南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第四章  田舎の文化の中で起った都市化 郊外的都会と田舎風国際都市 ( 下 )


* デイヴィド・R・ゴールドフィールド (David R. Goldfield) *


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ルーツへの復帰 *141

 しかし自分で努力もしないのに南部は救われたのある。 今振り返って見れば、救われたことは驚くに当らない。  1960年代までは、南部の都市はそのルーツから大きく逸脱していた。 奥ゆかしい文化遺産を持った、バランスの取れた町の姿が、 キンキラキンの、大きければ良いだろうと言うこけおどしの姿に変ってしまった。  ある範囲までは、この異常発達的な再開発は南部の文化の一部、つまり遅れている証拠の一つ、 その敗北と貧困と敵意の一部だったとも言える。 この急速な開発は、時間的損失を取り返すための、 また、南部の都市の値打を示して、近代的大都市の仲間に入れて貰うための機会を作ることだったのである。  しかし、南部人たちは彼等の歴史を捨て去ることは出来なかった。 彼等は北部を真似て追い付こうという努力を止め、 もっと良いことを始めたのだ。 この折り返し点は1960年代中頃に始まり、1980年代まで続いた。  都市のリーダーたちが、彼等の都市の中の今まで無視されてきた文化遺産を用いて金儲けをするという方法を見付けるや否や、 すべての人達が史跡保護論者に一変した。 全国的なインターステート高速道路の急速な建設、可処分所得の増大、休暇時間の延長、 平均的引退年齢の低下などに伴い、人々は休暇に出掛けたり、より良い気候の土地に新しい家を建てたりするようになった。  ニューオリンズ、サヴァンナ、チャールストン、そして特に、 ヴァージニア州のウィリアムズバーグなどが旅行者の日程の中にしっかりと組み込まれるようになって来た。

 環境保存は単に旅行者のためだけではなかった。 都市再開発による破壊は、黒人と、 市の公会堂の更新を求めて運動していた保存論者との間に、たちまち連帯を生み出した。  南部諸都市がその勢力範囲を広げようと飽く無き欲求を示していたことがこの傾向に拍車を掛けた。  市町村併合は南部では ( 他地域とは違い ) 比較的容易な操作であり、 地方自治体は郊外に逃げて行く人口や経済基盤を懸命に追いかける事になった。  例えば1945年には、ヒューストン市は73平方マイル ( 189平方キロメートル ) と手頃な大きさだったのに、 30年後には556平方マイル ( 1440平方キロメートル ) と膨れ上がり、 その上さらに将来併合可能な土地を2000平方マイル(5180平方キロメートル)も持つに至っていた。  実際、もしこれらの壮観な郊外併合が無かったなら、南部の都市は1970年代に人口を減らしていたことだろう。  ジョージャ州は併合の為の立法が南部の中では最も難しかったので、アトランタ市では人口と雇用が周辺の郊外に流出してしまった。  1975年と85年の間に、アトランタ地区の新しい勤め口の80%が市の領域の外側で出来たのだ。

 しかし、領域の拡大には費用がかかった。 広範囲の地域に各種のサービス施設を備えて行く必要性とそのための出費の為、 古い都心部でのサービス施設とその維持に支障を来した。 これらの地域の住民団体は都市再開発反対論者と連帯し、 1970年代の南部に、強力な政治団体を結成した。 加えて、1965年の投票権法の制定は、黒人投票者に、 その地域の白人たちと同様の登録と投票参加を強く促した。 この結果、各地で政治的革命が起ったが、 それは第二次大戦直後の政治上の変化よりも更に広範囲なものであった。  この新しい保存主義者と少数民族 *142 との連帯----この二つのグループのメンバーは重複していることが多かった----は、 ニューオリンズ、アトランタ、シャ−ロット、ヒューストン、リッチモンドなどで地方自治体選挙に勝った。  時を同じくして、連邦政府もその都市再開発政策の間違いの再検討に乗り出し、1974年には地域開発法が出来て、 都市中心部に資金を送り始め、歴史的な建物は破壊せずに保存するようになった。

 これは、南部諸都市が自身について骨董趣味に陥ったと言う事でもなく、また、 古臭い朽ち果てて行くものを大事にしようと努めたというのでもない。 保護保存と言うのは、元来、創造的な態度であり、 過去が自分のために大切である地域においては、過去との大切な絆であった。  誰でも同意すると思うが、リッチモンド市のファン地区とか、シャーロット市のマイアース公園とかのような優雅で古い地域は、 厳然として裕福な人達の為のものであった。  しかし、シャーロットのディルワース地区とかアトランタのアンスリ公園などは、確かに中産階級のものだった。  そして、チャールストン市では、市長のジョウ・ライリー ( Joe Riley ) が、 あの有名なチャールストンのシングルハウス式の建て方 ( 第四章2節参照 ) を、公営住宅の原型として採用した。

