南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第五章  淑女と南部女と働く婦人と公民権  ( 上 )


* ジュリア・カ−ク・ブラックウェルダー ( Julia Kirk Blackwelder ) *


***
 1964年以来、私は非南部人として南部に住んでいる。  この年、私はニューヨーク州北部の生れ故郷を後にしてジョージャ州アトランタに引っ越した。  間もなく21才になる頃だった。 ペンシルヴェニア大学を卒業したばかりの私は、ある南部の男性と結婚したばかりであった。  1960年代の南部には、公民権運動の熱風が吹き荒れていた。  南部の白人達は 「 思い上がった黒ん坊ども 」*159 の侮辱的行為に騒然としていた。  私のアトランタにおける最初の年、公民権運動の運動家たちは、この都市の公共宿泊施設における差別*85 を撤廃する闘争を進めていた。  アトランタの百合のように真っ白なノースサイド地区に住む中産階級の白人たちが、 ダウンタウン*122 のレブス ( Leb's ) と言うデリカテッセン*160 では、白人客に混じった黒人たちが、ディナーの食卓に小便を垂れたと噂していた。  ハーツフィールド国際空港では、食事を出す店のマネジャたちが、空港内のレストランで黒人達に食事をさせても、 白人による人種隔離の慣行が損なわれないようにと、店内にベルリンの壁を作っていた。

 1965年3月、アラバマ州でヴィオラ・リウッツォ ( Viola Liuzzo ) が撃たれたとき、私の隣に住む婦人が、 新聞には載らなかったリウッツォの 「 真相 」*161 を話してくれた。 全国紙は、 セルマからモントゴメリへの行進 *162 を援助しようと物品を船で運んでいたという、 このミシガン州から来た中年の白人主婦の無残な死を報じていた。 所が、私の隣人の弟はアラバマで保安官代理をしていて、 リウッツォが撃たれたとき公民権行進の警備に当っていたと言う。  彼から聞いたところによると、リウッツォは黒人のボーイフレンドと関係が有ったし、 腕にも脚にも皮下注射の跡が一杯あったと言うのだ。

 南部では、人種差別と性差別とは、藤のツルのようにからまりあっていて、 南部黒人の権利が女性の権利と無関係に拡張されるなどという事はあり得なかった。  サウスカロライナ州のプランテーション所有者の妻のファニー・ケンブル・ナイト ( Fanny Kemble Knight ) が書いた19世紀の日記によると、 奴隷制度のもとにある黒人男女への圧制は白人女性をも傷つけるものであった。  今日でも、南部で、女性を蔑視する黒人や黒人を蔑視する白人女性は、結局、自分自身を蔑視していることになるのである。  ブラックパワー運動華やかなりし頃、 ストークリー・カーマイケル ( Stokely Carmichael ) が、運動の中で女性はどんな地位を占めているかと聞かれたとき、 女にとってたった一つの良い姿勢は 「 仰向けに寝た姿勢 」 だよと答えた*163と伝えられている。  ストークリー・カーマイケルは思慮深い公民権運動の唱導者でもなかったし、南部人でもなかった。

 1960年代の雰囲気としては 「 リベラルな 」 アイヴィー・リーグ*163 の大学に通っていた北部人の女性は、 南部では当然要注意人物であった。 南部人男性の妻としての私の生活の初めの頃、私は用心深い局外者のように振舞うように努めたし、 また明らかに私はそういう立場の人間であった。 災いのもとは私の舌だった。  止めようとしても、口の中で踊り回って 「 リベラルな白人 」 的な言葉がつい口をついて出るのだ。 それが若さゆえの独善だったのか、 時代の要請だったのかは分からないが、とにかく、1960年代の南部で暮らすというのは、私にとってしんどい事であった。

