フリーマンの随想

その82. 矢倉沢往還

* 神奈川の古道を訪ねて *
( Feb.. 1, 2010 )


目次

1.矢倉沢往還とはクリック

2.古道歩きのスタイルについてクリック

3.古道歩きその1.南足柄市地蔵堂 ( 足柄古道入口バス停 ⇒ 地蔵堂バス停 )クリック

4.古道歩きその2.南足柄市苅野 ⇒ 足柄神社⇒ 南足柄市矢倉沢クリック

5.古道歩きその3.南足柄市関本 ⇒ 松田町神山( こうやま )神社クリック

6.古道歩きその4.松田町神山( こうやま )神社 ⇒ 大井町篠窪 ⇒ 秦野市曲松クリック

7.古道歩きその5.南足柄市地蔵堂 ⇒ 足柄峠クリック


次回以降に進む

****************** 現在で未完です。  今後訂正・修正もあり得ます*******************



1.矢倉沢往還とは

 矢倉沢往還とは、関東地方の、ある古い街道の名前です。 「 往還 」 という言葉には 「 行き来 」、「 往復 」 などの意味のほかに 「 街道 」 と言う意味もあり、ここでは後者です。 古く律令時代には 「 足柄路 ( あしがらじ ) 」、あるいは 「 足柄道 ( あしがらどう ) 」 と呼ばれており、後世江戸時代には 「 矢倉沢往還 」 と呼ばれていました。 以降、ここでは矢倉沢往還と呼ぶことにします。

 この街道は8世紀頃には畿内と東国とを結ぶ主要道となり、それ以降もその地位を保っていました。 富士山の噴火 ( 800〜802年 ) による被害のため、一時通れなくなりましたが、復旧され東海道の本道として引き続き使用されていました。

 その後、鎌倉時代に箱根越えの湯坂道が開かれて東海道の本道とされるに伴い、その裏街道という位置づけになりました ( その後、江戸時代になると17世紀初頭には湯坂道にかわって旧東海道が本道となります )。

 矢倉沢往還とはどういう経路かというと、旧東海道の駿河の国の沼津の宿で旧東海道と別れ、現在の呼称・地名でいうと、ほぼJR御殿場線沿いに静岡県駿東郡小山町竹之下のJR足柄駅付近まで来ます。 そこから足柄峠 ( 759m ) に登り、神奈川県南足柄市地蔵堂に降り、同市の矢倉沢 (*1)、関本を経て開成町経由松田町惣領に入ります。

 このうち小山町から開成町吉田島までの区間では、矢倉沢往還の古い道筋はほぼ固定していたようですし ( ただし、小山町から足柄峠までは、代表的なルート以外に、時代その他の理由により計4〜5本のサブルートが存在しました・・・後述 )、現在でも、一部はほぼ昔のままの姿で、そしてほとんどの部分が拡幅や舗装はされながらも元の位置のままで現存しています。 この地域が明治以降もあまり都市化されなかったためでしょう。

 しかし、酒匂川を越えて松田町に入りその先、秦野市あたりまでは、過去の長い歴史の中で幾つものルートが生まれたり廃れたりしましたし、明治以降、ことに第二次大戦後の都市化による開発の中で消えてしまった部分も少なくなく、現在では 「 どこが本当の矢倉沢往還か 」 という議論は結構難しいものになっているように思われます ( 次項以下をご参照 )。

 秦野から先は、おおむね現在の国道246号線沿いの経路で 「 伊勢原、厚木、海老名、鶴間、長津田、荏田、三軒茶屋、青山などを経て江戸城の赤坂門 ( 現在の赤坂見附付近にあった ) に達する 」 というのが矢倉沢往還のルートです。 もちろん、都心に近づくほど、一部の地域を除いては往時の旧道の跡を正確にたどることは更に困難になってしまっています。

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 そうでした。 そんな矢倉沢往還などという古道を、なぜ私がここで取り上げたか?です。 第一に12〜2月の冬場は旧東海道歩きを休むので、その間、体がなまらないよう鍛えておこうとの意図・・・それと、もう一つ、この往還の一部が私の家のすぐ傍を通っていて、一番身近な古道だからです。 でも、歩くからにはよく調べてからにしよう・・・というわけで勉強し調査しているうちにこんな文章を書くことになりました。 

*1: 古くからこの矢倉沢 ( やぐらさわ ) 集落に関所が設けられており、古道はここを通過しているので矢倉沢往還という名が付けられたものと思われます。

古道の大きな写真はここからご覧になれます

 
 2.古道歩きのスタイルについて

 旧東海道を歩いているときに何度も感じた事ですが 「 昔の道はどこをどう通っていたのか 」 を詳しく調べつくし、出来る限り忠実にそれをなぞって歩こうと努める人と、「 大体合っていれば良い 」 と、細かい点には頓着せず仲間と楽しくスタスタと歩く人と、古道歩きには大別して2つのスタイルがあるように思います。 私は前者ですが、前者の中にも格別に凄い学究的な 「 執念の人 」 がいて、驚いたり感心したりすることが多いものです。

