのですが、本書の醍醐味はやはりその歴史記述にあると言ってよいでしょう。特に、植民地統治下の人々が支配者(日本の植民地担当者など)の言説を利用しながら、自らの権利を主張し、それが挫折してゆく様には、目頭が熱くさえなりました。また、植民地の人々が自己の権利を主張するために、他の植民地の人々を侮蔑し、自己との差異化を図るプロセスには考えさせられるものがありました。「日本の統治は朝鮮半島の近代化に貢献したのだから、日本の統治は正しかったのだ」などとアホなことを言う人には特に読んでもらいたい本ですね。(1998年)

小熊英二(2002)『<民主>と<愛国>』 新曜社
 『単一民族神話の起源』、『<日本人>の境界』に続く、小熊英二さんが描く近代日本論の最新作です。今回は戦後日本におけるナショナリズムを中心に扱っています。が、なにせ本文だけで約830ページ、脚注やあとがきまで入れると960ページ以上にもなる大作でして、正直、全部読んでから感想を書こうとすると、最初のほうを忘れてしまいそうです。そんなわけで、とりあえず第14章の手前(約600ページ)まで読んだところで、第1回目のコメントを書き、残りは後日(5月)改めて書くということにしたいと思います。(第13章までのコメント)
 上に書いたとおり、本書は戦後日本のナショナリズム、特に革新側のナショナリズムについて論じた本です。現在の日本に照らし合わせてみると、革新側には、インターナショナリズムとかコスモポリタニズムを標榜していて、アンチ・ナショナリズムというイメージがあります。が、実際の戦後思想というのは様々な遍歴をたどっており、実は革新側がナショナリズムを積極的に標榜していた時期もあるのです(これ以外にも、日本国憲法制定時には、共産党が「自衛権がない」ことを理由に同憲法に反対していたことなど、今からすると驚くような事実もあります)。小熊さんは様々な人びとの思想を丁寧にフォローしながら、そうした数多くの意外な事実を明らかにしていきます。文章も読みやすく、非常に刺激的な本ではないでしょうか。
 なかでも、1960年以降に盛んになってくる戦後民主主義批判に関する以下の言及は、現在の日本の論壇が陥っている陥穽を的確に捉えていると思います。「もはやこの時期には、何が『戦後民主主義』であるのかがわからなくなり、ただ目前の『戦後社会』を『戦後民主主義』と同一視して批判する傾向が出現していた」(p.568)。そうした観点から見ると、日本の思想対立というのは、実は保守対革新というよりは、世代間対立でしかないのではないか、というようにも思います。上の世代を批判するために、ろくにその思想内容も検討することなく、ステレオタイプ的な非難を行うという構図ですね。先ほども言いましたように、そうした傾向は現在においても色濃く残っているように見えます。現在の安直な戦後民主主義批判が、やがて次の戦後民主主義批判によって批判される日が来るかもしれまんせんね。今後は本書を読むことなくして、戦後思想は語れないのではないかとすら思われますね。(2003年4月)(14章以降のコメント)
 本書の14章以降では、吉本隆明、江藤淳、小田実、鶴見俊輔といった、主に1960年代以降に活躍するようになった思想家や評論家の思想が取り上げられています。全般的に言えば、現代では高く評価されることが多い吉本、江藤の思想に関してはやや否定的な側面から、批判されることの多い小田や言及されることの少ない鶴見に関してはやや肯定的に論じられているように思います。その意味では、けっこう新鮮に読むことができました。また、結論では、1990年代の思想の状況についても言及されており、現代の論客による「戦後」像がいかに荒唐無稽であるかが容赦なく明らかにされていきます。それに対して、小熊さんの「戦後思想の最大の弱点となったのは、言葉では語れない戦争体験を基盤としていたがために、戦争体験をもたない世代に共有される言葉を創れなかったことであった」(p.799)という言葉は、戦後思想のこれだけ詳細なレビューを行った後では、かなりの説得力を持つと言えるのではないでしょうか。ただ、あえて苦言を呈すれば、本が重すぎて持ち運びが不便なのをどうにかして欲しかったという気もします。(2003年5月)

