東海道五十三次を歩き続ける(4)

いよいよ三河の国に入り、3分の2踏破も間近かです。



暑い真夏に差しかかりました。体をいたわりながらテクテク一人旅しているうちに秋風が・・・



目次

二川宿→吉田宿→JR小坂井駅 JR小坂井駅→御油宿→赤坂宿
赤坂宿→藤川宿→名鉄美合駅 名鉄美合駅→岡崎宿→名鉄宇頭駅
名鉄宇頭駅→知立宿→名鉄中京競馬場前駅 名鉄中京競馬場前駅→有松間の宿→鳴海宿→宮宿

これ以前の行程について:
 日本橋から箱根三枚橋まではこのページに戻ってご覧下さい。  箱根三枚橋から府中宿まではこのページに戻ってご覧下さい。
府中宿から袋井宿まではこのページに戻ってご覧下さい。  袋井宿から二川宿まではこのページに戻ってご覧下さい。
桑名宿から先はここでご覧下さい。

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第25日
2009年7月19日(日曜) 二川宿→吉田宿→JR小坂井駅 単独行 天候:晴時々うす曇

 6月には3回歩いて、あとまわしになっていた 金谷→日坂→掛川 も埋めました。 三河 ( 愛知県 ) に入り二川にも達しました。 そこ迄は良かったのですが、隔月に診て頂いている医師に、私が旧東海道を歩いている事を知ってか知らずか、「 冠動脈にステントを入れた人は真夏は水をタップリ摂って家で寝てるのがいいね。 34度もある炎天下を歩いたりしたら心筋梗塞や脳梗塞になりますよ 」 などと脅かされてしまいました。 歩くときは日傘をさし、4時間で1リットルくらいスポーツ飲料を飲むようにしていますし、天候も選んで涼しい曇りがちの日に歩くことにしていますから、大丈夫とは思うのですが、考えてみればご尤もな話なので、ちょっぴり考え込んでしまいました。

 さて、三河の国に入ったとなると、その先は、たとえ新幹線をぜいたくに使っても、もう私の家からは日帰りでのウォーキングは無理です。 いよいよ、これからは1泊2日の行程になります。  今日は二川駅から吉田の宿 ( 現在の豊橋市 ) (*1) を抜けてJR飯田線の小坂井駅までの約15km、豊橋市内のホテルに戻り一泊して明日は小坂井駅から御油の宿を通過して赤坂の宿までの約10kmを歩くことにしました。 77歳の体力では、2日目はこの距離が精一杯です。 幸い、旧東海道は名鉄本線にほとんど密着並行して通っていますので、疲れたら予定を変更し御油で止めて帰れば2日目は7kmほどになります。 ただ、天気予報は2日分をよく調べて、梅雨は明けたけれども陽射しは弱くて暑くなく、雨もせいぜい小雨程度という、2日続きの涼しい曇りがちの日を選ばないとなりません。


 というわけで週間天気予報とにらめっこで選ばれたのが7月19日〜20日です。 豊橋まで新幹線で行き、在来線でひと駅戻って二川駅に降り立ちました。 前回6月7日にここまで歩いたのでした。 所が、天気予報はきれいに外れて晴天で陽射しが強く、日傘のお世話でやっと歩けるという状況。 10:35に歩き始めて吉田 (*1) の宿場跡 ( 現在の豊橋市の中心部 ) を目指します。 とくにどうということない緩い登り坂 ( 火打坂 ) を歩いて行くうちに、飯村の一里塚。 さらに歩くと約1時間半後に豊橋市の繁華街、つまり昔の宿場の在った区域に入って行くのですが、ここから旧街道は右に左に何度となく曲がります。 よく下調べしておいたし、標識も整備されているので迷うことはありませんでした。