 私も、私の住みかとなった南部も、1960年代から見ると随分変った。しかし、心の在りようの一部は変っていない。  私が今教えている黒人・白人の大学生たちは、ヴィオラ・リウッツォの名もストークリー・カーマイケルの名も聞いた事がない。  人種差別もまったく経験していない。 黒人たちも白人女性も、かつて彼等を拒んでいた職業で今や白人男性と渡り合い、 しばしば成功している。

 1970年代になると、都市部再開発プロジェクトが、旧き南部、すなわち黒人たちの堀建て小屋、 荒れ果てた白人の紡績村*116 などの南部の生きた証拠を殆ど破壊してしまった。 ブルドーザーがこれらの殆どを崩して平らにし、 その跡に高速道路や公営住宅を作った。 しかし、多くの南部の都市の周辺部には、1950年代の南部の名残がまだ残っている。  旧いミルハウス *165 とか粗末な貸家とかが今にも倒れそうに建っている。 19世紀末か20世紀始めに出来たものばかりである。

 今日、主な南部の都会を訪れた人は、身なりのキチンとした清潔な装いの黒人や白人の職業婦人、主婦を、オフィスで、路上で、 また郊外のショッピングセンターで、沢山見掛ける。 これが1980年代、90年代の南部の淑女たちである。  しかし、彼女らの殆どは自分の力でそうなったのである。 「 南部の淑女 ( Southern Ladies ) 」 だとか、 「 南部の女 ( Southern Belles ) 」 だとか、南北戦争前の感覚で自称出来る女性はもう先ず存在しない。  彼女らの先祖はそう言えた。 母や祖母も淑女らしい所が有ったかもしれない。  平均的中産階級の南部人は、黒人も白人も、小さな農場とか紡績村とか言ったみすぼらしい環境から脱してまだ1世代か2世代しか経っていないのである。  南部にとって、経済的繁栄とは新しい概念なのだ。

 "Belle" と "Lady" とは、南部の女性的振舞いの二つの伝統的な模範である。  両者とも、厳格な家長支配の社会と「 洗練された振舞い 」 が出来るだけの物質的豊かさとを前提にしている。  南部では家長制度は長い歴史を持っているが、物質的豊かさの方は極く最近まで殆どの家庭が享受出来なかった。  そこで、女性の振舞いの理想像と、殆どの婦人の生活の現実との間には、常に葛藤が在った。  女らしさ ( femininity ) とは対照的な意味の女権拡張運動 ( feminism ) のようなものは、南部社会の規範の中には存在しなかった。  もちろん、何人もの南部婦人たちがこういった南部的社会規範に反抗はしたが。

 女性の振舞いの好ましいイメージは、多分南北戦争の時代にまで遡れる。  しかし、実際には、マーガレット・ミッチェルの風と共に去りぬや、南軍婦人会連合*166 や、 ファンダメンタリスト派のキリスト教*21 などを含む19世紀末から20世紀初頭にかけての文化が生まれた時代に端を発している。  南北戦争前の時代には、女らしい振舞いの理想像は南部と北部でそうは違わなかった。  1820年代、30年代の宗教復興の時代には婦人の使命は主婦業と母親業とされた。  理想の母とは、忍耐とキリスト教的美徳の模範であり、彼女の躾の能力により子供達の道徳的正しさが保証されるとされた。  それにも拘らず、婦人は肉体的にも知的にも男性より劣ると信じられ、したがって、男性によって正しく導かれるべきものとされた。  厳しい授業や高等教育を受けること、また、商売や政治に継続的に携わる事は、婦人を精神的肉体的に蝕むと考えられていた。  肉体的活動を絶えずしていると、健康な子供を生む能力が損なわれるとも考えられていた。

