東海道五十三次を歩き終りました

最後の5つの宿場を歩ききって、京の三条大橋に到着しました。



まる3年かけてやっと歩き終ったのに、なぜか虚脱感と言うか、この世の 「 無常 」 を感じてしまいました。



目次

坂下宿→土山宿  土山宿→水口宿  水口宿→石部宿  石部宿→草津宿
草津宿→大津宿  大津宿→京の三条大橋

これ以前の区間について:
 日本橋から箱根三枚橋まではこのページに戻ってご覧下さい。  箱根三枚橋から府中宿まではこのページに戻ってご覧下さい。
府中宿から袋井宿まではこのページに戻ってご覧下さい。  袋井宿から二川宿まではこのページに戻ってご覧下さい。
二川宿から宮宿まではこのページに戻ってご覧下さい。   桑名宿から坂下宿まではこのページに戻ってご覧下さい。

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第36日
2009年12月3日(木曜) 坂下宿→土山宿 単独行 天候:終日小雨

 新幹線とJR関西本線と乗り継いで、またまたやってきました三重県亀山市。 タクシーで前回終着点の坂下宿跡の入口に着き、ゴアテックスのレインウェア上下に身支度を整えたのは11:40でした。 1週間も前からインターネットのピンポイント天気予報を見ては一喜一憂していましたが、結局今朝になって 「 朝曇り、昼前後小雨、午後また曇り 」 という予報でした。 そこで雨支度もしっかり整えてきたわけですが、現地に着いた時は不吉な予感が当って小雨。 右の鈴鹿馬子唄の文句とは正反対の状況にとなる事を祈って出発 ! 

 坂下の宿場跡にはもう過去の宿場の姿はほとんど残っていません。 街道沿いの茶畑の一角などに松屋本陣跡碑、大竹屋本陣跡碑、梅屋本陣跡碑、小竹屋脇本陣跡碑などと本陣跡を示す石碑が淋しく建っているだけです。*1  しばらく進むと右側にある法安寺の山門は松屋本陣の門を取り壊すに忍びず移築したものだそうですが、この宿場跡の観光の目玉はこれだけとも言える、たいそう立派な造りです。 以前は阪之下といったこの宿場は、鈴鹿越えの旅人達でにぎわった本陣が3つ、脇本陣が1つ、それに旅籠が48もあった、とても大きくて賑やかな宿場町だったそうですが、現在はまばらな民家と見渡す限りの茶畑の小さな静かな山村です。 まさに 「 有為転変 」 の見本のような現在の姿です。


豪奢な松屋本陣の門だけが法安寺の山門になってひっそりと現存


大名行列の賑わいも今は昔

 やがて岩屋十一面観音菩薩碑があり、道が国道1号線に密着する辺りで紛らわしいルートも幾つか現れますが直進し、108里目の坂下一里塚があった所 ( 現在は痕跡も残っていません ) を過ぎてさらに進むと片山神社跡に達します。 この辺りから国道1号線とはお別れし、うす暗い山道の旧道は分かりにくい経路 ( 八丁二十七曲がり ) でさらに上へと進んで次第に急坂となり、伊勢 ( 三重 ) と近江 ( 滋賀 ) の境、鈴鹿峠に向います。 道標は完備しています。

 

 峠の手前の木製の表示板に田村神社跡10m、鏡岩150mとあります。 江戸時代には、ここに坂上田村麿呂を祀った田村神社がありました。 また、前回鈴鹿馬子唄会館で聞いたビデオ解説の伝説によると、山賊の女首領が鏡のように磨いた岩の前で化粧をしながら、そこに登ってくる旅人の姿が映ると、手下の者どもに襲撃の指令を出していたということです。 この岩に座り、小雨の中、用意のおにぎりで昼食。

 

こんな岩をいくら磨いても遠くを歩く人の姿が映るわけはありません。 下を見ると登ってくる旅人が手に取るように見えたのでしょう。
疲れた体で雨にぬれた岩の上から断崖の下をのぞき、撮影するのは怖い事でした。 滑り落ちても誰も通りかかる人はいません。

 というわけで 「 えっ、もう峠の頂上なの 」 と思うほど、呆気なく鈴鹿峠に着いてしまいました。 そこには茶畑もあります。 箱根峠は海抜835mですが、鈴鹿峠は357m、半分もありません。 歩いた時の感覚も同様です。 道の勾配も鈴鹿の方が緩いように感じましたし、時間的にも 前回関宿から坂下宿まで約90分、今回坂下宿から峠まで約50分、合計で140分ほどでした。 坂下宿という名前ですが実際は坂の中腹に在るのだいうことが良くわかりました。

 

