モーツァルト:歌劇『魔笛』

第10章 『魔笛』という題名の謎と『魔笛』全2部作という仮説

 
             タミーノが吹く魔法の笛 

タミーノが吹く魔法の笛


 魔法の笛の果たす物語の中での役割は、題名に挙げられているのにかかわらず、意外と少ないことに気付きます。題材となったリーベスキントの『ルル或いは魔法の笛』、ヴィーラントの『オベロン』における魔法の楽器の活躍ぶりからすると『魔笛』における魔法の笛はやや存在感が乏しいという感が拭えないのです。『オベロン』でのホルンは窮地に陥った主人公を危機一髪のところで救い出すという役割を持っていますが、『魔笛』にそんな特別なシーンは見当たりません。

 最初にタミーノが笛を吹くのは寺院の前でのシーン。しかし、弁者と問答を行なった後であって、その前に寺院に着いて門前払いを食らった時、すなわち「退がれ!」と一喝されて吹いたのではありません。「パミーナは生きている」と知らされて笛を取り出すところを見ると感謝のしるしではないかと考えられるのです。この時、笛の音に惹かれて動物たちがぞろぞろ出てきます。「動物の心をもあやつる」という笛の正体に気付いた観客は期待に胸を膨らませますが、その後第2幕でも笛の音でライオンを追い払うことをしますがその程度のことしかしません。結局最後まで観ると、この魔法の笛が物語の展開にあまり関係がないことに気付いたり、笛の存在そのものを忘れてしまったりすることもあるのです。

 物語の大詰めで魔法の笛が大活躍をすることもなく、華やかでスペクタル満載の展開もありません。とりわけCDで音楽だけを聴くと、その魔法の笛が活躍する試練の場が静かで短すぎ、しかもオペラ全体のフィナーレと直結していないがゆえにドラマの頂点であることを聴き逃してしまうことも事実です。舞台を観ていても幕が下りたときに、タミーノがなぜ魔法の笛を高々と掲げるのかと疑問に思ったり、動物をあやしていたり、お守り程度の印象しか残らないのは正直なところです。

 しかし、魔法の笛が登場するシーンをよく見てみると共通することがあります。最初に3人の侍女がタミーノにこの笛を渡すとき、「人の情念をあやつり、憂い悩む人を陽気にし、結婚できない男も恋に落ちる・・・金や王冠より貴く、平和と人の幸せを実現する」と言います。いきなり崇高な話がここに登場して面食らうところですが、このことは第2幕で最後に笛が登場するシーンに結びついていきます。そこではタミーノとパミーナが2人して「火」と「水」の試練に向かうところで吹かれ、ついには寺院の扉が開き中に入ることが許されます。それに先立ってパミーナは「愛が私を導いてくれます。愛は茨の道にバラを撒いてくれます。バラはいつも刺のある所に咲くのですから。魔法の笛を吹いてください。笛は私たちの行く先を守ってくれるでしょう。」とタミーノに言います。つまりこのオペラで描こうとした「友愛」、「男女の愛」や「平和と人の幸せ」が成就される時に2人をサポートし導いていく役割を笛が担っていると考えられるのです。

 つまり、モーツァルトは、自分自身が最も強調したい歌詞や状況の時に笛を象徴的に登場させていることになるのです。このオペラの題名が『タミーノ、或いは日本人による秘儀への道』とか『笛吹き王子』、『ザラストロの栄光』、『パパゲーノの冒険』、『夜の女王と魔法の笛』などではなく『魔笛』であるということの説明とならないでしょうか。さらに考えると、フリーメイソンに対する当局の監視が強化されていた時に敢えてこうした作品を上演したのは、「友愛」、「男女の愛」や「平和と人の幸せ」の実現こそがフリーメイソンのめざすもので、言い換えればフリーメイソンは時の為政者に対して害のある結社ではないことを訴えたかったからではないでしょうか。

 なお、オーケストラのフルート・パートは、序曲と第1曲イントロダクションの終わりあたりで使用した後は第2曲から第5曲まで出番なしのお休みとなっています。第1幕の第6曲におけるパパゲーノとモノスタトスの滑稽なシーンでようやく再登場します。たまたま高音の木管楽器を必要としなかったのかもしれませんが、モーツァルトは何らかの意図を持ってそうしたという説もあります。しかし、第5曲で3人の侍女がタミーノに笛を渡すシーンや、「銀の鈴、魔法の笛はお守り」と歌う3人の童子の登場のシーンでも使われず、何故モノスタトスのシーンでフルートが戻ってくるのかがうまく説明できないところです。最初は作曲しなから何かを考えていたところが、そのことを途中で放棄したのかもしれません。天才の頭の中は神のみぞ知るでしょうか。

 パミーナはこの笛の由来についてタミーノに説明するところでは、彼女の父親が嵐の日、雷鳴が轟く中を樹齢千年の樫の木から作ったと言います。彼女の父親とは夜の女王の夫であり、ザラストロの前任者とされています。笛は樫の木から作ったのですから当然木製であります。3人の侍女がタミーノに笛を渡すときに「金の笛(goldene Flote)」と言いますが(黄金でできた笛)、これは「金色の笛」と訳すのが正しいと思われます。

