モーツァルト:歌劇『魔笛』

各曲について 【 第2幕第9曲〜第17曲

 
               
第2幕第1場
 舞台のセットに対して第2幕の指示は第1幕のそれよりかなり詳細にわたってなされています。

 「椰子の林があり、樹木はすべて銀色で葉は金色。葉で作られた18席が用意され、そこにはホルンとピラミッドが置かれている。(舞台の)中央には大きなピラミッドと大きな樹があり、ザラストロは僧侶たちと共に厳かに入場し、彼らは棕櫚の枝を手に持っている。(難解なドイツ語なので意訳と一部省略しています。誤訳も。)」

 モーツァルトとシカネーダーがこのエジプト風の舞台においてフリーメイソンを示唆する様々な小道具を並べることで、これから始まるタミーノたちの試練に対して観客が少しでも違和感を抱かないよう配慮したのではないかと思われます。そのひとつひとつに対するフリーメイソン的な意味の解明は他の研究書に任せますが、『魔笛』の台本の表紙がフリーメイソンを象徴するシンボルに溢れていたことを思い出すと、彼らは舞台の上で同じことを試みたのではないでしょうか。しかし、それらの小道具がストーリーにおける統一感を維持する以上の働きを見せることがないことにも留意すべきと思います。なお、この舞台セットの意味するところがどれだけ観客に伝わっていたのかについては、当時のそのことに関する記録がないせいか、あまり言及されることはありません。現在、このト書きに忠実に従っているは少ないようです。

第9曲「僧侶たちの行進」
 行進曲としては異例とも言える瞑想的な雰囲気に溢れる名曲で、序曲と共に初演の直前にあわただしく書かれたとされています。ト書きには「管楽器による行進曲」とかかれていますが、スコアの編成はフルート、バセット・ホルン、ファゴット、ホルン、トロンボーンに何故か弦楽5部が含まれています。バセット・ホルンはフリーメイソンに好まれた楽器と言われていることから、モーツァルトはこの場面でなんとしてでも使用したかったのだと思われます(『魔笛』にバセット・ホルンが初めて登場するのは、第1幕の終曲でザラストロを讃える合唱の直後からで、あたかもタミーノの試練が始まることを示唆するかのように見えます。)台本が書かれた当初は木管楽器による曲とする予定だったのが、初演直前のバタバタにまぎれて弦楽器を加えてしまったのでしょうか。しかし、弦楽パートをすべて休ませても和声的には完成されているスコアなので、弦楽器を加えた理由はより柔らかな響きを出そうとしたと考えるのが自然でしょう。或いは、オーボエとクラリネットの代わりにバセット・ホルンにしたために音質的なバランスを欠くと考えたのかもしれません。自筆譜を確かめたわけではないので意味のないことかもしれませんが、弦楽パートなしの演奏を試してみると面白いかもしれません。

 なお、『魔笛』作曲中に書かれた(1791年6月)モーツァルトの合唱曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」との類似を指摘されることがあります。「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、妻コンスタンツェが療養していたバーデンを訪れた際、モーツァルトがバーデンの合唱指揮者で友人だったアントン・シュトルのために書いたキリストへの感謝と賛美を歌う教会音楽です。しかし、むしろ当時演奏される機会が多かったグルックの歌劇『アルチェステ』の「荘厳行進曲(Marche solennelle)」との共通性の方が強いように思われます。『アルチェステ』はウィーンで1767年に初演されて以来何度か上演されていて、1768年のモーツァルトの父レオポルトの書簡にも言及されていることからモーツァルトも観ていたと考えられます。その後1770年、1781年、1786年にウィーンで再演されている記録もあります。第1幕の第2場、パントマイムで演じられる時の音楽です。
https://www.youtube.com/watch?v=yF3cQkZkR2Y

 話はまた逸れますが、モーツァルトは1778年にこのグルックの歌劇『アルチェステ』の同じ場面の詩に曲をつけてレチタティーヴォとアリア「テッサリアの人々よ」、「不滅の神々よ、私は求めず」 K.316(300b)を作曲しています。モーツァルトは書簡の中で「今まで作った最上のもの」と自負している程、ソプラノのための技巧の粋を尽くした作品となっていて、この13年後に夜の女王のアリアに結実していく過程を見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=NMR96G8gxm4