 南部と北部とでは婦人の役割に昔から違いがあったが、19世紀になると、性別の理想像の地域差はさらに拡がった。  北部では、キャサリン・ビーチャー ( Catharine Beecher ) や彼女の妹で、 もっと有名なハリエット・ビーチャー・ストウ ( Harriet Beecher Stowe ) のような教育者、 作家たちが、厳しい肉体的訓練や高等教育などは、妻として母としての婦人の役割を弱めるどころか強くするのだと説き始めた。  セヴンシスターズ大学の創立者たちは、教育を受けた婦人は余り教育を受けていない婦人よりも、道徳的判断能力が高いと確信していた。  北部の大学を前世紀の末から今世紀初頭に卒業した第一世代の婦人の一部は、知的職業に就こうとした。  ジェイン・アダムズ ( Jane Addams ) のような女性たちは、道徳の養成について女らしさを理想として掲げたが、それでも、 婦人の役割を家庭の外にまで拡げようとした。 アダムズらの婦人の中には、政治の世界にさえ入っていった人も、少数ながらいた。  ジェイン・アダムズ自身は、プロテスタントの教育で吹き込まれた道徳的熱情から、自分の仕事に飛び込んでいったのである。  19世紀末の南部で育った少女達も、これと同じ、良い仕事を遂行しようというプロテスタント的な考え*167 を知っていたが、 良い仕事とは何か、という事について婦人が抱く期待とか動機付けとかの範囲が、南部では非常に違っていたのである。

 南北戦争後の南部では、概ね田舎で、圧倒的にプロテスタントで、人種的には差別があって、貧しさが特徴的である、 という南部社会に適合するように、性別の役割が決められていった。 南部の白人男性たちが苦労しながら、 奴隷なしでやって行ける社会を作ろうとし、カーペットバッガーたち *1 から政治と商売とを取り返そうとしていた時、性別は、 米国中の他のどこにも無かったような意味合いと政治的重要性とを帯びたのであった。  プランテーションの淑女たちが、失われた美徳の象徴とされた。 戦争中に彼女らの安全を守ってあげられなかったので、紳士たちは、 征服者達 *168 の暴行から彼女らを守る義務が有った。 シャーマン将軍 *140 は土地を犯したが、 同じ運命に南部の婦人達を遭わせてはならなかった。

 南北戦争の象徴の一つであった南部の淑女達による献納*168A は、南部の婦人達のその後の実生活に多大の影響を与えた*169。  この新しい考え方によれば、女らしさの中で最も大事な点は、道徳的純潔であり、ここから他のすべてが決まって行くのであった。  淑女たる者は洗練されており、激情は押し殺さねばならない。  淑女なら、彼女と結婚すると公けに声明した男以外とは決してキスしてはならない。  性交は楽しみであってはならず、聖なるご褒美として子供が生れ、母となるための、妻としての義務でなくてはならない。  もっと昔の米国のクリスチャンの母たちとは違い、南部の淑女の役割は、こうせねばならぬではなく、こうあらねばならぬであった。  妻の使命は、夫を少しでも楽にしてあげ、社会的地位を上げる助けとなってあげ、より男らしくしてあげることであった。  そして、彼女がこれらの役割を十分果せる人だという事を示せば、求愛する男達が彼女の周囲を取り巻くという次第だった。  美しさ、優雅さ、「 行儀 」*170、服従、お世辞の上手さなどが、少女が結婚するに適しているかどうかを決めるすべてであった。  夢のような素晴らしい少女を獲得しようと望む男も、上手なお世辞に努めたが、服従には努めなかった。  求婚者が物質的な豊かさと社会的地位を多く備えていればいるほど、彼の求婚は未来の花嫁とその家族とから、好意的に迎えられた。

 プロテスタント宗派の宗教の影響で、南部の淑女の道徳的情熱が彼女らを道徳的完璧主義に向かわせた。  貞淑さとは、俗世間の罪から、つまり、俗世間そのものから自分を隔離することで得られると考えられた。  どうにか読み書きできる程度以上の、また、基本的女らしさに必要な以上の教育は危険だと信じられていた。  慈善と、他宗教の信者を改宗させようとする努力とは、南部の福音主義でも北部の福音主義でも基本とされたが、 それぞれの文化に合ったような形で実現された。 クリスチャンの勤めの一つとして、南部の淑女達は孤児、病弱者、 高齢者などを助ける組織を作り、参加した。 教会の婦人は世界中の宣教活動を支援したし、 時には南部の淑女が宣教生活に飛び込むこともあった。 しかし彼女らが主に口にしたのは常に個人の救済であり、 社会的政治的変化ではなかった。

