南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第四章  田舎の文化の中で起った都市化 郊外的都会と田舎風国際都市 ( 中 )


* デイヴィド・R・ゴールドフィールド (David R. Goldfield) *


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田舎と都会の混った景観−その再建と再構築*118

 繊維産業は南部の都市部の階級構造にもう一つ新しい階層を加えることになった。 紡績の町では 「 リントヘッド 」*117 と、黒人と、 他のすべての人という風に、三つに分けた夫々の買い物の日を設けたところもあった。 新興の都市中産階級は自分の新しさを自覚しており、 支配階級のエリートたちと同格に認めてもらおうと望んでいたので、紡績工場の支配者には殊更にへりくだった態度を取った。  児童の労働禁止令、義務教育、禁酒運動、病院などの保健施設、地方自治体の改革などは、 皆この都市部中産階級が自分のために作った業績であり、これが南部を今世紀の初頭、進歩的な風潮の主流に置いたのであった。  しかし、これらの業績はまた、作家でも農場主でもあった、 ウィリアム・アリグザンダー・パーシー ( William Alexander Percy ) が、一段低級なアングロサクソンと呼んだ連中を、 もっと衛生的にしてやり、彼等の文化を変えてやろうというつもりの仕事であったことも事実である。*119

 これらの新興のピドモント都市群に住む都市中産階級の勃興は、長い目で見れば、少なくとも繊維産業の成長と同じくらい、 重要な事であった。 この階級の人達の改革への努力は、人種的階級的偏見に満ち満ちていたとは言え、 彼等は、19世紀末から20世紀始めにかけての一連の印象深い仕事を成し遂げたのである。  この改革の幾つかの領域では、婦人たちが特に先頭に立った。 ヴィクトリア朝的な南部 *120 、 旧き南部では婦人に許される活動範囲は比較的狭かった。  しかし、教会 ( とくにメソジスト派 ) の組織を軸に、 婦人たちのグループは教育改善と都市美化運動に関し、議員への効果的な働き掛けを行った。  そのような方面に力を注いだ彼女らの言い分は、学校や都市は家庭の延長であると考えるのがごく自然であるという点にあった。  つまり、良い家庭環境が優れた人格を形成するのに大きい影響力を持つのと同様に、 設備の整った学校と清潔なきちんと計画された都市は、より大きな社会的な規模で、優れた人格を形勢するであろうと考えたのである。  だから、彼女らは、公園、銅像、舗装道路、広い大通り、近隣の庭園の手入れなど、そして遂には包括的都市計画までも推進した。  1912年にデイジー・デンソン ( Daisy Denson ) と、彼女の属するノースカロライナ州ラリー市の婦人クラブは、 市の美化運動の主任スポークスマンにチャールズ・マルフォード・ロビンソン ( Charles Mulford Robinson ) を雇い、 都市計画を作る所まで発展した。

 婦人たちだけが環境改革を熱望する都市居住者であったというわけではなかった。  都市に住む殆どの南部人は、田舎というレンズを通して彼等の都市を認識するという状態が続いた。  北部や中西部の都市とは異なり、南部の都市は自前で成長したのであった。*121   1900年に南部の都市に田舎から旅行で入って来た人は、同じ時期にイリノイ州の南の田舎からシカゴに入って来た人とは、 非常に対照的な環境の違いを目の当たりにしたことだったろう。  20世紀の初期、南部人達は都市の性質と田舎との性質とを、可能な限り同じに保とうと努めていたからである。

 そうしたがった彼等の気持は、彼等都市部の南部人が、郊外の地域共同体を計画し始めた時の、あの素早さからも明らかである。  アトランタ、シャーロット、ナッシュヴィルなどのような都市が南北戦争後成長するにつれ、 彼等の控え目なビジネス分野も成長して来た。 1890年までには、小売施設、オフィスビル、 銀行などがダウンタウン地区*122に出来て、住宅地を周辺部に追いやることになった。  騒音と大気汚染が増し、空き地が無くなることは、都市部の住人の気持をいらいらさせた。  以前は綿花畑や他の農地だった場所に造成された新しい住宅地に引っ越せる人は、そこに移って行った。  シャーロットのエドワード・ディルワース・ラッタ ( Edward Dilworth Latta ) とか、 アトランタのジョエル・ハート ( Joel Hurt ) などの起業家は、 オルムステッド兄弟とかジョン・C・ノレン ( John C.Nolen ) などの全国的に有名だった造園家を雇って、 彼等の郊外の造成地を設計させた。 そればかりか、彼等は、彼等の電車を作って、ダウンタウンへの往復に使ったのだ。

