縮刷版2014年3月下旬号


【3月31日】 いっぱいになって来たハードディスクレコーダーを少し消さないといけないと「マギ」の第2期を遡りつつ、マグノシュタット編を最終回あたりまで一気に見る。録画されていなかったりする回もあって細かいところに抜けはあったけど、だいたいのところは分かってマグノシュタットをめぐって煌帝国とレーム帝国が角つき合わせる一方で、マグノシュタットではモガメットって偉い爺さんが怪物となって大暴れ。それを見かねて角つき合わせていた勢力も、マグノシュタットにあって心を失っていない魔導師たちも力を合わせて立ち向かったけれども、敵も強くてこれがなかなか倒せない。でもそこに差した一筋の正義。黒く染まった中に輝く白いルフが突破口となって、モガメットを慰撫して世界に暗黒が持ち込まれるのをどうにか防ぐといったところで大団円。

 そんなクライマックスへと至る途中で主人公のアリババが、ほとんど裸体な仮面の女性から軍曹よろしく鍛えられて魔法の力を大きく高め、ってマギなんだから別にそんなことをしなくてもよさそうだけれど、天然では会得できない力の巧い使いかも一緒に学んで一気に成長。そこで頑張れたのは夢に向かって走ることではなく、目の前にぶらさがっていた先生のおっぱいだと言ってのけるあたりに、並のヒーローとは違った俗っぽさというか、親しみやすさが感じられた。「マギ」ってだいたいそんな感じにキャラクターたちが自在なんだよなあ、ティトスくんだって傲慢だったり優しかったりと揺れ動くし。

 そんなキャラクター性をアニメーションとして出すことで、見ていて退屈せず緊張もしない安心して見られる作品へと仕上げたこれは舛成孝二さんの力なんだろうか。ベテランだもんなあ。この後何を作るんだろう。とりあえず原作の方に追い付いてしまったみたいでしばらく「マギ」のアニメ化自体はなさそうだし。というか現時点でサンデーからのアニメ作品が「名探偵コナン」しかなくなってしまったよ。同じ時期には「銀の匙 Silver Spoon」がアニメとか映画になってたりしたし、ちょっと前なら「アラカランガタリ」とか「「常在戦陣!! ムシブギョー」がアニメになっていたけどどっちも早くに終わってしまった。でもって後番組は「週刊少年ジャンプ」掲載の「ハイキュー」だったりするからなあ。ただでさえ「ONE PIECE」を抱えて絶対的なのにさらに範囲を広げていく対抗するにはやっぱり御大・高橋留美子さんの「境界のRINNE」をアニメ化と行くしかないのかなあ。でも見るかと言われると……。そこがやっぱり漫画誌としてのひとつの限界なのかもしれないなあ。

 「ONE PIECE」といえばドレスローザ編もいよいよ佳境に入ってきて、でもまあそこから長いのが「ONE PIECE」だけれど仕方がないとして反抗の鍵となるドンキホーテ海賊段のシュガーを倒す作戦が、やっぱりうまく行かずことごとく倒され玩具に変えられてしまった中で唯一残ったウソップに周囲の期待も集まる中、やっぱり自分はただのうそつきなんだと逃げだそうとしながら、それでも頼られると嫌とはいえない性格が涙を呑んで立ち向かわせてはやっぱりあっさり返り討ち。シュガーを吃驚させるために作ったキャンディーも奪われそれをお返しとばかりに呑まされもはやこれまでと思った瞬間! とそこは読んでのお楽しみとして一気に形勢は逆転となってものすごい展開が待っていそう。ウソップ最強伝説はここでもやっぱり刻まれた。だって1人剣術も体術もなく悪魔の実だって食べてない無能力者の彼がずっと一緒に旅をして生き残っては肝心な場面で大切な役割を果たしているんだから、最強と呼ばずしてどう呼べば良い? 案外に最後に立ってひとつなぎの財宝を手に入れるのは彼かも。いやそれは。どっちにしたってそこまであと10年はかかるかな。追いかけていくさ、命続く限り。

