モーツァルト:歌劇『魔笛』

第2章 シカネーダーとモーツァルト

 
          Papageno    Emanuel Schikaneder

           パパゲーノに扮するシカネーダー(左)  シカネーダーの肖像(右)


 1791年の3月頃、エマヌエル・シカネーダーというウィーンのフライハウス・アウフ・デァ・ヴィーデン劇場の支配人が『魔笛』のオペラ化をモーツァルトに持ち込みました。モーツァルトにとって死の約9ケ月前にあたります。最初は「仙女物語のオペラはまだ書いたことはない」と尻込みしていたモーツァルトでしたが、その年の3月から7月までの間のモーツァルトの作品目録には数曲しか載っていないということから大掛かりな作品に取り組んでいたという推測がなされ、それがおそらく『魔笛』であったと考えられています。

 1751年にバイエルン州で生まれたエマヌエル・シカネーダーは1773年に南ドイツからオーストリアを巡業する一座に拾われ、いわゆる遍歴役者として育ちました。その後シカネーダーは次第に何でも屋としての才能を開花させ、二枚目の役者、楽器奏者、バリトン歌手(幼少時聖歌隊で歌っていた)、演出家、台本作家(生涯約100編制作)などをこなし、一座の中心的存在になっていきます。その後アウグスブルクの劇場の支配人となり、ゲーテ、シェイクスピア(『ハムレット』の主役を演じて成功)、レッシングなどを演じ、その中にはバレエ『陽気な鳥刺し』という演目(パパゲーノの前身か?)も含まれていたという記録も残されています。ちょうどその頃モーツァルトも父レーオポルトの故郷であるアウフスブルクに滞在していて2人の接触はなかったものの、モーツァルトは劇場に行った可能性はあるとされています(1777年10月)。

 その後シカネーダーは1780年から1781年までの間にザルツブルクの劇場に客演した際、モーツァルト家に出入りするようになり、家族に対して劇場に無料で招待するほどの関係を持ったとされています。モーツァルトの手紙にはシカネーダーのためにアリアを作曲しているという記述があり、最近までその手紙の曲に該当する作品は存在しなかったのですが、1996年にその自筆譜の断片が発見されて話題となりました(K.365a)。

*レチタティーヴォ「おお愛よ、なぜそんな恐ろしい冗談を言うのか」とアリア「おののけ、愚かな心よ、そして苦しめ!」 K.365a
https://www.youtube.com/watch?v=YaOuF8SlxWY

 1782年7月16日にウィーンのブルク劇場で初演されたモーツァルトの3幕のジングシュピール『後宮からの誘拐』 K.384 をシカネーダーはウィーンのケルントナートーア劇場で上演した(1784-1785年)記録があり、6年後の『魔笛』の委嘱の数ある契機のひとつとも考えられます。

 1789年にシカネーダーはウィーン郊外にあるフライハウス劇場(アウフ・デア・ヴィーデン劇場)の支配人となり、その年から閉館される1801年までの間に59作品の新作ジンシュピールを上演しています。そのお披露目公演では自作の『山だしの馬鹿な庭師、または二人のアントン』の主役を演じ、パパゲーノの原初的な姿を披露し、その中の歌曲「女はこの世で最高」は当時人気を博したとされています(1年間で32回も上演されるほどの大当たりだったとか。作曲はベネディクト・シャックとフランツ・ゲルル)。モーツァルトはこの芝居を観に行ったことを手紙に残していて、このメロディーを主題とした変奏曲を作曲しています(「8つのピアノ変奏曲 K.613」)。経済的にどん底にあったモーツァルトが手っ取り早く収入を得るには誰もが知るメロディーを主題にしたピアノ作品を出版することが第一であった当時の風習からするとこの作品はよほど人気があったと考えられます。

*モーツァルト:8つのピアノ変奏曲 K.613
Eight Variations in F, K.613 on "Ein Weib ist das herrlichste Ding" by B.Schack or F. Gerl
https://www.youtube.com/watch?v=GTPkVMHan-0

 初演後の『魔笛』の評判の高さについては既に述べましたが、音楽の芸術的な質と台本の質とに大きな開きがあることは当時から誰もが気付いていました。さらにはモーツァルト亡き後、シカネーダーに対して分相応な協力者にしか過ぎないとか台本の作成そのものに実は関わっていないなどと非難や批判が起きたこともありました。