 なんと言ってもこの街にはいまだに市電が健在なのです ( 豊橋を 「 ちくわと市電の町 」 と名付けた人もいます )。 日本橋を出てからこのかた、市電を見たのはここが初めてでした。 カホルは豊橋で下車した後、この市電に乗って吉田城、美術館、公園などを見て回り、早めにホテルに入って私が15kmほど歩くのを待つことにしています。 昼過ぎに私が市街に入ると、旧東海道沿いに、江戸時代から有名な 「 菜めし田楽 」 を食べさせる店 「 きく宗 」 があったので、ちょうどお昼時だったし、携帯で連絡を取り市内観光中のカホルにも来てもらってここに入り昼食を食べました。 これはなかなかの味でした。

 

 その後も散々曲がり曲がった挙句、豊川に架かっている、その名も 「 豊橋 」 という橋を渡ればそこはもう旧市内ではありません。 江戸時代の東海道は,この豊橋よりも70m下流に架かっていた吉田大橋を通っていたそうです。 ややこしいけれど、現在の吉田大橋は国道1号線で、この豊橋よりも少し上流に架かっています。 豊橋を渡って少し行くと下地の一里塚跡があるはずでしたが、どうしても見つかりませんでした。

 ともあれ、豊橋から先は旧東海道はJR東海道本線と別れてまっすぐに北西に延び、そのすぐ左わきを名鉄本線の線路が、これまたまっすぐに走っています。 昔、よっぽど何にもなかった所に道路や線路を敷設したのでしょうね。 この先、道は明日以降歩く御油、赤坂、藤川の宿場跡へと続きます。 そしてその先の岡崎の宿場跡でふたたび東海道本線と出会うことになるのです。

 今日は無理をせず、豊川放水路、JR飯田線などを越えた先にあるJR飯田線の小坂井という小さな無人駅から電車に乗って豊橋に戻り、2人で駅前のホテルに一泊しました。 夕食は豊橋まで来たからにはやはりウナギです。 なんと今日は土用の丑の日でした。 かつて吉田宿の本陣があった場所にある 「 丸よ 」 という老舗に入り、だいぶ待たされた後に名古屋風のひつまぶしと冷たいビールを頂いて疲れを癒しました。 今日は、何か、歩きに来たのか名物料理を食べに来たのか、わからない感じでした。

 

左が昼食の菜めし田楽  右が夕食のひつまぶし


 *1: 維新のあと、明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩 ( 宇和島藩の支藩 ) に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した。 その命を受け藩主は 「 豊橋、関屋、今橋 」 の3つの名を選んだ。 新政府はその一番目の 「 豊橋 」 を採用して、正式に 「 豊橋藩 」 という藩名とすることを命じた。 その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われている ( Wikipediaより )。  ここから先は私の勝手な想像ですが、同じ7万石の吉田藩でも三河のは幕府譜代の名門、一方、伊予のは外様です。 譜代の藩は維新の際、何かといじめられ不利だったのでしょうか。

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第26日
2009年7月20日(月曜) JR 小坂井駅→御油宿→赤坂宿 単独行 天候:晴時々うす曇

 

左は御油宿、右は赤坂宿 浮世絵には赤阪という字が使われています。 大阪や舞阪がかつて坂の字を嫌い阪の字に変えたのと同じ理由がここにもありそうです。

 翌日はこれまた予報が外れてほとんど快晴。 仕方ないので暑さを避けるべく朝8時前に豊橋のホテルを出て飯田線に乗って小坂井駅まで行き、昨日の続きを歩きだしたのが8:25でした。 それにしても、なぜ今まで東京からずっとほぼ旧東海道沿いに走っていたJR東海道本線が豊橋を過ぎた途端、南の方に離れて海岸沿いの蒲郡方面を走るようになったのでしょうか。 豊橋から御油→赤坂→藤川→岡崎と行く旧東海道沿いの土地は勾配が最大16%ときつく、南の海岸線の蒲郡の方を迂回する方が10%と緩やかだったからだという説があります。

 真偽はともかく、東海道本線が蒲郡方面を走るようになってしまったため、御油、赤坂辺りは明治以降の繁栄から取り残されてしまいました。 それだけに、逆にこの地域には古き良き面影が豊かに遺されています。 一方、名鉄豊川線と名古屋本線が合流する辺りでは、旧東海道がすっかり取り払われてしまい、違う道を迂回せざるを得ない部分なども何か所かありました。