 「笑っていいともが笑われながら終わった。何にも悲しいことはない」ってタモリさん自身が読んだとしたらそんな弔辞になっただろうか。感傷とかなく歓喜とかもないまま自然に終わるべき時を迎え終わるべき形で終わっていった番組。なるほど32年という年月はとてつもなく長くって、僕がそれこそ高校生からこんなおっさんになる時間を延々とお昼に放送されていた番組が終わるってことは、それを一時なりずっとでも見ていた人にとっては何かひとつの歴史が終わったかのように受け止められそう。でもたぶん司会をやってたタモリさんはただ始まっていつ終わるかも知れないなかをしっかりと役目を果たし続けたら知らずここまで来てしまったという格好。そこに自身の機知なりってのはまるで入ってないだろう。在る意味他人事。とはいえそんな他人事を当人にさせたいと思える何かがタモリさんにはあって、それを実現させられる優秀なスタッフや出演者が周囲に集まったからこその32年という年月を続けて来られたんだろう。普通で偉大。そんなテレビ芸人は過去にも未来にもタモリさん、ただ1人なんだろうなあ。今だっていないもんなあ。いつかそうやって自然にこの世から去っていくタモリさんを、そんな人もいたなあと思い出す日まで、バイバイ。

 大戦があってそして人が消えていく国土を2人の少女が危険も省みないで寄り添いながら旅をする「世界の終わり、美しき日々」の、ほんわかとしつつもピリピリとしたストーリーがたまらなかった一二三スイさんが、新しい作品「青春ダストボックス」(メディアワークス文庫)を出したんで読んだらこれがめっぽう面白かった。完璧美少女と4人の少年たちの物語だけど、別に逆ハーレムって設定じゃなくって少女と少年たち個々の絡みを短編にして連作にして、そこから少女についての物語を浮かび上がらせたって感じ。そして個々の短編では4人いる少年たち個々の問題が描かれていく。例えば過去に予知能力で神様やってた少年は、そんな過去を少女に知られ協力を求められる。天然パーマだった少年は少女が原因で卑屈になっていた過去と決着を付ける。ナンパ大好き少年は少女への関心が横滑りしてこっぴどく復讐される。そしてストーカーだけど相手に幸福をもたらす少年は少女が過去に置いてきた後悔を持ち前の粘着力ではらしてあげる。そんなストーリー。

 あらすじ紹介なんかを読むともしかしたら突飛な涼宮ハルヒ的な少女がいて周りが放ってはおけませんといった展開が待っているかと思ったけれど、子供心のちょっとした言動が将来に禍根を残したりとか、子供ならではの思いこみが後に後悔へとつながったりする可能性なんかを示唆しつつ、それらを乗り越えていく道なんてものも教えてくれる。自分自身を変えるきっかけを与えてくれる物語とも言えるかな。読むとだからためになる。でもやぱり個人的にはもっと「世界の終わり、素晴らしき日々より」も読まれて欲しいなあ、と。日本みたいでそうじゃないみたいな国の退廃した感じと、やさぐれた少女とまっすぐな少女の生き様って奴が合わさり不思議な雰囲気を醸し出してたんだ。SFファンに知られないとやっぱり生き残れないのかなあ、この国ではSFの書き手として。


【3月30日】 会期も残り少なくなって来たんで、えいやっと早起きをして電車を乗り継ぎ練馬区立美術館で開かれている「野口哲哉展 野口哉也の武者分類図鑑」を見に練馬区の中村橋まで。最寄りの西武池袋線の改札手前に「こまねこ」のラッピングがしてあるんで何でだろうと思い返して、そういえば「こまねこ」のDVDが発売になるってんで制作しているドワーフに行く時に、確か中村橋で降りて歩いていっただったと思い出した。そういう関係なんだろうか。「どーもくん」ではNHK過ぎるし。でもって駅には「ゲゲゲの鬼太郎」の看板なんかも。練馬区はアニメの故郷だからってことみたい。東映アニメーションもあるし。でもそういうのがまとまった施設って杉並区に持って行かれているんだよなあ。何でだろ。

