モーツァルト:歌劇『魔笛』

第9章 フリーメイソンと『魔笛』

 
             魔笛の台本

『魔笛』の台本


 フリーメイソンは16世紀後半から17世紀初頭にヨーロッパ各地で作られた友愛結社で、宗教団体とは少し様相が異なっていて、その祭壇には各宗教の経典を平等に並べていたとされています(宗教の自由)。通過儀式を重視し、中世の同業組合の伝承を守り(とりわけ石工職人)、秘密の儀式を執り行うことに重きを置いています。その伝承は古代の東洋の秘儀にまで遡り、とりわけエジプトを探索の対象としていました。ヨーロッパでは1700年代の後半が最も興隆した時期とされています。

 時のオーストリア皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主の代表格で、フリーメイソンにも寛容な態度を示していたこともあり、モーツァルトが活躍したオーストリアでは1784年には62までのロッジ(支部)を抱えるほどの大所帯になっていました。とりわけ知識階級を中心に芸術家、貴族、富裕商人などの間に広まっていて、モーツァルトも幼い頃からフリーメイソン関係者に囲まれて育っていたと考えられます。

 モーツァルトは『魔笛』を作曲する以前にも10曲近いフリーメイソンに関わった作品を書いています(最多で92曲という研究もあります。これは全作品の約15%にあたるとか)。11歳の時にフリーメイソンのテキストをもとに歌曲『歓喜に寄す An die Freude』K.53を作曲、さらに16歳の時にはフリーメイソンのあらゆる祭式の終りに手を取り合った結社のメンバーによって歌われる歌曲 『おお聖なる絆よ』 K.148を作曲しています(作曲年代には異説もあります)。

 モーツァルトは1784年12月14日に正式に入会式を受けています。父親レーオポルトも息子に誘われて3ケ後に入会し、ヨーゼフ・ハイドンの入会もきっかけのひとつをモーツァルトが作ったとされています。モーツァルトはフリーメイソン入門直後に作曲した弦楽四重奏曲の傑作ハ長調K.465『不協和音』をハイドンに献呈していますが、そのわずか2ケ月後にハイドンが入会しています。この曲の題名は混沌とした序奏部のアダージョに由来していて、序奏部に続いて主部に入ると一転して輝きと秩序に満ちたハ長調のアレグロへと音楽が進行していきます。これこそ、フリーメイソンに入門することで混沌から秩序を体得した自らの体験を表わそうとしたという説もあり、ロマン派以降の作品には多くある発想ですが、この時代の音楽には類を見ないのは確かですので卓見と言えるかもしれません。後に、ハイドンがオラトリオ『天地創造』(1798年作曲)で同じことを再現したと論じるのは少々穿ち過ぎでしょうか。

 *しかし、ハイドンの入会について過大視するのは危険です。ハイドンはフリーメイソンのロッジが主宰する会には出席することはなく、また会のための曲を作曲することもなく、1年足らずで会員名簿から削除されています。

 モーツァルトが書いたフリーメイソンのための曲の中で最も知られた曲である「フリーメイソンのための葬送曲ハ短調 K.477 (479a) 」について簡単に触れておきます。私事ながら、およそ半世紀前に友人宅でフリーメイソンに関わるモーツァルトの曲だけを集めたLPレコード聴かせてもらい、「フリーメイソン」という言葉をこの時初めて知り、またこの曲がメインに据えられていたことを覚えています。モーツァルトがフリーメイソンに入会した1784年12月14日のほぼ1年後の1785年11月15日頃にウィーンで作曲された曲で、フリーメイソンの重鎮であった「盟友メクレンブルクとエステルハージの死去に際して」書かれたものです。余談ですが、暗殺された米国の大統領候補ロバート・ケネディのために、ウィーンに客演していた指揮者オットー・クレンペラーはウィーンフィルハーモニー管弦楽団を指揮してこの曲をプログラムの演目であったマーラーの交響曲第9番の前に急遽演奏しています(1968年6月9日 ― 暗殺の2日後)。

 『魔笛』にはフリーメイソンの様々なシンボルが織り込まれていることはよく知られていることです。全曲にわたって【3】という数字に支配されています。「フリーメイソンの入会の儀式では目隠しされた志願者は扉を3回叩く」ということから、序曲の冒頭及び中間部で鳴らされる3回の和音、3人の侍女に3人の童子、3つの寺院に3つの扉、ピラミッドの三角形、祭司たちの審問会でのホルンが3回鳴らされる、『魔笛』の基本となる調号が♭3つの変ホ長調、等々。
 