 遅れていると評判の南部都市域のリーダーたちではあったが、彼等は、目先の変わった発明を実用してみる事には熱心であった。  その唯一の理由は、競争相手の他の都市と競争し、やっつけ、外部の発明家たちに 「 進歩的である 」 と見られたいからだった。  技術者であり発明家であったフランク・スプレイグ ( Frank Sprague ) は、 彼の電車の設計を携えてニューヨークを含む北部の都市を幾つも回ったが、援助を拒絶された。 彼の提案は空想的すぎると思われた。  そればかりか、電気が頭上の電線から下の電車に入ってくると乗客が感電するのではないかと恐れる人も少なくなく、 公共の乗り物としては支持を得難いという見通しであった。 スプレイグは、南部ではもっと理解を示してくれる人達に出会った。  ( 多分、南部では命の値段が安かったからなのか、いや、南部都市のリーダーたちの、 人の後押しをするのが好きな性格にとって、この設計が訴えるものが有ったからなのか、) 1888年、ヴァージニア州のリッチモンドが米国で最初に市街電車を備えた市になった。  直ぐに続いて、アラバマ州のモントゴメリにも出来た。  1890年までに、市街電車は郊外開発を容易にする主要な役割を担うようになって来た。  シャーロットのディルワース ( Dilworth ) やマイヤース・パーク ( Myers Park )、 アトランタのドゥルイド・ヒルズ ( Druid Hills ) などのような市街電車で結ばれた郊外の土地は、 上流・中流の家庭に、市街地の雑踏から逃れた広々とした住居を提供してくれる事になった。

 もちろん、都市の居住者の内でも、特に黒人は郊外に逃げ出すことなど出来なかった。 都市が大きくなるにつれ、 人種差別の実態も酷くなっていった。 旧き南部にだって人種隔離は存在したが、それは成文化されてはいなかった。  黒人は殆ど全部が奴隷としてプランテーションに住んでいて、この場合は人種差別は問題とはならなかった。  所が都会では、黒人と白人とが時々混在した。 そこで、体系的な人種差別が、南北戦争後の再編入*84 の時代に出現する。  この時、皮肉なことに黒人たちとその同志の筈の共和党とが、 以前は黒人が享受することを許されなかった分野の都会生活に黒人達も入れるようにと、ある差別を発案したのだった。  すなわち、学校、公共の交通手段、劇場などが黒人に開放されたのだが、勿論、差別的な基準のもとにであった。  このような施設での差別が、内容的にも劣った物であるとはっきりしたとき、黒人達は抗議したが全く役に立たなかった。  1890年代までに、人種差別は南部の多くの都市で習慣となっただけでなく法制化されてしまった。

 南部の都市部の黒人たちは、この時期、薄明期に生活していた*123。  ニューヨークのハーレムやシカゴのサウスサイドに出来つつあったような黒人居住区に較べられるようなものはなかったが、 居住上の人種差別はきつくなっていった。 黒人の都市居住者は一般に低地や建築規制の及ばない都市周辺部に住むのが一般的だった。  外部から訪れた人は、これらの地域を容易に見付けることができた。 通りは普通舗装されていなかったし、ゴミ収集、 上下水配管などは、何と1950年代まで全く無いか、たまに有るという程度であった。  家はと言うと、先ず、田舎のショットガンシャック*124を都会に合わせて建てたと言う代物である。  この名前は、表口のドアを開け鉄砲を撃つと、弾はそのまま裏口のドアから飛び出して行くだろうという所から付けられたものだ。  どの部屋も長く狭い廊下に面し開いていた。 このシャックは、通常木造で、屋根はタールを塗った紙で葺き、 新聞紙を断熱材に用い、窓はたまに付いている程度という代物だった。