左:確かに分水嶺だと分かります。 右:江戸時代、この高さ5.5m、重さ38トンもの巨石を峠まで運びあげるのに、延べどれほどの人手と月日を要した事でしょうか。

 峠を越して滋賀県側に入ると、緩やかな下り坂となり、万人講常夜灯があります。 そのあと、トンネルから現れた1号線沿いに土山の宿場跡に向って歩きます。 今日の区間の問題点は、2つの県をまたぐためか、坂下宿から土山までの間、交通の便が全くないことで、仮に天候がこれ以上悪化したり体調を崩したりしたら大変なことになります ( 雨天のせいもあってか、今日は山道では誰一人会う人はいませんでした )。

 主に1号線沿いに歩くと言っても、所々に短い旧道らしき脇道があります。 インターネットの情報にはそれぞれの脇道を通るべしと主張するものと、通らずに1号線を行きましたというものとがあります。 私はすべて脇道に立ち寄る方を選びました。 しかし山中一里塚跡の先では1カ所、民間会社に私有地化されてしまったのか、通行禁止になっている所がありました。 1号線を轟音を立てて次々に驀進してくる大型トラックに水しぶきをかけられるし、傘は風圧でオチョコになりそうです。

 先ほど触れた、昔鈴鹿峠に在った田村神社は、現在は土山宿の入口付近に移されていました。 境内を通過する古来の旧道には平成17年に海道橋というきれいな橋がかけられ、以前のように1号線に迂回したりせずに済むようになりました。 終りに近い紅葉と小雨の中、神社の雰囲気は大変素晴らしいものでした。 ここからすぐに土山宿跡の街道筋に入ります。


 土山宿も坂下宿と同様、鈴鹿峠越えの前後の旅人にとって重要で便利な宿場で、当時は大変繁盛していたそうです。  この浮世絵の題は 「 春の雨 」

 土山の町には、東海道伝馬館 や本陣跡などもありますが、残念ながら街道沿いには適当な宿泊施設がありません。 土山宿も江戸時代は非常に賑やかで大きな宿場だったらしいと上に述べましたが、坂下宿ほどではないにしても今は静かで小さな街です。 鈴鹿峠を挟むこれら両宿場の状況は、かつての箱根峠の両側の宿場小田原と三島が昔も今も変らず賑やかに栄えているのと比べ、極めて対照的です。 この違いの理由はいろいろ考えられますが、一つには、三島と小田原には国鉄の東海道線が通った事 *2、両者が行楽地の伊豆や箱根の玄関口だった事、何よりも東京に近かった事、などが要因と思われます ( 国道1号線はこれら4つの町いずれにも通っていますから、要因ではないでしょう )。



東海道伝馬館とその展示の一部 左上から順に建物正面、参勤交代の行列(京人形)、広重の浮世絵を盆景で立体的に再現したもの53個、各宿場の名物の食べ物を集めたもの

 土山の宿場の家並みは、関の宿場のそれほどには昔の姿が保存されていません。 古い造りの家があるので立ち止まると、連子格子もほとんどがアルミサッシ製の新品に変えられています。 行きずりの旅人が余計な口をはさむのは失礼だと思いますが、あえて言わせて頂くなら 「 これじゃムードがない 」 と思いました。 伝馬館では親切なご婦人が丁寧に案内して下さいました。 「 ハッ 」 と気づくと典型的な関西のアクセントや語尾。 そうでした。 鈴鹿の 「 関 」 を 「 西 」 に越えればここはもう立派な関西でした。 伝馬館の楽しい展示をゆっくり拝見した後、他にあまり見るものもないので、バスに乗り10km以上先の水口 ( みなくち ) の町 ( これは次の宿場 ) まで行きました。 水口にはビジネスホテルや旅館が幾つもあり、そこに泊ることができるので、今日はそこに一泊します。 土山から水口までは割と頻繁にバスが通じているのです。

 カホルは鈴鹿峠を徒歩で登る事が出来ないので、今日は新幹線で米原まで来て、彦根城などを観光した後、( 東海道線 ) → 草津 ( 草津線 ) → 貴生川 ( 近江鉄道 ) → 水口石橋と1時間以上も電車に揺られて反対側から水口に来て、私と合流する事になっています。 今日の鈴鹿馬子唄は結局、♪坂は降る降る 鈴鹿も雨よ 土山宿でも雨が降る♪ということでした。 雨天の中約10kmの登り下りを3時間半で歩けました。 濡れた体で負け惜しみ: 「 やはり土山は雨でなくちゃ 」

*1: あとで気づいたのですが、本陣の名前は松・竹・梅と三つ揃っているのですね。 うな丼的に言えば松屋が一番格が上な筈ですが、実際はどうも大竹屋が最高だったようです。 東海道一の威容を誇ったと言われ、東海道名所図会を調べたら出ていました。 鈴鹿馬子唄でも♪坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に♪と唄われています。 本陣は幕府の役人、参勤交代の大名、公家などだけが公用の旅で利用する宿舎であるのに対し、脇本陣の多くは通常は一般人も泊れる普通の旅籠として営業していたと言われます。  本陣の大竹屋は無理でも、せめて脇本陣の小竹屋くらいには泊りたいものだという一般平民の願いが良く分かるような気がします。 今ならさしずめ4☆か5☆のホテルといった所でしょう。