 市の中心部では、合い言葉は 「 人間的なスケール 」 であった*143。 多くの都市が今、その元来の中心部に戻って来、 それ以前の時期 ( 通常19世紀末期 ) に栄えた建設活動による破壊を再建しつつある。  この良い例はリッチモンド市のショッコウ・スリップ地区*144 やサヴァンナ市のフロントストリートなどである。  店は今や 「 ブティック 」 などと呼ばれるし ( そのため、同格の店より25%も高い値段をつけるが )、また、 歴史的なものの再建は、事実に即するというよりも風変わりになされることも多いが、それでも、南部の市の中心部で、 歴史を大切にする事が大切な施策となったと言う点がミソである。  この新しく化粧直しされた古い都市の中心部に、居住施設も作ろうと、真剣な努力が払われた。  そのような住居地域の多くは、第二次大戦後の積極的な時代には、無視され取り払われたのだった。  シャーロット市の第四区では、かつての街の中心部の中所得層の居住地域に、ゴミの散らかった草ぼうぼうの空き地が続き、 ところどころに荒れ果てた建物が点在するという有様だった。  1976年に、事業家デニス・ラッシュ ( Dennis Rash ) とNCNB*145 の先見性により作られた生活共同体開発法人が、 市および連邦政府の協力を得て、既存の建物を補修し、不足分は市の他地域から移築すると言う事を行った。 思慮深く、 建築的には昔の建物そっくりの住居を、新しい材料で建てると言うやり方で、彼等は19世紀末の市街地を再現し、 これが1980年代初期には、いわゆるヤッピーたち *146 のお気に入りの場所となった。

 ヤッピーたちだけが復興計画の恩恵に浴したわけではない。 サヴァンナ市の元気を取り戻した中心部の直ぐ南に、 ヴィクトリアン地区と呼ばれる45ブロックほどの地域がある。 1870年から1890年にかけて建てられた、特徴のある、 木材で外装された風変わりなスタイルの家が一杯並んでいる。 かつては流行の先端を行く地区だったが、 1970年代の初期までにすっかり荒廃してしまっていた。 家々は再分割され貸家になっていた。  だが、この市の旧市街再建熱が、この地区にまで遂に及んだのである。 ここの住民は主に貧乏な黒人の年寄りであり、 この区域を急に襲った投機マニアの手を逃れることなど出来なかった。  1977年に投資銀行家レオポルド・アドラー2世 ( Leopold Adler II )*147 は、地域のリーダー達、銀行家、建築家、 保護保存の専門家などを結集して、営利を目的としない開発法人を作った。  サヴァンナ歴史的家屋改修プロジェクトである。 その目的は、この地域にある800の風変わりな家のおよそ3分の1を、 その低所得の住民を追い出すことなく手入れして、綺麗にすることであった。  最初は連邦政府の助成金で、その後はこの歴史的建物の税法上の特典を利用しようと望む私的企業家連合体から資金を得て、 このプロジェクトは1984年にその目的を達成した。
               
郊外的都市

 市の中心部に小売業のセンターや市場や住宅を置くことに関心が深まるにつれ、周辺地区の開発にも興味ある対照的な動きが出てきた。  1970年代までに南部の郊外諸都市は、巨大な地下のプレートのように同時成長し始めていた。  地理学者達はこのような仕方で無秩序な成長をする市街集合体を集合都市と呼んだ。  ニョロニョロと市の外境を越えて出て行く人口移動を心に浮かべるなら、それが正確な描写であろう。  これと比較し得るが異なった人口移動の仕方は、ボストンやワシントン特別区に見られる。  回廊地帯すなわち 「 メガロポリス 」 ( 巨大都市 )*148 である。  ノースカロライナ州ラリーからサウスカロライナ州グリンヴィルに至るI−85号インターステート高速道路の250マイルに及ぶ廊下に沿った多くの都市は、 ゆっくりと同時成長して巨大な集合都市連鎖を形成しつつある。  この連鎖は、遂にはこのインターステート道路の北端にあるリッチモンド市とその南端に在るアトランタ市とを結ぶに至るであろう。  このインターステート道路は ( かつての南部鉄道にように ) 都市間の重要な交通上の結合剤となっており、 このピドモント集合都市連鎖の中の幾つかの都市は、空港を共有するだけでなく、市と市の境界さえもはっきりしなくなって来ている。  メキシコ湾沿いにも別の新しい集合都市連鎖が現れつつある。 それは、フロリダ州ペンサコラから伸び、 ニューオリンズに至るもので、連邦政府の諸施設や、成長しつつある港湾施設、 並びに急速に発達してきた旅行者用および退職者用のコミュニティなどから成っている。