 話を少し戻し、開成町吉田島から秦野市渋沢までのルートを例にとって話を進めます。 南足柄市の関本から開成町に入り、酒匂川の右岸につきあたる少し手前で左折、1kmほど歩くと大長寺というお寺の脇には崩れかけた石の秋葉灯籠があります ( 後述 )。 この辺りまでは、舗装されているとは言え 「 昔の人たちもこの道の上を歩いていただろう 」 という実感があります。 江戸時代の道標、石碑、石仏なども途中の道端のあちこちにたくさんあります。

 このお寺の横には小田急の線路、その向こうには酒匂川が流れています。 ここから対岸の、直線距離で2.7kmほど先にある松田町の神山 ( こうやま ) 神社迄行くわけですが、その間には小田急、JR御殿場線、県道72号、国道246号と255号、東名高速道路などが密集錯綜していて、明治以降、とくに戦後の都市化と開発のため、古道の跡をたどることが非常に困難になってしまいました。 この区域についてはあとの方の第5項で詳しく述べます。

 神山神社の脇には江戸時代には高札場 (*2) があったことが知られていますので、そこから再び私たちは旧矢倉沢往還の道の上を歩けるのか・・・と思ったら、これまた違うようです。 ここから10km余り先の秦野市渋沢の小田急線渋沢駅そばの国栄稲荷神社 ( この前に矢倉沢往還の石碑があります ) に行く迄のルートがまた厄介です。

   インターネット上に報告されている多くの資料は大井町篠窪の富士見塚 ( 写真左 ) まで坂道を登ったのち、おおむね県道708号線沿いに秦野市渋沢の曲松交差点まで歩くのが旧矢倉沢往還であると見なしていますが、ある非常に熱心な方が、明治初期の地図を調べることからスタートし、現代の地図には載っていない道なき道を危険を冒して探検し、一部は深い草の下にうずもれた2つのルート ( 県道708号沿いと国道246号沿いの別の2ルート ) を探し当て、歩ききって、これらがそれぞれ平安・鎌倉時代、および江戸・明治時代の本当の矢倉沢往還だと主張されている報告を読むと、まさに感動ものです。 興味のある方は是非 その1その2その3 をご覧ください。

 ですが、この方ほどに執念を燃やして追求するまでもなく、一般に矢倉沢往還と見なされている現在の篠窪経由の県道708号線が、自動車の快適な走行に適した勾配や曲率を得るため、旧道を大きく外れて迂回・敷設されたものであることくらい、地図を眺めていれば、私にだって推測できます。 長い近代的な 「 峠隧道 」 の中を通りぬけても 「 古道を歩いた 」 気になれるかどうかは、その人次第でしょう。 私は隧道の上の丘を通っている、地図には載っていないほど細い道を ( 仮にそれが昔の道とぴったり同じではないとしても ) 歩きたいと思います ( ⇒ 第6項をご覧ください )。 。

 次項以降、私の実際に歩いた矢倉沢往還について少しずつ書いてみたいと思います。 生意気と言われることを承知で言わせて頂きますが、次項以降に書いた私が調べ、探して通った道は、インターネット上で多くの方が報告されているルートとは違う部分が少なくありませんが、たぶん、昔の矢倉沢往還に非常に近い、それに忠実なルートだと考えています

*2: 高札場 ( こうさつば ) とは、幕府や領主が決めた法度 ( はっと ) や掟書 ( おきてがき ) などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。 旧東海道には宿場ごとにそれぞれ1カ所ずつありましたし、江戸時代には6万を越える全国の村々に存在しており、多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点などの人通りの多い場所に設置されることが多かったようです。

****************** 以上、2月1日記 *******************


3.古道歩きその1. 南足柄市地蔵堂付近 ( 足柄古道入口バス停 ⇒ 地蔵堂バス停 ) 2009年12月

これからご紹介する 「 古道歩き 」 は、矢倉沢往還と言っても、現在県道のような広い舗装道路に
改修されてしまっている部分については原則として述べません。 ルートとしては昔の矢倉沢往還と
ほぼ同じ場所に残っていて、かつ、僅かでも 「 古道 」 の面影を今に残している区域に限ります。

 この区間は近年拡幅整備されたので、昔の古道の面影は余り残っていませんが、全行程が間違いなく昔旅人たちが歩いたルートそのものだと思われます。 普通の脚力の人がゆっくり歩いて地蔵堂バス停まで40〜50分で、勾配も僅かですし、迷うような難しいルートでもありません。 ですから、次項以降のように地図を載せることもしません。な