*2: 国府津−小田原間に国鉄が通じたのが1920年、丹那トンネルが完成し東京−小田原−熱海−三島−沼津−と今の東海道線の状態になったのが1934年です。

第37日
2009年12月4日(金曜) 土山宿→水口宿 単独行 天候:晴

 昨晩泊った 水口の 魚兵楼 ( うおひょうろう ) という老舗の料理旅館は安政元年 ( 1854 ) の創業です。 ひと月くらい前に来れば松茸づくしの夕食が安く食べられたのに、日程の関係でその時期を逸したのは、食いしん坊の私にとっては残念至極なことでした。 直ぐ近くには枡屋又兵衛という、なんと元禄13年(1700)創業の旅館もごく最近まであったのですが、残念ながら取り壊され、跡地にはモダンな住宅が建っていました。 取り壊し前に一目見たかったと思います。

 今朝は早起きして、水口宿跡の観光をするカホルを宿に残して土山行きのバスをつかまえ、土山の昨日の終着地点の近江土山まで戻ってきました。 水口に向って歩き始めたのは9:20です。 幸い昨日とはうってかわって晴天になりましたし、旧東海道は大型トラックがひしめく国道1号線とは離れている部分が多いので、風は冷たかったけれど、静かな旅を楽しむことができました。 

 土山の宿場を出るあたりでいったん旧東海道は1号線に合流し、少し歩くと一旦右に別れ、すぐに四つ角があります ( ここを※地点と呼ぶ )。 本当の旧街道はここを直進し、土山変電所の脇を通り、その先の渡し場で野洲川の岸に達し、川を舟で渡ったようです。 現在はここには橋がないので、上記※地点で左折して1号線に戻り、これに沿って少し進んだ後、左に別れて新しい屋根つきの歌声橋 ( 歩行者専用 ) で野洲川を渡ります。 さらに500mほど歩くと川の対岸の渡し場から来た本当の旧街道が右から合流してきました。 何か悔しい気分です。 川が浅ければ正しい道を通り靴を脱いで川を歩いて渡ったのに・・・しかしこの川は本当にきれいな自然のままの川岸を残した清流でした。


 ※地点の辺りで旧い宿場町の姿は終りかと思っていましたが、上記の旧街道合流後は、面白いことに、「 ◎◎屋 」 という札を掲げた家々が、古いお堂、神社、石碑などと共に次々に現れ、遂に10kmほど先の水口の宿場の手前あたりまでこれが続いたのでした ( 下にその一部を示します )。 つまり、土山宿と水口宿の間全域に昔の商家や旅籠、民家の跡が点々とひっそり残っていたのでした。 それはこの両宿場はもちろん、その中間地域全体が、江戸時代にはずいぶんと栄え賑やかだった事を示すものであると同時に、この地域が明治以降、近代産業の進出による経済の発展から取り残されてしまった事をも示すものです。



上の一番右のぬしや ( 塗師屋 ) は、現在も営業している事がわかります。 他にも足袋屋、炭屋、瓦屋、茶碗屋、
たばこ屋、魚屋など・・・江戸時代こんな海から遠い土地に魚屋があったなんて信じられません。 川魚でしょうか。

 この地域の旧東海道の道幅は約2間 ( 3.6m ) です。 道の両側には江戸時代からの家並みが続いていたので、明治に入って国道1号線を整備するときに、これらすべてを立ち退かせるわけにもゆかず、そこで1号線を100mほど離れた横 ( の田畑の中 ? ) に並行して敷設したのだと想像します。 お蔭で現在も上述のような古い家並みを見ながら静かに歩く事が出来ました。


 中には藁ぶきや萱ぶきの家もあり、また、脇を見れば1号線の向こうは高圧線も電柱も舗装道路も、何一つ見えない田畑と丘と里山の林だけの景色・・・時代劇の撮影だってできそうです ( 上の写真 )。 昔の大野村の跡には、不思議なことに土山宿と水口宿の中間なのに10以上もの旅籠の跡を示す石碑が道路わきに続いていました。 「 旅籠は宿場にだけ設置が許可され、間宿ですら営業が認められなかった 」 と、どこかで読んだ事があります。 何故ここではこういう事があり得たのか、私にはわかりません。


徳川家は水口を直轄領と定めました。 この絵の題は 「 名物干瓢 」

 一里塚跡は土山町、水口町にそれぞれ3つずつあります。 山中 ( 109 )、土山 ( 110 )、大野市場 ( 111 )、今在家 ( 112 )、林口 ( 113 )、泉 ( 114 )です。 112と114が片側のみ復元されていて、あとの4つは石柱が1本建てられているだけです。