 

 御油の駅の近くに着いたところでカホルが電車で到着。 御油と赤坂の間には美しい松並木の道が残されていますが宿場間の距離はたった2km前後なので、カホルは今日はここだけを歩きます。 53の宿場中最短の隣接距離です。 なぜこんなに近いのか、理由は今のところ調べがついていませんが、両者の間では旅人を自分の方に泊めようと客の奪い合いが激しかったと報告されています。 上左の御油の浮世絵にもその光景が描かれています。


 それにしても、このクロマツの松並木は立派です。 600mにわたり中には樹齢300年以上の正真正銘江戸時代そのままの ( いや当時以上に成長し立派になった ) 樹もある松並木が続いています。 松の大木のおかげで日陰ができていて歩きやすく、助かりましたが、近所の人たちは嵐のときの倒木や落ち葉であまり有難くないと言っていました。 説明を読むと、昭和19年に国の天然記念物に指定され、太平洋戦争末期の 「 松根油 」 を採るための松の全国的伐採をかろうじて免れたので、私たちはこれを今も見ることができるというわけです。

 

昔の人は手すりもないこんな急な階段を毎日登り降りしていたようです。 10段ほど上がると座敷が3つあり、そこに泊ります。

 今日は赤坂までで歩くのをやめ、江戸時代から続き今もなお客を泊める ( 一泊2食で¥10,500とか ) という旅籠 「 大橋屋 」 の内部を見学させて頂いてから近くのうどん屋で軽い昼食を食べ、名電赤坂駅から名鉄に乗って豊橋に戻り、新幹線で家に帰りました。 2日間で合計約25kmしか歩くことができませんでしたが、真夏だし後期高齢者ですから、まあ良しとしましょう。 とにかく、昨日も今日も、猛烈に汗をかきました。 8月は休んで次回は9月下旬、涼風が立ったら赤坂から藤川を通って岡崎に泊り、翌日は知立までという33kmの長丁場 ? に挑戦したいと思います。 今年中に京都への到着は無理そうですが、来春到着を目指してこれからもがんばります。

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第27日
2009年9月27日(日曜) 赤坂宿→藤川宿→名鉄美合駅 単独行 天候:晴

 前回同様、一泊2日の行程です。 8月は暑いし、海外旅行にも行って疲れましたし、涼風の立つ9月下旬まで待ち、涼しそうな曇天の日を狙って今日に決めました・・・が、皮肉にも予報ははずれ、真夏を思わせるような暑さの晴天。 リュックのポケットの中の温度計は正午には36度を示しました。 ポケットの中が密室蒸し焼き状態だとしても、凄い暑さでした。

 前回から2カ月も間があいてしまいましたが、豊橋から名鉄本線に乗りかえ、名電赤坂駅で降りて2カ月前の到着地点赤坂の宿場跡に着いたのが10時35分。 さっそく歩き始めます。

 夏の間 ( 冷房がないので ) 休業していた大橋屋さんも、そろそろ涼しくなったとちょうど営業を始めたところでした。 実は、前回ここを見学した後、前日ここに泊って翌朝早く歩きだそうかと思ったのでしたが、上の写真にあるような急な階段を上がったところに客室があり、一方トイレはこの階段を降りた先 ( 写真上右奥 ) にあるので、夜中に必ず2回はトイレに通う高齢の私としては、( 晩酌の酔いもあるし寝ぼけてもいるでしょうし ) 転げ落ちる危険が大で、宿泊は無理と考えたのでした。

 

これは棒鼻の図という名の浮世絵です。 宿場の出入口を棒鼻と言い、毎年朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ここ東棒鼻に入ってくるところを描いた
ものです。 出迎えの使者が緊張して姿勢を低くしています。 後ろで2匹の犬がじゃれあっていますが、3匹目は行儀よく土下座しているのがご愛嬌です。