 これ以上さらに証拠が必要であると言うなら、都市部の黒人学校に行けば人種差別の不平等さを確認できる。  これらの学校に備え付けの教科書は、中古、再中古だし、教科書など全く無いという学校もあった。  先生は学校教育を8年とちょっと受けた程度だし、いろいろな年齢の子供達が教室や廊下に鮨詰めになっていた。  一教室に百人などということも時々有った。 カリキュラムは職業教育科目に重点を置き、 ひたすらへりくだり 「 善良な市民になること 」 を確実にする為のものであった。  1900年以降の南部都市域とそれに経済的に伴ってきたものは、全体としてはこの地域の進歩を非常に良く表してはいたが、 黒人たちにとっては、かつてプランテーションに始った人種上の関係と同じ性格の差別が、都市でも単に再現されただけのことだった。  旧き南部では、奴隷制度が黒人を劣ったものと烙印を押し、新しい南部では、人種差別制度が同じ役割を果したのであった。
              
不正な利益*125

 南部の都市生活の一部としての黒人は殆ど白人の目に入らなかった。 都市域のリーダーたちは以前同様、 経済成長の真鍮のリング*126を追い求め、北部人を追い越そうと努める事にのみ熱中した。 この目標に向かって彼等は熱中した。  1920年代までに、多くの南部都市がシティ・マネジャー ( city manager ) とかコミッション ( commission ) とかの政治形態を用いて、 その政治体系を能率化してしまった。*127  これは電車と同様、南部で初めてお目見えした新制度であった。  この両システムの背後にある目標は政府をよりビジネスライクにすることで、つまり、 選挙を伴う政治から政府を出来るだけ遠ざけたいということであった。 南部のリーダーたちは歴史的にも民主主義に懐疑的であった。  1890年代のポピュリスト運動*17 により、すべての人に参政権を与えることについての彼等の不安が的中した。  そこで彼等は投票と登録の新しい手続きを巧みに操り、黒人の投票を厳しく遮り、 また貧困白人達が投票箱に近付けないよう制限を行った。  これらの運動に当っては都市部ではシティ・マネジャーや行政コミッションが片棒を担いだ。  州や市のリーダー達は改革を装って彼等の新しい手続きをうまく通してしまったのだ。

 都市域のリーダー達は、ひとたび彼等の政治システムをビジネスライクに整えてしまうや否や、経済発展のための十字軍を出発させた。  この新南部主義は1920年代までほぼ半世紀の間存在したが、内陸部都市に住む、より若くより進歩的な中産階級が優勢になり、 またこれと共に第一次大戦前の国中の繁栄と景気への楽観論が広がると、 ブースタリズム ( boosterism )*128 のお祭騒ぎの幕が切って落とされた。  シンクレア・ルイス ( Sinclair Lewis )*129 の小説に出てくる都ズィーニス ( Zenith ) は、 中西部の何ものにも束縛されぬブースタリズムに譬えられるかも知れない。  しかし南部では無数の市町村共同体がこの小説に出てくる都市と張り合ったのであった。  20年代には、北部や外国の起業家たちが、非常に土着的な南部の繊維産業を買収し始めた。  都市は大型の建設プロジェクトに乗り出し、史跡地区や歴史的建物を取り壊しては高層建築を建てた。  ジャーナリストのW.J.キャッシュ ( W.J.Cash ) は、「 豚にモーニングコートが必要な程度に 」 南部の都市には高層建築が必要だ、 と皮肉にからかった。 またトーマス・ウォルフ ( Thomas Wolfe ) は彼の故郷ノースカロライナ州のアッシュヴィルについて、 「 悲惨な浪費と野蛮な破壊の精神とが一帯に漲っていた。  町で一番綺麗な場所が勘定も出来ないほどの値段でもぎ取られて行った 」 と嘆いている。  これは多くの南部の都市にとって、忘却の川*130を渡る長い旅の始まりであった。  この無軌道な馬鹿騒ぎの建設がこの地方の持つ劣等感、地域の貧困、依存性などを、 何とか払拭してくれるとでも思っていたのであろうか。  田舎の文化遺産は脇に追いやられた。 ニューオリンズやチャールストンのような都市が破壊を免れたのは、全くの話、 不精と俗物根性のお陰であった。

 この当時、南部をファンダメンタリスト*21 の信仰復興運動が席巻し、 この地方一帯の都市部、農村部の人々の心を捕えた事は驚くに当たらない。  貧しい田舎の人達が町に出てきて罪を沢山犯し、是非これをキリストに贖って頂きたいと心の準備ができていた。  伝道師たちは、彼等の魂のために祈ってあげ、彼等の献金を求めた。 伝道師たちは帰依した政治家を説得して、 聖なる安息日を守るべく多くの厳格な法律を南部の諸都市で成立させるのに成功した*214,*215 。