 『魔笛』作成過程において2人の間に交わされた手紙やメモの類が全く残されていないために、すべては推測の域を出ないのですが、手紙の中で駄洒落を交えて人を嘲笑することを常としていたモーツァルトがシカネーダーについて全く触れていないということは、台本作家シカネーダーを良きパートナーと見做していたということになります。モーツァルトが書いた手紙(1791年10月8日)に、客席で観ていたらザラストロの厳粛なセリフの場面に対して意味なく笑う聴衆がいたと非難してパパゲーノ呼ばわりしたと書いています。作曲途中でウィーンを離れることがあっても2人は決裂することもなく初演にこぎつけたことからも、2人の共同作業によって入念に『魔笛』が作り上げられていったと考えられます。

*モーツァルトはオペラ・セリア 『ティートの仁慈』 K.621(一般的には『皇帝ティートの慈悲』と呼ばれます。)の初演のために1791年8月25日頃から9月10日頃までウィーンを離れてプラハに滞在しました。この曲は、神聖ローマ皇帝レーオポルト2世がプラハで行なうボヘミア王としての戴冠式(1791年9月6日)で上演する演目として、ボヘミアの政府から作曲が依頼されたもので、経済的に困窮していたモーツァルトにとってたとえ『魔笛』の作曲中であってもその報酬を得るためには避けられない依頼だったと考えられます。『魔笛』初演までおよそ1ケ月という時期に約2週間もの間ウィーンを不在にするだけでなく、別の曲の作曲までしていたことになります。


「ジングシュピール」とは
 ここで「ジングシュピール」について簡単に触れておきます。「歌芝居」と訳されるように音楽付きの演劇ということで、『魔笛』は通常「歌劇」と呼ばれますが、当時の呼称に倣えば「ジングシュピール」となります。貴族向けのイタリア・オペラではなく、大衆向けでありセリフが多く、何よりドイツ語で上演されるからです。

 オペラ=歌劇は17世紀に入ってイタリアで生まれた音楽劇で、現在でも上演される最古のオペラは1607年にマントヴァで上演されたクラウディオ・モンテヴェルディが作曲した『オルフェオ』とされています。モンテヴェルディの代表作のひとつであるアリア「アリアンナの嘆き」は、『オルフェオ』より前に作曲された歌劇『アリアンナ』の中で歌われるのですが、現在ではオペラの本編は失われています。ちなみにその頃の日本はというと関ヶ原の戦いを制した徳川家康によってようやく落ち着きを取り戻し、平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可した時期になります。

 オペラはレチタティーヴォとオーケストラの伴奏で歌われる独唱、重唱または合唱からなり、前者はセリフや会話に抑揚をつけて歌われるものでチェンバロや通奏低音の伴奏を伴うレチタティーヴォ・セッコとオーケストラ伴奏のレチタティーヴォ・アッコンパニャートとがあります。独唱・重唱・合唱の曲に対しては、連続する番号が付けられていて(そのため「ナンバーオペラ」とも呼ばれます)、この『魔笛』の各曲には番号がふられています。

 ルネサンス以降復興したギリシャ悲劇やローマ時代などの説話に題材に求めることが多かった当時のオペラは、「オペラ・セリア」とも言われ、多くは悲劇的な結末を迎えるストーリーが主流でした。一方で世俗的な内容を扱い、セリアの幕間で演じられた「オペラ・ブッファ」なる喜劇的なオペラも生まれ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの『奥様女中』(1733年)などはその有名な例です。のちにモーツァルトが『魔笛』に先立って作曲した『フィガロの結婚』(1786年)、『ドン・ジョヴァンニ』(1787年)、『コジ・ファン・トゥッテ』(1790年)などはフルサイズで書かれたオペラ・ブッファの代表例となります。

 オペラはヨーロッパ各地の王侯貴族を中心に伝わり社交の場として発展していきます。どこでもイタリア人音楽家をこぞって重用し、当地の作曲家も自国語ではなくイタリア語で作曲していました。しかし、18世紀中頃には興隆してきた上流の市民階級にもオペラは浸透し始め、自国語で上演されるより娯楽性の高い喜劇的なオペラが求められるようになります。イタリア(言語の問題はなかったですが)ではコメディア・ラルデ、フランスのオペラ・コミック、イギリスのバラッド・オペラなどが盛んになります。