 南部の景観に沿って芽吹いてきたこの新しい型の都市人口の移動は、北部的な都市成長のモデルに慣れた都市住民を困惑させた。  地理学者ブライアン・J・L・ベリー ( Brian J.L.Berry ) はこの様子を 「 都市なき都市化 」 と呼んだ。  南部地域協議会 *149 の Pat Watters は、南部には 「 本当の都市などない 」 と言い、 アトランタですら 「 郡の中心が成長し過ぎたものに過ぎない 」 と言った。  しかし、南部諸都市が伝統的な様相に沿わない都市化を辿ったとしても、 それは米国の都市化における新時代の先触れと言えるものだった。 言い換えると、これらの低・中人口密度の新型都市は、 変種の都市と言うよりは、新しい米国型都市の先駆者であると言えるのだ。  すなわち、より多く自動車に依存し、人口と経済基盤とが1ケ所に集中しておらず、田舎やレクリエーション施設が近くに在り、 背の低い住宅や商業建物が主流を占めている都市である。 それは、従来の都市化がもたらした古い様相に比べると、より個人的であり、 ゴミゴミとしておらず、ユッタリとした生活である。 すなわちこれぞ南部である。

 しかしこの新しい都市形態といえども、古くからの都市に付き物の諸問題から逃がれる事は出来なかった。  自動車に頼らざるを得ないためにグリッドロック*150 が起る。  町の中心はもはや教会や公会堂やコートハウス *151 ではなくハイウエイである。  テキサス州のアーリントンは、ダラスとフォートワースの中間にある町だが、住民のポール・ギーセル ( Paul Geisel ) によると、 「町なんか探しても無いよ。 ハイウエイが3本有るだけだ」となる。  この町の中心地とは、ガソリンスタンドとファーストフードの大きな店と自動車販売店とが乱立している場所だ。  市民的意識など存在しない。 地域の選挙の投票率は有権者の10%くらいである。  1950年代に建てられた 「 旧市街 」 は草ぼうぼうであり、交通渋滞のため、衰退一途の商業地域へも行きづらい。  1世代の間に、アーリントンは無から出発し成長したが何にもなれかったのである。*152

 もっと古くもっとしっかりした南部の都市にも、北部のかつての約束の地 *153 から流れてきた人々にとって、 北部でお馴染みだったのと同様の頭痛の種が存在する。 列挙すると、 周辺町村併合くらいでは追い付かないほど遠くに人口や経済基盤が遠ざかってしまったこと。  アトランタ、マイアミ、ダラスなどでの犯罪率が、北部の犯罪だらけと想像されている大都市のそれに匹敵して来たこと。  都市が広がるにつれ ( 都心部の ) 失業者の住む場所と、( 通常は周辺部にある ) 彼等の低い技能水準を利用できる仕事が在る場所とが、 遠く離れてしまったこと。 開発に伴う環境関係の出費が、 特に汚されやすい海岸地域に広がり続けるリゾート地帯で高くついて来たこと。  一旦は屈服した中西部、北東部の諸都市が活気づき、今や投資の金をめぐって争う事が出来るまでになってきたことなどなどである。  ヒューストン市はどういう事が起き得るかについての好例である。 一日中続く車のラッシュアワー、酷使された水道管の頻繁な破裂、 商店や一部の金持が自前で私設警官を雇う必要が有るほど伸び切ってしまった警察力、緩やかな地盤沈下を起す地下水の汲み揚げ過ぎ、 洪水の可能性の増大、そして、1983年の11月には聖書にあるような審判が下っていなごの大群の襲来、などなどである。  多分、過去が未来に追い付いてきたのであろう。
            