 小田急線新松田駅または大雄山線大雄山駅から 箱根登山バス の地蔵堂行きに乗り、終点の一つ手前の 「 足柄古道入口 」 というバス停で降りれば、すぐ左手に入る道があります ( 写真上 )。 バスは新しい県道を登って別の方向に走り去って行きます。 ここからは緩やかな登りで、脇の整備された歩道を歩いてもよいし、車道を歩いてもめったに車は通りません。 私は夕方妻と2人で歩きましたが、女性一人では怖いくらい静寂そのものの、誰も通らない、もちろん人家など1軒もない道です。


 しばらく歩くと右手に矢倉沢定山城跡、次いで左手に源頼朝ゆかりの 「 ひじ松 」 が現れますが、いずれも脇に入って行かなくては見ることができません。 やがて丁字路にぶつかるので右に鋭角に曲がり坂を下って行くと少し先に橋があります。 渡ってすぐ右に曲がれば右側に金太郎の遊び石という大きな岩があります ( 写真下 )。 更に少し進めば民家の横を通って地蔵堂のある交差点に出ます。 ここから左に坂道を上がって行けば足柄峠です ( 地蔵堂⇔足柄峠間については別項参照 )。


****************** 以上、2月2日記 *******************


4.古道歩きその2. 南足柄市苅野 ⇒ 足柄神社⇒ 南足柄市矢倉沢 今回 ( 2010年2月 ) まで計4回

 この全長約4kmの静かな区域は、もしかしたら、現時点の矢倉沢往還の中で、最もよく昔の姿を残している、そして最も美しい部分ではなかろうかと私は思うのです。(*1)  しかも、素人の私の考えではありますが、恐らく全長のほとんど全てが、江戸時代の往還と同じ位置にあると思われます。

 南足柄市関本から県道78号線を2.5kmほどあがって行くと、室町以前から在ると伝えられる 「 白地蔵尊 」 の100mほど先にこの区間の入口があります。 地蔵堂行き或いは内山行きのバスなら苅野駐在所前バス停です。 ここから斜め右に緩い坂道を上がって行くと、400mほどで足柄神社の境内に入ります。 この神社の建物は慶応2年建立の総ケヤキの非常に立派な造りです ( 写真下右 ) ので、裏手に回って是非見て頂きたいと思います。 社殿左手のシイの木は樹齢千年以上と言われています ( 下左写真の左端 )。


 この神社の横を抜けて道は続きます。 この区間の前半部分はほとんどが丘陵の尾根沿いの、ミカン畑や林の中の幅2m前後の道で現在は農道として使われてます。 その多くはコンクリートの舗装の、歩きやすい緩やかな登り道です。 途中に分岐もありますが道標は整備されています。 右手には遠く西丹沢の山々 ( 下の写真の上 )、左手には箱根外輪山の明神岳や金時山、そして正面には矢倉岳を眺めながら楽しく歩く事が出来ます ( 下の写真の下 )。 眼下にはミカン畑越しに美しい苅野地区の里山や集落をときどき見下ろす事も出来ます。 更に、振り返るとはるか足柄平野の先に相模湾の海が光っています。


遠くの山は左が明神岳 中央は金時山、右手前が矢倉岳 このあたりは本当に素晴らしい景色です。

 神社から1.3kmほどで道は広い広域農道に出ます ( 写真下左 )。 左折して約400mで今度は斜め右上に入る道 ( 写真下右 ) があり、ここから再び細い昔の姿を残す細い道となります。 約1.3km歩くと、下りの道が県道78号に合流します。 ここが矢倉沢往還の名のもとになった 「 矢倉沢 」 でバス停は東山です。 矢倉沢のバス停は県道を200mほど行った先ですが、そちらには行かず、標識に従って今度は左斜めに狭い坂を下って行く道に入ると、矢倉沢の下庭集落、関場集落へと入って行きます。


 この後半の区間は、景色は一転してまだ山村の面影を色濃く残しているこの矢倉沢集落の畑と民家の間を縫うように通じる緩やかな上り下りの道です。 約200m歩くと左からあがってくる道との交差点の右側に昔の旅籠 「 立花屋 」 跡があり、( 写真下 ) 更に進むと江戸時代の関所跡の末光家があります。 ( 写真下左と右 )


 その先、集落の家並みが終りかける直前で古道は右斜めにあがる細い道となり(イ) (写真下)、すぐに再び県道78号線にぶつかります(ロ)。 しかし、この地点の地図をじっと見ていると、ほとんどの報告者が歩いている(ロ)を左に曲がって蛇のようにうねった広い県道 ( 地図の黄色の道 ) を進むというルートは正しい古道ではなく (*2)、その北側の細い道 ( 下の地図の(ハ)から(ホ)までの青い破線 ) が実は昔の古道の跡なのではないかという気がしてきました。 (ロ)地点と(ハ)地点で現場でいろいろの方向からにらんだ末、昔は 「 古道は(ロ)から急勾配でこの青い破線の道(ハ)に上がるように続いていたのだが、新しい県道がここを分断し ( 青の点線部分 ) 旧道を切り通し状に崩して広い舗装道路を作ってしまった 」 と推測しました。


