法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室



現代日本社会論/社会

『安全神話崩壊のパラドックス』 『終わりなき日常を生きろ』 『からくり民主主義』
『管理社会と民衆理性』 『「空気」の研究』 『純愛時代』
『証言 水俣病』 『世紀末の隣人』 『大衆教育社会のゆくえ』
『日本人のしつけは衰退したか』 『日本の経済格差』 『バナナと日本人』
『不良少年』 『ホラーハウス社会』 『三浦和義事件』
『約束された場所で』 『やさしさの精神病理』 『柔らかい個人主義の誕生』
『豊かさの精神病理』 『累犯障害者』 『嗤う日本の「ナショナリズム」』

大平健(1990)『豊かさの精神病理』 岩波新書
 本書は、様々な商品が氾濫する現代社会。そこに生きる<モノ語り>の人々の精神の有り様を描きだしています。要するに、自己をルイ・ヴィトンやラルフ・ローレンといった商品のブランドでしか表現出来ない人々についての分析です。ちなみに、この<モノ語り>の人々という表現は、消費社会論のキーワードの一つになっていると言ってもよいでしょう。精神病の患者との対話という形で書かれているので、非常に読みやすく、また面白いです。また、「あとがき」に書かれているように、決して豊かさを非難し、貧しさを礼賛するというようなお約束にハマッていないところにも好感が持てます。(1999年)

大平健(1995)『やさしさの精神病理』 岩波新書
 席を譲らない「やさしさ」、黙っていて返事をしない「やさしさ」など、現代における「やさしさ」とは、これまでの優しさと根本的に違っているのではないか?本書は精神科医の観点から、現代における「やさしさ」の有り様について論じてゆきます。そこには、自分が決して傷つくことのない「やさしい」関係を求めてさまよう現代人の姿が浮かび上がってきます。本書の出色は、最終章の「自分さがし」に関する箇所でしょう。「本当の自分」をいつまでも探し続けることの下らなさ、つまらなさがよく分かると思います。 (1999年)

大平健(2000)『純愛時代』 岩波新書
 精神科医の立場から現代社会のあり様について発言してきた大平さんが、「恋愛」について論じた著作です。患者との対話を通じて、彼ら、彼女らがいったいどのように心を病んでしまったのかを明らかにしていきます。正直、その「謎解き」はまるでミステリーのように面白く、一度読み始めたらやめられないこと請けあいです。「純愛」に固執するあまり、必要な「不純さ」が受け入れられなくなってしまうことの問題点を鋭く突いていると言えるのではないでしょうか。(2003年5月)

苅谷剛彦(1995)『大衆教育社会のゆくえ』 中央公論社
 戦後日本の教育がいかなる変容を遂げてきたのかを、社会学的な観点から分析している著作です。本書で特に重要だと言えるのが、「日本は学歴社会であり、学歴がその後の人生を左右する」ということが強調されすぎることによって学歴を取得するための不平等がこれまで見逃されてきた、という筆者の主張です。要するに、東大出身者に対する優遇のみが問題とされることによって、その東大に入学するための機会の不平等(高所得者の子供が東大その他の有名大学に入学する傾向が強いということ)が見逃されてきた、というわけですね。実際、親の収入と子供の学歴はかなり相関する傾向にあり、今後の日本社会で所得格差が開いていけば、そうした傾向はますます強くなると考えられます。そしてそれは、階層の固定化という社会にとっては望ましくない帰結をもたらすことになりかねません。こうしたことから、本書の提起している問題はきわめて重大であるといえるでしょう。(2000年12月)

河合幹雄(2004)『安全神話崩壊のパラドックス』岩波書店
 近年、日本の「安全神話」が崩壊したとして、犯罪の増加・凶悪化が問題視されるようになっています。本書はまず、「犯罪の増加・凶悪化」とは統計的な処理や法制度の変化などに起因する根拠なき幻想であり、マクロで見た場合には日本の犯罪状況は決して急速に悪化しているわけではないということを明快に論じています。しかし、他方で筆者は、日本の犯罪状況において看過しえない問題もまた生じているとして、とりわけ住宅地での犯罪の増加を問題視しています。そこから、そもそも日本の安全神話がどのような構造のもとで成りなっていたのかを論じ、近年における「体感治安」の悪化の原因を分析しているわけです。
 この本でとりわけ興味深かったのは、昼と夜との境界が曖昧になったことに起因する「体感治安」の悪化という説明です。たとえば、次にように論じられています(p. 186-187)。