 20世紀初頭、女 ( belle ) のイメージは、女性の役割の模範としての淑女 ( lady ) のイメージと同じくらい一般的になりだした。  風と共に去りぬでマーガレット・ミッチェルは、この両方のタイプと、両者の間に在る緊張感とをドラマに描いた。  女であるスカーレット・オハラは、恋するアッシュリー・ウィルクスを、真の南部淑女であるメラニー・ハミルトンに奪われてしまう。  スカーレットの嫉妬は、殆どメラニーを殺し兼ねないほどだったが、 それ程の羨望にもかかわらず、スカーレットはメラニーの美点を賞賛せずにはいられない。  南部淑女として、メラニーは、誰にでも礼儀正しいが、彼女と社会的に同等か上の男に対してのみ従う。  常に愛情深く、決して気落ちした所を見せず、常に慈善の心を持っており、決して人に復讐したりしない。  何をするにも穏やかだが、家族を守るためなら人を殺すほど強い。 メラニー・ウィルクスはしばしば試練に遭うが、 貴族的高潔さに欠ける時など決してない事が示される。 北部のヤンキー達は、 メラニーの権利を上流階級の特権だとして破棄出来るかも知れぬが、彼等と言えども、 彼女の上流階級的性格までを奪い去ることはできない。  理想の南部婦人は、彼女の周囲のすべての人の賞賛と献身的な愛を一身に集めるが、あくまで謙虚で気取らないのである。

 ミッチェルの描いたメラニー・ウィルクスは典型的な淑女 ( lady ) であったが、スカーレット・オハラは最高の女 ( belle ) だった。  相当な魅力と、優雅さと美しさを備えた若い婦人として、彼女は意のままに他の人々を動かす事に興味を覚えて行く。  実は賢い人なのだが、男達にその鋭い知性を悟られるようなことは決してしない。  女は、成熟して行くにつれて人を動かそうという気持を捨て去れれば、淑女に昇格できるのだが、 スカーレット・オハラは他人を支配し制御しようという欲望を克服できない。  小説の最後で、彼女は蓄えた富には守られるが、愛と尊敬は失ってしまう。

 スカーレット・オハラとメラニー・ウィルクスは、  マーク・トゥエインの小説に出てくるカルヴェラス郡の有名なよく跳ぶ蛙 *171 と同程度に、歴史的根拠に欠けている。  それは、マーガレット・ミッチェルの描いた婦人が持つ魅力である。 彼等は南部によくあるマユツバ話に出てくる、 現実の人より遥かに優れた登場人物なのである。 風と共に去りぬ ( この本自身にまつわる神話によれば、 聖書に次いで沢山売れたと言う ) の計り知れぬ大衆的人気は、理想化された南部の婦人の持つ不朽の魅力を示すものである。  この女と淑女とについての神話は、南部の土壌の上に生まれ、成長したものに過ぎなかったのに、 米国はおろか世界中の国々に広がった読者たちのロマンチックな本能が、この神話を今に至るまで生き続けさせてしまったのであった。