梶田孝道(1996)『国際社会学のパースペクティブ』 東京大学出版会
 タイトルは国際社会学となっていますが、本書では、民族問題が中心に取り扱われています。著者の梶田さんはエスニシティ問題では日本の第一人者と言える方ですが、文章がサッパリしているために、非常に読みやすい本です。本書はいろいろな雑誌に載った論文集のような形をとっており、似たような議論が何度か出てくるのですが、全体としてはまとまりがよく、民族問題、特にヨーロッパの民族問題と文化との関わりを考えるには良い材料となる本だと思います。 (1997年)

カーツァー・デヴィッド、小池和子訳(1988=1989)『儀式・政治・権力』 勁草書房
 近年、政治学や社会学において儀礼というものの役割に対する関心が高まっているのですが、本書はまさしく儀礼というものが政治においてどのような役割を果たしているのかを考察した本です。とくに、ナショナリズム関係ではホブズボウムを中心としたグループによる研究が進んでいるのですが、本書はそれとはやや異なる政治学の視点から分析を行なっています。もちろん、ナショナリズムだけに限定される本ではないのですが、事例も豊富であり、非常に興味深く読める本だと言えるでしょう。(1997年)

ギデンズ・アンソニー、松尾精文ほか訳(1985=1999)『国民国家と暴力』 而立書房
 国民国家の歴史的基盤を資本主義や管理、暴力といった観点から捉え直す、ギデンズの主著のうちの一冊。ギデンズのモダニティ論が分かりやすい形で論じられているので、『近代とはいかなる時代か?』よりも先に読んだ方がいいような気がします。それにしても、ギデンズの知識量や読書量の多さには圧倒されるばかりですが、そうした膨大な情報量を一つの体系にまとめあげているのは、やはり社会学という柱がギデンズの中にしっかりと存在しているからでしょう。本書でもそうなのですが、ヴェーバーやマルクス、デュルケムなどの著作との地道な対話の中で、着実に自らの社会学を築きあげていく姿勢こそが、ギデンズを世界的な社会学者にしているように思えてなりません。そうそう、ギデンズの著作の中ではかなり読みやすい翻訳だと思います。 (2000年2月)

キーン・サム、佐藤卓己訳(1986=1994)『敵の顔』 柏書房
 戦争において、人を良心の咎めなく殺すにはどうすればよいのでしょうか。答は簡単、相手を人間だと思わなければよいのです。本書は、戦争中、「敵の顔」がどのようにマスコミやポスターに現れるかについての分析を行なっています。本書の豊富な資料を見れば、一目瞭然なのですが、そこに現れる「敵の顔」は醜く、人間ばなれしています。つまり、敵を人間だとは思わせないことで、敵に対する憎悪を煽り、戦争遂行を可能にしているわけです。結局のところ、戦争には、相手の実像から離れた想像上の敵を創り出し、その「恐るべき敵」に対して内部の団結を固めることが不可欠なのだと言えるでしょう。そういえば、保守系のオピニオン誌にも、ここまではいかないにせよ、外国の「脅威」や「野蛮さ」を喧伝し、国家の団結を図ろうとする動きが見られます。無責任と言えば、あまりに無責任なわけですが、こうした言説の垂れ流しが、対外的な融和を損なっていると言えるのではないでしょうか。 (1998年)

ゲルナー・アーネスト、加藤節監訳(1983=2000)『民族とナショナリズム』 岩波書店
 「ナショナリズム研究の四天王(?)」といえば、アンダーソン、ホブズボウム、スミス、そしてこのゲルナーなわけですが、この本はそのゲルナーのナショナリズム論が最も明確に語られている著作だといえるでしょう。ゲルナーは、本書で産業社会における社会的要請がナショナリズムを生み出す土壌を用意したのだと説いており、その部分での理論展開は非常に説得的だと言わざるをえません。無論、こうしたゲルナーの理論に対しては、歴史的事実との相違など、様々な批判が寄せられています(産業社会の発達していないところでも、ナショナリズムの勃興は見られたetc.)。しかし、それでもゲルナーの理論が全否定されるということは決してなく、産業化の進行とナショナリズムの普及や拡大との関連というテーマに関しては、今でも注目すべき著作と言えるのではないでしょうか。訳はなかなか読みやすいのですが、タイトルおよび文中で"nation"が「民族」と訳されており、そこが少々ひっかかりました。"nation"の訳語になかなかぴったりはまる語がないことも確かなのですが、「民族」だとちょっとズレが生じてしまうのではないか、と思いました。(2001年11月)