「実は、怖い夜があってこそ、昼には安心できたのではないか。境界をなくし、いつも明るい昼の世界を中途半端に実現したからこそ、二四時間安心できない状況に陥ってしまったのではないか。これは、客観的には安全になり、社会は良い方向に進んでいるにもかかわらず、誰もが満足しないし安心できないという時代状況を見事に映し出している。」


著者によると、犯罪が横行する夜と平穏な昼間の間の境界や、暴力が発生しやすい盛り場と日常生活が営まれる住宅地との境界が生きていた社会でこそ「安全神話」は成り立ちえたのであり、それらの境界が曖昧になったことで人びとはより犯罪を身近に感じるようになってしまったということです。そこで、著者はそれらの境界を再び明確にするとともに、防犯のための共同体の再構築等を処方箋として提案しています。
 しかし、僕としては防犯のための共同体の再構築というところで、どうしても引っかかってしまうわけです。著者は「共同体自体の価値を個人の上位に置かない」ことは論じているわけですが(p.253)、本当にそういった形での共同体の構築というのは可能なのでしょうか。著者によれば「(共同体の:津田)文化の権利主体は存在しない。したがって、具体的な誰かによって代表されている国家とは異なり、暴走の危険は少ない」とのことですが(同ページ)、集団主義的な匿名の圧力の暴走はそれほど珍しい現象でもないように思います。
 とはいえ、現在の「体感治安」の悪化をどうすれば食い止めることができるのかという問題について、僕が異なる処方箋を持っているわけでもなく、本当に難しい問題だとは認識しているのですが。(2006年7月)

北田暁大(2005)『嗤う日本の「ナショナリズム」』 NHKブックス
 真面目な態度(本書の言葉で言えば「ベタ」)の人びとを嘲笑するアイロニーが蔓延するインターネット空間において、「電車男」に典型的に見られるような極めてベタな感動指向やナショナリズムが突如として現れるのは何故か。本書は、この問題を中心に、1960年代以降の日本社会の言説空間の分析を行っています。その分析対象は、連合赤軍による「総括」から始まり、糸井重里のコピーや田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や、ビートたけしの『元気がでるテレビ』を経て、「2ちゃんねる」へと至ります。本書の著者が私とほぼ同世代なこともあって、読んでいて非常に楽しい一冊でした。
 が、あえて苦言を呈せば、議論がしばしば錯綜するため、読み手にとって論理の流れを追うのが非常に難しいということがあります。個々のトピックの取り上げ方、論じ方が非常に面白いがゆえに、全体としてそれがどのように結びついていくのかが理解しづらいことが残念です。ゆえあって、間をおいて2回ほど通読したのですが、それでも理解し難い箇所が数多くありました。
 また、本書のフレームワークに合致しなかったせいか、インターネットでの「ナショナリズム」言説の氾濫についていくつか欠けている箇所があったように思います。それは、それらの言説にしばしば見られる過剰な「被害者意識」です。マス・メディアや学校教育によって「騙されてきた」という感覚が広く共有されているようにも思えるのですが、実はその裏側には実にナイーブな(従って、アイロニズムやポスト・モダニズムとは全く合致しない)「真実」に対する思い入れが存在しているようにも見受けられます。このような「被害者意識」の起源を探るためには、言説のレベルのみならず、社会・経済的なファクターも考慮に入れて研究を行う必要があるでしょう。その意味では、 高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』に見られるようなアプローチによって、本書で提示された見解を補足していく必要があるかもしれません。(2006年9月)