 文学作品に描かれた作り話の中の南北戦争前の南部では、白人の男性とそれを取り巻く他のすべての人達との間の、 荒々しい家長支配的な関係が、この地方の経済的政治的な文化の中で支配的な力となっている。  ウィリアム・フォークナー、ロバート・ペン・ワレン ( Robert Penn Warren ) *172、その他の南部の文豪たちの著作は、 奴隷制度の荒々しい遺産と騎士道的な性差別 *173 が、20世紀の南部の人々の世界を今なお毒しているという考えを述べている。  これらの作品の殆どはフィクションであるが、多くの20世紀の南部の人々の心に潜む考え*174 を正確に描いている。  人種問題が直接的主題でないこれらの文学作品においてさえ、 過去のプランテーションから勝手に好きなところだけ選び取って作った、観念にとらわれた生活をしている白人女性の登場人物に、 われわれは良く出会う。 テネシー・ウィリアムズの戯曲 欲望と言う名の電車 の中でのブランシュ・デュボア ( Blanche DuBois ) の挫折は、 彼女が、自分の経済的環境、ホモの男との結婚、自分の性的な癖などを、 彼女がなりたくて仕方なかったあのプランテーションの妻のイメージと調和させることが出来なかった結果である。  20世紀の南部の真面目なフィクションの多くは、 この種の南部の歴史の神話に忠実であろうと努める際の高価な代償を強調して描いたのだった。

 小説の中のブランシュ・デュボアとは違って、 20世紀の南部の婦人たちは、プランテーションに住む淑女になろうと望むことなど滅多になかった。  豊かな南部プランテーションの数は、南部人たちがそんな生活に憧れるほど沢山は無かったのである。  にも拘らず、プランテーションの持つイメージと、南北戦争の起因を思い出させる荒れ果てたプランテーションハウスと言う具体例が、 南部に育った少女達に、実際に影響を与えて来たことは確かである。  プランテーションの女主人になりたいなどと思う少女は殆ど無かったにせよ、そのような特権階級的南部淑女という概念は、 彼女らが自分を計る時の尺度であり続けたのだった。 もちろん、そのような比較をした場合、自分に欠けるものが無いなどと思うのは、 最も自信家で、最も沈着な少女に限られるだろうが。

 旧き南部についての現代の南部人が持つ観念の中心に在るのは、20世紀南部文学の核心と同じく、 家長男性支配と人種差別関係とである。 プランテーション経済が造り上げた世界は、白人の男が、白人の女、黒人の男、 黒人の女の三者を統治するというものだった。 黒人の男は黒人の女を統治するわけではなかった。  この状況下では、黒人の男が白人の女に友達のように挨拶したら性的な攻撃と取られ兼ねないが、白人の男が黒人の女を強姦しても、 それは気晴らしだと考えることも許された。

 旧き南部では性別の役割分担は狭く制限されていたが、実際の行動面での期待となると、すべての婦人が同じというわけではなかった。  黒人の婦人と白人の婦人との間には、義務や期待される行動に大きな違いが有ったが、 それは奴隷制度という事実を考えれば分かり切ったことであった。 しかし、同時に、黒人の婦人同士の間にも相当な違いが存在した。  これは、ご主人さまや監督が与えてくださる仕事や、その奴隷の信仰の深さや、能力・技能の個人差やなどを反映したものであった。  自由を得た黒人の婦人は普通、奴隷の黒人婦人よりずいぶん違った生活をする期待を持ち得たし、 実際持っていた。 南北戦争前の南部の白人の婦人の中ではどうだったかというと、社会的な役割や制限は、 階級と宗教とで殆ど決まっていた。 プランテーションの女主人だった白人の婦人など極く少数だったが、だからこそ、 南部の淑女を特徴付けるとされた想像上のうわべの上品さを窮屈に思っていた婦人など、実際には殆どいなかったのである。