 遂に、神の審判が下った。 もっとも、それはニューヨークから来たのだ。 大恐慌である。  経済の発展は、新しい予言者のもとでも、昔の予言者のもとでと似たりよったりのものだと判明した。  南部の諸都市は以前から税金が安く公共サービスも悪いという伝統があり、大量の失業者を扱うには設備が貧弱過ぎた。  農業の破綻に因る都市部への流入の結果として、都市部では上下水道のような公共設備には無理が来ていた。  バーミングハム市では金を集めようとの必死の努力から市の公園が競売にかけられた。  ニューオリンズ市やアトランタ市では金を節約しようと市の職員やサービスを大幅にカットした。  南部の諸都市では歴史的に貧民を救うのに個人や教会関係の慈善に頼ってきたのだが、  恐慌の期間中の失業者の規模はあまりに多かったので、これらの源資は消し飛んでしまった。
                
連邦政府による救済

 幸いにも、南部の諸都市や南部一帯にとって、ニューディール政策*131は、市民や町の公共施設*132の救いの神であった。  1933年から1939年にかけ、連邦緊急失業対策機関 ( FERA )、公共施設建設機関 ( PWA )、 および土木事業推進機関 ( WPA ) の三つの連邦機関が南部に約20億ドルを送り、その大部分はこの地域の諸都市で使われた。  この寄付金のお陰で失業はある程度緩和され、都市部の町並みの景観と公共施設とが変貌した。  下水道、公園、新築或いは改装された市庁舎、病院、橋、運動場などである。 これらは、 かつての南部の好況時代においてさえ南部の都市が備えようとしなかった種類の施設であったのに、 今や連邦政府の慈悲心により、南部の都市部の景観の中に次々に現れたのだ。 北部の諸都市は何十年も前に自腹でこれらを作り、 そのための借金を今も払い続けているというのに、連邦政府は南部の都市のこれら資本財に金を出したのである。  南部の都市が殆ど無料で手にしたこの近代化は、その後の数十年に大変な経済的有利さをもたらした。  このサンベルト*133に対する第一回目の資本投下は1930年代に始まった。

 次の資本投下は第二次大戦中に起った。  この時連邦政府は70億ドルと言う途方もない大金を軍事産業との契約と軍事施設設置の形で南部に送った。  ある歴史家は、第二次大戦が南部に与えたインパクトは、少なくとも南北戦争のそれに匹敵するとさえ言っている。  この説を支持する証拠は沢山ある。 特に、南部の都市の工業に与えられた連邦政府の援助は、 南部の都市部の経済にポンプの呼び水のような効果を与えた。  政府はヒューストンの石油化学産業の場合のように新しい工業の設立を刺激する援助を行ったり、 バーミングハムの鋼鉄製品に対する差別的運賃のような植民地時代からの制限を取り払ってやったりもした。  南部の諸都市での軍事費の支出が、エレクトロニクスの研究施設や生産工場、科学装置会社、航空機器工場などの誕生を促した。  連邦政府の戦時中の援助で、直接間接大いに利益を得たと思われるこれらの会社で働こうと、今日、南部に沢山の新住民が移って来る。  ハイテク産業の成長は、歴史的に低技術で低賃金の労働市場という重荷を負ってきたこの地域に、好ましいインパクトを与えた。  1940年から1960年にかけて、高賃金の産業分野は、全国平均92%に対し、南部では180%も増加した。  1960年には、この地方の低賃金産業従事者は全製造業従事者5人中2人を占めるに過ぎなくなった。
            