 その他にも作品の中にフリーメイソンの儀式を想起させるシーンがいくつかあります。第1幕で気を失っていたパミーナが目覚めた後に、パパゲーノに対して「太陽はどの高さかしら?」と訊ねるとパパゲーノは「もうすぐ正午ですよ。」と答えるシーンがあり、ここでの暗示にモーツァルトの友人が理解しなかったことに腹が立ったとモーツァルトが語ったとされています。つまり、フリーメイソンの入信の試練は正午に始まり、その開始を宣言する前に何時かを尋ね、「正午です、尊師さま」と答えるという儀式に基づいているとされているからです。

 また、タミーノが寺院に入ろうとするシーン、試練の前にヴェールを被らされること、沈黙の試練や水、火の試練を受けるなどフリーメイソン入会の儀式を想起させることや、第2幕でのザラストロの「イシス」と「オリシス」を讃える歌にも明確なフリーメイソンの象徴が織り込まれています。さらに、タミーノ、パミーナ、パパゲーノの3人がそれぞれ気絶するシーンがあります。これもまたフリーメイソン入門の儀式を暗喩するものだという説もあります。

 ところが、全盛を極めていたフリーメイソンにも翳りが差し始めます。モーツァルトが入会した翌年の1785年12月11日、時のオーストリア皇帝ヨーゼフ2世は「フリーメイソン勅令」を発して、表面的には保護と正式承認を謳いながら、実質的には政治的な地下活動の温床となりうるフリーメイソンの活動の規制・監視の強化を行ないました。フリーメイソンは自らの専制君主体制にとって危険な思想と見做されつつあったのでした。4年後のフランス革命勃発(1789年)によりそれは決定的となっていきます。その後、フランス革命の首謀者たちとフリーメイソンとの関係が指摘されるようになり、1793年にはオーストリア皇女であったマリー・アントワネットが断頭台の露と消えます。これによってオーストリアにとって革命主義、反君主制は忌避されるべきものとなり、同時にフリーメイソンに対する風当たりも増していったのでした。

*ウィーンにおけるフリーメイソンの会員数は「勅令」前の1785年に約950人だったのが、「勅令」後の1786年には約360人に激減したとされています。1794年にはついにオーストリアのフリーメイソン結社は消滅することになります。『魔笛』初演のわずか3年後のことです。

 まさにこうしたフリーメイソンが受難を受けている最中にモーツァルトの『魔笛』が作曲、上演されているのです。モーツァルトが生きた時代はフリーメイソン全盛期でとりわけ知識階級に広く浸透していたためモーツァルトも入会したと軽く書いている解説書がかなりあります。さらには、モーツァルトとフリーメイソンとの深い関係を指摘して彼がその会員となって嬉々としてその思想を、自らの会員としての誇りを『魔笛』に盛り込んだという書かれ方が多くあります。そのあげく秘密をバラシタためにモーツァルトは毒殺されたという説まで飛び出しています(現在ではこの説は否定されています。なんといってももう1人の張本人であるシカネーダーは殺害されていないのですから。シカネーダーは一時フリーメイソンの会員だったことがあります。)。

 この勅令により統廃合されて新しくなったロッジの集会が翌月1986年1月にウィーンで開催され、そこでモーツァルトが年末に作った2つの合唱付き歌曲が歌われています(『親しき友よ、今日こそ』 K.483と「『汝ら、われらが新しき指導者よ』 K.484)。歌詞の内容は皇帝の善行を讃えることで皇帝にとってフリーメイソンは害のないものであることを声高に訴えるものでしたが、モーツァルトは何故かこの2曲を自分の作品目録に入れていません。体制に追従した自分を恥じたのか、この時期にフリーメイソンに関わった痕跡をなくそうとしたのかその理由はわかっていません。この時から『魔笛』を作曲する年までの約5年間、モーツァルトは明らかにフリーメイソンに関わると思われる曲を1曲も作曲していません。

 フリーメイソンに入会してわずか1年そこそこでモーツァルトが唯一貢献できる作曲という行為を封じてしまったのは「勅令」が出たからという簡単な理由では『魔笛』におけるフリーメイソンの活躍ぶりを説明することはできません。果たしてモーツァルトはフリーメイソンそのものに心酔していたのだろうかという疑問が生じ、もしかしたら別の動機を持ってその中に入り、入会者と接触を持とうとしたのではないかという推測を描きたくなります。モーツァルトが熱烈なフリーメイソン信奉者であったなら当局の目を盗んでフリーメイソンを讃える作品を書くことなど朝飯前であったのではないでしょうか。