田舎風国際都市
*154
 しかし、悪夢のようなこのヒューストン型のシナリオが、南部都市域の将来を予告するものであるとは思えない。  南部の諸都市は、恵まれた時代にも苦しい時代にも、地域文化の主要な陳列室となって来た。  第二次大戦後、田舎の地方や小さな町などで人口が減り経済が衰えたのにつれて、南部の将来は都市の双肩に懸かって来た。  しかし南部の都会人達は、新しい文化の方向を設定するのではなく、故意の共犯者として、通常は新来者と手を組んで、 その古い文化を保存し洗練してきたのであった。 教会でのバーベキュー、地域のお祭り、邸宅巡りツアー、 公園で開くコンサートや手工芸品の市などは、今日の南部の都市の文化と娯楽の中で最も良く見られる具体例である。  これらの催しは、小さな町の伝統をそのまま残そうという願望の現れである。  ( 人口1万以下の ) 小さい町は、実際、今日、南部の都市型集落として最も良く特色の残った場所である。  それは南部文化の原形と言える。

 都市計画者たちは 「 小さいことは美しいことだ 」 というお説教を続けている。  北部の都市は1970年代にこの考えをたまたま持つに至った。 それは、それ以外に道がなかったからである。  南部の都市もこの考えを取り入れた。 それは、それが彼等の文化だったからである。  南部の都市域では、物事はゆっくりした足取りで進む傾向があり、丁寧な行儀や作法は別に過去の遺物という訳ではない。  南部の都市では、その土地固有の音楽が聴ける。 ジャズ、ブルーグラス、カンツリーミュージック、リズムアンドブルースなどである。  また、その土地独特の料理を食べられる。 リブを食べにメンフィスのランデヴ ( Rendezvous ) に、 オクラのフライとピーカンパイを食べにシャーロットのガス ( Gus's ) に ( これら両レストランはレッキとしたギリシャ人の所有である )、 或いは、 フライドチキンを食べにモントゴメリのイーライトカフェ ( Elite Cafe はこのように発音される ) に行けば、 又、さらには、ニューオリンズの殆どのレストランでメニュにある何でも良いから食べてみれば、きっと南部の味がする。

 南部の都市域は森の中で始まったが、けたたましい混乱の高まりの中で時々道に迷いながらも、 ある意味ではその森から出ることはなかった。 今日の南部の都市が、どんどん、コスモポリタンになりつつあるとiう事実は、 別にその南部文化をロボトミーで切除したからだ *155 とiう積極的証拠ではない。  南部の詩人でかつ文芸評論家であるアレン・テート ( Allen Tate ) は次のように述べている。  「 田舎根性 *156 とは、人々が過去の起源と現在への連続性とを喪失してしまい、 あたかも昨日というものが存在しなかったかのように毎日を始める・・・精神状態の事である 」。  典型的 "good ol'boy" *157 と言うのは、今や南部人の代表ではない。  典型的南部型の人と言うのは、ポール・ヘンフィル ( Paul Hemphill ) が記しているように、 「 今や都市から出て郊外に行ってしまい、どれも同じような造りの家に住み、Kマートで買い物をし、 グレン・キャンベルの音楽に耳を傾け ( ロイ・アカフ ( Roy Acuff ) やアーネスト・タブ ( Ernest Tubb ) *157A は今では良い趣味とは言えぬ )、 人種差別の思いを暗号的な単語で隠して仲間内で話す連中だ。 彼等は彼等のスタイルや精力を喪失してしまい、 自分の茶の間*157B をカラーテレビや発泡ポリスチロール製の梁で精一杯飾り立てて暮らしている 」

 このテートとヘンフィルによる洞察を、ジョン・シェルトン・リードの研究が支持している。  彼は、南部のコスモポリタンは、地域的特徴を消し去ると言うよりは、むしろそれを強める役をしているという事を見出した。  とくに、南部風の生活が 「 上等な暮らし 」*158 についての我々の変わりつつある考えと一致するようになって来たので、そうなって来たのだ。  南部は未だに新鮮で興味ふかい。 それは昔の無頓着な開拓者的な物の考え方を持っているからでは必ずしもない。 もっとも、そういう考えもほんの僅かは残っており、それが、 南部地域が最近進歩したことを自賛する新たな気風と結び付いている事は認められる。  と言うより、他の殆どの地域では今や滅びかかっている伝統をまだ堅持しているが、 しかしその文化を現代の世界のより良い文明を造り出す為に用いているというこの社会が、 南部に活気をもたらしていると言ったほうが良い。 そして、そのような実験を達成するための最前線が南部の大都市である。  その完成は、一部は 「 新しい南部 」 に住もうとして他の地域や他の国からやって来た人々の貢献と理解にかかっている。
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訳者注