小坂井敏晶(2002)『民族という虚構』 東京大学出版会
 民族というカテゴリーの虚構性をクリアな形で論じている極めて刺激的な著作です。「血縁」や「民族文化」といった概念の恣意性を明らかにする一方で、民族の同一性という感覚がどのように生じているのかを分析しており、興味深い指摘が随所でなされています。ただし、著者は民族というカテゴリーが虚構であるからといって、それを捨て去るべきだと主張しているわけではありません。むしろ、人が生きていくうえでそうした虚構が必要であることを認識したうえで、いかに民族の排他性を克服し、開かれた共同体を形成しうるのかを論じているわけです。文体もわりと平易で、事例を交えた解説が多いため、この手の本に馴染みのない人にとってもそれほど難しくないように思いますので、民族問題やナショナリズムに興味のある人はぜひ一読されることをお勧めします。(2006年7月)

酒井直樹ほか編(1996)『ナショナリティの脱構築』 柏書房
 本書は、ナショナリティの原理がどのように社会に流布し、我々の日常に入り込んできているのかを様々な視点から分析している論文集です。私個人としては、酒井直樹さんの「ナショナリティと(母)国語の政治」と葛西弘隆さんの「丸山真男の『日本』」が興味深く読めました。ただ、酒井さんの文章は私にはとても難しく、ちょっと理解できない箇所がありました。が、「文化」という概念に関して、非常に興味深い考察がなされており、まさに目から鱗が落ちたような気がしました。(1999年)

酒井直樹(1996)『死産される日本語・日本人』 新曜社
 本書において、酒井さんはポスト・モダン的な観点から「日本語」や「日本人」という概念を改めて問い直しています。酒井さんの議論は、その観点からしばしば理解にしくい箇所があるものの、非常に新鮮な考え方をもたらしてくれます。例えば、「『国民文化』によって、広く拡散して存在しているはずの他者性が、他の国民国家との差違の他者性に集中され、それ以外の他者性を予想する能力が失われる」なんていう指摘には、なるほど、と思ってしまいます。ただ、この表現にも典型的なのですが、非常に理論的・抽象的な議論なので、実証的な分析を求める人には物足らないかもしれませんね。 (1999年)

スミス・アントニー、巣山靖司監訳(1979=1995)『20世紀のナショナリズム』 法律文化社
 近年におけるナショナリズム研究で、ゲルナー、ホブズボウム、アンダーソンと並んで評価されているのが、この本の著者であるアンソニー・スミスです。スミスはゲルナーらの近代主義(ナショナリズムは近代に特有の現象であるとする立場)に反対して、ナショナリズムは決して近代に入って何もないところから生み出されたのではなく、それに先行するものが存在したという立場を取っています。また、社会学者らしくアイデンティティという問題とナショナリズムとのつながりに非常な関心を払っています。加えて、ナショナリズムを否定的に捉える立場に抗して、ナショナリズムに肯定的な立場を取っていることが特徴であると言えます。以上のような立場から、本書では、ナショナリズムと他のイデオロギー(ファシズムや共産主義など)との区別や融合に関しての分析を行なっています。私個人の感想を述べておきますと、スミスはファシズムとナショナリズムが別物であることを論じ、ナショナリズムを擁護しようとしているのですが、どうも、この分析には説得力を欠くような気がします。というのは、まずファシズムとナチズムをほぼ同じものとして捉えている点が気になるのと、ナショナリズムを自分で勝手に定義しておいて、その自分で定義したナショナリズムとファシズムとは別物だということには意味があるのか、と思ってしまうからです。あと、これはスミスのせいではないのですが、訳があまり良くなく、読みにくいというのが難点でしょうか。 (1999年)

スミス・アントニー、高柳先男訳(1991=1998)『ナショナリズムの生命力』 晶文社
 現代世界における最も重大な問題の一つである民族問題。その根底にあるナショナリズムは果たしてどのように生まれ、イデオロギーとして利用され、今日に至っているのか。筆者のスミスはこうした問題を人間のアイデンティティの問題から解き明かしてゆき、グローバル化がいくら進もうともナショナリズムは力を失わず、それどころか、一層力を得るようになるであろうということを論じています。私自身の見解とは少し異なるのですが、かなり説得力のある分析がなされていることには変わりありません。が、やはり民族問題の打開策となると、話がやや抽象的になり説得力に欠ける点は否めない気がします。 (1998年)