光るものすべて *134

 南部の都市は連邦政府のドルと楽観主義とをなみなみと注がれて、戦争の中から頭角を現して来た。  南部は一般的に自信と繁栄感を感じていた。 そして、いつもの事ながら、都市はその地域に手掛かりを求めるのだった。*136   南部の都市に最初に起った大きな変化は、地方政治の変貌である。 ほとんどの都市では、多年にわたり、 堅い絆で結ばれた企業家たちが政治を動かしてきた。 彼等は自分たちの内輪で、昼食を食べながら、或いはゴルフ場で、 市の仕事を非公式に取り仕切ってきた。 彼等の私事の延長線上に彼等の公的生活があったのである。  しかし、都市が新たな経済的機会を捕えようとするなら、また、伝統的農業経済の崩壊に伴う急激な人口増大に対処しようと思うなら、 もっと組織的な政治システムが必要であった。 若い人達−−弁護士、不動産開発業者、銀行家−−などが年寄りの指導層に対し、 その閉鎖的な権力の輪を広げ、創造的な政治を始めるよう圧力を掛け始めた。  例えばヒューストンでは、少数の指導的企業家がレイマーホテルの8F号室で定期的に会合を開き、 社交を楽しみつつ政策を編み出していた。 戦後、市が急速に大きくなるにつれ、 このようなタイプの排他性は非効率でまだるこしい事がはっきりしてきた。  1950年代半ばまでに、新しい指導的ビジネスマンたちが表に現れ、 彼等の一人ルイス・カーター ( Lewis Curter ) を立てて 「 8F号室の旦那衆 」 の候補者 オスカー・ホルコム ( Oscar Holcombe ) と選挙を争った。  Curter は、戦後の南部都市政治のもう一つの新勢力であった黒人票の助けも借りて当選を果した。

 排他性の無い政治システムが出来れば、次にはもっと広範囲な経済基盤が欲しいという声が出てくる。  産業を誘致しようという動きが組織的になる。 都市や都会型の郡では、常設の機関を設置し、 見込みのありそうな企業顧客を求めて誘致運動を行い、パンフレットを用意し、通常はそれぞれ自分の地域を宣伝した。  これらは目新しい戦術とは言えないが新しい宣伝技法の下に企画された。  税金の減免とか、低賃金で組合組織のない労働力とかも、南部ではまだ強力な切り札となっていたが、さらに、質の高い生活とか、 公共サービスの水準や回数とか、学校の水準なども、誘致運動の有力な要素となった。  こう言った事から、公共サービス施設に対しても、そのための財源に対しても、 伝統的に消極的であった都市部の地方自治体の態度に変化が必要となった。  実際、公共サービス施設の整備がビジネス地域や高所得層用住宅地に限られたとか、 税金の増加 ( 特に売上税 ) が貧困層に非常に重荷になったとか言う事はあったにせよ、ある程度はそういう変化が起ったのである。  何も変化が起きなかった点と言えば、南部という舞台における成長に、北部人から押し付けられた標準を相変わらず用いたという事だった。  そして他人に親切にする南部の風土にあっては、これらの標準は誇張され続けた。 劣等感も残っていた。

 1950−60年代の連邦政府の都市部再開発計画が、南部都市域の人達の巨大プロジェクト好きに火を点けることになった。  他人の目を気にするタイプの南部都市域のリーダーたちにとって、キラキラ輝く街の中心部は、進歩と繁栄の証しと映った。  彼等はその様な改造に要する社会的費用を殆ど考えなかった。 以前にそんな事は考えたこともなかったのだし、 黒人であれ白人であれ、貧乏人は、政治の選挙民としては歴史的に弱い存在であった。  都心部の特に黒人の多く住む地域は次々とレッキングボール*137で取り壊された。 貧乏人に新しい家を作る代わりに、 新しい高層オフィスビルやホテルや会議場が出現した。 アトランタはこの潮流の中で典型的な先駆者であり、 ホテルとショッピングセンターとレストランとから成る、ピーチツリーセンターの名で知られる巨大なビル集合体を建設した。  この中心に在るのがハイアットリージェンシーホテルで、その21階には回転式のバーが載っている。  ハイアットは、この市のホテル建設に 「 これ以上のものが作れますか? 」 式の競争の波を誘発した。  新しい室内競技施設のある場所の上にに建てられたオムニホテルは、 そのロビーに1/2 エーカー ( 約2,000 平方メートル ) もあるスケートリンクを設けた。  ピーチツリープラザホテルは街の中心部の優雅さに対する最も代表的な記念碑として姿を現した。  その70階建てのガラスと鋼鉄で出来たサイロ ( ホテルとしては世界一背が高い ) は、 街の中心部に直立したピサの斜塔とも言える姿で立っているが、本物の斜塔の十分の一の魅力もない。  1/2 エーカーもある干潟がアトリウム*138のようなロビーを占めているが、勿論、回転式のバーも備えており、 旅行者や会議参加者を街の遥か上空で幸せそうに回している。 それはあたかも、巨大な冗談のつもりだったのが、 つい本当になってしまったかのようでさえある。

