モーツァルト:歌劇『魔笛』

各曲について 【 第1幕第6曲〜第8曲フィナーレ 】

 
               
第9場
第6曲 三重唱
(組み合わせの違う短い二重唱、モノスタトス=パミーナ、モノスタトス=パパゲーノの二重唱がふたつ連続し、全体としては3人が参加する重唱)
 エジプト風の部屋にトルコ風の調度を運びながら奴隷たちがやってきて、その滑稽なやりとりで囚われていたパミーナが逃げ出したらしいなどと話しています。ジングシュピールならではの観客を笑わせるシーンで、初演当時はアドリブを交えてまさにシカネーダー一座の腕の見せ所だったと思われるのですが、ドイツ語圏以外の我々日本人にはCDで聞いているとさすがにトラックを飛ばしたくなります。そこへモノスタトスの手錠(縄)を持って来いと言う声が聞こえてきます(第10場)。

第11場
 
次いでモノスタトスにパミーナが追いかけられながら登場します。幕開けにタミーノが蛇に追いかけられて登場する情景が薄っすらと蘇ってくるところです。この観客の心理を巧みに操作する演出はまさに近代演劇・映画を髣髴とさせるところで、これを意図的に行なったとするとシカネーダーは相当な曲者だったと言えないでしょうか。パミーナが気を失い、モノスタトスが奴隷たちを追い出している間にパパゲーノが登場します(第12場)。気絶しているパミーナを見つけて「きれいな人だ」と歌うところは気絶したタミーノをめぐって3人の侍女たちが奪い合うときのフレーズの変形が用いられていることは第1曲で述べた通りです。

 次はパパゲーノとモノスタトスのおどけたやりとり。お互いの奇妙な姿、黒人と鳥人間を見てびっくりするシーン。パパゲーノに扮したシカネーダーが本領を発揮するところでもあります。この滑稽な二人のやりとりの時の上向する分散和音は、第2幕で3人の童子が登場する時にも現われます。足が地に着かない様を描いているのでしょうか。二人が走って逃げ出すところの伴奏音楽は p(ピアノ=弱音)に徹した 細心の注意が必要です。モーツァルトのピアノ協奏曲第20、21、23、24、27番の第1楽章のエンディングにおいて、華やかなピアノ独奏のカデンツァに続いてオーケストラが、潮が引けるように消えていくモーツァルトが得意にした音楽作りに共通しています。やがてパミーナは目を覚まします(第13場)。

第14場
 パパゲーノが戻ってくると、パパゲーノとパミーナとの長い会話となります。パパゲーノは名前を名乗ったり、彼女が夜の女王の娘であるかどうか肖像画を見ながら確認をしたりします。さらに、王子がパミーナの肖像を見て恋をしたことも告げ、パミーナは心をときめかします。この会話の途中でパミーナは「太陽の高さはどれくらいかしら?」と問い、パパゲーノが「もうすぐ正午だよ」と答えます。話の筋とは関係がないように見えるためにしばしばカットされるやりとりなのですが、これはフリーメイソンの入門の試練が始まるのが正午であり、その時刻を尋ねて「正午です」と答えることで儀式が始まるという大事な合図であることを示唆していると言われています。もしモーツァルトがそのカットを知ったら激怒したかもしれません。モーツァルトが遺した書簡には、初演直後に『魔笛』を客席で観ていて、第2幕始まったばかりの厳粛な場面でセリフをちゃんと聞かない観客に腹を立てたということが書かれています(1791年10月8又は9日付)。オペラとして音楽的には全く関係ないことは言うまでもありませんが、モーツァルトの思い入れにはいくばくかの配慮はあってもいいのではないかと思われます。

第7曲 二重唱「愛を感じる男たちは」:パミーナ、パパゲーノ
 このデュエットでは友愛結社フリーメイスンの思想をも超える人類の究極の理想が歌われています。「愛を感じる男は優しい心を・・・愛の情けを感じる女・・・愛のみに生命がある・・・二人は神に届く・・・」といった愛の賛歌となっています。しかし、まだ幕が上がって30分くらいしかたっていないのに、しかも鳥刺しのパパゲーノと女王の娘パミーナは愛し合う仲でもないのに何故なのかと違和感を覚えるところでもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=44TlKhHLH4I