 1970年代の初め、歴史家のアン・ファイラー・スコット ( Ann Firor Scott ) 女史は、 南部の淑女についての神話が間違いであることを示した。 南北戦争前の南部でのプランテーションの女主人は、彼女によれば、 行儀は良く、身嗜みも良く、社会的教養もある人達であったろうが、贅沢をしていた人など余りいなかった。  この世の義務から解放され、贅沢な暮らしを楽しめたプランテーションの女主人など、本当に僅かだった。  彼女らの殆どは重い義務を背負っていた。 家庭と一家の召使達を管理し、奴隷たちの身体的世話を監視し、 庭の作物の生産と販売を監督した。 スカーレット・オハラとメラニー・ウィルクスは、1920年代に、 都会に住む一人の女性ジャーナリスト *175 が、 難しい人間関係の中で苦闘しながら慰めと意義とを見いだそうとしていた彼女自身のような婦人が抱くロマンチックな幻想を満たしてくれるものを探していた中で発明した主人公である。  作者マーガレット・ミッチェルが成人したばかりの頃は、彼女の家庭の経済状態は傾いていたし、惨めな結婚だったということもあって、 暗い毎日であった。 彼女は、自身を支えるため、また、家族をみっともない状況から守ろうとして働いた。  それは、スカーレット・オハラの若い頃と驚くほど類似性のある生活だった。

 婦人は家に居るべきだという考えの女性像が依然として存在していたが、20世紀の南部の婦人達は、 他の地方の婦人達よりも、家の外に仕事を見付けようとしていたようである。 南部婦人と非南部婦人との間のこの違いの、 全てではないが幾分かは、米国社会では黒人婦人は伝統的に労働者であったし、 黒人人口は今世紀の殆どの間、南部に集中したままだったという事実で理解できる。  20世紀の初めには、殆どの黒人婦人は農場での労働に従事していたが、1920年までには、家事労働が彼女らの主な仕事となった。  黒人婦人は、女中、洗濯女、家事雑用、訓練されていない看護婦、など以外に非農業の仕事を見付けることなど殆ど出来なかった。  これら家庭内での有給の仕事が、黒人婦人達を村へ町へ市へと誘いだし、その結果、黒人家族のライフスタイルが変化した。  しかし、黒人婦人は、給与水準的には最も低い所に釘付けにされていた。  一人か二人しか働き手を持たない、都市或るいは田舎の平均的な黒人家族は、収入の階段の一番下に位置していた。

 歴史的には、南部婦人の中に見られた違いと言えば、人種による違いだった。 奴隷制度と言う遺産は、 黒人婦人と白人婦人との間の違いの大きさを、歴史上の事実として気付かせてくれるにすぎないが、20世紀に入っての違いとなると、 それは自由な社会における人種差別の結果なのである。 米国における白人と黒人との間の、最も明白で、 記録に残すのが最も易しい相違点と言えば、それは経済的な違いだった。 集団として見ると、米国黒人は、今も白人より貧しいし、 時代によって経済的ギャップは変化したとはいうものの、昔からずっと貧しいままであった。  殆どの黒人婦人が彼女等の成人後の一生のほとんどの期間、そして、しばしば、少女時代においてすら、 賃労働に従事したと言うのは、まさに貧しさ故であった。 働く母親と言うのは、今でこそ米国のすべての人種、 民族集団を通じて現実の生き方であるが、米国黒人にとっては、働く母親と言うのは、歴史的にずっと昔から存在して来たし、 今なお存在する一つの現象なのだ。

 黒人の妻達が白人の妻達よりも、より多く労働に従事してきた理由も、全てとは言わないが、一部は、貧乏のせいである。  例えば1920年代のメキシコ系米人のような特殊の移民集団も大変貧しかったが、 結婚した婦人を働きに出すことは滅多にしなかった。 黒人の母親達を職場に止まらせるように働いた要因の一つに、彼女等が、 別居、離婚、未亡人その他の事情で、世帯主となった割合が大きかったことが挙げられる。  しかし、配偶者がまだ所帯の中にいる黒人の妻達も、他の人種の妻達よりは働くことが多かった。  他の多くの移民集団と異なり、黒人には、妻も雇われるという歴史的伝統があって、 働こうと望む黒人の妻たちは、イタリア人やメキシコ人の妻たちのように、家族や周りの社会からの批判に直面する事が無かったのである。  また、時代と共に、米国黒人は、母親達の就労に適応すべく、彼等の血族の中に強力な保育のネットワークを築き上げていた。