栗原彬(1982)『管理社会と民衆理性』 新曜社
 管理社会化の進む高度産業社会にあって、人々の日常意識はどのようにして構成されているのか?本書は管理社会論の立場から戦後日本社会における大衆意識や大衆文化のあり方についての分析をきわめて精密に行っています。1980年代の管理社会論華やかなりし頃の著作なので、現在の時代状況にはややそぐわないような感じがするかもしれませんが、それでも、学ぶところの多い著作です。現在では大衆社会論やその延長線上にある管理社会論もすっかり下火になってしまったような気もしますが、疎外や原子化の蔓延しつつある今日こそ、このような研究が求められているような気もします。 (1999年)

栗原彬編(2000)『証言 水俣病』 岩波新書
 
いまなお多くの人々が苦しみ続けている水俣病。本書はそうした患者の声を、「水俣病の人々の声」と一括してしまうのではなく、「一人の個人の声」として収録しています。それぞれに悩みや欲求を抱え、決して聖人ではない人々の声は、彼らの犠牲の上に成立した豊かさを享受する我々の根底を揺るがせます。特筆すべきことは、水俣病が公害病であるのみならず、社会病であるということです。つまり、患者を差別し、病気の存在を隠蔽し、あるいは終わったこととして片づけようとするメカニズムが存在するということです。水俣病は人間だけではなく、人間関係をも破壊していきました。戦後日本社会の一つの側面として、本書と向き合うことをお勧めします。(2000年)

桜井哲夫(1997)『不良少年』 ちくま新書
 
近代における教育制度の整備が生み出してきた「不良少年」。それは社会からの逸脱者なのか、それとも現代社会の矛盾を暴き出すトリック・スターなのか。本書は、この「不良少年」がどのように生まれ、語られ、そして「非行少年」へと変化してきたのかを明らかにしてゆきます。最終章では、神戸の小学生殺傷事件もとりあげ、近年の少年犯罪の土壌を社会的なコンテクストから解き明かしています。非常に読みやすく、面白い本なのですが、不満が残るところがあるとすれば、「不良少年」という本書の主題が最終章で生かしきれなかったのではないかという気がします。最終章で桜井さんは子供の「逃げ場(アジール)」としての「家族」の復権を説くわけですが、そこで分析枠が「家族」に傾斜してしまい、「不良少年」というせっかくのモチーフが生かされていないように思えて、少々残念でした。(1998年)

重松清(2003)『世紀末の隣人』 講談社文庫
 
『エイジ』や『日曜日の夕刊』などの作品で知られる小説家の重松清さんの手による、池袋通り魔殺人や音羽の幼女殺人などを扱ったノンフィクション。もともと僕は重松さんの小説が大好きなのですが、この本も非常に面白く読むことができました。その手法は、いわば文学から世俗の事件を読み解くといったもので、たとえば新潟の少女監禁事件について坂口安吾の「桜の森の満開の下」をベースに語る、といったものです。僕としては、衰退する多摩ニュータウンを論じた文章が面白かったように思います。かつては「夢のニュータウン」であったはずの街が次第に衰退し、「夢」が結局は夢でしかなかったことが明らかになっていく過程が、筆者の実体験と巧妙に重ねあわされて、うまく描き出されています。また、マスコミ論的にはやはり和歌山カレー事件を扱った文章が面白いのではないかと思います。さっと読める本ですが、かなりお勧めです。(2004年3月)

島田荘司(2002)『三浦和義事件』 角川文庫
 
1980年代を代表する社会的事件の1つである「ロス疑惑」。本書は、その事件の容疑者とされた三浦和義氏は「無罪」であるという前提のもとで当時の状況を描き出したノンフィクションです。もちろん、ミステリ作家の手によるものですから、推理が占める部分がかなり含まれているのですが、それでも当時のマスコミがどのように「三浦氏による犯罪」を「演出」していったのかを知ることができると思います。マスコミに自宅を包囲された三浦氏の家族が買い物に行くと、それにまでついてきて、その日の三浦家の晩御飯の献立を得意気に報道するレポーター、三浦氏の会社に押しかけてきて社員に辞職を迫る報道陣。マスコミという権力が1私人の生活を破壊していく様が鮮明に描き出されています。実際、三浦氏がマスコミを相手どって起こした訴訟の多くが、三浦氏勝訴という結果に終わっていることも、この時期のマスコミがいかに三浦氏を殺人者として描き出すため、常軌を逸した振る舞いに出ていたかを示していると言えるでしょう。ところで、本書の、「絶望的なことには、女性と遊びすぎ、美女を次々と妻にし、ベンツに乗る長身の美青年は、みなで私刑にするのが問答無用の正義と信じる風潮がわが国にはある」(本書 p.848)といった日本社会の分析に、なんとなく苦笑してしまうのは僕だけでしょうか。(2003年8月)