 それを確かめるべく、県道の反対側の細い道を斜めにあがって、この青い破線の道を(ハ)から登り始めました。 道幅は約2mのコンクリートで舗装した急勾配の坂道でした。(ハ) ( 写真下左 ) 道は途中イノシシの侵入を防ぐ金網の扉で遮断されていました(ニ) ( 写真下右 ) が、これを開けて ( もちろんまた閉じて ) 更に進みました。


 右手に茶畑と、ま近に迫る矢倉岳を見上げる素晴らしい眺めの道でした ( 写真下左 ) が、数百mで再び県道に合流し、その地点(ホ)に足柄峠方面から ( 地図の左下の方から ) 歩いてきた人のための 「 足柄古道入口 」 と書かれた立て札が倒れた状態で見つかりました。( 写真下右はこれを立てて撮りました ) 私の推定は間違いではなかったのです!! のちにこの土地に古くから住んでいる方に聞いたところ、その通りですと言ってくれました。


*1: 春には梅畑の花、秋から冬はミカン畑の実の美しい地域です。 以前知人の米人夫妻をここに散歩に連れてきたら 「 ここはパラダイスだ! 」 と喜んでいました。

*2: この広い県道が大きくうねっているあたりに公園があり、そこに 「 足柄道 」 と書いた平成5年の大きな石碑があります。 そのため、ここを昔の矢倉沢往還が通っていたのだろうと考える方が何人もいらっしゃるのですが、実はそうではないのですね。

****************** 以上、2月7日記 *******************


5.古道歩きその3. 南足柄市関本 ⇒ 松田町神山( こうやま )神社 2010年1月

 はじめに: この項は、だいぶ理屈っぽくなってしまいました。 「 古道歩き 」 というよりは 「 古道のルート解明調査 」 みたいな感じで、 何度も何度も徒歩や車で行ったり来たりしてしまいました。 必要に応じ、地図のページを開いてご参照ください。

地図1〜3はここから開いてご覧になってください。

 ルート0: { 地図1左部分の赤線 } 南足柄市関本の箱根登山バス 「 市営グランド前 」 バス停そばの総合グラウンド(※)のあたりが、 昔は坂本 ( のちに関本 ) の宿場の駅 ( うまや ) でした ( 写真下左 )。 ここから県道78号線を700mほど東南東方向に歩くと竜福寺の交差点(イ)に出ます。  途中左側に道沿いに江戸時代の石碑、石仏、その他が並んでいます ( 写真下右 ) し、地元の有志が建てた矢倉沢往還の坂本宿についての解説の立て札がたくさん立っています。  高札場跡もあります。 この辺りがその昔、街道の宿場の中心地で多くの旅籠その他があったことが分かります。


 ルート1: { 地図1青線 } 竜福寺の交差点(イ)を左折し、約100m歩くと斜め左に分かれる道があるので、 そこを進むと坂を上がって丘の上に出ます。 交差点を直進し今度は坂を下ると橋を渡って南足柄市竹松地区に入ります ( 現在の道路はこの丘の下をトンネルでくぐっています )。  降りてから最初の信号(ロ)の十字路を渡り少し先左に近藤酒店(ハ)があります。
 
地図1〜3はここから開いてご覧になってください。

 ルート2: { 地図1右部分の赤線 } 竜福寺交差点(イ)を曲がらず直進します。  600mほど歩くと道は左に緩やかにカーブし上り坂となります。 200mほど先で左後ろから斜めに道が合流してきて、 そのすぐ先に福田寺 ( ふくでんじ ) (ニ)があるので、その先の路地を左に入ります。 曲がりかどに古い道標があり、「 右大山 」 とあり、下の方に小田原、 こふ津と読めますが、左は判読不能でした。 寺の門前を過ぎ、あとは道なりに狭い舗装の坂道を左・右・左・右と曲がりながら降りて行くと山門から約200mでやや広い道に突きあたります。  左に曲がって500mでルート1の(ロ)の信号です。 この信号の少し手前で右の細い道に入り、すぐ左折して(ハ)に出るのが正しい道のようです。  ここから先はルート1と同じです。