 南部の白人婦人もまた、米国の他のどの地域の白人婦人よりも賃労働に従事したり、 そうでなくても、家計を助けることを何かしたりする人が多かった。 全婦人の中に占める就労人口比が高いということは、 殆どの南部の白人黒人婦人がしてきた経験は、あの南部の淑女と言う神話とは大違いだと言う事を示す明白な証拠である。  農業経済のもとでは、婦人も男も少女も少年も畑に出て、小作人の家庭が作物を作るのを助けたのであった。  黒人の妻も、白人の妻も、綿花やタバコからの収入を補うべく、家族が食べるため、またしばしば、人に売るために、 食べられる作物を育てた。

 人種差別と南部人たちに蔓延していた貧困とが、工場主たちが織物、繊維、タバコなどの工場を第二次大戦前、 南部に開設する誘因となった。 これらの産業はすべて、婦人の労働力に依存するところが大である。  第二次大戦までは、少年少女は16才前に工場で働き始めるのが普通だったし、 今日でもこれらの産業では、18才未満の労働者を見ることができる。  婦人達には、工場の外観は、以前の農場労働よりもずっと家計を支えるのに良い機会のように思えた。  短期的には、母親、息子、娘たちを雇って貰えた家族は、 天候や害虫や不安定な作物相場などにもがき苦しんでいる小作農家よりは、ずっと暮らし向きが楽になった。  しかし、長い目で見ると、工場は、家族全員を労働力に差し出した家族に、 決まりきった低レベルの仕事しかないという宿命的な遺産を残すだけだった。  学校は、子供達をとにかく工場や紡績会社の労働力になるようにと訓練し始めた。  中等教育は紡績会社の在る町では軽視された。 子供達は非常に若い年齢で結婚するように勧められた。  と言うのは、家族ぐるみの労働単位の外に出て独りで食べて行くのは難しかったからだし、労働力の更新は、 その供給が豊富なら容易だったからである。

 低賃金の黒人の家庭内労働者を広範に雇用できたので、1950年代までは、平均的な白人の主婦や、働いている白人の妻は、 少なくとも一人の召使を雇えた。 淑女のライフスタイルの一部----すなわち単調で骨の折れる仕事をしなくて済むこと---- が、大部分の白人婦人の手の届くところにあった。 南部に住む中流階級の妻のほとんどと、労働階級の妻の幾分かさえもが、 召使を使っていたので、白人の主婦にとっての標準は彼女らが暮らせる筈のレベル以上に高かった。  家の中の仕事を助けてもらったお陰で、 中流の妻たちはそういうことでもなかったら手の届かなかっただろうようなレベルの社会水準を保つことができた。 召使の存在は、中流階級の妻たちの為に贅沢気ままな生活を生み出すと言うよりは、家庭の 「 淑女 」 たる者は塵一つ無い家庭を維持し、 優雅に交際を楽しむものだという期待感を肥大させた。 伝説的なサザン・ホスピタリティ ( Southern hospitality )*176 とは、 ある人たち*177 の宿命は他の人達*178 の快適さを増進させるために在るのだという社会システムが在ればこそのものだった。 こういうのが、白人の主婦と彼女を助ける家内労働者たちの勤めであった。