 今日は藤川の宿場跡を通り、地図上で測って16kmほど先の名鉄美合 ( みあい ) 駅まで歩きます。 この駅から電車に乗ると2つ先が東岡崎駅で、今日は岡崎市内のニューグランドホテルに泊る予定です。 カホルは名電の特急に乗り続け、直接東岡崎まで行き、岡崎城や八丁味噌の蔵元の見学をしながら私を待つことになっています ( 結果的には持ち切れないほど味噌や関連商品を買い込みました )。

 藤川の宿場跡までは、国道1号線や名鉄本線に沿った別にどうということもない道ですが、油断をすると旧道を外して歩いてしまいそうな所が次々に現れます。 旧道の道筋を細部までしっかり下調べしておいたので、大丈夫でした。 徳川家康が竹千代と呼ばれた幼少のころ、手習いを学んだという 「 法蔵寺 」、そこにある近藤勇の首塚、本宿の一里塚跡、山中八幡宮などを見ながら藤川の宿場跡に入ります。

 

 家康の三河平定の過程で生じた三河一向一揆で、一揆軍に追われた家康が、この山中八幡宮の中にある洞窟に逃げ込みました。 追っ手の一揆方が、家康の隠れているこの洞窟の中を探そうとしたところ、洞窟から数羽の鳩が飛び立ったそうです。 「 人のいるところに鳩がいる筈がない 」 と思い込んだ追っ手はこの場を去ったので、家康は九死に一生を得ました。 ある人が 「 この時鳩が飛ばなければ家康は死んでいた。 すると徳川幕府はなく、参勤交代もないから、旧東海道も整備されない。 江戸、つまり東京も今ほどの大都会にはならず、日本の首都は東京でなく京都のままだっただろう。 われわれが現在旧東海道歩きなどすることもなかっただろう・・・ 」 というような意味のことを書いていましたが、まさにこの数羽の鳩が歴史を変えたとも言えるでしょう。 そのお蔭でしょうか、私は今日ここを歩いてます。

 やがて藤川の宿場跡に入ります。 棒鼻 ( 下左 )、高札場、問屋場、本陣や脇本陣などの跡が残っていますが、新居宿や二川宿などを見た私には、もうひとつ印象が薄い宿場跡でした。 本陣の警護のために築かれた本陣石垣というものが残っていました。 さらに歩くと藤川の一里塚跡がありました ( 申し訳ないけれど、板きれ1枚 ( 下右 )・・・これほど貧相な一里塚跡は初めてです )。 そのあと、しばらくの間松並木が続いた後、目的地付近に着いたので今日は歩くのをやめ、左に入って名鉄の美合駅から電車に乗って東岡崎駅に行き、無事、今日の日程を終りました。


 実は、9月に入ってから、時々、歩いている途中で左脚の外側がしびれたり、軽い痛みを覚えたりするようになり、医師に診てもらったら 「 脊柱管狭窄症 」 と言われました。 この丈夫な肉体も遂に傷み始めたのかと、悲しい思いですが、今日も時々軽い症状が出て、30分に1回、数分間休んでは医師に教えられた体操をして回復を図りました。 今までは4時間くらい、殆ど休まずに歩き続けられたのに・・・ でも、とにかく平均時速4kmで今日も16km歩き続けられたのですから、良しとしましょう。

 夕食はホテルで紹介された市内の 「 一色屋 ( いっしきや ) 」 という日本料理店で懐石料理を頂きましたが、素材、造り、味、量、いずれも申し分なく、しかも東京や横浜でこれだけの物を食べた時の値段の半分ほどなので、夫婦ともどもすっかり感激しました。

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第28日
2009年9月28日(月曜) 名鉄美合駅→岡崎宿→名鉄宇頭駅 単独行 天候:うす曇り