 水口の宿場跡が始まる辺りから近江鉄道の水口石橋駅にかけての1km弱の間、珍しいことに旧東海道は3本の並行した道に分かれます。 往時はこの3本の街道沿いに多くの旅籠が軒を連ねていたそうです ( そのうちの1軒が現在もなお営業していて、そこに泊ったことを、冒頭の部分に書きました。 ただし建物は近年改築しています )。 このうちの真ん中の道だけを正しい道として挙げている資料も多いので、私はその道を歩きました。 10年くらい前の旅日記を読むと、ここがアーケードの商店街になっていたそうですが、今は普通の道です。 水口の宿場跡は、今も刻々と変化し、古い物は次第に姿を消しつつあるように思えました。

 

水口宿場内の街道筋に展示された左は水口曳山の模型のからくり時計、右もからくり時計

 土山も水口も、最近市町村合併で同じ 「 甲賀市 」 の一部となりましたが、共にまあ、旧東海道歩きでもしなければ一生その名も知らずに過ごしてしまっただろうと思うような静かな 町でした。 そうそう、甲賀と言えば、忍者には甲賀者と伊賀者との2つの流派がありましたが、甲賀 ( 滋賀県南部 ) と伊賀 ( 三重県西部 ) は鈴鹿の山を挟み隣接していた事、流派が違うからと言って、協力することはあっても争うことはなかった事などを、今回歩いて初めて知りました。 また、甲賀は 「 こうが 」 ではなく、濁らずに 「 こうか 」 と発音することも初めて知りました。

 水口には秀吉が造らせた古い城の跡と、その後徳川家光のために造られた新しい城の跡と、両方がありました。 カホルは私が歩いている間、大池寺ほかの水口の名所をあちこち見学していたようです。

 約12kmを4時間で歩いて12:30に水口石橋の駅まで到達したので、日本橋から450km近くを歩いたことになり、旧東海道全長の90%を踏破できたことになります。 水口宿は江戸側から数えて50番目で、東海道は五十三次ですから53−50=3で、残す宿場は石部、草津、大津の3つだけ。 大津の次はゴールの京の三条大橋です。 今回は2日で約22km歩きました。 生まれて初めてお目にかかった、 近江鉄道 というローカル私鉄に1時間半も揺られ、米原に出て帰途につきました。

第38日
2010年3月18日(木曜) 水口宿→石部宿 単独行 天候:曇のち雨

 滋賀県は雪が多いという事情もあり、後期高齢者は老体をいたわって寒い1月と2月はお休みしてしまいました。 もちろん、その間も心は旧東海道に飛び続け、何度も何度も地図を眺めたり他の方々の紀行文を読んだりして頭の準備運動をしていました。 脚力を保つために自宅の近くの 「 矢倉沢往還 」 という古道を探索し ながら頻繁に歩いていました。

 そしてようやく弥生3月の声を聞いたので、最後の仕上げの地 「 近江国 」 へと再びやってきました。 新幹線で→米原→草津→貴生川とJRを乗り継ぎ、最後は近江鉄道に乗って着いたのが水口宿の西端に近い水口石橋駅です。 今日の出発点が、恐らく所要時間的には自宅の玄関から一番遠いと思います ( なんと4時間5分! )。 次回はこれより30分以上短くなるはずです。

 さっそく歩き始めたのが11:35。 今日はここから約14km先の51番目の宿場石部 ( いしべ )が目標地点です。 どの資料にも書いてある事ですが、石部はあの堅物の人間の代名詞 「 石部金吉 」 の発祥の地だそうです。 また、京都から約38kmで、京から江戸に向う昔の旅人にとっては、ここが最初の宿泊地だったそうです ( 昔の人は1日に約40km歩きました。 当時の旅人のほとんどは20〜30歳代だったとは言え、なんとまあ健脚な事よ )。

 歩き始めてすぐに、道は右に左にと直角に6回曲がりました。 宿場の両端ではこの曲尺手 ( かねんて )の形が通例だということも、もう覚えました。 113番目の水口林口の一里塚跡、114番目の泉の一里塚跡を過ぎると日本一大きいという横田の渡しの常夜灯があります。


 ここで江戸時代の旅人たちは渡し舟 *1で横田川を渡ったのだそうです。 川辺はなかなか美しく、今はここを渡れない( 明治24年にここに橋が架けられたがそれも今はない ) のが残念です。 そこで、川に沿って無粋な舗装道路の脇を北 ( 下流 ) に歩き続け ( 昭和になって出来た ) 横田橋を歩いて渡ると、正面がJR草津線の三雲駅です。 この少し手前で広大な甲賀市がやっと終り、湖南市に入り、街道は草津線の線路の反対側に出ますが、そこから先も線路に並行し西北に向ってほぼまっすぐに進みます。