スミス・アントニー、巣山靖司ほか訳(1986=1999)『ネイションとエスニシティ』 名古屋大学出版会
 ナショナリズム研究の第一人者の一人、アントニー・スミスの代表作です。何年も前から邦訳が出る出ると言われていたのが、ようやく出版されました。スミスはこの本で、ネイション(国民)は全くもって近代の産物であるとする議論に対し、ネイションとエトニという近代以前から存在する集団とが連続しているという議論を展開しています。ただ、スミスはネイションが有史以来、ずっと存在してきたというのではなく、近代化のインパクトも認めてはいます。よって、ネイションは普遍的に存在するという議論を展開しているわけではないことに注意するべきでしょう。ネイションの近代性を主張する研究者の多くが、ネイションの基盤となった集団の存在を全く否定しているわけではないことを考えれば、要は強調点の違いだということも言えると思われます。ただ、スミスの議論で気になるのが「文化」という概念の使い方です。「文化」概念には様々な問題がつきまとうのであり、スミスのように簡単に論じてしまってよいのか、という疑問が残ります。 (1999年)

関根政美(1994)『エスニシティの政治社会学』 名古屋大学出版会
 今日の社会学の一大潮流であるエスニシティ問題を学ぼうとする人には必読の書。よくもまあこんなに読んだなぁ、と言うほど膨大な参考文献をもとに様々なエスニシティ問題へのアプローチを紹介しています。そして、エスニシティ問題を解決する方策として、多文化主義を提唱しているのですが、楽観的に多文化主義を説くのではなく、多文化主義の問題点や限界をも指摘した上での主張であり、説得力があります。文化をめぐる議論が盛んな今日の状況を理解するのに、良い入門書となるでしょう。 (1997年)

高原基彰(2006)『不安型ナショナリズムの時代』(洋泉社新書)
 日本、韓国、中国のナショナリズムを比較分析し、その根底には「社会的流動化」という共通の現象が存在していることを論じた著作です。これらの国々におけるナショナリズムの昂揚とは、流動化が進み、雇用不安が広がっていることの反映であり、重要なのはむしろ後者の問題だと論じてます。作者の言葉を借りれば、そうしたナショナリズムの昂揚とは、「基本的にナショナリズムと別次元で生じた問題のすり替えでしかない」(p.246)ということになります。
 着眼点はなかなか面白く、三カ国での比較というスケールの大きさを感じさせる著作なのですが、僕自身はこの著作に拭いきれない違和感を覚えました。著者はまだ若く、「あとがき」でも分析が荒削りであることを認めているわけですが、その割には不用意な記述が多すぎるような気もします。たとえば、著者は、「ナショナリズムと、戦後の動向、特に高度成長との関係という要因は、十分に考察されてこなかった」(p.39)と論じています。また、別の箇所では鶴見俊輔氏の著作を引いて、日本の研究者は大衆文化を肯定的なものとしか理解しない「文化性善説」に立っていたと述べています。が、そうなると日本を代表する社会学者の一人である栗原彬氏の業績はいったいどのように評価されるのでしょうか。栗原氏はこの著作で指摘されているような会社主義に基づくナショナリズムを早くから「生産力ナショナリズム」と呼び、それを「管理社会」というキーワードを用いて厳しく批判してきました。そして、大衆文化についても次のように主張しています。(『管理社会と民衆理性』、p.136)

「大衆文化がそのアイデンティティを保つためには、アマチュアリズムと生活の匂いを欠かすことができないが、産業はそれすらも大量化して商業ベースにのせ、擬似アマチュアリズムと擬似生活臭において管理社会の秩序に統合することに成功している。」

