モーツァルト:歌劇『魔笛』

第12章 『魔笛』 Variation

 

 『魔笛』は様々な物語から素材を持ち寄られていることは前述の通りですが、こうしたまとまりのない雑多な寄せ集めにもかかわらず、いやむしろだからこそモーツァルトはそれらひとつひとつに性格的な音楽を与え、高い芸術性の中に娯楽性を加味しつつ幅広い観客層の心を動かす曲に作り上げていると言えます。パパゲーノとパパゲーナの道化役に対してはハイドン風の民謡調音楽、ザラストロや弁者などに対しては宗教的で静謐な音楽、夜の女王へは疾風怒濤を思わせるデーモニッシュな音楽、鎧を着た二人の男たちにはルター派の古いコラール旋律を与え、お伽噺から抜け出てきた王子様タミーノには後のロマン主義を髣髴とさせる音楽、そしてパミーナへは死の想念を込めた音楽をと、1曲のオペラの中に驚くほど多彩な人物描写を行なうことで『魔笛』をジングシュピールという枠組みを超え時代を超えた作品に仕上げているのです。

 この多様性こそベートーヴェンを感動させて2曲の変奏曲を作らせ、ロベルト・シューマンに強烈な刺激を覚えさせてオペラの抜粋をピアノ用に編曲(1819年)させたのだと考えられます。ピアノ版の編曲には、ヨハン・ネポムク・フンメル(1台ピアノ版:序曲)、フェルッチョ・ブゾーニ(2台ピアノ版:序曲)とアレクサンダー・ツェムリンスキー(1台4手版:全曲)とがあり、共にCDで聴くことができます。
*シューマンの編曲版の譜面や演奏は確認できていません。

 以下にご紹介するリストは『魔笛』の主題を用いた作品です。モーツァルトと同時代の多くの作曲家たちが『魔笛』から旋律を取り出して変奏曲や幻想曲などを多数作曲していたことがわかります。誰もが知っている作品の名前を冠したピアノなどの曲を出版すれば、貴族や上流市民で楽器を弾く人々が譜面を買ってくれるということがあったのでしょう。歌劇『後宮からの誘拐』初演の翌年、モーツァルトの書簡(1782年父宛)の中に「オペラを木管アンサンブル用に編曲しなければなりません。でないと誰かが先を越して、僕の代わりに儲けてしまいます。」という既述があることから、出版社はヒットしている音楽の編曲物を出版すればよく売れるという事情をよく心得ていたということが言えます。

 『魔笛』初演翌年の1792年には、早くも『魔笛』の2つのヴァイオリン又はフルート用編曲の譜面が出版されています(編曲者不明)。この譜面は1982年にエルンスト・コヴァチッチによって再編集されてUniversal Editionから入手することができます。技術的にも難しくなく編曲されている曲集で、まさに家庭や社交の場で誰にでも演奏できる手軽な楽譜と言えます。


*他の作曲家による『魔笛』関連の作品は下記の通りです。
ヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー:
    『魔笛』のアリア「私は鳥刺し」による6つの変奏曲(1792年)
ベートーヴェン:
    『魔笛』から「娘っ子でも女房でも」の主題による
    12の変奏曲ヘ長調 Op. 66(1796年)
ベートーヴェン:
    『魔笛』から「恋を知る殿方には」の主題による
    7つの変奏曲変ホ長調WoO 46(1801年)
ヨハン・バプティスト・クラーマー:
    『魔笛』から「娘っ子でも女房でも」の主題による11の変奏曲(1799年頃)
ルイ・シュポア:ヴァイオリンとハープのためのソナタ Op. 114
    第2楽章 アンダンテ(「魔笛」の主題によるポプリ:1819年)
アントニーン・レイハ:
    『魔笛』の主題によるピアノ・ソナタヘ長調(或いは変奏曲:作曲年不詳)
フェルディナント・リース:
    ピアノのための「私は鳥刺し」幻想曲 Op. 97(作曲年不詳)
クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ:
    『魔笛』から「祭司たちの行進」による変奏曲(作曲年不詳)
フェルナンド・ソル:
    モーツァルトの主題による序奏と変奏 op.9(forギター:1821年出版)
ヨーゼフ・ラインベルガー:
    モーツァルトの『魔笛』の主題による即興曲 Op. 51(1860年)
ミハイル・グリンカ:
    モーツァルトの主題による変奏曲 変ホ長調
    (ピアノ版第1稿、ハープ版:1822-1827年、ピアノ版第2稿:1856年)
カール・アンデルセン:
    フルートとピアノのためのオペラ・トランスクリプション
    op.45(1895年)〜『魔笛』

 アウエルンハンマー(1758-1820年)は、モーツァルトに師事したことがあるオーストリアの女性作曲家・ピアニストで、モーツァルトは彼女にヴァイオリン・ソナタ数曲を献呈しています。
https://www.youtube.com/watch?v=f3npU4y9OOw