 次の第11章ではシカネーダーが『魔笛』初演から7年後にその続編を上演したことについてご紹介します。そこでこの続編が存在することから、想像力を働かせてこの『魔笛』という題名の謎について考えたいと思います。証拠は全くありませんが、この続編はシカネーダーが『魔笛』の評判に気を良くして2匹目のドジョウを得んとして制作したのではなく、モーツァルトとシカネーダーは最初から全2部からなる『魔笛』を考えていたという仮説はいかがでしょうか。

 魔法の楽器が活躍することで奇跡を起こすというお伽噺的発想はシカネーダーの得意としたところであり、作品の題材を求めていた当初はそれがオペラの出発点であったことは確かでしょう。同時期にライバルだったレオポルトシュタット劇場が、シカネーダーと同じ種本を使った作品をヴェンツェル・ミューラー作曲の『魔法の竪琴、あるいはファゴット吹きのカスパール』で評判を取っていたこともあり、それを上回る作品が求められていたはずです。ところが、種本の『ジニスタン』では楽器が大きな働きをしていたのに『魔笛』におけるその役割は限定的と言わざるを得ません。そこで、当初から『魔笛』の続編を考えていて、その続編においてその楽器の威力の全貌が明らかにされるはずだったと考えることは可能ではないでしょうか。

 『魔笛』全2部作という仮説の根拠として、作品に中に織り込まれている試練についてもそのひとつに挙げられます。第7章で述べた通り、シカネーダーは『ジニスタン』の『迷宮』から四大元素である空気、水、地、火の試練をこの続編の中に取り入れています。『魔笛』では水と火の試練しか演じられていないのは、続編でこの4つの試練が完結されることになっていたのではないかとも考えられます。もちろん、『魔笛』に空気と地の試練を思わせるシーンがあることを指摘する説もありますが、台本の中にそのことを直接記述している箇所は甲冑をつけた二人の男が歌う「苦難の道を辿る者は、火と水、風と土により浄められる」という歌詞しかないためその説はやや説得力に欠けると思われます。

 この『魔笛』全2部作という仮定を進めると、最初の構想では続編においてこの魔法の笛は画期的な働きをする、すなわちクライマックスの絶体絶命のシーンで活躍するはずだったのではないかと推測されるのです。しかしながら、次章で述べる『魔笛』の続編では、タミーノよりパパネーノの活躍が目立つ筋立てになっています。モーツァル亡き今となっては、シカネーダーは大手を振ってパパゲーノを脇役から主役に仕立てることができたはずで、それによってパパゲーノのグロッケンシュピールが活躍する一方、魔法の笛の出番は減ってしまったのではないでしょうか。『魔笛第2部』としたのはあのモーツァルトが作曲した『魔笛』の続編であることをアピールする客寄せのためであって、シカネーダーにとって物語の筋における魔法の笛はそれほど意味をなさなくなってしまったと考えるのが自然と思われるのです。こうして、当初構想された魔法の笛が活躍するストーリーは変更され、物語が完結する時にはその笛は不発のままうやむやにされてしまったのではないでしょうか。『魔笛』を観終わったときに感じるどこか釈然としない感じはこのように考えると納得がいきます。

 最後にもうひとつ、この『魔笛』全2部作説を後押しする考え方をご紹介します。次章で紹介する続編のあらすじによると、続編はタミーノとパミーナの結婚シーンで幕が開き、二人の愛が確固としたものとなって幕を閉じます。『魔笛』をフリーメイソンの思想を体現したオペラだと言う場合、大きな矛盾にぶつかるのが女性の問題です。フリーメイソンは男性結社であることから、基本的には男性本位の世界であって女性の入会を排除するものでした(女性向けのロッジがないわけではなかったですが。)。そのフリーメイソンの思想を『魔笛』に取り込むには女性であるパミーナの存在について説明しなければなりません。

 しかしシカネーダー的には、大衆向けのジングシュピールに女性がいなければお客さんは見向きもしないからパミーナを削除するわけにはいきません。モーツァルトも女性を男性と同等に見做すという独自の考えを持って『魔笛』に臨んでいたと考えてはいかがでしょうか。『魔笛』の第1幕で幕が降りるときはタミーノとパミーナは引き離されてしまい、第2幕で試練を受けるのはタミーノとパパゲーノのふたりですが、幕の終わりではパミーナもタミーナと共に試練に臨むことを可能にしているのです。これはまさにフリーメイソンの思想における「友情と愛」という精神を拡大して解釈してそこに男女の愛を盛り込んでいると見做すことができます。『魔笛』第1部のフィナーレで二人はその試練を乗り越えますが、男女の愛という観点から言えばまだ到達点(=結婚?)には達していないことになります。つまり『魔笛』第1部の後にはまだ続きがあり、二人はさらなる試練、おそらくシカネーダーお得意の手に汗握る冒険シーンの数々が用意されていたと考えられるのです。

 モーツァルトの劇作品を振り返ってみると、『エジプト王タモス』では男同士の「友愛」を、『ツァイーデ』や『後宮からの誘拐』では統治者による「友愛」を描き、ダ・ポンテ三部作を挟んで(この三部作についての議論は別の機会に譲ります。)、最後の『魔笛』では、フリーメイソンの思想を拝借しつつ「友情と愛」を発展させた男女の愛の姿を描いているということに気づきます。まさか最初から意図していたとは思えませんが、何か一貫したものが見えてくるのは不思議でなりません。


*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


           ≪ 前のページ ≫        ≪ 目次に戻る ≫       ≪ 次のページ ≫

Copyright (C) Libraria Musica. All rights reserved.