 さらに言えば、この著作では「日本のマルクス主義および左翼というのが長年賭け金としてきたのが「先の戦争」に対する反省であり、『アジア』に対する贖罪であったことは事実だ」(p.14)と述べてられていますが、ここでも言われているように、この記述は極めてミスリーディングなものです。小熊英二氏の『<民主>と<愛国>』で述べられているように、戦後日本のナショナリズムは様々な変遷を遂げており、また、論争を孕んだものでした。したがって、この著作が描き出している戦後日本社会像は、小熊氏の表現を借りれば、「幻想の『戦後』と一人相撲をとっている」(前掲書、p.823)ものでしかないように思われるわけです。
 こうした批判は、重箱の隅をつつくようなものとして感じられるかもしれませんが、実はこの著作の重要な問題点に直結するものです。著者は、既存の「ナショナリズム論」が各国のナショナリズムを一枚岩的なものとして捉え、その内部にある亀裂を見逃しているということを批判しています。しかし、実は著者の戦後社会に対する理解が不十分であることにより、その批判が直接的に自分自身に降りかかっています。つまり、l戦後の様々な思潮の流れを軽視して分析をしているがゆえに、著者自身が描きだす「ナショナリズム」が非常に平板なものになってしまっているように思うのです。言わば、著者が「高度成長型ナショナリズム」と「個別不安型ナショナリズム」という単純な二分法を採用することにより、ナショナリズムの言説の内部に存在する矛盾し、競合する要素が視野から抜け落ちてしまっているのです。
 ナショナリズム研究の観点から言えば、多くの相矛盾する言説が「国益」や「愛国主義」のもとに語られるというのは常識の類に俗することであり、ナショナリズムというはそうした多様な言説の集積地であると見たほうが生産的だということになります。これに従えば、著者が言うように現在のナショナリズムの噴出を「擬似問題」として捉えるよりは、様々な言説の内部に入り込むナショナリズムの強靭さこそが分析の対象となるでしょう。
 とはいえ、この著作を読んだ際の最大の違和感は、むしろ著者の清算主義的な発想にありました。著者は現在の開発主義・会社主義に基づく資本主義体制が存続不可能であるとしたうえで、「失われた民主主義を復活させるとすれば、その仕事は『開発主義の既得権益が、効率良く解体されていくように、かつその権益が特定の層へと残存することのないように、監視を続ける』ということ以外にない」(p.89)と述べていますが、そのような「監視」は、近年の公務員叩きのようなルサンチマンに基づく不毛なバッシングを生じさせるだけでしょう。また、社会的流動化やリスク化、二極化に耐えうるような人材の創出が現在のナショナリズムへの処方箋として提案されていますが、経営者にとってだけ都合のよいそんな「人材」の創出など不可能だし、望ましくもありません。雇用不安がナショナリズムを昂揚させる原因なのであれば、その処方箋は景気を本格的に回復させて、人びとに安定した雇用を確保するということ以外ありません。著者は、そのような処方箋を無責任な「幻想」と呼び、不可能だと断ずるわけですが、日本経済の「本来の」実力からすれば、現在よりもずっと高い水準での経済成長が可能なのは多くの経済学者の指摘するとおりです。そうした著者の経済観の誤りについてはここを参照してください。
 以上、厳しめの評価になりましたが、韓国や中国に関する分析は、僕自身が全く無知なこともあり、勉強になる部分が多くありました。ただ、日本の分析の「甘さ」を見ると、韓国や中国の分析の妥当性についても不安が残りますし、現地語のリソースが全く参照していないのも気になるところです。(2006年8月)

多木浩二(1988)『天皇の肖像』 岩波書店
 戦前にあって、小学校などが火事になると、いわゆる「御真影」を燃やしてしまった責任感から、自殺する校長が何人もいたという。近代日本にあって、これほどまでに人々の畏れの対照となった「御真影」は果たしてどのようにして生み出されていったのか。そして、それらは日本のナショナリズムとどのように結びついていったのか。本書は写真という技術のあり方から、それが人々にどのように受け入れられていったかということまで、様々な角度から「御真影」の分析を行なっています。ずっと読みたいと思っていたのですが、最近になって復刊されました。(1998年)

田中克彦(1981)『ことばと国家』 岩波新書
 近代以降、強力に結びついてきた言葉と国家との関係を刺激的にアプローチしている好著。標準語があるから、方言が存在する、という指摘に地方出身の私はハッとさせられました。確かに、大阪に首都が置かれていれば、標準語=大阪弁だったわけで、あるいは、沖縄が独立してしまえば、沖縄弁は標準語になるわけです。また、教科書によく載っている「最後の授業」に関する裏話(?)も非常に興味深いです。エスニシティやナショナリズムの問題を考える際に良い刺激になると思います。(1997年)