芹沢一也(2006)『ホラーハウス社会』 講談社α新書
 新聞に毎日のように登場する犯罪報道。それらの報道には、しばしば「急増する凶悪犯罪」云々という表現が登場します。また、「体感治安」なる概念により、人びとの治安に対する不安感がどんどん増大していることも報じられています。
 しかし、統計的に見ると犯罪は急増していません。とりわけ槍玉に挙げられることの多い少年犯罪についても、その増加を疑問視する声は少なくなく、研究者の大半は「少年犯罪を含む犯罪全般は急増していない」という点においてコンセンサスに達しているように思われます。その詳細な分析に関しては、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』で行われています。河合さんによれば、ここ数年、犯罪はやや増加傾向にあるものの、決して「凶悪犯罪の急増」と言えるような状態にはないそうです。
 にもかかわらず、犯罪者に対する厳罰を求める声は強まる一方です。それはなぜか。前掲の『安全神話〜』では、かつては存在した犯罪多発地域(=繁華街)と一般居住地域との境界が曖昧になり、可能性としては決して高くないものの後者においても犯罪に遭遇する可能性が生じるようになったがゆえに、「体感治安」が悪化し、犯罪者に対する警戒感が増幅してきたのだというような説明が行われています。

 それに対し、本書は、教育や治療による犯罪者の矯正というこれまでの日本における犯罪者への対処方法が大きく変化しつつあることを論じています。芹沢さんによれば、これまでの日本社会においては、犯罪者が一種の病人として捉えられ、それを矯正=治療することに並々ならぬ熱意が注がれてきた。芹沢さんはこの点に関して、次のように述べています。(p.30)

「(少年:引用者)犯罪とはあくまで、保護すべき対象を発見するための『きっかけ』にすぎないのだ。」

 ただし、こうした犯罪観は決して犯罪者にただ甘いわけではありません。そのことを最も特徴的に示しているのが、少年法に見られる「虞犯少年」という発想です。虞犯少年とは、家出やいかがわしい場所への出入り等、法には触れていないけれども、将来的に法に触れる可能性があるという理由によって拘束される少年のことです。つまり、これは一種の「予防拘束」なのであり、法に触れる以前に少年を矯正しようとする姿勢の表れだと言いるのです。
 ところが、芹沢さんによれば、このような犯罪観は近年において大きく変化しつつあるのだそうです。そして、その鍵となるのが「被害者の発見」です。
 先に挙げたような教育的犯罪観からは「被害者」の存在がすっぽりと抜け落ちています。とりわけ少年事件においては、少年の心理が問題とされたがゆえに、犯罪の事実関係の解明はそれほど熱心に行われておらず、事件に関する情報はプライバシー上の観点から外部には伝えられませんでした。
 しかし、山形マット死事件を契機に、被害者たちは声を上げ始めます。自分たちの子供がなぜ死なねばならなかったのかを解明し、それを開示するよう求める声が次第に強まってきたのです。そして、メディアはそうした被害者の声を積極的に取り上げるようになり、神戸の連続児童殺傷事件などのショッキングな事件の影響もあって、やがては少年法の改正へと到ることになったわけです。
 このような流れのなかで、加害者を理解し、矯正しようとするそれまでの方針への批判が強まり、加害者への厳罰を求める流れが生じてくることになりました。この流れのなかで、事件をおかした少年や精神障害者をあくまで法的主体として扱い、彼ら、彼女らが起こした事件をきちんと解明し、法的主体としての責任を求めていくという方向性に向かえば、現在とは異なる方向性が生まれることになったと芹沢さんは論じています。ところが、実際に生じたのは、加害者を法的主体として捉えるのではなく、不気味な「怪物」として捉え、社会から隔離・排除しようとする動きでした。