 これは反対に面白くない事実なのだが、この時代の南部諸都市では、役人は、 このようなプロジェクトの為に立退きをさせられた住民5人あたり、たった1軒しか代わりの家を建てなかった。  全国的な比率は3対1なのにである。 街の中心部は良くなった。  だが、だれの為に? ピドモント地域のエメラルド市*139を立ち退かされ、 首都圏の外の小都市に避難せざるを得なかったある若いアトランタ人が、 ジャーナリストのマーシャル・フレイディ ( Marshall Frady ) に向って、つい口を滑らせて次のように言った。  「 畜生、みんなは風と共に去りぬなんて口にしてるが、あれほど砲煙や砲声が轟いたというのに、シャーマン*140も南北戦争も、 所詮はつかの間の幻想に過ぎなかった。 所が、今度は、誰もそれに気付きさえしない間に ( 破壊が ) 実際に起ってる。  南部は、過ぎ行く夏の陽光のように静かに消えつつあるんだ。 今度こそ永久に消えちまうんだ 」 と。
 
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訳者注

*118 旧き良き景観が乱開発により破壊されたことの過ちに気付き、古い景観を再現・再建しようとした事を指す
*119 白人は紡績工場所有者層のエリート、都市の新興中産階級、そして教育も財産も無い貧困白人 ( プア・ホワイト )、 つまり上記の低級なアングロサクソンの3種に分類されていた
*120 当時の英国はヴィクトリア朝で、南部人はその雰囲気に憧れ家具、室内装飾などでこのスタイルを取り入れようと努めた
*121 他地域の都市は外国など遠い他所からの移住者で成長したのに対し、 南部の都市は近隣の田舎に住んでいた南部人自身の流入で成長したという意味
*122 ダウンタウンは米語では市の中心部繁華街のこと。 東京などの 「 下町 」 とは、指す内容が全く違う
*123 日の出前、日没直後の薄暗がりのような、単純に形容できない曖昧な状況にあったという事
*124 この廊下の両端に表口と裏口が付いており、廊下の両側に部屋が並んでいる構造。 シャックとは掘立て小屋のこと
*125 この題は、近代化、開発と言う利益の名のもとに、都市に住む弱者が被害を受け、旧き良き文化遺産が破壊されたことを指す
*126 博覧会や遊園地のメリーゴーラウンドの上のほうに置いてあるこのリングを馬に乗った姿勢で掴み取るとご褒美が貰える
*127 少人数の代表委員会 ( commission ) が立案・決定をし、 1人の行政の責任者 ( city manager ) がそれを執行するという、簡素な立法行政機構。 南部諸都市ではこれが通例。
*128 ブースタリズムとは 「 それ行けやれ行け 」 といった調子のバブル的な強気の推進ムードを言う
*129 シンクレア・ルイスは米国人として初めてノーベル賞を受けた小説家 ( 1885-1951 )
*130 ジョン・バンヤン ( John Bunyan ) の著作 「 天路歴程 」 ( Pilgrim's Progress ) に出てくる川
*131 1930年代の大恐慌時代にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が行った経済回復と社会保障推進の新規蒔き直し政策
*132 サーヴィス ( services ) とは、病院、電気・上下水道、道路などを広く指す
*133 サウス ( 南部 ) より更に広く、フロリダ、アーカンソ、オクラホマなども含む地域を、サンベルト地帯というと言う人もいるし、 更にテキサス、ニューメキシコ、アリゾナから南カリフォルニアまでを含むと言う人もいる。 本書では前者を採ると話が通る
*134 All that glitters と言うこの節の題は All is not gold that glitters. つまり、 光るものは必ずしも金ではない ( 物事は見掛けだけでは分からない ) という意味の格言から来ている
*136 この場合の地方は南部の田舎。 南部の都市は南部の田舎をモデルにして成長してきた事は既述の通り
*137 建物を取り壊すときに大きい鋼球を振り子のようにぶつけるやり方
*138 吹き抜け構造の中庭。 ローマ建築の中庭から由来。
*139 ここではアトランタの事。The wizard of Oz ( オズの魔法使 ) という映画化された小説に出てくる、 オズと言う地方にある都市の名
*140 シャーマンは北軍の将軍。 1864年、シャーマンの率いる軍隊はアトランタ一帯を襲い南軍に大被害を与えた。 南北戦争の破壊にも拘らず旧き良き南部は残ったのに、 この都市開発では知らぬ間にどんどんそれが消えていってしまっているという無念さ


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