 また、『魔笛』を絶賛していたワーグナーが、楽劇『パルジファル』第3幕の「聖金曜日の音楽」において、グルネマンツが霊水をパルジファルの頭にかけた後、オーボエによる「聖金曜日の奇跡」が導かれるまでの箇所(このあたりは全曲中最も美しいところですが)を書くとき、この「僧侶たちの行進」を念頭に置いていたと筆者は(勝手に)考えています。

 なかなか本題に戻れませんが、カナダの国歌がこの行進曲の最初の3小節の旋律をそっくり採用していることを最後にご紹介します。英語版の歌詞の最初は、O, Canada, Our home and native land! です。簡単に歌えますよ。『魔笛』初演の約100年後の1880年、ケベック州の建国記念日の式典に向け愛国歌として同州の作曲家カリサ・ラヴァレーによって作曲され、さらにその100年後の1980年にカナダ国歌として法制化されています。英語版の音源とトロント交響楽団の演奏(歌詞なし)は下記です。
https://www.youtube.com/watch?v=XrbDPcYY2Z4
https://www.youtube.com/watch?v=pUeLTZp-Dig

 この後、音楽無しでザラストロと僧侶たちの長い問答が始まります。タミーノという20歳の王の息子が寺院の前にやってきて、夜のヴェールを払って偉大なる光明の聖域を見ようと入門を欲しているので友愛の手を差し伸べたいとザラストロが述べます。さらにタミーノが徳を持ち、寡黙で、慈悲深いので、入門を認めるかと僧侶へ問うと、ホルンを3回鳴らして僧侶たちは賛同を表明します(1箇所目)。タミーノが偉大なる奥義を身につければ神々はやさしく純潔なパミーナを与えると定めた、だからあの誇り高い母親から彼女をさらって来たのだ、とザラストロは語ります。さらに、あの女(夜の女王)は迷信と虚妄によって人びとを欺き、われらの寺院の建物さえ破壊しようとしているが、タミーノが寺院を守り、信者となって徳にはその報いを、悪徳にはその罰を下すだろうと言います。ここで再度ホルンが3回鳴らされます(2箇所目)。

 僧侶からタミーノが人生の準備ができていないのではと心配の声が上がると、ザラストロはその心配を打ち消して「彼は(王子である以上に)人間であり、我々より先にイシスとオリシスのもとに召されて神々の喜びを味わうであろう」と答え、それに対して再々度ホルンが吹き鳴らされます(3箇所目)。3という数字にこだわる『魔笛』にはおなじみの回数です。次いで、弁者に二人(タミーノとパパゲーノ)を寺院の前庭に連れて行き、彼らに神々の叡智と力を知るすべを教える神聖な職務を遂行するよう伝えます。

 なお、ここで鳴らされるホルンは第2幕冒頭のト書きに書かれているように座席に置いてあったものです。スコアには「第9曲 3つの和音」というタイトルで載っていますが、ホルンだけでなく木管(クラリネットを除く)と金管が総出で吹くようになっています。「3つの和音」とは、16分音符のアウフタクトと2分音符2つのかたまりを1つの和音として、それが3回続くことを言います。さすがに、ト書き通りに18個のホルンを用意して吹く真似をさせる演出は見たことはありません。

魔笛 譜面 アコード

 なお、このくだりが冗長であることから演出や録音によっては省略されて1回しか吹かれないこともあります。また、サヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団の録音(1972年)では「3つの和音」を3箇所ではなく、「1つの和音」だけにして3箇所で吹かせています。つまり、音符の間にあるフェルマータの間にセリフを挟むという解釈をしていることになります。しかし、同じサヴァリッシュが指揮したDVDで見られる映像(1983年)では、その解釈を放棄して「3つの和音」に戻していますが、1箇所省略して2箇所だけにしています。また、1997年のベルリン国立歌劇場来日公演(ダニエル・バレンボイム指揮)でもフェルマータの間にセリフを挟むアイデアを採用していました。それに先立つ1990年のベルリン国立歌劇場来日公演(オトマール・スイトナー指揮)では「3つの和音」は1回しか吹かれませんでした。

 この音符は序曲の中間部で吹かれるものとほぼ同じです。違いは序曲でクラリネットだったのがバセット・ホルンに替えられ、ホルン、トランペット、トロンボーンの音が若干異なっているのですが、和声的には同じであると考えられます。締め切りに追われ、眠い目をこすりながら序曲を作曲していたのであろうモーツァルトが手を抜かずに細かい部分を変更しながら書き写す姿を想像してみてください。バセット・ホルンがクラリネットに代わったことによるバランスの調整をしたのでしょうか。それにしても緻密な作業を厭わない天才の作業には驚くばかりです。