 曲はモーツァルトが残した歌曲の中でも屈指の名曲と言える作品です。女たらしを主人公にしたモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を嫌ったベートーヴェンも、さすがにこの曲には感動したのかこの主題を用いてチェロの名作「『魔笛』の主題による12の変奏曲 WoO. 46」を作曲しています。

 この曲の遺されているモーツァルトの自筆譜について2つの問題点(或いは謎)が指摘されてきています。ひとつは終わりから2つ目の小節の後半4,5,6拍(この曲は8分の6拍子のため1小節は6拍ある)を削除して、すべての小節線を波線で消し、3拍分小節線をずらして書き込んでいること、もうひとつは冒頭弦楽器による4つの音符の序奏からパミーナの歌唱が始まるまでの間に自筆譜では音符が何も書かれていない(7拍分の休符のみ)のに、出版されている譜面にはクラリネットとホルンのアコードが印刷されている、ということです。何時の頃からかその音符が付加されて出版されていて、長年の間その譜面の通り演奏されるのが通例でLPやCDにも録音されてきましたし、我々も何の違和感もなく受け入れてきました。


 魔笛 自筆譜

    
モーツァルトの自筆譜(オレンジ枠の箇所に音符は書かれていません。)

魔笛 印刷スコア  
  
出版されているスコア(オレンジ枠にクラリネットとホルンに音符が付加されている。)



 この2点について1950年代後半頃から様々な考察が行なわれ、いくつかの仮説が立てられています。Webには野口秀夫氏による詳細な分析がアップされていますのでご参照ください。モーツァルトは修正の途中で記譜の整合性を取ることを放棄したが、基本8分の3拍子の途中に8分の6拍子の小節が挟まっているというご指摘は卓見と思われます。
http://www.asahi-net.or.jp/~rb5h-ngc/j/k620-7.htm



 小節線については、この曲に関しては演奏する際に1拍目=強拍という原則よりは旋律に即して無意識に小節線を調節していると考えられます。クラリネットとホルンのアコードについては、ほとんどの演奏家は慣例に従って音符を追加して演奏しています。ごく一部、新しい研究の成果を取り入れている演奏もありますのでいくつかご紹介します。さすがに、長い沈黙は不自然ということで、セリフを入れたり休符を省略したりと様々な工夫を凝らしています。

★自筆譜面通りに空白のままにしてセリフ入れず沈黙を通す演奏:
・1982年:トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団。オリジナル楽器による『魔笛』の初の全曲録音とされています。調べた限りこれが唯一の自筆譜面通りに演奏した録音でしょう。

・2007年ツヴィンゲンベルク音楽祭(ドイツ)でのYouTubeの映像。もう少し演技に工夫を凝らせば沈黙に意味を持たせられたかもしれませんね・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=Q3-rkDd5pF8

★自筆譜面通りに空白のままにしてパパゲーノのセリフを入れている演奏:
・1987年11月:ニコラス・アーノンクール指揮チューリッヒ歌劇場管弦楽団によるCD。パミーナはバーバラ・ボニー、パパゲーノはアントン・シャリンガー。

・1997年ザルツブルク音楽祭:クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団による上演。YouTubeで全曲を見ることができます。パミーナはシルヴィア・マクネア、パパゲーノはマティアス・ゲルネ。開始から44分52秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=MTIhpbnJMXw

・1997年11月13日東京文化会館:ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン国立歌劇場の来日公演。パミーナはティーナ・キーベルク、パパゲーノはローマン・トレーケル。この演奏もYouTubeで全曲を見ることができます。開始から40分18秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=N6qtZVE5UOA