 ドイツではライプツィヒのハインリヒ・ゴットフリート・コッホが率いる一座が、声楽の訓練を受けなくても歌え、観客も倣って口ずさめる簡単な歌の付いた演劇を上演されていて、そのライプツィヒで活動していた作曲家ヨーハン・アダム・ヒラーがジングシュピールの創作者であると見なされています。同じ頃、ウィーンではヨーゼフ・ハイドンが『せむしの悪魔』というジングシュピールを1751年頃に作曲しています。ちなみに、ヒラーの孫弟子がベートーヴェンです。また、のちにドイツの作曲家マックス・レーガーは『ヒラーの主題による変奏曲とフーガ』(1904年)を書いていて、その主題はヒラーのジングシュピール『収穫の花飾りDer Aerndtekranz 』から採られていることが知られています。しかし、これらに先立つ16世紀末にニュルンベルクのヤコブ・アイラー(1543-1605)という劇作家によって既にジングシュピールは作られていたという説もあります。ちなみにアイラーはウィリアム・シェイクスピアの演劇をドイツ語に翻訳したことで知られ、或いはシェイクスピアの『テンペスト』のプロット・モデルの作者として推定されている人物です。

 ジングシュピールは「音楽を伴うドイツ語の演劇」を指し、「独唱曲、および、より複雑な演技形態の楽曲が自由に差し挟まれ、18世紀後半に宮廷のイタリア語オペラに対抗する民衆的なドイツ演劇」と定義されています(武石みどり氏)。とてもわかり易い定義だと思います。1773年にはクリストフ・マルティン・ヴィーラントが『アルチェステ』のための台本をドイツ語で書きます。これが一流の作家が書いた最初のドイツ語のジングシュピールとして名を残しています。なお、モーツァルトはこの作品を観ていて、手紙に「大成功であり、・・・ドイツ初のオペラであったことで、その成功は大いに後押しされた」と書いています。このヴィーラントの後を受けたのがヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテで約6編のジングシュピールの台本を書いています。モーツァルトが作曲した歌曲「すみれ」K.476はもともとゲーテが書いたジングシュピール『エルヴィーンとエルミーレ』の中の三重唱の詩でした(モーツァルトはこの1曲しかゲーテの詩に曲を書いていません。)。

*この『アルチェステ』の作曲家はアントン・シュヴァイツァーで、有名なクリストフ・ヴィリバルト・グルックが作曲した『アルチェステ』とは別物です。

*モーツァルト作曲『すみれ』 Das Veilchen, K.476
https://www.youtube.com/watch?v=7Qo-sig4odE


 その後、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世による 1776 年 3 月の「劇場改革」によってウィーンの宮廷劇場のひとつであるブルク劇場が国民劇場として生まれ変わり、1778/79 年のシーズンよりジングシュピールが上演されるようになります。モーツァルトはそのヨーゼフ2世の依頼により『後宮からの誘拐』を作曲し、1782年7月にその劇場で初演されます。これによって、ドイツ・オーストリアにおいていよいよ本格的なジングシュピールが花開いていくことになります。しかし、その道のりは決して平坦ではなかったようで、モーツァルトは1785年、台本作家アントーン・クラインから作曲の依頼を受けてそれを断る手紙の中で、ウィーンにおけるドイツ語による上演が満足にできる劇場がないことを嘆き、「我々ドイツがドイツ風に考え、ドイツ風に行ない、ドイツ語で話し、ドイツ語で歌うことを、今さら真剣に始めるのだとすれば、それはドイツ国にとって永遠の汚点になるでしょう!!!」と書いています。まさに、このモーツァルトのドイツ語オペラへの熱い想いこそが後の『魔笛』作曲の出発点となり、その『魔笛』の作曲家として見い出したのが、他ならぬエマヌエル・シカネーダーだったのです。

*『後宮からの誘拐』 K.384 は、初演されたブルク劇場ではないですが、ケルントナートーア劇場(後にブルク劇場に吸収されて宮廷劇場となります。)の記録によると、1782〜1810年の29年間に72回上演されています。

 なお、モーツァルトはこのクラインへの手紙の後にイタリア・オペラへと立ち返り、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本による3曲のオペラ・ブッファ『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』の作曲に没頭します(1786〜1790年)。協力できるドイツ語オペラの台本作家がいなかったということでしょうか。

 1763年にウィーンで上演されたジングシュピールにフィリップ・ハフナーという喜劇役者が書いた『メゲラ、恐ろしい魔女』という魔法劇があり、高貴な魔術師と邪悪な魔法使いの戦いを描いたもので、舞台では様々な仕掛けを駆使して観客を喜ばせたとされていて、こうした作品がシカネーダーにインシュピレーションを与えたとも考えられます。次に、『魔笛』の台本や音楽の成立に影響を及ぼした事柄(ルーツ)についてご紹介します。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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