 「フリーメイソンの人道主義的、啓蒙主義的な抱負、あるいは平等、自由、寛容、友愛などの理想、それに愛と理性による救済のビジョンなどは、モーツァルトを思想的に強力に引きつけるものを持っていた。・・・プロの音楽家として援助者を求めて出入りする所でもなく、まして金を貸してくれそうな相手を探すといったような次元の世界ではなかった。」とするメイナード・ソロモンの主張は多くの支持を得ています。しかしこの5年間、モーツァルトが貧困に喘いでいたことは残された書簡などから疑いようもなく、楽譜の予約販売の試みやウィーンの宮廷における副楽長職への請願や、他の宮廷への就職活動などを行なっています。かのヨーゼフ・ハイドンも手紙の中で「あの偉大なモーツァルトと肩を並べられる人はいません。・・・それだけの報酬を払うべきです。この貴重な人物がまだどこの宮廷にも雇われていないことに私は腹立たしい思いでいます。」と。

 モーツァルトは、ダ・ポンテ三部作(『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』)に対しても見向きもしないウィーンに見切りをつけてイギリスに渡る計画を練って英語の勉強までしています。なおこの渡英計画は、1790年12月にハイドンがヨハン・ペーター・ザロモンの招きで渡英することになった送別会でモーツァルトが流した涙からすると様々な理由から頓挫してしまったと想像されます。その涙にはハイドンとの別離を悲しむのと同時に自分が行けなくなったことへの悔しさが込められていたことでしょう。

 こうした経済的な逼迫から逃れるための行動が目に付く一方で、モーツァルトのフリーメイソンに関する活動は影をひそめていきます。それはもはや経済的にすがれない存在になりつつあったからこそフリーメイソンとの関係も薄れていったと考える方が自然ではないかと思われます。或いは、フリーメイソンの会がなくても、自分ひとりでその啓蒙主義的な抱負や理想を音楽の中で実現していくことができるという考えを抱いていたのかもしれません。そんな時にシカネーダーによって持ち込まれたのが『魔笛』だったのです。貴族社会を舞台にしたダ・ポンテ三部作でも受けないウィーンから逃れることを諦めたモーツァルトは、ドイツ語で歌われるジングシュピーゲルという庶民向けの歌芝居に次なる可能性を見いだしたのではないでしょうか。

 確かにモーツァルトがフリーメイソンに特徴的な記号や符号、数字、そしてその思想などを『魔笛』に盛り込んだのは事実なのですが、その盛り込んだものが音楽を聴くにあたってどれだけの役割を果たしているのでしょうか。こういったことは素材として採用されたのに過ぎず、音楽はそこから展開をしてその過程で人の心に訴え、動かしていくのであって、聴衆にフリーメイソンを賛美することを求めているのではないのではないのでしょうか。1954年にオーストリアの演出家ヴァルター・フェルゼンシュタインが自ら設立したベルリン・コーミッシェ・オーパーで『魔笛』を演出した際、「フリーメイソンやエジプトといったこのオペラの構成要素を、もはや過大に強調してはならない。さもかければ民衆劇場の持っていた、観て直ぐわかる、といった感覚的要素が失われてしまう。」と述べています。

 フリーメイソン入会前後に書かれた作品で有名なのは「ハイドン・セット」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲(K. 387、K. 421、K. 428、K. 458、K. 464、K. 465)です。その2番目の曲では扉を3回叩くリズムがあり、3番目の曲では入会するかどうか悩む気持ちを表わしているという説もあります。モーツァルトは4番目と5番目の曲の間に入会していて、入会直後に書かれた5番目のK.464では入会の儀式のおける問答を思わせる箇所があり、その4日後に完成した最後の6番目の曲は『不協和音』と題された曲で、不協和音で奏でられた序奏は加入前の無知・不明・暗闇を表わし、アレグロの主部ハ長調に入るところは儀式を経た志願者が暗闇から光明に脱出するところを描写しているとも言われています。

 しかし、こういったことがこの曲集を鑑賞にするのにどれだけの意味があるのかということです。私事になりますが、この曲集を聴いたり演奏したりして四半世紀以上たっている筆者にとってこうした事実を知ってその解釈の道が大きく開けたとは残念ながら思われないのです。「直接、間接を問わず、周囲の自然によっても、当時の歴史、文学、政治によっても心を動かされなかった。・・・彼はただ自然と精神の世界のなかに音楽をつくる機会を探し、そして見つけただけなのだ。」と『魔笛』の愛好者でもあったスイスの神学者カール・バルトは述べています(1957年)。過去も現在も一貫して、聴き手はフリーメイソンについての知識や理解がなくてもモーツァルトの素晴らしい音楽を作曲年代に関わらず堪能し、楽しむことができているのですから。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 
                                 


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