ドイッチュ・カール、勝村茂ほか訳(1969=1975)『ナショナリズムとその将来』 勁草書房
 サイバネティクスを政治学に導入したことで有名なカール・ドイッチュによるナショナリズム論です。実はドイッチュには『ナショナリズムと社会的コミュニケーション』(邦訳なし)という著作があり、ドイッチュのナショナリズム論をきちんと理解するためにはそちらを読まなくてはならないのですが、入門編としては邦訳のあるこの本で十分でしょう。ただし、ほとんど誤訳に近い部分があるので、注意が必要です。本書は、「アンダーソン以後」のナショナリズム論の比べると古いことは否めないわけですが、それでもドイッチュのナショナリズム論から学ぶべきことはまだまだたくさんあると僕は思います。そもそも、古いナショナリズム論を理解していないと、「アンダーソン以後」のナショナリズム論の何が新しいのかも分からなくなってしまうのではないでしょうか。しかも、ほとんど読んでいないんじゃないかと思われるステレオタイプ化したドイッチュ批判がまかり通っていたりもするので、そういう批判をまともに受け取らないためにも、とりあえず一読することをオススメします。(2000年)

なだいなだ(1992)『民族という名の宗教』 岩波新書
 大きな活字で、対話によって議論が展開してゆくという形式から、馬鹿にしてしまう人もいるかもしれませんが、実際には非常に優れたナショナリズムについての分析がなされています。非常に読みやすいので、この問題に関する入門書としては最適でしょう。非常に深い学識に基づいて、様々な角度からナショナリズムに関する議論が展開されています。ナショナリズムに関する議論では、ナショナリズムは乗り越るべきものという立場と、ナショナリズムは必要であるとするA.スミスのような立場がありますが、本書はタイトルからも分かるように、完全に前者の立場です。私自身もなださんとよく似た立場をとっているのですが、最近の従軍慰安婦に関する教科書記述を批判している人たちに聞かれると怒られてしまいそうですね。(1997年)

西川長夫(1995)『地球時代の民族=文化理論』 新曜社
 「国民文化」が国民国家のイデオロギーであるということはよく言われますが、「文化」や「文明」といった概念そのものが国民国家との関係で生み出されてきたものだ、という主張を本書は行なっています。つまり、「文化」「文明」の概念が、それがイデオロギーとは見えにくい形で、国民国家の統合原理として機能してきたことを解き明しているわけです。また、後半では、「日本人論」や「日本文化論」の虚偽性を論じています。とても読みやすく、かつ刺激的な本だと思われます。(1997年)

野田宣雄編(1998)『よみがえる帝国』 ミネルヴァ書房
 ポスト・国民国家の後にくるのは、国家を越えた広域秩序たる「皇帝なき帝国」である、という仮説に基づいた、ドイツ史の研究家の論文集。法律系の方の論文なども載っているのですが、私としては、第2・5・6章が楽しく読めました。特に、佐藤卓己さんの書かれた第5章はコミュニケーション研究をやっている私にとっては、とても興味深いものでした。佐藤さんによれば、アンダーソンなどによって指摘されたメディアによる文化の統合力は、メディアの力の一側面でしかなく、メディアはまた文化を細分化する役割を有しているのだとか。確かに、今日の状況を見ていると、うなずける指摘と言えるのではないでしょうか。 (1999年)


橋川文三、筒井清忠編(1994)『昭和ナショナリズムの諸相』 名古屋大学出版会
 戦前日本におけるファシズムについて書かれた論文がまとめられたもので、大衆社会論的なパースペクティブを土台に昭和のテロリストの思想的特質が分析されていたり、「皇道派」と「統制派」の対立、北一輝や石原莞爾の思想などが検討されたりと、戦前の日本の思想状況を知るうえでは非常に参考になる本です。特に興味深かったのが、戦前の右翼と左翼の思想的近接性で、超国家主義にせよ、マルクス主義にせよ、その信奉者たちが求めたのが「平等」であった、という点です。つまり、戦前日本における極端な貧富の格差への憤りが左右両極の思想への信奉を数多く生み出したということですね。もっとも、そうした「平等」を求める運動は挫折していき、革新官僚に主導された総力戦国家が誕生してくるわけですが…。ともあれ、しばしば「超国家主義」と一言でまとめられてしまうイデオロギーのなかにより多様な要素を見出している点に本書の最大の価値があると言えるのではないでしょうか。(2000年12月)

