モーツァルト:歌劇『魔笛』

第1章 はじめに

 
      魔笛 ちらし       フライハウス劇場

『魔笛』 初演時のポスター(左)と初演したアウフ・デア・ヴィーデン劇場を含む集合住宅の鳥観図(右)


 モーツァルトの『魔笛』が初演されたのは1791年9月30日、ウィーン郊外のヴィーデン地区にある複合的な集合住宅建築(フライハウス)の中にあるアウフ・デア・ヴィーデン劇場においてでした(右上の図の青丸で囲った辺り)。当時のウィーンには劇場が4つあり、演劇好きであった市民の需要に応えると同時に互いにしのぎを削っていました。宮廷劇場であったブルク劇場(1741年開場)、ケルントナートーア劇場(1709年開場、火災で消失後1763年再建)、それとアウフ・デア・ヴィーデン劇場(1783年開場)のライバルであったレオポルトシュタット劇場(1781年開場)と、どれも比較的短い期間にオープンしたことがわかります。

* アウフ・デア・ヴィーデン劇場(Theater auf der Wieden)は現在のウィーン国立歌劇場の南南西へ直線距離で約600メートル離れた辺りに位置していました。1936年頃に開始された都市開発でオペルンガッセが延長されてフライハウスの真ん中を貫くことで町並みは大きく変わることになりました。現在では近くにシカネーダーガッセが走り、シカネーダーという名の小さなシネマ・バーがあることで当時を偲ぶことができそうです(あくまで Google Map で調べただけですが)。

                 パパゲーノ

* アウフ・デア・ヴィーデン劇場は『魔笛』初演10年後の1801年にアン・デア・ウィーン劇場(Theater an der Wien)として移設(直線距離で240mくらい)再建されて現在に至っています。但し、当時の建物は「パパゲーノ門」など一部しか残っていません。このパン・プルートを吹くパパゲーノの像は『魔笛』で自ら「パパゲーノ」役を演じ、その後にこの劇場を建てたシカネーダーを記念して造られたものです。なお、アン・デア・ウィーン劇場はベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』をはじめ交響曲第3番『英雄』、第5番『運命』、第6番『田園』が初演されたことで歴史に名を残していますが、それだけでなく、オペレッタの名作ヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』、『ジプシー男爵』、フランツ・レハールの『メリー・ウィドウ』など数々の名曲が初演された劇場としても知られています。

* レオポルトシュタット劇場 (Leopoldstadter Theater)はウィーン国立歌劇場の北西約2.3キロメートル離れたところに位置していて、後にカール劇場の名で再建され、スッペ、ヨハン・シュトラウス2世、レハール等による数々のオペレッタが初演されましたが、第二次世界大戦前に閉鎖されました。

* ケルントナートーア劇場(Theater am Karntnertor)は後にウィーン宮廷歌劇場に吸収されると閉鎖され、現在はその跡地にホテル・ザッハーが建っています。1階にあるカフェ・ザッハーで食べるザッハートルテは有名ですが、ジョージ・ガーシュインがウィーン滞在中この店に来た時に『ラプソディ・イン・ブルー』を演奏して彼を歓迎したことでも知られています。



 1791年9月30日に『魔笛』がアウフ・デア・ヴィーデン劇場で初演された時の模様を伝える資料は現存していないものの、翌10月には10回上演されていることがわかっています。初演とそれに続く2回の上演ではモーツァルト自身が指揮をしましたが、その後は友人や家族を連れて客席で楽しんでいた様子がモーツァルトの手紙に書かれていて、観客の入りや上演の継続を危惧する様子は窺うことはできないことから、公演は概ね好評であったと想像されます。古今の名作といえども初演の時は手酷い仕打ちを受けることが多いだけに異例なくらい成功を収めたとも言えるかもしれません。

 モーツァルト自身、『魔笛』を観てきてから書いた10月8日(土)付の手紙に、「土曜日はいつでも郵便日でだめな日なのに、大入り満員で、例によって喝采とアンコールのうちに上演された。明日も上演されるが、月曜日は休み・・・明日はママを案内する。」と書き、さらにその翌週の手紙には当時宮廷楽長であったアントニオ・サリエリを馬車で迎えに行って『魔笛』に招待し、サリエリは「僕の音楽だけでなく、台本も何もかもひっくるめて大いに気に入った」とも書いています。この2通の手紙は共に妻コンスタンツェ宛のもので、義母やサリエリの名を出しているところからして初演から2週間の間における『魔笛』の出来栄えと評判の良さは、決して彼の誇張や負け惜しみではなかったことが推測できます。


