法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室



情報化社会論

『ウェブ社会の思想』 『監視社会』 『現代社会理論と情報』
『情報革命という神話』 『情報化と地域社会』 『情報化の中の<私>』
『情報の文明学』 『地域情報化』 『ノイマンの夢・近代の欲望』
『マルチメディア』

梅棹忠夫(1988)『情報の文明学』 中公叢書
 情報化社会論の先駆けとも言える本書ですが、ここに掲載されている論文の一部が発表されたのは、なんと昭和30年代の後半なのです。作者の梅棹さんの先見の明には驚かされるばかりです。もちろん、古い論文だからと言って内容が古臭いかと言えば、全くそんなことはなく、「外胚葉産業」、「コンニャク情報」、「お布施の原理」、「情報の情報」など、面白い概念が数多く登場します。浮ついた情報化社会論が多いなかで、じっくりとこの現象を考えてみたい人にはお勧めの一冊と言えるでしょう。なお、最近、中公文庫からも出ました。 (1997年)

大石裕(1992)『地域情報化』 世界思想社
 脱=産業社会として位置づけられる情報化社会。果たして、本当に情報化社会の到来は、産業社会の引き起こした諸問題を解決しうるのでしょうか?本書は、情報化社会論がいかなる文脈で論じられるようになってきたのかを考察し、情報化が実際にはどのように推進されてきたのか、さらには、情報化社会論でたびたび論じられる地域情報化がどのように展開されてきたのかを論じています。そして、最終的には現在の情報化社会とは、情報産業主義による社会にほかならず、現在の産業社会の延長線上にしかないことを明らかにしています。情報化に関してのみならず、日本の地域開発のあり方の歪みや官僚のセクショナリズムの問題をも提示している好著と言えるでしょう。ただ、最近では、バブルがはじけたせいで、地域情報開発みたいな金のかかるプロジェクトはあまり行われていないそうですが…。 (1998年)

大石裕ほか(1996)『情報化と地域社会』 福村出版
 情報化とは何なのか、情報化によって地域社会はいかなる影響を受けるのか、情報化は日本の近代化にどのような影響を及ぼしてきたのか、情報化と都市空間はどのように関係しているのか、そして、地域メディアによるジャーナリズムの役割とは何かということが本書の主要なテーマです。これらのテーマからもわかるように、本書では情報化という概念が、近年の電子メディアの発達のみならず、印刷メディアをも含めた非常に広い範囲で用いられています。そのため、最新の情報テクノロジーに関する議論を期待して読むと期待はずれに終わるかもしれませんが、技術決定論の欠陥を乗り越え、社会変容と情報との関わりについて鋭い分析がなされていると言えるでしょう。(1997年)

佐藤俊樹(1996)『ノイマンの夢・近代の欲望』 講談社選書メチエ

 実は30年以上昔から、「情報技術が社会を変革する!」ということは言われ続けてきました。本書では、情報化が社会の諸問題を解決してくれる、という「幻想」がなぜ再生産され続けてゆくのかを、検証してゆきます。情報化社会とはポスト産業社会でも、ハイパー産業社会でもなく、近代産業社会そのものであるという本書の主張は、情報化の本質を考えるうえで非常に参考になるでしょう。技術者による技術決定論ではない、社会学者の立場からの数少ない情報化社会論であり、私は非常に面白く読むことができました。(1997年)

澤井敦、小林修一ほか(1996)『現代社会理論と情報』 福村出版
 マスコミ論や情報化社会論を語るうえで欠かすことのできない研究者である、マクルーハンやベル、ボードリヤールなどの議論をコンパクトにまとめています。また、ルーマンやハーバーマス、ブルデューといった社会学の大家が情報という概念をどのように捉えているかを知るのにも便利でしょう。ただ、正直に言えば、ブルデューに関する章は、あまり分かりやすいとは言えず、もう少し理解しやすく書いて欲しかったと思います。あまり関係のないことですが、私はあまりマクルーハンの議論が好きではありません。なんか、技術決定論的なところや、ホットメディアやクールメディアだとか言う分類の有効性があまり理解できないのです。あと、彼のもってまわった言い回しもなんとかならんのか、とか思ってしまいます。こういうのって、やっぱり、私が凡人だからなのでしょうか…。 (1997年)

鈴木謙介(2007)『ウェブ社会の思想』 NHKブックス
情報化が進行し、個人の情報がオンライン上で流通するようになるにつれて、それを利用する個々人の間である種の「宿命的決定論」が蔓延しつつあるのではないかとの問題意識のもと、SNSやアバター、電子マネーなどのトレンドを分析している著作です。本書で言う宿命的決定論について、著者は以下のように論じています(p.107)。

「宿命的決定論とは、わたしの人生は、現在のもの以外にはあり得ないとあらかじめ決められており、それはわたしにとって不可避であった、と感じられるということであり、そしてそれをすすんで受け入れるということだ。私の主たる関心は、この宿命的決定論が、自己によって語られる、すなわち自己の欲望に担保された物語ではなく、情報化によって蓄積されたわたしのデータに基づいた、端的な事実として受け入れられていく傾向が、現代社会において見出せるのではないかというところにある。」