 ルート1はインターネットに紹介されている多くの資料のほとんどが教えている道です。 これに対しルート2は、ある一つの資料だけが教えてくれた道ですが、 私は、これに賛成します。 それは、文化4年(1807)の相州足柄郡関本村の地図 ( 写真下右 ) に(イ)から先の矢倉沢往還のルートとして、 「 わだがはら よしだじま こうやま・・・ ( 途中略 ) ・・・さんげんぢゃや しぶや あおやま 赤坂見附 」 と記されているのに ( 写真下左 )、 ルート1は和田河原地区を通らないからです。 これに対し、ルート2の福田寺はまさに和田河原地区に在るのです。 それともう一つ、ルート1に記した丘の道は、 今でこそ重機で 「 切り通し 」 状に切り崩した広く緩い坂道ですが、昔は急勾配の苦しい坂道の丘だったと考えられるからです。  もちろん、国府津・小田原方面から来て大山方面に行く旅人にとっては、この福田寺の脇から吉田島に出るのが最善です。


地図1〜3はここから開いてご覧になってください。

 ルート3:{ 地図2赤線 } (ロ)から先はとにかく道なりに2kmあまり進みます。  開成町牛島地区に入った後、道は更に狭くなって吉田島地区に入りますが、この(ハ)以降はまぎれもなく旧矢倉沢往還です。  道幅は次第に狭くなり車1台やっとという程度です。 途中、道路右側の牛島自治会館の前にはこの道が矢倉沢往還であったことを述べた立て札が立っています ( 写真下左 )。  また、道路わきの所々に古い石碑や石仏を見る事が出来ます ( 写真下右 )。


 (ロ)地点から2kmあまで県道720号線の信号のある交差点に出るので、これを横断し100mほど進むと左側に入る道(ホ)があります。  道の右側には整備された歩道があります。 ここを左折してまっすぐ進みます ( もし曲がらないと小田急の踏切です )。 約500m進むと道は足柄大橋の下をくぐりますので、 なおも真っすぐ進みます。 さらに500mほどで左側に大長寺(ヘ)というお寺があります。 このお寺の塀の所に道沿いに石仏などが並んでいますが、江戸時代、 街道筋や渡し場に目印の灯りの役目をするように設置されていた 「 秋葉灯籠 」 の残骸?がありますので見てください ( 写真下左 )。  この付近に矢倉沢往還の酒匂川の渡し場があった証拠かも知れないと私は考えます。 暗い早暁や夜間、川の浅瀬を渡る旅人たちにとり、対岸の常夜灯の明かりは命の綱でした。


地図1〜3はここから開いてご覧になってください。

 ルート4: { 地図3青線 } その先にあるY字路は右に進み、右手に小田急の線路を見ながら更に400m進むと左に理髪店がある十字路に出るので右折します。  その先に信号があり、右奥は公園、左はトヨタの販売店です。  その先が酒匂川で十文字橋があります。 交差点の先、右側に立て札(ト)があり、 昔旅人たちがどのようにして酒匂川を渡ったかが説明されています ( 写真上右 )。 対岸は松田町惣領地区で、まっすぐに進めばJR御殿場線の踏切です。  この踏切の名前はなんと 「 矢倉沢踏切 」 なのですが、昔の道がこの踏切の位置を通っていたたとは私は思いません。

 南足柄市矢倉沢集落はこの松田町惣領の踏切から直線距離で約10km、街道沿いなら15kmくらいは離れています。  100年以上前、1889年に現在の御殿場線が東海道線の一部として開通した時に出来た現在のJR松田駅のホームに立って眺めると、 文政8年 ( 1825 ) 創業の中沢酒造の横で江戸に向かう1本の道が線路にぶつかって行きどまりになっており、反対側を見ると古い旅館千代田屋の前を通って旧246号線から分れてきた道 ( つまり江戸方向に向かう道 ) が、 線路にぶつかって右折し、数百m先の矢倉沢踏切に通じています。 この2本の道がホームが出来る前はぴったりとつながっていた事は、容易に想像出来ます。

 つまり、御殿場線の開通に伴ない造られた松田駅のホームを避けて新設された道路の踏切が 「 矢倉沢 」 踏切と今も呼ばれているのです。  という事は、このあたりを矢倉沢往還が通っていたという証拠になるのではないでしょうか。

 さて、(ト)地点で酒匂川を渡り右斜め前方に進めば合流直前の川音川の右岸に出ます。 ここで徒歩で川を渡れば、町屋(ヌ)から酒匂川(チ)方向に向う道の途中に出られます。 (ト)の立て札の説明はこれで、合流点付近を斜めに渡ったと述べています。 一時はこういうルートもあったと古地図をもとに述べている 報告 もあります。