 そして、そのような潮流を生み出す上で重要な役割を果たしたのが、犯罪精神医学でした。これが加害者の精神や脳の異常を訴えることで、彼ら、彼女らの「不気味さ」をより強く社会に印象づけることになったのです。
 統計的に見れば犯罪が増えていないにもかかわらず、日本社会はそうした不気味な「怪物」の影に怯えるようになりました。しかし、そうした「怪物」の存在に対し、人びとはただ怯えているのではなく、ある意味においてそれを楽しむようになっていると芹沢さんは述べています。ボランティアや地域活動など、街を監視し、犯罪者を寄せ付けない街づくりが様々な形で行われるようになっています。それらの活動は単に義務として行われているのではなく、しばしばレクリエーション的な色彩を帯びています。いわば、「怪物」の存在を一種の「娯楽」として楽しむ流れが生まれつつあるというのです。芹沢さんは、そうした「怪物」の存在を「娯楽」として消費する社会を「ホラーハウス社会」と名づけ、それが治安の維持を名目として抑圧的な社会体制を生み出す危険性を主張しています。

 この最後の点において、芹沢の見解は、前のエントリで挙げた河合『安全神話崩壊のパラドックス』と大きな相違を見せることになります。河合は急増しているわけではないものの90年代後半からの犯罪の増加を危惧しており、犯罪が多発する時間帯である「夜」と安全な「昼」との境界を再びはっきり引きなおすこととともに、地域共同体の建て直しや、ガーディアン・エンジェルスのようなNPOの役割への期待を表明しています。すなわち、芹沢がより個人主義的な観点から社会の「ホラーハウス化」を危惧しているのに対し、河合は共同体主義の観点から治安問題への取り組みを訴えていると言えるわけです。
 地域ぐるみでの防犯対策を監視社会への第一歩として捉えるべきか、それとも地域共同体の再建として捉えるべきか。僕としては、芹沢さんの立場に大きな共感を覚えるものの、河合の主張の説得力も認めないわけにはいかず・・・ということで、本書の紹介はとりあえず論点を整理するだけに留めておきたいと思います。(2006年2月)

高橋秀美(2002)『からくり民主主義』 草思社
 超オススメの一冊。沖縄米軍基地や若狭湾の原発などに関して、様々な利益が奇怪きわまる形で絡み合っている実情を、マスコミとは全く違う視点で明らかにしています。米軍基地賛成派が反対派として名高い太田元沖縄県知事を誉めたり、原発反対派の人が原発工事の下請けをやっていたり…。賛成派と反対派の対立が固定化してしまうことで、対立それ自体が既得権益化する(対立があるから、国からたくさん補助金が降りてくる)ということなのでしょうか。とにかく、マスコミが「反対派と賛成派の深刻な対立」という単純な図式に仕立て上げてしまうところを、筆者はそう簡単に「悪」と「善」とが切り分けられないことを、どこかユーモラスなタッチで描き出しています。村上春樹による解説というのに惹かれて買ったのですが、思わぬ拾い物でした。あと、富士の樹海で多発する自殺についての章は、不謹慎だとは思いつつも、抱腹絶倒です。とにかくオススメ。(2002年6月)

橘木俊詔(1998)『日本の経済格差』 岩波新書
 一億総中流と言われる日本社会。ところが、実際には徐々に経済格差が広がり、ヨーロッパ諸国と比較しても決して平等な社会ではない。これが本書の主張ですが、経済に関しては全く門外漢なので、この論の真偽に関しては全く分かりません。が、いくつか反論もなされているようで、結構話題になった本です。ともあれ、経済格差が大きくなってきているのはやはり事実のようで、この面からも日本社会のあり方は大きく変わっていくことでしょう。また、社会的な観点からも議論が展開されているので、これからの日本社会の動向を考える上ではかなり参考になる本だと思います。(1999年)