*141 この節の題のルーツは、先祖、つまり旧き良き南部とその文化遺産のこと
*142 ここでは黒人
*143 馬鹿でかい建物など、もう止めようと言う事
*144 同市の歴史的に重要な地域
*145 当時のノースカロライナ・ナショナル銀行。 現在はその後の数度の合併でネイションズバンクを経て Wachovia First Union 銀行
*146 ヤッピーズ ( Yuppies ) とは当時流行った言葉で、Young Upwardly Mobile Professionals つまり、 若く、上昇志向のある管理層、専門職の人達の総称。  なお、現在(1992頃)は、ホワイトカラーが不景気に追われて収入の少ない職場へと変わって行くので Dumpies すなわち、 Downwardly Mobile Professionals という言葉が流行っている
*147 父が子に同じ名前をつけると、区別するために子は名前の後に ,Jr. ( ジュニア ) がつく。  その子が、更に子(孫)に同じ名前をつけると、その子には、,III( 3世 ) が付く。  詳しい事に興味のある方はここを参照
148 米国東北部大西洋岸のワシントン−バルチモア−フィラデルフィア−ニューヨークと北上し、 さらにはボストンに至る諸都市は、ひと続きの都市そのものである東京−川崎−横浜のような状況とは違い、 各都市間に広大な森などが挟まっているが、それでもひと続きの都市と考えることもできる。  列車による各都市間の移動も便利であり、米国では特殊なメガロポリス地帯と言える
*149 特に南部の都市域の問題を研究し宣伝する民間団体
*150 これは対応する日本語がないと思う。交差点で青になり進むと渋滞で渡り切らぬ内に赤になる。交差点の真ん中で止ってしまい、 横からの車の進行を妨げる。 これをグリッドロックと言う
*151 立法、司法、行政の役所が入っている建物
*152 二つの大都市に挟まれ、ハイウエイ沿いの商売しか成り立たない。 住民はハイウエイ沿いの商売にしがみつくか、 落ちぶれるかのどちらかである。こういう地区は珍しくない
*153 旧約聖書創世記12章にあるカナンの地の事。 転じて希望の地、未来の幸福の意
  *154 country cosmopolites と言うこの節の題は、この章の副題の一部でもある。 cosmopolitan が人に対して用いられるのに対し、 cosmopolites とは都市に対して用いられている形である。 田舎風国際都市と訳した。 前節の題は The Suburban City、 この節の題は Country Cosmopolites である。 この著者は郊外的都会、田舎風国際都市と言う風に、 相矛盾する感じの二つの単語を結んで題にするのが好きなようである
*155 cosmopolitan とは優雅で知的な国際人。 田舎者が何時の間にか高尚になったのは、 ロボトミー(脳の働きを変えるために頭葉を外科手術する事)的にその旧い文化を強引に取り去ったからではない。  南部固有の文化をまだしっかり残したままコスモポリタンになったのだという事
*156 Provincialismとは古臭く野暮な田舎風の意
*157 「 グッドルボーイ 」 ( "good ol'boy" ) を具体的に説明すると、南部のブルーカラーで、いつも野球帽をかぶり、 乗るのはピックアップトラック、銃を所有し狩猟・釣りを好む。 モービルハウスに住む人も多い。  靴は革の長靴。 黒人蔑視の考えを持ち、過去にはKKKなどに入っていたが今はおとなしく暮らす白人、というイメージ。  スーパーマーケットチェーンのKマートがお気に入りである
*157A ロイ・アカフとアーネスト・タブは共に1950年代の有名なカンツリーウエスタンプレーヤーの草分けで、 今ではヤボとされる。 これに対しグレン・キャンベルは1970年代に活躍し、 フルオーケストラで演奏する次の世代のカンツリーウエスタンである
*157B den をここで茶の間と訳しておいたが living room ( 居間 ) が客も通すのに対し、den は家族・身内しか通さない私室。  発泡ポリスチロール製の梁とは、この連中が金もないのに den を立派に見せようと、 天井にマホガニー色に塗ったプラスチックの梁を張り付ける悪趣味を皮肉った表現。  なお、一つ前の節の 「 レッキとしたギリシャ人 」 というのは good ol' Greek をそう訳してみたものだが、 こんな表現は米国人にも初めてだそうで、前述の good ol' boy をもじった表現と思う
*158 ここで言う括弧つきの 「 上等な暮らし 」 ( "good life" ) とは、寝室が3−4つあり、 綺麗な庭があり、プールも有るというような家に住める生活を指す。 しかし、この中身も時代と共に変わりつつある。  最近はBMWに乗ることも条件の一つにに入って来たとか・・・

 

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