★自筆譜面の空白の部分をカットした演奏。つまり、8分音符を1拍と数えて開始から5拍目から10拍までの6拍分をカットした(切り詰めた)演奏:
・2005年9月モデナ、テアトロ・コムナーレ、ライヴ収録:クラウディオ・アバド指揮マーラー室内管弦楽団のCD。パミーナはドロテア・レシュマン、ハンノ・ミュラー=ブラッハマン、パパゲーノはローマン・トレーケル。
https://www.youtube.com/watch?v=dEvAzoEa3MA

*このアバドのCDのブックレットには自筆譜の写真を掲載しているものの、解説文がまるで説明になっていないのが残念です。しかもその序奏部が弦楽器のみだという文章の読点(。)ではなく句点(、)の後に続けて、話題を変えて第2幕第17曲のパミーナのアリアの序奏と類似しているとまで言及しています。しかし、これを似ていると言うのでしょうか・・・?

*アバドは1998年のベルリンフィルハーモニー・ジルベスターコンサートでこの二重唱を取り上げていますが、この時は慣例通り音符を付加して演奏をしています。
https://www.youtube.com/watch?v=WtOzJJjtf14

*アバドはベートーヴェンの第9のベーレンライター新版が出版される前にフライング気味に第4楽章におけるホルンのシンコペーションを採用していながらそのことの明言を避けています。それと同様にこの『魔笛』での省略についても何も語っていません(少なくとも筆者は読んでいません)。解説文の通り自筆譜を細密に研究したのであればその根拠を示すべきと思います。アバドは自らのブレーンによる助言を聞いてそのまま従っているだけという印象が拭えません。


☆オーセンティックな演奏を目指す演奏家なのに、意外にも慣例通りにクラリネットとホルンにアコードを吹かせている演奏:
・1990年:ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズによるCD。

・1992年8月:アルノルト・エストマン指揮ドロットニングホルム宮廷劇場管弦楽団のCD。パミーナはバーバラ・ボニー、パパゲーノはジル・カシュマイユ。アーノンクールとエストマンの指揮でパミーナを歌っているのは共にソプラノのバーバラ・ボニーです。彼女は2通りの譜面で歌ったことになります。

・1995年7月:ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツのCD。

・1995年アムステルダム・コンセルトヘボウ、演奏会形式:ジョン・エリオット・ガーディナー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のライヴ映像。

・1995年8月:ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンのCD。


 余談になりますが、筆者が2005年に某市民オーケストラで実験した録音をここにご紹介します。通常演奏される音符を追加したバージョンでまず演奏してから、次に自筆譜面通りに空白のままにして演奏しました。歌手の方には実は自筆譜面は違っていて、今度はその通りに演奏しますとしか伝えずに歌っていただきました。笑いをこらえながら歌われていましたが、音だけでは空白のままですとなんだか間が抜けていますよね。下記アイコンをクリックすると Googleドライブのウィンドウが開き再生することができます。

                                            Headphone


第15場
第8曲 フィナーレ

 場面は変わって森の中を3人の童子がタミーノを導いてきます。ト書きによると、舞台奥の中央には「WEISHEIT(叡智)」と書かれた寺院があり、左右にも柱廊でつながっている寺院があって、右は「NUTUR(自然)」、左は「VERNUNFT(理性)」とそれぞれ書かれています。しかしタミーノはこれらの寺院を見て「門と柱には叡智と労働と芸術がここにあると書いてある」と語ります。ラテン語ならともかくドイツ語で書かれた看板を見て中央の「叡智」は合っていますが、何故か残り2つは明らかに違うことを言っています。この「叡智」「自然」「理性」の3つはフリーメイソンの標語を意味していると解釈するのが通例となっていますが、そのことをぼかすために看板とセリフをわざと違うようにしたのかもしれません。
* 舞台にある建物は通常「神殿」と訳されていますが、台本のト書きには「寺院」と書かれています。東洋的な雰囲気を出そうとする意図から「寺院」と書かれていると思われますが、どちらにしても意味するところは同じでしょう。