 まっすぐと言えば、三雲駅から石部駅まで、約8kmの間、約250m離れて並走している国道1号線とJR草津線とが、共に殆ど完全な一直線で平行に並んでいるのが、地図上でもよく分かります。 これらが明治のはじめに敷設された時、この辺りには 「 丘、民家その他遮る物が何ひとつなかった 」 からでしょう。 旧東海道も草津線から数百m離れた所をほぼ平行に走っていますが、こちらには細かな曲がりが数多くあり、石部の宿場の京側の部分には特有の曲尺手も立派に残っています。


 大沙川と由良谷川 という川が、途中で現れ、いずれも 「 天井川 」 になっています。 川が運河状に道路の上を横切っているのです。 天井川とは川底への土砂の堆積と堤防のかさ上げが 「 いたちごっこ 」 で繰り返されるうちに、河床が周囲の土地より高くなってしまった川の事です ( 写真上左は大沙川 )。 坂を造って橋で川を越えることをあきらめ、川底の下にトンネルを掘り、川をくぐって下を人や車が通過することになりました。 裏手からトンネルの上にあがってみると、ブロックでたたんだ狭い水路のようなものがありましたが、水は流れていませんでした ( 写真上右 左上方は弘法杉 )。


石部宿も間近なあたりの造り酒屋の店先で雨宿りする小学生

 このあたりからポツポツと雨が降ってきて、次第に雨脚が激しくなってきました。 神社やお寺はところどころにあるものの、結構長くて単調な、幅5mほどの住宅街を通るまっすぐな道を、傘をさしてわき目もふらずにただひたすら歩き、15時15分に石部駅に着きました。 後半の区間、115番目の夏見の一里塚跡は現存していませんが、116番目の石部の一里塚跡は残っていました。


 駅で30分ほど待たされたあと、電車に乗って草津駅に行き、近くの小さなホテルに今日は一泊します。 カホルは今日一日、近くの近江八幡の市内の観光で楽しく忙しかったようでした。

 大津市に在住の私の高校時代の旧友のK氏御夫妻が草津まで来て下さり、夕食はご一緒に4人で食べました。 カホルがK氏に会うのは45年ぶり?とかで、楽しい歓談に時の経つのも忘れるほどでした。

*1: 正確には3〜9月の増水期には舟、10〜2月には仮の土橋を作って歩いて渡りました。 この方式はよくあることらしく、私の自宅付近の足柄古道 ( 矢倉沢往還 ) の酒匂川の渡しでも江戸時代には行われていました。

第39日
2010年3月19日(金曜) 石部宿→草津宿 単独行 天候:曇のち晴

 早起きして草津駅前のホテルを出て、JR草津線に乗り8:20ころに石部駅に着きました。 歩き始めるとすぐに道は二手に分かれます。 どちらも正しい旧東海道だというのですから厄介です。 JR草津線沿いにまっすぐ行く古くからある 「 下道 」 は、近くを流れる野州川がよく氾濫するので、江戸時代初期以降、左の小山の裏側を大きく逆 「 コ 」 の字状に遠回りする 「 上道 」 が作られ、以降こちらが本道とされてきたようです。

 現在はもちろん下道も広い舗装道路となり通れますが、石部の金山跡が採石場になっているとかで、砂利トラが多く通るらしく、静かな上道が勧められています。 私はもちろん上道を選びましたが、分岐点に何も標識がない上に、手にした略図が古く、砂利道と書いてあるのが広い舗装道路だったりして、本当にこの道でよいのか心配でした。 何もないちょっと怖い山道で、途中に廃棄物処理場や何かの事業場みたいのがありましたが、誰一人人影は見えません。 工事中とのことで全く車の通らない ( これも怖いもの ) 名神高速の下ををくぐって右折し、やがて人家が見えてきた時はホッとしました。 その先で下道と無事合流しました。

 ここを左折し線路を右に見て更に数km進んだあと、道が左に曲がるとそこは 「 六地蔵の間宿 」 跡です。 街道に面して幾つかの立派なお寺があり、その先の両側に凄く立派な建物が現れました。 これが 「 旧和中散本舗 」 で、昔、近くに滞在中の徳川家康の腹痛を治したことで有名な和中散という薬を製造販売していた 「 ぜさいや本舗 」 という名の薬屋を営んでいた豪商・大角弥右衛門の店舗兼住宅です。 隣接する間宿の本陣の立派な建物も接続しており、かの小堀遠州作の素晴らしい庭園で有名です。 こういう古いものが大好きな私はあらかじめ予約しておいたので、10時から約30分、ここを見学できました。


 丁寧に案内して下さった第24代当主の大角弥右衛門氏は私と同年代のご老人でした。 直径4mくらいある頑丈な木の輪の内側を2人の男が歩くと、輪が1回転するたびに大きな石臼が4回転して薬草を挽いてゆく歯車仕掛けがあり、建物も機械も元禄時代に造られた重要文化財だそうです。 隣接の本陣には由緒ある屏風や襖絵、諸大名に食事を提供した際の茶碗や各大名の金色の紋どころ入りの漆の椀、明治天皇が休息時に使われた藁草履その他が大切に保存展示されていて興味は尽きません。 小さな庭園も借景も含めて噂にたがわぬ美しいものでした。