 朝早く起きて東岡崎駅から電車に乗って昨日の終着点の美合駅まで行き、歩き始めたのは8時5分過ぎでした。 ここから岡崎市内に向かう旧東海道もまた、昨日同様、1号線や名鉄の線路につかず離れず走っていますが、油断をすると正しい旧道を外しそうなわかりにくい箇所が次々に現れます。 大平橋では水量の少ない場合、川の中を歩いて渡るのが旧東海道の本道だというので、そうしました。 ほとんどが水深 0〜数cmでした。 しかし、1カ所、幅30cmもない板の橋の下だけは深い急流で、体重でたわみはしませんでしたが結構怖い思いをしました。 でも、もう一つの選択肢であるトラックのひしめく国道の鉄筋コンクリートの橋を渡る気にはなりませんでした。


 幸い、その後も何とか道を間違えずに持ちこたえ、大岡越前守旧邸跡 ( 下左 ) 、大平一里塚跡 ( 下右 ) などを過ぎて、道はいよいよ岡崎の城下町に入ります。


 岡崎市内の旧東海道は 「 岡崎二十七曲がり 」 と言って、昔、城主が外敵の侵入に備えてか迷路のように道を作ったため、間違えずに歩くのが大変です。 しかし、古い建物や江戸時代創業の老舗なども散見され、最後には名物 八丁味噌 の見学可能な醸造元なども現れ、面白い約4kmの迷路歩きと言えます。 後半の部分では道路工事の影響もあって手許の案内図が役に立たず、多少迷って一本横の道を歩いたりしました。


 この4kmの二十七曲がりでは、カホルも途中から合流して一緒に歩きました。 中岡崎駅付近でカホルと別れ、市内を抜けると、矢作川にかかっているのが矢作橋 ( やはぎばし ) です。 この橋が少年時代の秀吉、つまり日吉丸と蜂須賀小六にまつわる伝説で有名なことはご存知と思います。 実際には、矢作橋が架けられた1601年には秀吉は既に亡くなっているため、これは作り話であるとされていますが、矢作橋の西側に 「 出合之像 」 という像が建っていましたが、現在は橋の拡張工事の最中で、どこかに一時移転されてしまっています。 矢作橋は下の広重の浮世絵にもあるように、当時としては東海道で一番長い橋だったそうです。


矢作橋の今昔

 今日は歩けるだけ歩こうということで、さらに足を進めて知立 ( ちりう ) の宿場の方に向かいました。 結局、知立まで歩くのは私の体力では無理で、今日は約12km、昨日と合わせて約28km歩いて、名鉄の宇頭 ( うとう ) という駅の近くで終りにし、電車で東岡崎駅に戻りました。 今日も結構暑く、上半身汗ビッショリになりました。 今日は幸い脊柱管狭窄症の痛みは出ず、3時間余り、休まずに歩くことができました。

 東岡崎駅でカホルと合流し、そのあと、よく考えると ( いや、よく考えるまでもなく ) ずいぶんとバカバカしい話ですが、また名鉄の電車に乗って美合、藤川、赤坂、御油・・・と、前回から足掛け4日かかって歩いた道路の横を豊橋 ( 吉田 ) まで逆戻りしました。 でも、車窓から景色を眺めていると、ほとんどノンストップの特急で20分のこんな長い距離をよくも歩いたものだと、我ながら感心します。

 豊橋駅構内で昼食を食べてから新幹線で小田原に帰りました。 次回はいよいよ知立、鳴海を通り名古屋市内の熱田神宮のそばの宮の宿場跡に向って歩を進めることになります ( 宮から先は海上7里を舟で伊勢の桑名まで行き、そこからまた歩きだすのが当時の旅でしたが、昔、舟が通ったあたりの伊勢湾の海は現在は埋め立てられていますし ( 左の地図の左端の赤の破線 )、代わりの船もないので、電車で名古屋市内をグルッと抜けて三重県の桑名まで行くしかありません。 従って、次々回は桑名がスタート地点となります )。