 序曲以来ようやく登場するトロンボーン、すなわち宗教曲には欠かせない楽器によって音楽が始まり、3人の童子が聖歌風の歌を披露します。音楽はやがて静かな行進曲となっていき、3人の童子はタミーノに平静、我慢、沈黙を守るよう伝えて舞台を去ります。この唐突な教えの出現には少なからず面食らうところではありますが、モーツァルトはフリーメイソン入会の儀式で自ら体験したことをここで示唆したかったのだと思われます。

*当時の一般的なオーケストラ編成の中には含まれていなかったトロンボーンを、モーツァルトは歌劇『ドン・ジョヴァンニ』でもほんの少しだけ登場させています(2箇所)。殺害された騎士長の石像が建つ墓場で、「おまえの笑いも夜明けまでに終わろうぞ!」と騎士長の亡霊がドン・ジョヴァンニに語りかけるシーンで、全曲中初めてトロンボーンを使用しています(あと30分ほどでオペラが終わろうとするときに。)。その後、ドン・ジョヴァンニが邸宅で食事をしているとその騎士長の石造がやってくるのですが、その時もトロンボーンが登場し、ドン・ジョヴァンニを地獄に引きずり込まれるまで吹き続けています。この『ドン・ジョヴァンニ』の例を見ると、モーツァルトはこの楽器を使う場面を慎重に選んでいると考えるべきでしょう。

レチタティーヴォ
 ひとりになったタミーノはまず右側の寺院の入り口から入ろうとしますが、「Zuruck!(退れ!)」と舞台裏からの声に驚きます。次いで左側の寺院に行こうとしますが、再度「Zuruck!(退れ!)」の声で「ここでも、退れと?」と訝しみます。そこで中央の寺院に向かうと扉が開いてひとりのPriester(祭司)が出てきます。台本ではPriesterとされていますが、初演時のポスターの配役表にはSprecher(弁者)と書かれていまして、通常は「弁者」と呼ばれることが多いようです。

 ここから弁者とタミーノによる問答が始まります。演奏する側からするとこの箇所が全曲中で最も難しいとされていますが、ピタッと決まった時の達成感は何物にも替えがたいものがあります。
 
 「何を求めてここへ?」という弁者からの問いにタミーノが「愛と徳を!」と答えた時に、おとぎ話を観に来た観客はこの意外な返答に戸惑いを覚えることでしょう。タミーノはほんの少し前に「パミーナを救うのが私の役目だ」と啖呵を切ったばかりなのにどうしたことでしょうか?そういえば、3人の童子もパミーナを救うことに関しては直接的に言及することは避けていました。ここで3人の童子は夜の女王側からザラストロ側に寝返った(?)のか、或いは元々ザラストロ側のスパイであって夜の女王陣営に潜り込んでいたのかもしれません。

 この辺りの議論は1850年頃から唱えられている「『魔笛』の筋書き書き直し説」に関係しています。幕が開いて最初は、娘を奪ったザラストロが悪人だったのが、途中でそれが逆転して夜の女王が悪人となりザラストラが善人になっています。この説はシカネーダーとモーツァルトが『魔笛』を制作している最中に、ライバルだったレオポルトシュタット劇場が、彼らと同じ種本を使った作品をヴェンツェル・ミューラー作曲の『魔法の竪琴、あるいはファゴット吹きのカスパール』と題して上演したため、焼き直し・模倣と見做されることを恐れて夜の女王とザラストロの役柄を逆転させたというのです。この説は長らく支持されていましたが、現在ではその根拠となった資料の信憑性などから否定されています。剽窃の達人、生き馬の目を抜くことを信条とするシカネーダーが、たかが「道化作品」の作者に恐れをなして書き進めている台本を書き換えるなど考えられないし、モーツァルトも書簡の中でその芝居を観に行って「大騒ぎするだけで、全く中味のないものだ」と書いています(1791年6月12日付)。