 最初の数週間はチケットを手に入れためには5時には列に並ばないといけなかったという記録もあり、初演後1年間にこの劇場で上演された回数は83回、後にその劇場がアン・デア・ウィーン劇場として移築されるまでの11年間に223回の上演回数を数えました。これは当時としては例を見ないことと言われています。初演の翌年には早くもプラハでも上演され、3年後にはドイツ各地で27もの劇場がこぞって『魔笛』の上演を行なったとされています。その中にはワイマールの宮廷劇場の監督であったかの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテも含まれていました。彼はその在任中に82回も『魔笛』を舞台に上げているのです。現代の記録では、1947年から1975年までの29年間に西ドイツと西ベルリンで『魔笛』が上演された回数は6,142回、年平均211回であったとか。

*1778年から1810年までのウィーンにおけるジングシュピール成功作の再演回数を調査された武石氏の数値(全13作品)を年平均に換算して上位作品を比較すると、『魔笛』は11年間で223回=年平均20.3回、ヨハン・バプティスト・シェンク作曲の『村の床屋』は24年間で318回=年平均13.3回と『魔笛』の圧勝となります。なお、このシェンクなる人物ですが、当時は売れっ子の作曲家だったらしく、『魔笛』初演の直後に青年ベートーヴェンに対位法を一時教えたことでその名を歴史に留めています。

 1800年台に入ると、シカネーダーのライバルであった他のウィーンの劇場でも『魔笛』を取り上げるようになります。パリでは1827年までの間に130回上演され(もっとも上演されたのは改悪版で、オリジナル通りに上演されるためには1865年まで待たなければなりませんでした。)、1811年にはドーバー海峡を渡ってロンドンで上演されました。

 ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは「『魔笛』の台本はまったく嘆かわしい代物であるといった発言はそうは耳にしない。それどころかこの不手際な台本はオペラの台本の中で最も素晴らしいものに数えられる。」と述べています。つまり『魔笛』の台本には色々問題があると一部からは囁かれていたものの、心ある人からは、その謗りの有無に関わらず、それを補うのに十分な価値があると認められていたということが言えると思われます。しかもヨーロッパ各地で上演され続けていたという事実は観客が『魔笛』の物語と音楽を歓迎し、楽しんでいたということに他なりません。


 生涯6編ものジングシュピールを仕上げた台本作家でもあったゲーテは『魔笛』の続編を作ろうとさえしたほどでした。「観客は舞台を観て楽しめば十分である。その際、その高尚な意味が入信者たちに見落とされることはないのだから。」とも語っていて自らフリーメイソンであったゲーテは『魔笛』を擁護しています。これは直接『魔笛』について語った言葉ではないのですが、この後に続けて「このことは『魔笛』と他の劇作品についても同様である。」と語っていることからすでに『魔笛』が傑作であることは自明のことと認識していたと考えられます。ゲーテによる続編が完成に至らなかったのはゲーテから依頼された作曲家達がモーツァルトと張り合いたくなかったからという説もあるようです。
         ゲーテ    ヘーゲル
          ゲーテ(Alte-Pinakothek所蔵)        ヘーゲル

 さらにゲーテは名作『ヘルマンとドレテーア』の中でも『魔笛』に関する描写を行なっています。主人公のヘルマンがミーンヒェンの家に行って彼女の歌を聴いてきたことを話すシーンで、その歌詞に「パパゲーノとパミーナという名前が良く出てきた」ので「台本や二人の人物について尋ねた」らその家族からそんなことも知らないのかと呆れられたと語らせているのです。『魔笛』のどの曲を聴いたのかは不明ですが、ミーンヒェンの家がお金持ちであると描かれているため、少なくともこの小説の舞台であるライン地方の田舎町の富裕層にも『魔笛』は浸透していたと考えられます。


 ここでは、『魔笛』を聴いたり演奏したりする上で知っておくと何かの役に立ちそうな情報をご紹介しようと思っています。なお、『魔笛』を解説する際に避けては通れないフリーメイソンについでも軽く(?)触れるだけにしようと思っています。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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