 ルート5: { 地図3赤線 } 大長寺(ヘ)のあたりで先に進まず、仮に右に強引に侵入し小田急の線路を越える事が出来たとしたら、そこは左から流れて来た酒匂川と正面から流れてくる川音川との合流点の少し下流(チ)です。 私が最近話を聞かせて頂いた松田町のある古老はこの合流点の少し下流、足柄大橋の少し上流の(チ)のあたりが昔の渡し場だったと述べていました(*4)。 対岸は後述の神山神社(リ)からまっすぐに降りてきて町屋地域 ( 神奈川県の資料 でも昔の矢倉沢往還の街道筋であったと言われています。 この町屋の交差点(ヌ)にあった石仏群が下の写真です ) を通りぬけて酒匂川の岸にぶつかる地点なので、納得できます。 この古老は 「 秦野・渋沢の方から来た旅人たちは神山 ( こうやま ) 神社から川音川の左岸伝いにまっすぐ降りてきて、町屋を抜けて川岸に着いた。 川岸には最近まで当時の渡し場に在った店の名前 ( 十文字屋 ) を残した家があった 」 と教えてくれました。


 結論として、大長寺付近から先、神山神社までの酒匂川を挟んだ直線距離2.7kmについては、過去に幾つかのルートの変遷があった上に明治以降の地域の開発が激しいため、今は正確な道筋は分かりません。 地図2、3上の赤の破線は、古老の説明に基づく私の推測にすぎません。 その点ご了解ください。 地図3の青の破線は(ト)の立て札の解説に基づく推定のルートです。 現在この区域を可能な限り昔のルートに近い経路で 安全に ウォーキングしたいのであれば、(ヌ)から新松田駅に向い、橋を渡り小田急の踏切を越えて左折し、松田小学校の前を左折、十文字橋を渡って(ト)に出るしかないでしょう。

*3: ここ(ト)で酒匂川を渡れば川音側右岸の松田町惣領に着きます。 そこに行く人たちがここを渡ったのだろうと推測します。 一方、江戸に向って矢倉沢往還を渋沢方面に行く人たちは合流点の少し下流の(チ)のあたりで酒匂川を渡らないと ( もし(ト)の辺りまで行って渡ると )、次にもう一度川音川をどこかで越えないとなりません。

*4: 渋沢方面から川音川左岸に沿って歩いて来た旅人が、二つの川の合流点の下流(チ)を目指して歩き渡河したというのは、至極当然のことと思えます。 なぜなら、上記のように川を渡る手間が1回で済むからです。 もっとも、この合流点直前の川音川の左岸一帯は18世紀には頻繁に堤防が決壊し水害に見舞われたそうで、現地(ル)にはその史実を記述した立て札も立っています ( 写真上右 )。 災害のたびに川の位置も合流点も大きく移動したでしょうし、道もつけ変えられた事でしょう。

地図1〜3はここから開いてご覧になってください。

****************** 以上、2月5日記 *******************


6.古道歩きその4. 松田町神山( こうやま )神社 ⇒ 大井町篠窪 ⇒ 秦野市曲松 2010年2月10日

地図4〜8はここから開いてご覧になってください。

 神山神社 ( 地図4の イ ) ( 写真下左 ) の前を出発して歩き始めました。 神社の横の古道の跡だとされている狭い上り坂をたどって歩くうちに、東名高速道路のかげに隠れて、地元の人以外ほとんど使わないと思われる淋しい道 ( 地図4の ロ ) ( 写真下右 ) に入ったりします。


 現在は農道としてしか使われていない細い坂道 ( 地図4の ハ ) に入ると、急な登り坂が続くので息が上がりそうになります。 標識に従い左折後、250mほどで何の標識もない幅1間ほどの細い未舗装の道に左斜めに入る ( 地図5の ニ ) ので、見落とさないよう注意が肝要です。 この道は路傍の白梅も満開で、軽4輪のわだちの跡さえなければ、本当に江戸時代そのままとも言えるのどかで美しい素敵な坂道・・・古道歩きの醍醐味を堪能できます。( 写真下の2枚 )


地図4〜8はここから開いてご覧になってください。

 やがて富士見塚 ( 地図5の ホ ) に着きます。 ここには昔、矢倉沢往還の一里塚があったと記された立て札 ( 写真下左 ) が立っています。 石碑 ( 写真下右 ) には 「 富士山御神 」 とあり、ここから冬の晴れた日の午前には素晴らしい富士山を眺める事が出来ます。( 今日は残念ながら曇りでした )


 ここから緩い坂道を下ると三島神社があり ( 地図5の ヘ )、樹齢800年といわれるシイの木が道路に覆いかぶさるように生えています。( 写真下左 ) たまたま参道入口の石碑の整備をしていた地元の老人に聞くと、矢倉沢往還は県道708号線ではなく神社のすぐ先を左斜めに分かれて上がって丘を登って行く細い道 ( 同 ト ) ( 写真下右 ) だと教えられました ( 私の予備調査も同様 )。 インターネットに出ている記録の中には、行程の途中で宝寿山地福寺の前を通ったと書いてあるものを多く見受けますが、本当はあそこは通らないんですね。( 地図5をご参照 )


 そのように進むと、この道もまたのどかで美しいアップダウンの道でした。 ( 写真下の2枚 ) しばらく してまた708号線に合流しますが、再び離れ ( 地図6の チ )、丘陵の尾根に向って細いコンクリートの登り道が続きます。