 夜の女王に言われた通りザラストロがパミーナを母親から奪った悪人だとタミーノは主張する一方、弁者は「死と復讐がお前の心を燃え立たせている」、「ザラストロは叡智の神殿を支配している」、「お前を騙している女はおしゃべり」と語ります。次いで弁者が「友情がお前をこの神聖な場所に導く時に(So bald dich fuhrt der Freundschaft Hand) 」と歌う時に、それまで合いの手を入れるだけだったオーケストラのうちチェロがこの弁者の声をユニゾンでなぞり始めます。このフリーメイソン的な歌詞の登場でモールァルトは音楽に厳粛さを加えていると考えられると思われます。

譜面 弁者


 弁者は彼女の消息については黙したまま寺院の中に入りますが、舞台裏からの男性合唱が聞こえ、「パミーナは生きている」とタミーノに希望を持たせます。この時、オーケストラは再びトロンボーンが登場して神聖で崇高な雰囲気を作り上げています。

 この後、タミーノは笛を取り出して吹き始めます。この笛が仙女物語に由来する魔除け・魔物退治の武器であったなら、寺院の前に来たときに既に吹いているはずなのに、何故ここで吹くのかという疑問が沸きます。パミーナの無事を知ったタミーノのセリフ「ありがとう(Dunke)」に呼応しているとすると感謝のしるしなのかもしれません。タミーノが笛を吹くと獣たちが集まってきます。まさにこれは観客受けを狙ったシカネーダーの演出と考えられますが、初演当時の舞台の模様を描いたスケッチでは土人(おそらくモノスタトスの奴隷たち)と数羽の鳥だけが描かれています。ト書きには笛を吹くと直ぐに動物たちが出てその音に耳を傾け、吹くのをやめると獣たちは逃げてしまい鳥たちが声を合わせると、書かれていますので、少々気になるところではあります。

 タミーノはフルートのオブリガードを従えて「なんと力強い魔法の響きだろう。優美な笛を吹くと野生の動物たちでさえ喜びだす」と明るいハ長調で歌い始めますが、しばらくすると「パミーナだけが遠くにいる・・・」と歌うところでハ短調となって顔を曇らせます。しかし直ぐにフルートがニ長調に切り替えして明るく軽快なリズムを吹くと、タミーノは「パミーナ!」と呼びかけ、音楽は小刻みな転調を繰り返します。すると遠くからパパゲーノのパンフルートが聞こえてきて元のハ長調に戻り、タミーノはパミーナを探さなければと慌てて退場します。不安と希望の間を行き来するそのわずかな瞬間をこれほど見事に描いた音楽は他にはありません。これを天才と言うのでしょうか。

 なお、ハ短調から転調したときにタミーノが「パミーナ!パミーナ」と歌うフレーズは第3曲のアリア「なんと美しい絵姿」の素材を再び使用していますし、この2曲は音の跳躍を多用していて全体的に音楽つくりが似かよったところがあります。

譜面 タミーノ1-8
譜面 タミーノ1-3b

第16場
 舞台は変わって、たぶん建物の外でしょうか。パミーナとパパゲーノが逃げてきます。パパゲーノが吹くパンフルートに遠くでタミーノの笛が呼応します。助かったと思うのもつかの間、モノスタトスとその奴隷たちが追いついてきてふたりを捕らえます(第17場)。この突然の闖入のときに鳴らされる音楽がモーツァルトの名曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』によく似ています。この日本語では『小夜曲』と訳される曲ですが、この「夜」を題名とする曲を使って、モノスタトスがこの後、夜の女王の手下になることを示唆しているのでしょうか。

譜面 モノスタトス
譜面 アイネクライネ


 絶体絶命のパパゲーノが取り出したのは魔法のグロッケンシュピーゲル。モノスタトスと奴隷たちは踊り始めます。シカネーダーが自作のジングシュピール『オベロン』で受けた魔法の楽器の威力がここでも炸裂。お客さんも「待ってました!」と喝采したのではないでしょうか。モノスタトスと奴隷たちが退散した後にパパゲーノとパミーナが歌う短い二重唱の旋律が何故か24年後に作曲されたシューベルトの名曲『野ばら』によく似ています。ここで演奏されるグロッケンシュピーゲルについては第20曲の解説をご参照ください。