*********************************************

訳者注

*158 この章の原題は Ladies, Belles, Working Women, and Civil Right である。 Lady とは言うまでもなく淑女であり、 時代と共にその内容は変わっているが、Gentleman に対応して ( 特に古い時代ほど ) 一般に身分の高い女性だけを指す ( しかし何故か南部では男子用トイレの表示が MENなのに女子用トイレには WOMEN でなく、LADIES が使われる事が多い )。  Belle は昔はプランテーションを所有する南部の豊かな白人の妻、娘を指した。 その後、これも時代と共に意味するところが変化し、 今は黒人白人を引っ括めて南部の女を指す。 Southern Belle と言う事もある。  働く婦人 Working Women はあの有名な映画の題でもあるように、今は、キャリアウーマンと言った感じの強い、 職を持ち自立した女性を意味する。 この章では ( 原則として ) lady を淑女、woman を婦人、female を女性、belle を女、 girl を少女と訳す事にした。 なお、名前からも分かるように、この章の筆者は女性である
*159 ここでは、Negros ( 黒ん坊 ) の代わりに Negras が使われている。 これは、南部訛を文字にしたと同時に、 南部における黒人に対する偏見をより多く表す単語でもある
*160 デリカテッセンとは、もとのドイツ語の意味はともかく、米国では、調理済みの惣菜。 またそれをを小売りし、 或いはその場で食べることもできる店のこと
*161 括弧付 「 真相 」 はまことしやかな本当かどうか分らぬ話----というより、まことしやかなデマ。  この場合も、実際は白人の秘密結社KKKによる殺害
*162 この行進は第三章の公民権闘争の時代の節を参照。 ミシガンは典型的北部である
*163 position と言う単語には、組織の中の地位と言う意味と、体の姿勢、体位という意味とがある。  この二つを取り違えたのか、多分、わざと引っ掛けて洒落たのだろうが、女性に対する酷い侮辱である。 カーマイケルは1960年代の公民権運動におけるSNCCの最左翼の指導者たちの一人であった
*164 米国の一流大学とされる、歴史の古い Harvard, Yale, Columbia, Princeton, Dartmouth, Cornell, Pennsylvania, Broun の各大学。  煉瓦の外壁に蔦 ( ivy ) がはって、伝統の風格を備えている所からそう呼ばれる
*165 紡績工場従業員のための社宅群
*166 United Daughters of the Confederacy は、南北戦争の際南部各地に作られた、婦人による南軍支援のための婦人会組織。  今でも南部の各都市に残っているが、公民権運動の起きた1960年代以降は、名前を Women's Club などと変えて、 上流婦人の社交団体に変質している。 黒人はまず絶対に入会できない
*167 この漫画は説明を要しないと思うが、念のため申し添えると、米国人には、生まれて初めての給料 ( 普通は現金に換えたあとの小切手 ) を、 額に入れて記念に自室の壁に飾る人がいるということを頭に置いた上で、男性の初任給に対し、女性の初任給はその59%でしかない事と、  男性は管理者にもなれるが、女性は秘書どまりであることの二つを示している。 椅子の質の違いにも注意されたい
*167 良い信者はよく働く人だと言う考え方
*168 北部から南北戦争後やって来た男達
*168A 南部の女性たちは、南北戦争勝利のため、南軍政府に、すべての持ち物と力とを捧げ尽した
*169 南北戦争の際、婦人達も南軍支援のため、自分の宝石や貴金属を献納して戦費を作った。 また、物質的のみならず労力的にも参加した。 だから、敗戦後彼女らははひどく貧しかった
*170 "breeding"を 「 行儀 」 と訳したが、上流の家系からのみ、おのずと生まれる行儀の良さと言う意味で括弧が付いている
*171 この小説では、蛙の跳ぶ距離を競う遊びでは、カルヴェラス郡 ( 実在しない ) 産の蛙が一番跳躍距離が長いとされる。  いずれのケースもフィクションで、事実とは違うと筆者は言いたい
*172 米国の作家、教育者、詩人 ( 1905-1989 )
*173 女性は弱いもの、保護すべき存在と言う考え
*174 女は弱い。 黒人は奴隷に向いている、などの偏見
*175 作者のマーガレット・ミッチェルのこと
*176 南部風の、来訪者に対する暖かいもてなし
*177 黒人婦人
*178 白人婦人


ご感想、ご意見、ご質問などがあれば までご連絡下さい。