右の写真の右下に下がる方の道に進み、右奥に見える丘にあがって行きます。

地図4〜8はここから開いてご覧になってください。

 途中、Mapionの地図では道が途切れてなくなっている部分 ( 地図7の赤点線 ) もありますが、実際には道はつながっていて、そこから先は眺めの良い尾根筋を歩く事が出来ました。 右手には 「 峠 」 集落が 見下ろせ ( 写真下 )、左手には秦野の市街地と丹沢の峰々が見渡せます。


 その先をさらに道なりに進みます。 地図8の リ の部分は峠隧道の真上ですが、地図だけ見ていると、歩く前は、ここから ヌ の地点に向って最短距離で降りる古い道が昔あったのに、消えてしまったのではないか?という気がしていました。 ところが、現場に来ると地図にない左に降りて行く道がちゃんとあり ( 地図8の青の点線 ) ( 写真下左の左へ降りる道 )、ちょうど傍の畑で作業していた老人に訊ねると、それは昔からある道なのだそうです。 予習で調べて来た700mほども遠回りをしてV字状に迂回して戻ってくる道( 同 青の破線 ) ( 写真下左の真ん中の道 ) とはすぐ下で合流していました。( 写真下右 )

 私は念のため両方を歩いてみました。 いずれにせよ、リ から ヌ にかけては凄い急斜面ですから、この2点を真っすぐに結んだ経路を登り降りする事は昔も今もできません。 くねった迂回路がついていたのでしょうが、峠隧道が造られた時も含め、いろいろと道筋が変ってしまったらしく、本当の古道の経路は私にはわからずじまいでした。



地図4〜8はここから開いてご覧になってください。

 ヌ 地点からは間もなく渋沢の市街地を通る708号線に合流します。( 地図8の ル ) ここから先は県道708号の舗装道路で、これが正しい昔の道かどうかは分かりませんが、約1.3kmで小田急渋沢駅南口に近い国栄稲荷神社の前に着きました。 この神社の前には 「 大山道 矢倉沢往還 」 と書かれた立派な石碑がありました。( 写真下 )


 歩き終わって、今日はなんだか登り坂ばかりだったと気づきました。 この区間を歩かれる方は、渋沢から松田に向って私とは逆に歩いた方が良いですよ。 そうすれば、ほとんど下り坂ばかりで、美しい景色をじっくりと楽に堪能できます。

****************** 以上、2月10日記 *******************


7.古道歩きその5. 南足柄市地蔵堂 ⇒ 足柄峠 2010年3月1日と3日

 インターネット上で検索すると、地蔵堂と足柄峠の間の古道のルートを歩いたという記録は、もう無数と言っても過言でないほど沢山見つかるのですが、どれを読んでも 「 バス道路に出たりまた脇の石畳の古道に入ったりを繰り返し・・・ 」 という程度の記述しかなく、私が欲しかった古道ルートの地図は一向に見当たりません。 国土地理院の2万5千分の一地図を購入しても細い古道など載っていません。

 現在の県道78号線は、自動車のスムーズな運行が可能な程度の低い勾配 ( それでも12%前後 ) を得るため、何度も何度もS字状にうねるように迂回して設計されていますが、昔の古道は徒歩のためのものですから、ほぼ一直線に急勾配の斜面を上り下りしています。 したがってうねった県道を串刺しするように何度も繰り返し横切っているわけです。

 古道ルートの詳細な地図がついに見つかりませんでしたので、それでは自分で歩いて描いてみようと考えました。 地図上の幅広い県道のどの地点から分かれて細い古道に入り、どの地点でまた合流するのか・・・それを県道と古道の両方を登ったり降りたりしながら、時には伊能忠敬先生には及びもつきませんが道路上を歩数で測って決定して行きました。

地図9〜11はここから開いてご覧になってください。

 この古道を地図上に赤の実線で示しましたが、林の中をクネクネと曲がった道を正確に描けない場合は赤の破線にしました。 「 足柄古道 」 という標識は良く整備設置されています。 標識のある場所には地図上に赤の小さな を記入しました。 また、地形や崖の途中にある古い界標から考えて古道が昔はここを通っていたらしいと推測したときには、それを緑の破線で記入してみました。

 ただ古道を歩くだけなら、普通の脚力なら地蔵堂・足柄峠間は上りで1時間半、下りならその半分もあれば十分なのですが、上述のような作業を行ったため、結局2日のべ3時間かかりました。 古道は地図10のヨ地点より上は石畳の部分も多く、なかなか趣きがありました。 ただし、石畳はセメントで固定されていて、古い時代の物とは思えません。