鶴見良行(1982)『バナナと日本人』 岩波新書
 普段、我々が何気なく食べているバナナ。それは果たしてどのようにして栽培され、我々の食卓にまで運ばれてくるのか。本書はこうしたプロセスを追いながら、そこで行われている多国籍企業による収奪の状況を明らかにしています。借金でがんじがらめにされるバナナ農園の地主、膨大な失業者の存在により安く買い叩かれる労働力、そしてそこから生じる不満を暴力で押さえつける企業など、バナナというものが実は膨大な人々の犠牲の上で我々の食卓の上にのっているのだということを教えられます。(1998年)

広田照幸(1999)『日本人のしつけは衰退したか』 講談社現代新書
 今日、家庭の「教育力」が落ちていると言われ、子どものしつけがなっていない、というような話を至るところで耳にします。が、実は現在ほど家庭が教育に熱心な時代は存在しない、というのが本書の大胆な仮説です。筆者は社会史的に日本社会のしつけのあり方について検証していき、かつては家庭でいわゆるしつけはほとんど行われていなかったことを明らかにしています。その上で、礼儀正しくて、勉強好きという「パーフェクト・チャイルド」を育成しようとする現在の教育のあり方に根本的な疑問を投げかけています。これを読むと、巷に氾濫する教育論がとても嘘臭いものに思えてきます。特に面白かったのが、少年犯罪に関する話。殺人で検挙された少年の数は大幅に減少しているにもかかわらず、なぜ教育について語る人たちは少年犯罪の凶悪化を論じてしまうのか。それは、犯罪という少年犯罪の一番極端な部分と、自分たちが少年時代を過ごした「思い出」とを安直に比較してしまうからなのです(たいていの少年の周りでは殺人は起こらない)。確かに、新聞というのは社会の変なところを集めて作るので、そればかり読んでいると社会がどんどん悪くなっていくような感じがするのですが、その典型的な例がこの少年犯罪なのでしょう。ぶっちゃけた話、「現在の教育は素晴らしい」と賞賛された時代など存在しないのではないか、と思ってしまう今日このごろです。教育に関心のある人は絶対に読むべきでしょう。 (2000年)

宮台真司(1998)『終わりなき日常を生きろ』 ちくま文庫
 良くも悪くも日本で最も有名な社会学者である宮台さんの出世作。マスコミに盛んに出る彼に対しては、賛否両論であるでしょうが、僕個人の感想を言えば、社会学の理論をとてもうまく現代社会の問題に当てはめるなぁ、といったところでしょうか。言ってしまえば、おそらく彼が社会学の理論の発展に寄与することはないでしょう。が、社会学の最前線で頑張っている研究者とは比較にならないほどの社会的影響力を彼は持っていると言ってよいでしょう。この辺りをどう考えるかで彼の評価も違ってくるのかもしれません。で、なんだかんだ言って、彼の本は結構面白いとは思いますし、そこらへんの論客では相手にならないほど、頭の切れる人だと思います。ただ、あまりにスラスラ読めてしまうので、後に残らない、という気もしますが…。あと、「終わらない日常」というようにインパクトのあるキーワードを作るのがうまいですね。 (1999年)

村上春樹(1998)『約束された場所で』 文藝春秋
 近頃、東京高裁でオウムの松本被告の死刑判決が下り、再びオウムが脚光を集めているということで、この本を紹介することにしました。村上さんの手によるオウムを扱ったノンフィクションとしては、本書のほかに『アンダーグラウンド』があるわけですが、『アンダーグラウンド』が事件の被害者に焦点を当てているのに対し、本書はオウムの信者(および元信者)に対するインタビュー記録です。本書を読んだとき、僕は全く異質の存在だと感じていたオウム信者たちが、実はそれほどかけはなれた存在ではないのだ、ということを感じました。言葉にするのはちょっと難しいのですが、僕も彼らと同じようなことで悩み、彼らは僕が選択しなかった道をたまたま選んでしまったのだというようなことでしょうか。オウム裁判を報道するメディアの論調の多くは、自分たちを全く揺らぎのない立場に置いた上で「彼らの心の闇」を「理解し」「解体する」というような「お約束」に落ち着いているようにも思います。が、本書の最後にある村上さんと河合隼雄さんの対談で、河合さんがオウム信者の欠落点として指摘した「悪を抱えて生きること」は、妙にモラリッシュな言論が幅を利かせる現代の日本社会を考えるうえで重要な指摘なのではないでしょうか。(2004年3月)