第29日
2009年10月12日(月曜) 名鉄中京競馬場前駅→有松間の宿→鳴海宿→宮宿 一部家族と一緒 天候:晴

 最近の新幹線こだま号は、のぞみやひかりが追い越すのを待つために、駅ごとに数分ずつ停車するので、初期のころよりずっと遅くなったように思います。 今日は小田原に停車するひかり号を使用したので、途中ノンストップで名古屋まで1時間12分で行けました。 然し普通のこだまで小田原から名古屋まで行くと、なんと2時間10分ほどもかかるのです。 つまり、こだま号は所要時間の半分近くを各駅停車と待ち合わせのために使っているというわけです。

 横浜に住んでいる長男夫妻と名鉄名古屋駅で合流して、今日は4人連れです。 長男は学生時代、名古屋に住んでいて、当時、有松の景観と文化遺産の素晴らしさについて聞かされていたけれど、遂に訪れる事が出来なかったそうです。 そこで、両親がこの町を訪れるこの機会に是非一緒に 有松の宿場跡 を歩いてみたいというのでやって来たのです。 彼にとっては永年の宿願達成というわけです。

 長男夫妻の都合に合わせて私は今日は中京競馬場前駅から宮までの区間を先に一緒に歩き、明日、一つ戻って宇頭から中京競馬場前までの区間を一人で歩くことにしました。

 というわけで、親子4人連れで名鉄名古屋駅9:37発の豊明行に乗り中京競馬場前駅に9:57着。 ここから歩いて桶狭間古戦場跡、絞り染めで有名な 有松の 「 間の宿 」 などを観光後、男2人は鳴海宿を経て宮宿*に向かって歩くというのが今日の計画です。 宿場と宿場の間にある休憩用の町を 「 間の宿 ( あいのしゅく ) 」 と言います。 宿場として無認可であったため、旅人の宿泊は禁じられていたので、旅籠はありません。

 一方、女性2人は約2kmほど一緒に歩いて有松の町を観光後、有松駅から名古屋に戻って午後は名古屋市内をゆっくり観光することにしました。


左:鳴海宿 ( 名物有松絞 ) 右:宮宿 ( 熱田神事 ) 熱田神事についてはここをご参照ください。

 桶狭間古戦場と言えば、2万5千の大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の今川義元に対し、尾張の織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を敗走させたことで有名ですが ( 1560年 )、合戦場跡がどこかについては確定的でないらしく、中京競馬場駅の南側 ( 豊明市 ) にも 「 桶狭間古戦場伝説地 」 があるし、隣接する有松駅の南 ( 名古屋市 ) にも 「 古戦場公園 」 があります。 要するにこの辺り一帯が古戦場だったのでしょう。

 

左の写真は今川義元の墓所

 有松の絞り染めは江戸時代の女性の旅人たちの足を釘づけにしたと言われますが、我が平成の女性2人も結構熱心に見ていたようです。

 

 有名な有松の山車 ( だし ) には 『 布袋車 ( ほていしゃ ) 』、『 唐子車 ( からこしゃ ) 』、『 神功皇后車 ( じんぐうこうごうしゃ ) 』 の3輌の山車があります。 これらは毎年10月第1日曜日に開催される 「 有松祭り ( 天満社祭礼 ) 」 に曳きだされるということで、なんと先週来ればそれが見られたのでしたが、こちらにも都合があり、仕方ありません。 有松山車会館に行き、そのうちの布袋車が展示されているのを拝見してきました。

 

 江戸時代の街道筋の建物が良い状態でのこされている町屋建築も、有松でぜひ見学したいとかねがね思っていました。 一応すべて拝見しましたが、他の宿場のそれのように内部を見学させるという方式ではなく、今も人が住んで使っているので、外側から眺めるだけです。 それはそれで立派なことかもしれませんが、観光客にはあまり面白くありません。 他の人たちが以前から提唱していた事の一つ 「 景観上、電柱を無くし電線を地下に埋める 」 という工事は、ようやく始まっていましたが、もうひとつの、自動車が狭い道をスピードを出して走るのを是非止めさせて・・・という願いは、今日もかなえられていませんでした。