馬場伸也(1980)『アイデンティティの国際政治学』 東京大学出版会

 今ではナショナリズムやエスニシティをアイデンティティという観点から論じるというは当たり前になっていますが、そのようなアプローチを日本で最も早く採用した研究者の一人が馬場さんです。このホームページで紹介しているピーター・バーガー他の『故郷喪失者たち』の訳者の一人でもあります。残念ながら、これからというときに亡くなってしまわれたようですが、馬場さんの周辺からは現在のナショナリズム・エスニシティ研究をリードしている研究者の方々が何人か出ています。そんなわけで、本書はアイデンティティということを手がかりにナショナリズムや国際政治の問題について論じた先駆的な業績と言えるでしょう。また、戦前日本の平和思想の展開や、戦後日本の占領政策にも携わった歴史家ハーバート・ノーマンなどについても論じられています。非常に読みやすい本だと思います。(2000年7月)

ビリッグ・マイケル、野毛一起ほか訳(1992=1994)『イギリス王室の社会学』 社会評論社
 イギリス王室について、人々はどのように考えているのか。本書は、60以上の家族の王室に関する会話をインタビュー調査し、それを分析している本です。そして、その分析からはナショナリズム、ジェンダー、新聞など、人々の持つ様々な意識が浮かび上がり、極めて興味深く面白い本だと言えるでしょう。特にナショナリズムに関しては、きちんとした調査に基づいた分析が少ないために貴重な分析だと言えるのではないでしょうか。なお、ビリッグは邦訳されていないのですが‘Banal Nationalism’という有名な本も書いています(僕は、この’Banal Nationalism’の私家版邦訳をちょっとずつ作っているのですが、完成するのはいつになることやら)。ちなみに、僕はこの本をちょうどダイアナさんが亡くなったころに、本屋で平積みされていたのを買いました。が、この本をダイアナさんとのからみで売るというのは、便乗も過ぎるのではないか、と思ったものでした(東京駅そばのYブックセンターにて)。(2000年7月)

藤澤房俊(1997)『大理石の祖国』 筑摩書房
 近代イタリアの国民はいかにして形成されたか。本書はイタリアにおける国民形成の問題を、ホブズボウム的な観点から考察しています。イタリアに分析が集中しているために、あまり一般的な原理を得ることは出来ないのですが、近代イタリア史の一側面を学ぶ上では参考になるでしょう。近年の歴史研究で明らかにされているように、近代国民国家における国民形成は、一般に考えられているよりも遥かに遅かったのですが、イタリアもまたその例外ではないことがわかります(後発国なのだから当然と言えば当然なのですが)。また、非常に読みやすい文章で、資料も豊富なのが、好感が持てます。 (1998年)

フジタニ・タカシ、米山リサ訳(1994)『天皇のページェント』 NHKブックス
 近代天皇制はいかにして形成されてきたか? 本書は、それを儀礼の観点から解き明かしてゆきます。明治以前、人々の多くは天皇の存在すら知りませんでした。それが、いかにして「現人神」としての地位を築いていったのかを、ギアツやホブズボウム、フーコーなどの理論を軸に解き明かしてゆきます。私が興味深かったのは、結婚を祝って儀式を行なうというのは、西欧から輸入された考えであって、皇室の結婚式は伝統でも何でもない、ということや、皇室が結婚式をやるようになったがゆえに、一般の庶民も神式で結婚式を行なうようになったということ、さらには明治以前は、皇室は仏式で葬儀を行なっていたこと、などでしょうか。まさに、「伝統の創造」が行われていたと言えるでしょう。非常に読みやすく、びっくりさせられること請け合いの本です。 (1998年)