 タミーノは単にパミーナを救うためにやってきたのにいつのまにか入門しに来たと聞かされて戸惑いを覚えるところではありますが、ようやくここでパミーナがザラストロのところに居る理由がわかります。ザラストロが夜の女王について語るときの彼の口調が厳しくなる演出はよくあるのですが、叡智の領主ザラストロも人の子なのだとホッとするところでもあります。

第10曲 僧侶たちの合唱付きアリア(ザラストロ)
 この曲はザラストロによるイシスとオリシスへの祈願の歌と考えられます。歌詞は第8章で述べたテラソンの『セトス』の影響が認められていて、「辛抱強く彼らを助けてください。彼らが途中で倒れても、美徳の進む道を讃えてあなたの住まいに彼らをお迎えください。」といった内容になっています。僧侶たちによる男声4部の合唱がザラストロの歌う楽節に続いて歌詞を引き継ぎます。バス歌手が歌うザラストロの楽譜には低いFの音符が3箇所も出てきます。初演の時にこの役を歌ったのはシカネーダー一座のフランツ・クサヴァ・ゲルルで、『賢者の石』の作曲者のひとりでもありました(第6章参照)。ゲルルは初演後も度々この役を歌ったとされており、シカネーダーは優れた歌手を手元に置いていたということがわかり、モーツァルトはゲルルが出せる一番低い音を用意したということになります。

 なお、後出する第15曲のザラストロのアリアでも同じ最低音Fが使われています。低音といえば、モーツァルトは『後宮からの誘拐』を作曲した時に当時の名バス歌手ヨハン・イグナーツ・ルードヴィヒ・フィシャーのためにDのロングトーンを与え、その美しく深みのある声を響かせることで大成功を勝ち得ています。DはFよりさらに3度低い音です。

第2場
 舞台は変わって寺院の中庭に変わり、暗闇の中には崩れた柱とピラミッドの残骸が転がるなど荒廃した様子が浮かんでいます。遠くから雷鳴がゴロゴロと響いてくる中を、顔をヴェールで覆ったタミーノとパパゲーノが松明を持った二人の僧侶に連れてこられます。雷に慌てふためくシカネーダー演じるパパゲーノの妙技は初演では受けたことでしょう。

第3場
第11曲 二重唱(二人の僧侶)

 この二重唱に先立って4人による長い会話が挿入されます。台本には「弁者ともう1人の僧侶」と書かれていますが、スコアには「第1の僧侶と第2の僧侶」に音符が与えられています。現在ではほとんどの演奏は後者の組み合わせになっています。第1の僧侶がタミーノに「何がここに来させたのか?」と問うとタミーノは「愛と友情」と答えます。この問答は既に第1幕のフィナーレで弁者とタミーノの間で交わされているので、台本で弁者となっているのには矛盾があると言えます。

 この後タミーノとパパゲーノは修行を受ける合意を僧侶たちと取り交わしますが、第2の僧侶とパパゲーノの会話は対象的に滑稽なものになっています。なんとかパパゲーノに修行を受けさせようとする僧侶とそれを必死でかわそうとするパパゲーノとのやりとりは大いに笑いを誘ったことでしょう。第2の僧侶はパパゲーナというパパゲーノの恋人となる若い女性の名前を餌にしてなんとか説得するのでした。

 僧侶は沈黙を守ればパミーナに会えると言って二重唱を歌い出します。「女性のたくらみには気をつけろ」などジェンダーにもとづく偏見や不平等に満ちた歌詞でして、そのうち槍玉に挙げられるかもしれません。

二重唱「パミーナよ、どこにいるのだ? Pamina, wo bist Du?」
 ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団による『魔笛』のCD(1972年既述)を聴くと、僧侶の二重唱に続いて、タミーノとパパゲーノの二重唱が歌われています(DVDでは取り上げていません。)。この曲は1802年にアン・デア・ウィーン劇場で上演された時に演奏された曲で作曲者は不明です。ペータースのヴォーカルスコアに付録として出版されていました。現在はベーレンライターのヴォーカルスコアにも付録されています。
https://www.youtube.com/watch?v=2qLnMO68TyQ