山崎正和(1984)『柔らかい個人主義の誕生』 中央公論社
 消費社会における自我のあり方について、脱産業社会論の観点から分析している著作です。消費社会においては、生産よりも消費を重視し、周囲との関係を大切にする柔軟な個人主義が生まれる、という議論が展開されています。僕は脱産業社会論に対しては結構批判的なのですが、それでも「なるほど」と思わされる指摘が数多くなされています。古い文体であえて書かれているので、ちょっととっつきにくいようにも思えますが、内容的には極めて簡潔で分かりやすい本だと言えるでしょう。僕はハードカバーの方を買ってしまいましたが、どうも中公文庫からも出ているようです。(1999年)


山本譲司(2006)『累犯障害者』新潮社
 メディアに映し出される障害者といえば、純粋で健気な存在として描かれることが多いわけですが、実際には罪を犯してしまう障害者もいます。本書では、メディアでは触れられることのまずない罪を犯してしまった犯罪者に焦点を当てています。内容はきわめて衝撃的で、社会があえて見ようとしてこなかった「現実」が赤裸々に語られています。といっても、障害者に対する差別意識を煽るようなものでは決してなく、障害者はほとんどの場合、犯罪の加害者ではなく被害者なのだということを踏まえたうえで、むしろ福祉の網から外れてしまった障害者が犯罪を犯さざるをえない状況こそが問題視されています。
 なお、メディア報道という点からすると、以下の指摘はとりわけ考えさせられるものではないでしょうか(p.216)。

「障害者が起こした犯罪そのものをマスコミが隠蔽しているため、多くの福祉関係者は、近辺に触法障害者が現れたとしても、彼らを極めて異質な存在として受け取り、福祉的支援の対象から外してしまうのだ。」

 本書が提起している問題は、ごく少数の人びとに関係するものなのではなく、社会全体が考えるべき極めて重大なものです。決して読んでいて愉快な本ではありませんが、一読されることを是非ともお勧めします。(2007年12月)


山本七平(1983)『「空気」の研究』 文春文庫
 日本社会を支配する「空気」に関する非常に優れた考察です。僕と山本さんでは政治的な立場は全く違うのでしょうが、そういう立場の違いを越えて名著だと言える本だと思います。勝てないことが分かりきっている太平洋戦争へと日本人を駆り立てたものとは何か?山本さんは集団的高揚を支える「空気」とそれを平常に戻す「水(現状を見させる)」の役割を考察しながら、「水」による現状の規定が普遍的な尺度に基づくものではなく、集団的・人間的な尺度に基づくものであるがゆえに、誰も本当のことを言えない状況が生じてしまうメカニズムを論じています。うーむ、なんかうまく説明できないなぁ。全員がその規範が虚偽であることを知っているにもかかわらず、その規範が作動してしまうメカニズムとでも言えるでしょうか。ただ、疑問がないわけではなく、ノエル−ノイマンの「沈黙の螺旋」理論で示されたように、大勢に順応してしまうのは日本人だけの特性ではない、ということがまず一つ。そして、そこから派生するのですが、何が大勢なのか(「空気」なのか)ということの認識が立場によって変わってくる、ということがもう一つの疑問です。具体例をあげれば、「人権保護」という「空気」は、保守的な立場(つまり人権保護に批判的な立場)からすれば存在するように見えるでしょうが、人権保護を推し進めようとする立場から見れば「人権保護に対する批判」という「空気」が存在しているように見えうる、ということです。 (2000年)