 クラーマー (1771-1858年) はマンハイム生まれのピアニストで作曲家。主にロンドンで活躍し、ピアノ製造と音楽出版の企業家としても成功しています。ピアノを習った方ならよくご存知の『クラーマー=ビューロー練習曲』の「クラーマー」との彼のことです。余談ですが、「ビューロー」はハンス・フォン・ビューローのことで、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の初演の指揮を執り、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の初演でピアノを弾いた人物です。エジプトのカイロで客死したビューローの葬儀がハンブルクの聖ミヒャエリス教会で執り行われ、葬儀に参列したグスタフ・マーラーがその時に聴いた合唱曲に感動し、その歌詞を交響曲第2番『復活』に使用することを思いついたという逸話はつとに有名です。
https://www.youtube.com/watch?v=c18f6_Ut97M

 ルイ・シュポア(1784-1859年)はドイツの作曲家、ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の指揮者も勤めた人物です。ベートーヴェンが交響曲第7番の初演を指揮した時にオーケストラでヴァイオリンを弾いていたと考えられています。ヴァイオリンの「顎当て」を発明した人物としても知られていて、この「顎当て」の発明によってそれまで極めて困難とされていた指使いが容易になり、ポジション移動やヴィブラートがしやすくなり、何より演奏における表現付けがより多彩になったのでした。この曲はハープを伴奏にしたヴァイオリン・ソナタの第2楽章で、パミーナ、パパゲーノ、モノスタトスらのアリアや3人の童子の三重唱の旋律などとそれぞれの変奏を上手につないだ作品になっています。
https://www.youtube.com/watch?v=ERHobdKqcn8

 レイハ(1770〜1836年)はチェコ出身の作曲家で、ベートーヴェンとは同い年、友人でもありました。後にパリ音楽院の作曲科教授となり、フランツ・リスト、エクトル・ベルリオーズ、シャルル・グノー、セザール・フランクら、後世に名を残すことになる錚々たる作曲家の卵たちを育てました。

 リース(1784-1838年)はドイツの作曲家でピアニスト兼指揮者ですが、ベートーヴェンのピアノの弟子でもあり、晩年に師の回想録『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書』を執筆したことで音楽史上にその名を不動のものにした人物です。

 ネーフェ(1748〜1798年)はドイツの作曲家、指揮者、オルガニストで、ベートーヴェンの教師として知られていて、当時最高のジングシュピール作曲家のひとりとも見なされていました。この曲の他に「連弾のための『魔笛』からの6つの断片」(或いは、「『魔笛』からの6つの易しい小品」)という作品もあるようです。
https://www.youtube.com/watch?v=xGwyCXFdc1c

 ソル(1778-1839)はスペイン、バルセロナ生まれの作曲家でギター奏者。本国では「ギターのベートーヴェン」とも呼ばれました。モノスタトスと奴隷たちが歌う「何と素晴しい音だ」の主題を使った曲で、現在のギター奏者にとって重要なレパートリーとなっています。
https://www.youtube.com/watch?v=iaEcDgxm8es

 ヨーゼフ・ラインベルガー(1839-1901年)は、リヒテンシュタインの生まれの作曲家、オルガン奏者。教育者として名が高くミュンヘン音楽院で教鞭を取り、エンゲルベルト・フンパーディンク、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリなどの作曲家を世に送り出しました。この曲はパパゲーノが錠前を咥えながら歌う「ム、ム、ム、ムムムム」の五重唱のテーマやパミーナのアリアのテーマなどをふんだんに且つ効果的に織り交ぜた聴き応えのある作品です。
https://www.youtube.com/watch?v=XLhPS8yelxU

 グリンカ(1804?1857年)によるこの作品はまだグリンカが学生時代、20歳前後の頃に作曲されたものです。しかし、譜面は失われてしまい、彼の妹リュドミラ・シェスタコーヴァが自身の記憶をもとに譜面を復元したとされています。そのためか、主題そのものが『魔笛』なのかどうかよくわかりません。なお、グリンカは亡くなる前年にピアノ版を改訂しています。お気に入りの曲だったのか、妹の記譜が気に入らなかったのか、この辺のところは未調査です。
https://www.youtube.com/watch?v=2yhYe7ui-uQ
https://www.youtube.com/watch?v=MoCheXQDWxQ

 アンデルセン(1847-1909年)は、デンマークのフルート奏者、指揮者、作曲家。このトランスクリプション集には『魔笛』の他に、モーツァルトの『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』をはじめベルリーニの『ノルマ』、ウェーバーの『魔弾の射手』、ニコライの『ウィンザーの陽気な女房たち』などの編曲が全部で8曲が収められています。
https://www.youtube.com/watch?v=CprASbnadAo



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。                                 


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