第4場
 松明を持った僧侶が去った後、暗闇に残されたタミーノとパパゲーノが「これじゃ何も見えない」「それが神の意思さ」という会話を交わします。こんな短い場面を単独の場にしたのは何らかの意図があるのではないかと考えられ、この会話にフリーメイソンの儀式に関係するものがあるとする解釈もあります。

第5場
第12曲 五重唱(3人の侍女、タミーノ、パパゲーノ)

 ここで突然、3人の侍女が登場します。彼女らはタミーナとパパゲーノを罵り、僧侶たちの悪口を吹き込もうとします。タミーノは沈黙を守ろうとパパゲーノを諌めると舞台裏から僧侶たちの「女どもよ、地獄に落ちろ」との合唱が聞こえてくると雷と共に3人の侍女は姿を消します。歌もオーケストラ・パートも起伏に富んでいてとてもよく出来た曲です。最後にはパパゲーノが倒れることになっていますが、これを「気絶」と解釈して、冒頭の大蛇に追われてのタミーノの気絶、モノスタトスに追いかけられたパミーナの気絶に続くものとする解釈もあります。この後、例の和音が3回鳴らされると台本に書かれています。スコアには音符はありません。

第6場
 そこへ再び2人の僧侶がやってきます(台本では弁者ともう1人の僧侶)。女性の誘惑を避けたタミーノを称え、ヴェールを被せて次の試練へと促します。もう1人の僧侶は気絶したパパゲーノを起こし、嫌がるパパゲーノにヴェールを被せて無理やり連れて行きます。

第7場
第13曲 アリア(モノスタトス)

 舞台は変わって美しい庭園。馬蹄形に刈り込まれた樹々に囲まれたバラの花壇にパミーナが眠っていると、そこへモノスタトスがやってきます。この娘のために足の裏叩きの刑を受けたと恨みごとを吐いたにもかかわらず、彼女の白い肌に魅せられて、「ちょっとくらいキスしてもいいだろう」とアリアを歌いだします。スコアには p (ピアノ)と書かれていて、台本にも「終始弱音で演奏されずっと遠くから聴こえるように」とわざわざ書かれているところが興味深いところです。パミーナにとって夢の中で起きていることを意味しているのでしょうか。ピッコロとフルート、ファースト・ヴァイオリンがほぼユニゾンで細かい音符が忙しく動くトルコ風の曲で、それを弱音で演奏しなければならないオーケストラにとってはとても厄介な曲です。

第8場
第14曲 アリア(夜の女王)

 モノスタトスがパミーナに忍び寄っていくと、雷鳴と共に女王が舞台中央のせり出しから出て来て、真っ直ぐにパミーナに向かって進み、モノスタトスに「さがれ!」と一喝します。パミーナは目を覚まし、母との再会を喜びます。モノスタトスは物陰に隠れます。ここで女王とパミーナとの会話がなされ、タミーノが入信者たちに身を捧げたと知った女王は寺院内ではその力が及ばないため娘を失ったことを悟ります。また、かつてパミーナの父親が握っていた権力が彼の死によってザラストロと女王にどのように分配されたかが語られます。パミーナがザラストロは徳のない人には見えないと言うと女王は言下に否定し、ザラストロを殺すよう短刀を渡します。

 こうして夜の女王の2番目のアリアが、オペラ史上に燦然と輝くコロラトゥーラ・ソプラノ名曲が歌われます。「ザラストロに死の苦しみを与えないとあなたは永遠に私の娘ではなくなる。聞きたまえ、復讐の女神たち、この母親の誓いを!」といった怒りに燃えた歌詞に対してモーツァルトはスタッカートの母音唱法、高音域を駆け巡る跳躍の連続、軽やかな装飾音、変幻自在なオーケストラ伴奏、当時の慣例だった反復の省略等、様々な工夫を凝らすことで女王の性格を見事に描写しています。

第9場
 「殺す、そんなことなんて、できないわ。」とひとり残されたパミーナが悄然と立ち尽くすところです。

第10場
 そこへ物陰でこっそり母娘の会話を聞いていたモノスタトスが出てきて、自分のものになるか、さもなければザラストロに密告するとパミーナを脅します。パミーナが恐ろしさのあまり拒絶すると、モノスタトスはパミーナから短刀を奪い、彼女を殺そうと襲いかかろうとします。

