モーツァルト:歌劇『魔笛』

第3章 『魔笛』のルーツ1 〜『エジプト王タモス』

 
                   Von Gebler

トーマス・フィリップ・フライヘル・フォン・ゲープラー
Thomas Philipp Freiherr von Gebler


 1773年、17歳のモーツァルトは、フリーメイソンでもあったボヘミアの宮中顧問官フォン・ゲーブラー男爵が作詞した英雄劇『エジプトの王タモス』のために合唱と幕間音楽 K.173dを作曲しています(のちに改定してK.345)。ゲーブラーはその後オーストリア政府の高官となり最終的には司法局副長官にまで登りつめた人物でした。この作品は、当時のオーストリア皇帝ヨーゼフ2世を中心とした啓蒙思想を基幹として、フランスの神父ジャン・テラソンの小説『セトス、古代エジプトの記念碑的な逸話からの物語または生涯 - ギリシャ語写本からの翻訳』(1731年刊行)に発想を得たものとされています。仕官のために皇帝を賛美する追従的な作品と言えなくもないのですが、古代エジプトの“ヘリオポリス”の太陽神殿を舞台とし、王位継承をめぐる権力闘争通じて「友情と愛」を試されるという内容の演劇です。この“ヘリオポリス”とは、現在のカイロ近郊に実在した古代エジプトの都市で、ギリシャ語の「ヘリオスの町=太陽の町」という意味があり、エジプト創世神話としての太陽信仰の中心地とされていました。

*このテラソンの小説については第8章と第9章でも触れます。フリーメイソンについても第10章で詳述します。

 三角形、3本の柱、3本のろうそく、入会儀式の最初に叩かれる3回のノックとその最後に叩かれる3回の槌、といったフリーメイソンで重要視されている“3”という数字をモーツァルトはいくつかの作品の中に象徴的に取り入れようとしたというのが通説になっています。とりわけ『魔笛』の序曲の冒頭と中間部において和音を3回響かせていることが音楽とフリーメイソンとの強い結びつきを示していると言われています。この点に注目すると、この『タモス』の第2曲間奏曲の冒頭は『魔笛』序曲の冒頭と全く同じ書き方をしていることに気付きます。同じ3小節の中に2分音符が3つ、それぞれの前の小節に短い16分音符が前打音のように書かれています(『魔笛』最初の2分音符だけには直前の16分音符はありません)。共にフラット3つの主和音ですが『魔笛』は長調、『タモス』は短調です。但し、『タモス』はこの3小節間の序奏を変形させて主部の主題となっていくため自然に音楽が流れていきますが、『魔笛』では序奏と主部の間にはそれほどのつながりは感じられません。

譜面 タモス

譜面 序曲

 曲の冒頭で和音が何回か鳴らされることは決してめずらしいことではなく、例えば同じモーツァルトの作品ではディヴェルティメント ヘ長調K.138は3回、ハフナー・セレナーデ ニ長調 K.250で3回、同じくポストホルン・セレナーデ ニ長調 K.320も3回、交響曲第39番変ホ長調 K.543も3回、交響曲第41番ハ長調 K.551『ジュピター』も3回、しかし、弦楽四重奏曲第12番変ロ長調 K.172は4回、セレナード第10番変ロ長調 K.361『グラン・パルティータ』は3回のセットが3回、ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 K.482 は5回、同じく第25番ハ長調 K.503は9回、交響曲第38番ニ長調 K.504『プラハ』は5回など3回鳴らされない例を挙げればキリがありません。モーツァルトが何個音符を並べようとしたかは神のみぞ知るで、気まぐれな思いつきだったこともあるでしょうし、街を歩いていた時にたまたま耳にした犬の吼え声だったかもしれません。果たして3回だからといってフリーメイソンと決め付けるのは無理な話しとも言えます。