 見学を終って少し歩くと、最近建てられたらしい117番目の六地蔵一里塚跡があり、その先は、ほぼ真っすぐの道です。 街道筋の家々にはところどころには 「 ◎◎屋 」 という、江戸時代の屋号の木札がかけられています。 古い造りの民家の格子の多くが朱色のベンガラ塗りなのはこの地域の特徴のようです。 資料により 「 正しい道 」 についての情報が少しずつ違っていたりするので ( 完璧に昔の位置のままの道なんて、そう多くはないものだと思いながらも )、細かく検証しながら注意深く進みます。

 手原駅の横を過ぎると道はいったん西から西南に向きを変え、118番目の目川の一塁塚跡も確認できました。 このあたりは旅人の空腹を癒した田楽の発祥の地だそうですし、下の写真にあるような面白い幾つかの旧蹟に出会いました。 やがて新幹線の線路をくぐります。 新幹線が旧東海道のそばを走っていたのは、たしか名古屋の東の端の笠寺あたりだったと思います。 新幹線とはそこで別れて以来の久々の再会です。 やがて草津の町に入ると、道は左斜めに堤防の上に上がり、少し先で水のない広い草津川を渡りました。 ここから草津の町の中心部に入るとやがて道は突きあたり、左が東海道、右が中山道といういわゆる追分に達します。 今回はここで終りです。 予定通り12:15に到着し、待っていたカホルと合流できました。


 左に曲がればすぐに街道沿いに 草津宿本陣跡草津宿街道交流館 があり、旧東海道を歩く者にとってこれらは必見の場所のようですが時間の関係で見学は前者のみにしました。 当時の大福帳その他、興味深い資料が数多く展示されていました。 本陣は原則として公家と大名しか泊れなかったはずなのに、幕末には新撰組の連中が泊っていたりして、彼らの羽振りの良さがうかがえました。 2人で昼食の後、JR草津駅から家路につきました。


 今日も時速約4kmで約12km、昨日と合計で26kmほどを歩きました。 脊柱管狭窄症の痛みも何とかしのぎ切りました。 次回の2日間の歩きで、いよいよこの徒歩の旅も最終回を迎え、草津宿から大津の宿場を抜けてゴールの京都三条大橋に向います。 4月はいろいろ多忙なので、次回はたぶん5月上旬になってしまうことでしょう。 日本橋から歩き始めたのが2007年5月7日でしたから、5月7日 ( 金 ) に着くようにしましょうか・・・

第40日
2010年5月6日(木曜) 草津宿→大津宿 単独行 天候:晴

 いよいよ最後の一泊2日の行程が始まります。 京都駅からJR琵琶湖線 *1 に乗って草津駅まで戻り、駅前のスーパーでおむすび2個と水のボトルを買い、店の前のベンチに坐って早めの腹ごしらえをしました。 脊柱管狭窄症の痛みを和らげるために食後に鎮痛剤も飲んでから見覚えのある通りを歩き、草津川の下をくぐって草津本陣跡に着いたのが11時10分です。  うかつなことに今日初めて気がついたのでしたが、前回最後に渡ったこの草津川は非常に立派な 「 天井川 」 でした。 それはともかく、さっそく大津の宿場を目指して歩き始めます。

 前回見学を省略した草津宿街道交流館では道中合羽、脚絆、三度笠などの当時の旅装束を身につけて写真を撮ることができるそうですが、今回も省略して先に進みました。 もうここから先は、前回まで楽しめた 「 古道 」 とか 「 田園風景 」 とかいう雰囲気は望めず、都市化してしまった平凡な住宅街の街路をひたすら歩くだけです。 一里塚だって、119番目の野路と120番目の大萱には跡を示す碑が建っていますが、明日にかけての最後の4地点 ( 121〜124 ) は現在もはやその痕跡すら残っていません。 江戸の手前で品川、大森あたりの一里塚が3つほど消えてしまっているのと全く同じ状況です。 そのかわり、京の都の長い栄華の歴史を映すかのように、街道筋には古いお寺、神社、石碑などが次々に現れるはずです。

 

  上記の2つの一里塚跡は確認できました。 野路の一里塚跡の方は、旧東海道の一部が公園になってしまっていて、その公園の中に建っています。 両一里塚の間には特筆するほどの旧蹟もありませんでしたが、弁天池と月輪池という2つの池がありました ( 下の写真 )。

 