第11場
 そこへザラストロが姿を現われパミーナは救われます。モノスタトスはあれこれ言い訳を言って逃れ、今度は母親の方当たってみようと台詞を吐いて立ち去ります。

第12場
 パミーナはザラストロに母親に情けをかけて赦してもらおうと懇願します。ザラストロは、母親は復讐を企んでいるが自分はそうはしない(既にこの地に復讐はないと第1幕で述べられています)、タミーノが試練を克服すればパミーナが彼の元で幸福になれる、そうすれば母親は恥じ入って退散するだろう、と諭しアリアを歌います。

 なお、ここで「女王を滅ぼす」と言っていないことが、シカネーダーが『魔笛』続編で夜の女王が復活する下地になっていると考えられます(第11章参照)。

第15曲 アリア(ザラストロ)
 「この神聖な広間では人々は復讐ということを知らない・・・愛は人を本来のつとめに導く・・・こうしてひとは友の手にすがって・・・より良い国に行く・・・人と人が愛し合い、敵をも赦す、このような教えを受け入れない者は、人間であることに値しない」などと友愛の精神に基づく教訓的な歌詞を静かに歌います。母親から親子の縁を切る、タミーノとはもうおしまい、ザラストロを殺せ、など無理無体なことを言われた上に男に襲われそうになってパニック状態になっている若い娘に話しかける内容とはとても思えません。この場面では父性愛を前面に出したいところで、そうした演出上の工夫もなされるところですが、ザラストロという役柄にはどうしてもメッセージを発する広告塔的な役割を与えざるを得なかったのでしょう。話は逸れますが、この曲を聴くとモーツァルトの歌曲 「夕べの想い」K.523を思い出します。死についてのモーツァルトの最も深い瞑想を歌った曲として知られる名曲で、その歌詞と『魔笛』は全く相容れないものではあるものの、深い感動を静かに歌う曲想には通じるものがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=X4YLGOyVb2Y

第13場
 ザラストロとパミーナが退場すると、タミーノとパパゲーノがふたりの僧侶に導かれてやって来ます。タミーノとパパゲーノは頭のヴェールを外され、ここでお別れだ、トロンボーンが鳴ったらその道を行くようにと言われます。また、沈黙を守るようにと念も押され、修行が続くことが示唆されます。僧侶たちは退場し、タミーノは舞台の前面にある芝生のベンチに腰をかけます(第14場)。話をしようとするパパゲーノに対して、タミーノは黙るよう口に指をあてます。

第15場
 喉が渇いたパパゲーノは水が欲しいというと突然老婆が現われて水差しを差し出します。パパゲーノは老婆の脇に座り、歳を尋ねると「18歳と2分」、恋人はいるかと尋ねると「あんたよ、パパゲーノよ」と答え。驚いたパパゲーノは(水は飲まずに)老婆に水をかけます。パパゲーノが名前を尋ねると、突然雷が轟き老婆は「私の名は・・」とまで答えて姿を消します。この謎掛けみたいなやりとりに観客は思わず笑いますが、同時に戸惑うところでもあります。意味のないシカネーダー得意の喜劇的なエピソードと見做すこともできますし、パパゲーノの好物の葡萄酒ではない水だったために、それは水の試練に関連するものという解釈もあるようです。これまで2度にわたってパパゲーノの未来の恋人パパゲーナという名前が語られていて(第7曲と第11曲の直前のセリフ)、それがこの老婆ではないかと推測されるところでもあります。

第16場
第16番 三重唱(3人の童子)

 「再びお2人を歓迎します。ようこそザラストロの国へ!」とバラやその他の花々で飾られた空飛ぶ車に乗ってやってきた3人の童子が歌い、笛をタミーノに、グロッケンをパパゲーノに返し、ご馳走を満載した食卓を降ろします。第1幕では夜の女王の依頼でタミーノらを敵地への案内役だった童子たちが、ここにきて何故「ようこそザラストロの国へ!」なのか大いに疑問が沸くところではあります。3人はタミーノにゴールは近いと励まし、パパゲーノに口をきいてはだめと念を押します。ここの音楽はファースト・ヴァイオリンやフルートといった高音楽器が低音の支えなしに上昇する音型で始まります。まさに空からやってくる情景を音にしたと考えられます。このことを舞台に反映させようとしない演出が最近とみに増えているのがとても残念なところであります。