 するとそこへトランペットとティンパニのファンファーレが響き、「ザラストロ、万歳!」という合唱の声が舞台裏から聞こえてきます。6頭のライオンに引かせた凱旋車に乗ってザラストロの到着です。パパゲーノは何が起きたかと恐ろしさで体を震わせ、それをヴァイオリンがトリルで表わします。パミーナは「真実を話しましょう。たとえそれが罪だとしても」と気丈に歌います。この時が止まったかのような瞬間に、パミーナは7度と8度の跳躍する音符を印象的に歌うのですが、振り返ると6度と7度の跳躍で歌い始めたタミーノのアリア「なんと美しい絵姿」(第3曲)と、第2幕でタミーノが試練に臨む前にパミーナが現われて「私のタミーノ、ああ、なんという幸せ!」と語り合う時の6度の跳躍とが符号しているように思われます。モーツァルトの周到な音楽つくりを窺うことができるだけでなく、この3箇所がストーリーの重要なターニング・ポイントと見ることによって、一見雑然と見える『魔笛』全体に1本の筋が通っていることに気付かされるのです。

第18場
 威厳に満ちたザラストロを賢者として讃える合唱が歌われます。この音楽はモーツァルトの劇付随音楽『エジプト王タモス』の冒頭で歌われる「太陽賛歌」からの引用されることがありますが、雰囲気は似ているけれども引用とは言えるほどではないと思われます。しかし、モーツァルトが『タモス』を意識してここの合唱曲を書いたのは間違いないでしょう。ザラストロが車から降りると、パミーナはザラストロの足元に身を投げ出します。掟を破って逃亡したことを告白し、しかしそれはモノスタトスから逃れるためであることを訴えます。ザラストロはパミーナが逃げたことは咎めず、彼女が男を深く愛していること、母親の元に返すことはできないことを歌います。またここでもザラストロの口から教訓が出てきます。しかし、「男がいなければどんな女も自分の領域を越えようとするからだ」というフリーメイソンの思想に基づくこの発言は、時の時代精神を代表しているとは言え現代では受け入れがたいものがあります。

第19場
 そこへ軽快な音楽と共にタミーノを捕らえたモノスタトスが得意満面に登場してタミーノをザラストロに突き出します。ここのファースト・ヴァイオリンによる装飾音符付きの忙しい箇所は難易度の高い箇所です。舞台ではパミーナに気付いたタミーノがザラストロに目もくれずパミーナに向かい、二人は周囲に目もくれずに抱擁します。軽快な音楽にも関わらず二人は途切れがちに「あの方だわ!」「あのひとだ!」と声を掛け合い、その時にモーツァルトは第3曲のアリアでタミーノに歌わせた愛情を表わす音型を与えています。ヴァイオリンはテンポを変えずに装飾音符付きの音符をその瞬間だけやめてスラーの付いた分散和音を弾きます。なんと手の込んだ書き方をしていることでしょう。

 モノスタトスは二人を引き離し、ご褒美に預かろうと自分の手柄をザラストロに報告します。しかし、逆に77回足の裏を叩くよう罰が下され、間髪いれずに合唱がザラストロの正しい裁可を讃えます。叡智のザラストロが何故こんな男を手元に置き、しかもパミーナという若い女性の番をさせているのかという疑問が残るところではありますが、観客はホッと胸を撫で下ろしたことでしょう。そこで、ザラストロはタミーノとパパゲーノに頭巾を被らせて試練の寺院に連れて行かせます。またしても唐突な話の展開に戸惑うところでして、何故試練をしかもパパゲーノまで受けることになるのか、頭巾を被らせるのは何故なのかという疑問が沸くところです。「徳と正義が偉大な人々を・・・人々は神々に等しいものとなる」と合唱が歌い、第1幕の幕が下ります。その歌詞は確かにフリーメイソン的な思想と言えるところですが、モーツァルトがこのオペラで訴えたかったことがここで力強く歌われていることは確かです。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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