以上のような著者の主張の特徴は、いわゆる近代化論と全く逆の論理を展開しているところにあります。近代化論においては、近代化によって社会のなかを流通する情報が増大し、他者の様々な生き方を人が知るようになる結果、伝統的な社会では「所与」とされていた人生のあり方が実は「選択」できるものであることが認識されるようになる、と論じられていました。さらに、ピーター・バーガーらの『故郷喪失者たち』などは、まさしくそのような問題意識から、近代人のアイデンティティの不安定性を問題視しています。ところが、本書の主張に従うならば、様々な現代社会の様々なアーキテクチャが個々人から「選択」という契機を奪うことによって、宿命なるものが再び社会に導入されてきている、ということになります。

私自身には、こうした筆者の主張の是非を論じることはいまのところ出来ないわけですが、ただアーキテクチャと自由の問題は現代思想の領域でも大きくとり上げられており、インターネットのみならずそうした思想の動向を知るうえでも役に立つ一冊ではないでしょうか。(2007年11月)

西垣通(1994)『マルチメディア』 岩波新書

 90年代におけるキータームの一つ、マルチメディア。本書はこのマルチメディアの虚像と実像に迫り、情報化の進展が我々の身体感覚、コミュニケーションの様式にどのような影響を及ぼしうるのかについて論じています。94年出版ということで、情報化の動向に関する記述は少し古さを感じるのですが、マルチメディアの本質を捉えようとした数少ない試みの一つとして評価出来るでしょう。しかし、私には、技術的なことはともかく、社会に関する分析では気になる点がありました。まず、一つは「今時の若い者は…」というような発想があること、そして、もう一つは特定の社会に対するステレオ・タイプな見方があることです。とは言え、情報化社会についてよく書けていることは確かですし、深いところまで論じていると言えるでしょう。(1997年)

ーマン・ジョアンナ、北山節郎訳(1996=1998)『情報革命という神話』 柏書房
 帯に書かれている「メディアは世界を変えない!」という言葉からも分かるように、本書はメディアの影響を過大視する昨今の言説に対して痛烈な反論を展開しています。筆者のヌーマンは、メディアの影響力が指摘される個々の事例(例えば、アメリカ国内におけるベトナム反戦の広がり)を一つ一つ取り上げて、メディアの影響力というよりも、政治家のリーダーシップこそが政治の行方を左右するのだということを解き明かしてゆきます。よって、理論的な考察というよりも、個々のエピソードが興味深い本だと言えるでしょう。内容も全体としては平易です。が、時々よく分からない文章が出てくるのが難点だと思われます。(1999年)

守弘仁志ほか(1996)『情報化の中の<私>』 福村出版
 近年の大きな潮流である情報化は果たして個人にどのような影響を及ぼすのだろうか。本書は、こうした問題関心のもとで編集された論文集です。特に個人のアイデンティティの問題を中心として、情報の概念、消費社会、世代の問題などが論じられています。情報化と言えばすぐに社会や経済など大きなコンテクストで論じられることが多いのですが、個人という問題に焦点をあてた珍しい本だと言えるのではないでしょうか。ただ、本書は多分にポスト・モダン的なわけなのですが、正直言って、私にはホンマかいなと感じてしまう部分があります。が、全く現実から遊離しているかと言えば、そんなことは全くなく、いろいろと考えさせられる本であることには間違いありません。 (1998年)

ライアン・デヴィッド、河村一郎訳(2001=2002)『監視社会』青土社
 一般に監視社会というと、監視カメラの増大というイメージが浮かぶわけですが、本書で問題にしているのは、そうした個々人の物理的な身体に対する監視だけではなく、個人の履歴や行動が記録された電子的なデータに対する監視の拡大です。つまり、我々に関する様々な電子データが蓄積され、それらが組み合わされたとき、監視社会が登場するということになるわけです。
 著者であるライアンは、それらのデータに基づき、顧客の選別が行われる結果として、個々のライフチャンスが変わってくる危険性に警鐘を鳴らしています。ライアン自身が挙げている例を引用すると、遺伝子検査に関するデータは、病状が悪化するまえに治療を受けられる可能性生み出すとともに、保険の加入や昇進などに関する差別的な待遇を引き起こす可能性を生み出すというのです。日本の例に引き寄せて考えれば、レンタルビデオ店でのポイントカードに蓄積されたデータに応じて、他の消費者には提供されているサービスを特定の消費者が利用できなくなる可能性と言えるでしょうか。
 ただし、こうした監視技術の導入は無理やりに進められるのではなく、「データや個人情報をシステムに扱われる当人もおそらく容認するような、合理的根拠の下に遂行され」、「システムに把捉される当人が自分自身の監視に参加する」ようなやり方で行われることになるとライアンは主張しています。その意味でも、古典的な監視社会論の想定とは大きく異なっているのであり、現代的な文脈で監視社会について考えたい人には必読の文献だと言えるでしょう。(2009年11月)