 第3項で到着した地蔵堂バス停が今日の出発点です( 地図9の右の方のイ地点 )。 ここから左折して狭い方の舗装道路を上って行きます。 以前はこれがバス道路でしたが、数年前に右側に新しく広い道路が敷設され、現在はそちらをバスは通ります。 約750m先で両者は合流します( 地図9のロ地点 )。 この古い方のバス道路が昔の往還を広げ舗装したものであるのかどうかは分かりませんが、地蔵堂のお堂の前を通る、急峻な崖の斜面の中腹を這うような道ですから、たぶんそうであると信じることにします。 それにしてもついこの間まで、バス1台がやっと通れるようなこんな細い道路が使われていたんですね。



 合流点の先すぐに 「 相の川橋 」 のバス停があり、バス道路は大きく蛇行を始めます( 地図9の左の方 )。 その少し先に最初の古道入口の標識が右側にあります( 地図9と10のハ地点 写真上 )。 平成22年3月現在この辺りは拡幅工事の最中で、入口の部分が残念?なことに立派なコンクリートの階段になってしまいました。 この階段を上がりUターンして林の中の細い道を200mほど進むと県道の屈曲部を横切って反対側に上がる道があり、そこに大きな石碑もあります ( ホ地点 )。 急な山道を登り次に県道を横切る ヘ地点だけは 「 足柄古道 」 の標識がない上、下の方の県道を工事中のためか、通行禁止の柵が置いてありました。

 その後も県道に何度も出会ったりまた分かれたりしながら、幅1mほどの古道と言うよりは登山道と言った方が良いような急坂を上がって行きます ( 写真下の1〜3枚目 詳細は地図10をご参照下さい )。 やがて見晴台というバス停に着きます。 見晴台とは言え周囲の樹木が成長したためかあまり景色が良くありません。 この先、県道の右側に沿って ( 写真下4枚目 ) 砂利道の旧道が約80m続いた後、県道を横切ってヨ地点に達します ( 写真下5枚目 )。 ここからは舗装された広い林道も1本左に分岐していますが扉が閉まっていて入れません。 県道と林道の間に石畳と言うより岩畳と言う感じの古道の入口があります。

地図9〜11はここから開いてご覧になってください。





 このヨ地点から県道 ( バス道路 ) はクネクネと蛇行しながらほぼ真北に、そして一転南南西へと、古道とは遥かに離れた方を約1.7kmも迂回しますが ( 地図11の右の部分参照 )、古道は関所跡めがけて西北西にほぼ一直線に、約100mの高度差を一気に足柄峠目指して登ります。 上に述べたセメントを使った石畳の道です。 50mほど先で再び県道と隣接するタ地点からレ地点まで足で測った距離は約320mでしたから平均勾配は0.3以上という事になります。 なお、道は途中で分岐しますがすぐに合流します。 標識によれば石畳のない方が古道のようです。

地図9〜11はここから開いてご覧になってください。


地図11のレ地点で県道から古道に降りて行く入口を撮ったのが上の写真ですが、静岡側からここを降りて行く時は一体どんな道なのかちょっと心配ですね。 でも降り始めれば結構歩きやすい石畳の道です。

 もちろん、この急坂の古道はつづら折りでしたけれど、地図上ではほぼまっ直ぐな破線で示しました。 ふたたびバス道路と合流するのはレ地点で、この辺りの尾根はほぼ静岡と神奈川の県境になっています。  ここから約50m県道を歩けば左側が関所跡で ( 写真下左 )、右側には足柄山聖天堂があります ( 写真下右 )。



 関所跡の裏側には左に入る細い山道があります( ソ地点 写真下左 )がこれを上って行くとすぐに県道の頭上を渡る 「 あずまはや橋 」 ( 写真下右 ) へと通じ、足柄城址のある広場に出ます。 ここが最高点で地図11に足柄峠と書いてある地点です。



 ここから今度は駿河 ( 静岡県 ) 側の斜面に降りることになります。 昔はどういう経路で降りて行ったか、私にはわかりませんが、現在は狭い急な階段 ( 写真下左 ) で降りられ、そこには足柄城址の石碑、道路の反対側には新羅三郎義光吹笙の石などがあります ( ネ地点 )。

地図9〜11はここから開いてご覧になってください。

 ソからネまでのこの山道は勾配がきつすぎて、幅を広げただけでは自動車道路になりません。 そこでこの最後の峠の部分数十mを切り通し状に切り崩し、古道を保存するため上に橋を架け、その下を通したのが現在の道路 ( 青線 ) だと私は考えています。 この切り通し部分もつい最近までは両側が土手でしたが現在は立派な石垣 ( 風のブロック垣 ) になっています ( 写真下右 )。



 地図がめでたく完成したところで今回は終りとします。 最後に・・・上りではホの入口、下りではヘとニの入口を見のがしやすいので、気を付けてください。

****************** 以上、3月3日記 *******************
  
****************** 現在で未完です。  今後訂正・修正もあり得ます *******************


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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

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