誰だって右の写真のような醜い電柱や電線は無くしてほしいと思うでしょう。

 有松宿で女性たちと別れてから、男2人は 宮宿 に向かって歩きました。 息子は途中まで2駅ほど歩いたあと、電車で有松に戻り女性たちに合流しましたが、私はもちろんその後も一人で黙々と歩き続けました。 途中、鳴海駅のそばの誓願寺にある芭蕉の供養塔 ( 没後最初に造られたもの ) に立ち寄ったところ、たまたま今日が命日だそうで、いかにも芭蕉らしく、たった一輪の美しい黄色の花が供えられていました。


 鳴海駅の先で旧東海道は突如直角に北上して国道1号線とお別れします。 その先の神社の前には、この辺りがなぜ 「 愛知 」 と呼ばれるようになったかについての面白い説明の碑がありました。

 

左:笠寺の一里塚跡は、今回見たうちでは一番立派で、キチンと昔の姿がのこされていました。
右:旧東海道が大切な観光資源だというのでしたら、何故このように分離帯で 「 とおせんぼう 」 するのでしょうか。

 歩くこと約3時間弱、歩道橋や中央分離帯などの難所に何度も何度も悩まされながらも、遂に宮宿の七里の渡しに到達しました ! 目の前には現在、伊勢湾ではなく前方に埋立地を臨む狭い運河があるだけです。 はるか30km先の桑名など、見えるはずもありません。 でも、よし、次回からは伊勢の国を歩くのだ ! と心は躍ります。 この先は三重県の桑名から旧東海道歩きは継続しますが、桑名から京の三条大橋までは117.8km。 もうあと全行程の4分の1を残すのみです。

 

左の写真は時の鐘と熱田湊の常夜灯

 幸い今日も脚の痛みは軽くて済みました。 長男夫妻と名古屋駅で別れた後、カホルと一緒の夕食は鶏肉か、ウナギか、いや何と言ってもやはり味噌カツで・・・という事になりました。 今日は名古屋に一泊します。

*:みやじゅく。 宮の宿、熱田宿とも言います。 桑名への海上7里の渡し船が出る船着き場であると同時に熱田神宮の門前町でもあり、東海道最大規模の宿場でした。 現在伊勢湾周遊の遊覧船は出ていますが、桑名行きの船はありません。 いろいろ調べると最近もモーターボートをチャーターして桑名まで海上を行ったという凝り性の方もいるようですが、私は次回、名古屋経由電車で桑名に行くつもりです。

第30日
2009年10月13日(火曜) 名鉄宇頭駅→知立宿→名鉄中京競馬場前駅 単独行 天候:晴

 昨日スキップした区間に戻って歩きます。 この区間は約18kmと、いつもの私の歩く距離より数km長いので、朝7:30に名古屋市内のホテルを出て、名鉄を乗り継ぎ宇頭駅に着いたのは9時半過ぎ。 直ぐに歩き始めました。

 宇頭からの道は、国道1号線とほぼ平行に走る旧道を主にたどり、ときどき広い1号線に合流してその上を歩く事になります。 名鉄名古屋本線は、相変わらず旧東海道に付き添うように走っています。 蒲郡の方にJR東海道線が去ってしまったあと、東海道をけなげに守ってくれているかのようです。

 このあたりは、地図で見ると 「 岡崎平野 」 と書いてあります。 濃尾平野の東に位置しています。 前回矢作橋を渡った広い矢作川が平野の真ん中を流れ、その上流には豊田市があります。 そう言えば、他にも豊橋、豊川、豊明など、豊の字のつく町が街道筋に並んでいます。 豊臣秀吉もこの辺りの生まれ育ちです。 よほど豊の字が好きな地方なのかな・・・などとつまらない事を考えながら歩き続けます。


 無量寿寺 ( 街道からは少し離れている ) のかきつばたも知立神社の花菖蒲も季節外れですし、松並木はところどころ残っていましたが、観たものと言えば永安寺の雲龍の松 ( 上の写真 )、左右両方が現存している来迎寺一里塚くらいでした。 知立名物の 「 大あんまき 」 は、なぜか、本家の店が閉まっていて、お目にかかれませんでした。 いずれにせよ、私は甘い物が余り好きでないので、知立の町は知立神社の多宝塔を観たくらいで、ほとんど素通り状態でした。