第17場
 3人の童子は食料を届けると再び空飛ぶ車に乗って去って行きます。パパゲーノは当然のごとく食料に飛びつきガツガツ食べ始めます。シカネーダーの得意な語りと演技が場内を沸かせたことでしょう。一方タミーノはご馳走には目もくれず笛を吹き始めます。この笛が吹かれる2回目のシーンとなります。タミーノは笛を吹いて沈黙の修行の無聊をなぐさめます。これをタミーノの空気の試練と見做す解釈もあります。しかし、タミーノはこの後もっと厳しい試練が待っていました。

第18場
 パミーナがやってきたのです。沈黙を課せられているタミーノは悲しげなため息と共に笛を吹くことでパミーナを立ち去らせようとしますが、笛の力でもってもパミーナに本心を明かすことができません。このオペラの題名にもなっている「魔法の笛」の陰の薄さがここでも露呈していることになります。パミーナはタミーノの思いもよらない態度のわけがわからず、自分の愛が拒まれたと思ってしまいます。彼女は仕方なくパパゲーノにすがろうと話しかけますが、パパゲーノは幸か不幸か口一杯に食べ物を頬張っているために口をきくことができません。この会話から次のアリアが終わるまでの間は、このオペラの演劇面でも音楽的にもクライマックスと見做すことができる最も深い感動を覚えるところです。

第17番 アリア(パミーナ)
 このオペラを代表する或いはモーツァルトの作曲した中でも最高峰とも言えるソプラノのアリアがここで歌われます。自分が永久に見捨てられたという悲しさが、烈しい息遣いを思わせる弦楽四重奏によるリズムによって高ぶり、開始早々の1オクターヴの跳躍がパミーナの絶望感を静かに表現します。分散和音に続く長いヴォカリーズ唱法のところはまさに涙がとめどもなく溢れ落ちる様を描いています。「タミーノ、この涙はあなたのために流すのよ」と歌われるときに上昇するフルートとオーボエを聴いて胸が張り裂ける思いをしない人はいないでしょう。終曲で「真の安らぎは死の中にしかない(So wird Ruhe, so wird Ruh’ im Tode sein)」と繰り返す時の再度のオクターヴ跳躍を敢えて淡々と歌わせるモーツァルトの音楽作りの素晴らしさを改めて思い知らされます。歌が終わった後のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロから始まる後奏は演奏する上で全曲中最も悩ましいところです。

第19場
 パミーナが悄然と立ち去り、タミーノとパパゲーノが舞台に残されます。パパゲーノは漂う気まずさに頓着することなく「おいらだって、いざとなれば黙っていられるのだ」と強がりを言います。ここでトロンボーンの音が3回聞こえてきます。しかし、タミーノは僧侶たちに言われた通り、出かけようとします。まだ食べている途中のパパゲーノは「梃子でも動かない、ザラストロの6頭のライオンが来るなら別だけど。」と言います。するとその通りライオンが6頭登場し、パパゲーノに向かって行きます。タミーノはすかさず笛を取り出してメロディをひとくさり吹くとライオンは大人しくなって引き返して行きます。この音符もスコアには記されていませんが、第9曲フィナーレでタミーノが弁者と会話をした後に笛を吹いたときの旋律の一部をここで使うのが通例となっています。

 このシーンもシカネーダーの客受けを狙った喜劇的なエピソードと言えるところです。魔法の笛も相変わらず単なる小道具にしかすぎず、物語の象徴的な役割を果たしていません。とうとうパパゲーノは渋々ながらもタミーノに従って腰を上げます。ここで再度トロンボーンが3回奏され、続くふたりのやりとりの合間に再々度トロンボーンが鳴らされます。

 このトロンボーンの譜面は書かれていませんが、通常は第2幕冒頭で奏された木管と金管による3回の和音と同じ譜面を用います。ここの台本には「トロンボーン」と書かれている一方、第2幕冒頭のザラストロと僧侶たちの問答の場面では「ホルン」と書かれている点が気になるところです。共にモーツァルトが譜面を書いていないだけに、この楽器の指定が正しいものなのか、どんな意図があったのかなど謎のまま残されています。実際の演出でも、台本の指定通りの楽器で奏して薄い響きを鳴らす場合と、木管と金管総出で分厚い響きを鳴らす場合とがあります。なお、このシーンでも3回も奏すると時間がかかるので回数を減らしたり、ふたりのやりとりやライオンの登場そのものを省略したりする演出もあります。また、この時間を利用して次のシーンの舞台転換を行なう演出もあります。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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