 今日は陽射しも強く気温も上がって、半袖シャツ1枚でも汗だくでした。 約2時間後、ついに瀬田の唐橋に到着です。 この橋は吉田宿の吉田大橋、岡崎宿の矢作橋 ( これらの宿場を通ったのがついこの間のことのように思い出されます ) と並んで、東海道三大橋の一つとされてきました。 昔から 「 唐橋を制するものは天下を制す 」 と言われ、京の都の喉もとを抑える交通上、軍事上の要衝であり、何度も戦乱に遭ってきました。 広重作の 「 近江八景 」 のひとつ、「 瀬田の夕照 ( せたのせきしょう ) 」 にも描かれている橋です。 また、この橋を渡る道は 「 日本の道百選 」 の一つです。*2


 ここから先では旧東海道の右手に琵琶湖の姿を時々垣間見ることができます。 橋の少し先で街道はいったん北に進路を変え、その後ふたたび西に向います。 石山、膳所 ( ぜぜ ) などという、教科書や百人一首で聞いた事のある地名が次々に現れてきます。 古い民家や神社も次々に姿を見せます。


 「 響忍寺 ( こうにんじ ) 」 ( 写真上左 ) の先で道は複雑に左折、右折を繰り返し石坐 ( いわい ) 神社 ( 写真上右 ) を過ぎるとやがて木曽義仲と松尾芭蕉の墓 ( 写真下左 ) がある 「 義仲寺 ( ぎちゅうじ ) 」 の前に出ます。 これらの社寺はすべて丁寧に見学しておきました。 義仲寺には大変美しい庭もあります ( 写真下右 )。 やがて道は大津の街に入って行きます。


 昔の大津の宿場跡はJRの大津の駅を左に見た少し先で街道が直角に左に曲る 「 札の辻 」 の辺りです。 札とは高札(場)の事です。 ここは真っすぐ進めば北国街道 *3 となる街道の分岐点でもあります。 北国街道に用はないので左折して300mほど歩いた地点で今日は終りにして大津駅裏のホテルへと急ぎました。 幸い脚も痛くならずに済みましたが、旧街道の旅の中で今日はなぜかいちばん疲れました。 参考書には14km余りと書いてありますが、17km位歩いた感じで ( 時間的にも17km相当かかりました。 私の歩速度 ( 4km/時 ) はわりと正確で、今まで、単独行の街道歩きで予定到着時間に遅れた事など一度もありませんでした。 或いは本当にこの区間が17kmもあったのかも知れません ) 這うようにしてホテルに入ると、一日中比叡山や延暦寺を観光していたカホルがロビーでコーヒーを飲んでいました。 入浴し汗を流してから夕食は駅のそばの居酒屋で軽く済ませました。

 

*1: JR東海道本線の在来線の京都・米原間に北陸本線の米原・長浜間を加えた区間を、この地域では琵琶湖線と呼んでいます。 京都・大阪間は京都線と言います。 昔の東海道は京都で終りなので京都・大阪間を東海道本線と呼ぶのに違和感があるからかと思ったら、そうでもないようです。

*2: 旧東海道の道の内、「 日本の道百選 」 に入っているのは、日本橋中央通りと私の大好きな関の宿場の道、それにこの瀬田の唐橋だけだそうです。

*3: 札の辻から琵琶湖の西岸を通り敦賀に至るこの街道は、古くから畿内と北国を結ぶ最短距離の道として利用されてきました ( 現在はJR湖西線がその役を果たしているようです )。 大津市内では下坂本辺りに古い町並みを残しています。 8日にはこのあたりを見物して帰る予定になっています。

第41日
2010年5月7日(金曜) 大津宿→京の三条大橋 単独行 天候:終日雨

 昨日は14km余り、今日は12kmほど歩きます。 そして旧東海道全行程492.1kmを歩ききることになるのです。 以前は、この最後の2日間に電車の踏切やガードを10数回ほど越えて歩いた筈です。 旧東海道沿いはそれほど市街地化してしまっているのです。 その後、京阪電鉄の京津線が地下鉄化したので、後半の大津・京都間はほとんど線路横断がなくなりました。

 朝8時半にホテルを出る予定でしたが早朝から降りだした雨がひどいので様子を見ているうちに11時になってしまい、これ以上待てないので鎮痛剤をのみ、土砂降り状況の中を折りたたみ傘1本で歩きだしました。 昨日の終着点の所でカホルは別れて近くの上栄町駅から京阪電車で京都に向います。 ズブ濡れの中、遮二無二歩いて行くうちに百人一首で覚えた 「 蝉丸 」 神社や 「 逢坂の関 」 跡がありました。 百人一首の中に、この逢坂の関をうたった歌が 「 これやこの・・・ 」、「 名にし負はば・・・ 」、「 夜をこめて・・・ 」 と3首もあるのだと、この時教えられました。

 

 歩くにつれ高速道路やJRの線路が次々に現れます。 国道1号線を走る車は容赦なく水しぶきを私に浴びせて走って行きます。 ここから先はもう写真など撮らずにひたすら歩きました。 ふと気がつくと、滋賀県 ( 近江国 ) が終り、最後の京都府 ( 山城国 ) に入る標識が道ばたにありました ( 写真下左 )。 山科の駅前のコンビニでおむすびを1個買って軒下で立ち食いの昼食です。 気がつくと大きな黒い布製の傘を売っていたので、土砂降り対策にと買い求め、使用中の折りたたみの小さい傘はリュックにしまいました。