ホブズボウム・エリックほか編、前川啓治ほか訳(1983=1992)『創られた伝統』 紀伊國屋書店
 今日のナショナリズム研究において非常に重要な「伝統の創造」という概念を一躍広めた記念碑的な一冊。本書で、ホブズボウムは「国民の伝統」として人々に親しまれているものが、実は意外と新しいものである場合が多いことを明らかにしています。つまり、そうした「伝統」は国民を統合するための「創られた伝統」なのであり、その例としてスコットランドのキルトやバグパイプ、ロンドンの国会議事堂、そしてロイヤル・ウェディングなどがあげられています。こうした「伝統の創造」に関しては日本でも研究が進んでおり、このホームページで紹介している『天皇のページェント』などでそうした分析が行われています。ともあれ、ナショナリズムを研究するうえで、欠かせない一冊と言うことが出来るでしょう。 (1999年)

モッセ・ゲオルゲ、佐藤卓己ほか訳(1975=1994)『大衆の国民化』 柏書房
 大衆はいかにして「国民化」されるのか。本書は近代ドイツにおける「国民化」を題材として、この問題に取り組んでいます。特に本書では、政治シンボルという観点から分析を行い、記念碑や祝祭、モダンダンスや合唱などの果たした役割について明らかにしています。私はドイツ史には全然疎いので勉強になりましたし、ナショナリズムについて考える上でも役に立つのではないでしょうか。また、巻末の佐藤卓己さんの訳者解説は一読の価値ありです。 (1999年)

吉野耕作(1997)『文化ナショナリズムの社会学』 名古屋大学出版会
 日本では数多くの「日本人論」が出版される一方、それに対する「日本人論批判」も近年、行われるようになってきました。しかし、それらの批判においては、日本人論が一般の人びとによって、いかにして消費されるかという視点が欠如していました。また、ある民族が他の民族とは異なる性格をもっているという主張は日本人にのみ限定されて行われるわけではないにもかかわらず、「日本人は特に日本人論が好きである」といった前提での議論が展開されてきました。本書では、それら従来の議論の限界を超えて、フィールドワークを通じてどのように日本人論が消費されているかを検証し、また、民族の独自性がどのような形で主張されうるのかを、他の文化との比較で検討しています。ナショナリズムに関する論争(ナショナリズムは普遍的に存在するか、あるいは近代に特有の現象か、など)に関しても、手際良くまとめられており、それぞれの議論を比較・検討する際にも役立つと思われます 。(1997年)

リプセット・セイモア、内山秀夫ほか訳(1963=1971)『国民形成の歴史社会学』 未来社
 アメリカにおける国民形成はいかに可能だったのか。本書はアメリカを最初の新興国として位置づけ、その近代化、国民形成がどのように進められてきたのかを宗教や民主主義といった観点から論じています。この本は近代化論華やかなりし頃の著作であり、要するに、第三世界の新興国の近代化について考えるためにも、最初の新興国たるアメリカの近代化からそのノウハウを学ぼうという姿勢で書かれています。よって、今日では、そうした姿勢が鼻につき、また、方法論的にも通用しないであろうとは思います。では、本書の何が良いのかと言えば、しばしば政治的近代化論のホンネが垣間見え、それだけに当時の発想の根底に何があったのかを見据えることが出来るというところです。よって、本書は、国民形成に関する学説史を論じる上で、役立つのではないかと思います。(2000年)

ロスチャイルド・ジョゼフ、内山秀夫訳(1981=1989)『エスノポリティクス』 三省堂
 本書は、エスニシティや民族問題について、政治学の観点から分析を行っています。最近流行のカルチュラル・スタディーズ的な議論などに比べれば、全くもって地味な内容なのですが、それだけにしっかりとした議論が展開されており、読んでとても勉強になる本です。今日において民族問題が激化している背景には何があるのかを考える際には役に立つでしょう。正直、訳文はあまり良いとは言えないのですが、それでも一読の価値あり、と断言してしまいましょう。なお、僕は新丸子の古本屋で入手しました。 (1999年)

若林幹夫(1995)『地図の想像力』 講談社
 地図とはいかなる社会的な意味を有するのか?アボリジニ、中世ヨーロッパ、そして近代の地図との間の違いは果たして何を意味するのか?本書は、そうした問題に社会学的なアプローチで迫ってゆきます。地図に対するこんな見方があったのか、という驚きとともに、近代の地図がいかなる前提の上に成り立っているのかについて考えさせられました。改めて社会学の幅広さに驚かされます。また、ナショナリズムやグローバリゼーションといった問題を、少し違った観点から考えるのに役立つでしょう。 (1998年)