 しかし、『魔笛』の中にフリーメイソンの思想が込められていることはその程度や意味合いにおいて議論はあるとしても否定できないことであり、同様に『タモス』の成立にフリーメイソンがある程度関わっていることも明らかではあります。しかし、『タモス』を作曲した当時弱冠17歳のモーツァルトがどの程度フリーメイソンに心酔していたかは疑問はであり、単に依頼者であるゲーブラー男爵に喜んでもらうためにわかりやすいモティーフを盛り込んだのだと考えるのが自然と思われます。その後18年たって若い時に作曲したフリーメイソンがらみの曲に取り入れてうまくいったアイデアを『魔笛』の中に再度採用したと考えることは可能と考えられます。

 『タモス』の第2、第5曲間奏曲ではシンコペーションや半音階、音の跳躍などが多用されていて、約1ケ月後に作曲された交響曲第25番ト短調 K.183に通じるところがあります。また、改定された第5幕(第7曲b)の音楽はその8年後に作曲された歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を思わせるドラマティックな曲作りで、ザラストロというよりは騎士長を思わせます。第6曲aにはこの時代のモーツァルトにはあまり見られない重厚さもあり、全曲を通じて起伏のある聴きごたえのする構成に加えてアインシュタインも絶賛した合唱曲としての完成度の高さを備えた曲と言えます。この曲が作曲当時から現在に至るまで演奏される機会が少ないのは、一重に台本がウィーンの民衆劇によく見られるドタバタを排した啓蒙主義的な、いわば堅苦しい筋立てに終始していることによるのかもしれません。

 舞台は古代エジプト、ヘリオポリスの神殿。かつてそこでは聡明なメネスという名君が支配していました。タモスは彼の父ラメッセスからエジプトの王を引き継いでいますが、その父ラメッセスは大祭司セトスとして変装している正当なエジプト王であったメネスから陰謀によって王位を奪ったのでした。タモスは巫女のザイスを愛していました。彼女は実はセトスの娘で名はタルジスなのですが、そのことを知らされずに育てられていました。タモスの友人でもある重臣フェロンがザイスの愛とエジプトの王座を奪おうと企み、太陽の神殿の大巫女ミルツァがそれに協力します。そこへメネスが彼の正体を明らかにして現われ、ミルツァは自殺し、フェロンは雷に打たれて死にます。セトスはタモスの父ラメッセスの所業を許して王位をタモスに譲り、タモスとタルジスは結ばれます。

 『魔笛』における善と悪、光と闇、夜と昼などの対立と似た構造が『タモス』にも見出すことができ、タモスが統治者というよりひとりの人間としての「友情と愛」が試されるのに対して、『魔笛』ではタミーノに「友情と愛のため」と語らせ、王子としてではなく人間として試練を受ける点など共通項を探せばいくつか目につきます。また、第5幕の合唱曲「ものみなを支配したもう神性よ!」はエジプトの神々を讃える内容で、『魔笛』の第1幕、第2幕の終曲に通じるものがあります。しかし、『タモス』の台本におけるフリーメイソン的象徴は限定的で、劇の主題も啓蒙的かつ普遍的な人間の資質の追及であって、フリーメイソンの思想の賛美というよりは、為政者に求められるのは国民の模範となる振る舞いや公正さと高い徳であることを謳っていると考えるのが自然ではないかと思われます。

 改訂は1779〜80年にヨハン・ベーム劇団によるザルツブルク上演のために行なわれたとされています。モーツァルトの手紙にはこの作品を気に入っていた様子や演奏される機会がないことを嘆いていることが記されていることから、ずっと再演の機会を窺っていたと考えられます。モーツァルトはこの時期シカネーダーと家族ぐるみで深い関係にあったのですが、この12年後に実を結ぶことになる『魔笛』の誕生を思うと興味深いところです。

 なお、2019年のザルツブルク音楽祭ではこの『エジプト王タモス』が取り上げられて話題となりました。『タモス』の音楽だけでは1時間半の舞台作品を構成するには足りないために、この曲と関連がある『魔笛』の音楽が多数引用され、他に後述する『ツァイーデ』や、フリーメイソンの儀式のための音楽、さらには序曲として作曲時期が近い交響曲第26番K.184などが用いられています。まさに、『魔笛』に関わる作品を逆方向に『タモス』に集約させたアイデアということになります。 



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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