 

左は約1km続く知立の松並木 右は知立神社の多宝塔 ( 国の重要文化財 )

 知立の宿を過ぎると、ちょうど東京と京都の間の距離500kmの約3分の2を歩いたことになります。 知立は池鯉鮒とも書くようです。 古くから知立という地名でしたが、江戸時代に知立神社の池に鯉と鮒が沢山いたので池鯉鮒と書くようになり、明治以降は再び知立が使われるようになったと言われています。 江戸時代は馬の市で有名だったようで、下の廣重の浮世絵にもそれが描かれています。


池鯉鮒宿 ( 首夏馬市 ) 首夏とは立夏、初夏のことで陰暦 四月を指します。

 刈谷市に入ると右の方にトヨタ車体の巨大な工場があります。 洞隣寺というお寺の斜め向かいに立っている案内板によると、江戸時代にここには旅人に茶を飲ませる立場 ( たてば ) が置かれており、その立場の名物として 「 いも川うどん 」 というものがあったそうです。 それは、この辺り ( 現在は刈谷市今川町 ) の地名が芋川と言われていたからで、また名産のこの平打ちのうどんが平たい紐のような形状だったので、これらが一緒になっていつしか 「 ひもかわうどん 」 と呼ばれるようになったとのことです。 名古屋の代表的な麺である 「 きしめん 」 もおそらくこの系統でしょう。 これが東に伝わって 「 ひもかわうどん 」 として現代に残り、関東では平たいうどんのことをひもかわと呼んでいます。 私も子供の頃、東京で、母がそう呼んでいるのを聞きました。

 

右の説明の最後の部分はは 「 平たいうどんのことを 」 と訂正すべきでしょう。

 今日の行程の途中にあった4つの一里塚跡の内、来迎寺の一塁塚と阿野の一里塚は、道の両側の塚が、ほぼ往時のまま残されている珍しいものだという話でしたが、共に期待ほどではなく、開発でだいぶ傷めつけられ小さくなっていました。 それぞれ愛知県と国の指定史跡になっているそうですが、残念です。

 

左:来迎寺の一里塚跡 ( ここは榎でなく松が植えられている ) 右:阿野の一里塚跡

 昼食はコンビニでおむすびを買い、外の駐車場に座って食べました。 いよいよ三河の国から尾張の国に入るという所に、境川という川があり、境橋という橋がかかっていました。 道はさらに名鉄沿いにどこまでも続きます。 それにしても、愛知県という県は、人よりも車の方を優遇しているように思えてなりません。 昨日と今日で約28km歩いた中で、上に ( 歩道橋 )、下に ( 地下道 )、そして横に ( 中央分離帯があるため十字路が渡れず、横に数十m行き、横断歩道を渡ってまた戻る ) 迂回させられた回数は、十五回ほどもありました。

 「 前後 」 という面白い名前の名鉄の駅前で、東京での事業をご子息にまかせて最近鳴海に戻ってきた、大学時代の同窓生のO君が待っていてくれました。 目的地の中京競馬場前駅まではたった1.5km程度でしたが、いろいろ楽しく語り合いながら歩くことが出来ました。


 だいぶ涼しくなって来たので、予定通り4時間半ほどで約18kmのこの ( 私にとっては ) 長丁場を何とか頑張って予定の時間で歩き切りました。 脊柱管狭窄症の痛みは、今日は結構強く、鎮痛剤を飲みながら、500mごとに前かがみになって体操し、何とか克服して歩き続けました。 O君と一緒に名鉄で名古屋駅に戻り、今日一日名古屋市内でお城やその他の名所を観光していたカホルと合流し、名古屋発15:22のひかり520号に乗って小田原に戻ったのが16時半過ぎでした。

 この続きは毎回書き加えて行きます。

桑名宿以降はこのページに進んでご覧下さい。


ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。