 

 もう一度東海道線の線路を越えた所で狭い道に左折します。 余り細い路地なので心配になり、近くの店のおばさんに訊ねて確認しました ( 写真上右 )。 箱根や宇津の谷の山道はともかく、市街地にある旧東海道の中では一番狭い幅の道と思われます。 車1台がやっと通れるほどの道幅です。 標識も無いので、歩いているうちに本当にこの道で良いのかと、また心配になりますが、途中で地図に載っているお寺が現れてきてホッとしました。 最後の急な坂道を登り切った所でようやく広い三条通りに合流します。 この合流点には 「 車石 」 というものがあり、何かと思ったらそれは昔、荷車の車輪の幅にあわせて道路に二列に敷設された凹状の敷石のことでした。 これにより荷車のわだちが泥んこ道にはまって動けなくなる事を防いだようです。

 

 そうそう、三条通りに合流したのでした。 この 「 三条 」 こそ、歩き始めてから3年、一度たりとも念頭から離れた事のない名前でした。 このあたりは両側に高い崖が迫っていて、携帯電話の電波も届かず、カホルと連絡不能です。 トラックが轟音を立て、水しぶきを飛ばす中を下り坂を歩いて、地下鉄の蹴上駅前に14時過ぎに着きました。  カホルは朝、私と別れた後、地下鉄の蹴上駅で降りて金地院や疏水、南禅寺などを観た後、戻ってこの駅前で私を待っていました。 ここから先の最後の1.5kmだけでも、私と一緒に歩こうというわけです。 この駅の付近は私も大学の同期会の旅行で5年ほど前に歩いた事があり、懐かしい景色です。 賑やかで外人観光客も多い三条通りに沿って真っすぐに歩き、14時30分、ついにゴールに到着しました!

 橋を渡り切った所に在る弥次喜多の像の横に2人並んでの記念写真を、見知らぬ通行人の方にお願いして撮っていただき、その後、近くのスターバックスに入ってズブ濡れのシャツを着替え、紙コップのホットコーヒーで祝杯をあげました。

 

 10人ほどの友人たちとお江戸日本橋から歩き始めたのがちょうど3年前の今日でした。 2年目の11月に大井川を越えた所で、それぞれの事情で皆さんリタイアし、私ひとり残されたのが昨年の初頭です。 私はやり始めた事はやり通さないと気が済まないタチなので、母の死があったので5カ月休んだ後、昨年4月末に再開、独りになった気楽さからピッチをあげて以降は毎月2回ほど歩き、ようやく目的地に着いたわけです ( 実質的には日本橋から三条大橋まで2年7カ月、大井川以西の後半分はほぼ1年で歩いた事になります )。 後半は妻のカホルが毎回ごく一部ですが一緒に歩いてくれましたので、それも大きな支えになりました。 なにしろ、あと半月で78歳と言う高齢ですし、最後の半年は脊柱管狭窄症にも悩まされました。 若い方と違い、一日に歩いた距離もせいぜい12kmから16km程度ですので、全部で41日かかりましたが、とにかく無事に初志貫徹出来た事にホッとしています。 それと、必要に迫られて東海道にまつわるいろいろな歴史や地理を勉強しましたし、体験もできました。 これは私の人生にとって大きな収穫でした。 ここにまとめてあります


 インターネットを検索していると、当然ですがほとんどの方は、五十三次を歩き終ったときの 「 歓喜の言葉 」 を述べていらっしゃいます。 中には嬉し涙がにじんだという方もいます。 所が、私はどうしたことか、到着の瞬間も平静でしたし、その日の夕方が近づくにつれて、何か胸にポッカリ穴があいたような空虚な気持ちに襲われました。 「 自分はこの先何をするのか。 何が出来るのか。 自分の短い老い先に何が残っているのだろうか・・・ 」 何故だかわかりませんが、虚脱感と言うか、無常感と言うか、そういうものが長旅が終ったとたんに急に胸いっぱいに広がって来たのです。 これは全く予想もしていない事でした。 とは言え、目標完遂の夜です。 お祝いをしなくてはなりません。 大津の町に戻り、高級なフランス料理の店を見つけて近江牛のコースの夕食・・・ワインを1人でボトル1本空けてしまいました。
 
夜、ベッドに入った時に金谷の宿から日坂の宿へと小夜の中山の峠を越えた際に見た石碑にあった西行法師の歌を、ふと思い出しました。

「 年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさ夜の中山 」

とにもかくにも健康でここまで生きて来られたから、こんな体験もできたのだなと、親や家族、友人たちに感謝の気持ちです。

 ようやく今回で終了です。 ありがとうございました。

ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。