 さて野口哲哉さんはアートフェア東京なんかにもギャラリー玉英から出ていて、毎回とてつもない甲冑人形って奴を見せてくれていて、グフグフと笑いながらもそこに込められた戦国への思いめいたものを想像して感嘆しているんだけれど、そんなねじくれたアートマニア的な見方が果たして世間に広まってきたからなのか、それとも単純に甲冑フィギュア格好いいって感性からなのか、雨なのに結構な数の人が見に来ていて驚いた。あるいは日本人だけあって、甲冑という戦国から面々と続く日本の伝統的なアイテムが、現代的なモチーフを織り込みつつも過去に存在したらという一種の夢を見させてくれる場として受け入れたってことなのか。ロケットを背負った甲冑の侍に、射的の的のようなものを頭に付けて胸にも描いた侍に、猫専用の甲冑に犬がまとう甲冑等々。それらが巧妙に過去の意匠を継承した中に織り込まれているのを見るにつけ、もしかしてあったんじゃないのという思いと、あったら面白いんじゃないのというほくそ笑みを、同時に抱ける場として賑わっているような気がした。

 野口さんの凄いところは、そうした現代的なモチーフを甲冑の意匠に織り込みながらも中に入っている侍は、おそらくは当時の体格なり表情なりを緻密に再現したって辺りで、そういう人たちが着るからこそ甲冑は甲冑らしさを醸しだし、故にロケットを背負っていても兎の耳が兜から伸びていても戦国の世に実在したんじゃないかって思わせてくれる。相馬氏と伊達氏のそれぞれが赤と黒のロボットめいたものに乗っている絵も、当時の絵のテイストや甲冑の意匠を巧みに取り入れてあるからこそ、その時代に実在しているかのような錯覚を起こす。けれどもよくよく見ればあるはずがない物ばかり(除く戦国BASARA的世界)。その柔らかで穏やかなギャップって奴が、見る人を強引にではなく静かに誘って、その世界観に浸らせる。シャネル侍もアタッシェケースを下げた侍も、当時にあればそうなった的な感覚をもたらしつつ、あるはずがないじゃんという笑いを感じさせる、そんな作品たち。かき乱して納得させるというアートならではの方法論が、ひとつ結実した展覧会って言えるかも。4月6日まで。

 昨日オープンした阿佐ヶ谷アニメストリートを見てきたら、何とマッドハウスのオフィシャルショップなんてものがあって珍しかったので入ったら珍しいものをいっぱい見られた。たとえば今敏監督「PERFECTBLUE」の公開時に作られたトレーディングカードの絵柄を使ったポストカード。最近出たばかりの画集には収録されていたりしたけれど、他ではなかなか見られない絵柄がはがきサイズで10種類用意されているので、今敏監督のファンなら絶対に買いだ。値段は1枚250円。ちょっとするけどファンならそれも仕方がない。それからやっぱり今敏監督の映画「パプリカ」のTシャツ。上映館で売られていたもので僕も大昔に買った奴で、どもでっかくパプリカが描かれた黒地のTシャツが結構安値で出ていたりする。ポストカードがセットになった福袋入りのもあったかな。

 ほか見所は東京国際アニメフェアのたぶん日本テレビのブースか何かに張ってあった「ちはやふる」のでっかい垂れ幕というかシートで、千早の顔がでっかく描かれたものが張ってあって可愛いかわいい。末次由紀さんとか仕事場に飾れば良さそうだけれど、サイズが半端じゃないからそれは無理か。あとショップにはベテランアニメーターの兼森義則さんがマッドハウスのレイアウト用紙に描いた、オリジナルの女の子の原画が1万円で売られていたりしてなかなかの珍しさ。同じ絵柄のポストカードもあったりして、アニメーターの仕事ぶりって奴を手にとって楽しめる。これは貴重と言えそうなのがアニメミライ2013の1つだった「デスビリヤード」に関連して作られて、コミケで売られて完売になった同人誌。今なら買えることなら買える。

 テレビアニメだと「ダイヤのA」の原画が飾られていたりして、ファンなら嬉しいかなどうなのかな。あとまるでアニメ知らない人に向けても、どうやってアニメが作られているかを解説するコーナーがあってなかなか勉強になる。阿佐ヶ谷アニメストリートにはほかにもキャラクター風のカフェとか男装専門のコスプレの店とか、東北ずん子のオフィシャルショップとかあるにはあるけど、どちらかといえばアニメーションという文化を題材にしたショップといった感じ。そんな中にあって阿佐ヶ谷マッドハウスはまんまアニメーションの店という硬派ぶり。行けば結構深いところを味わえる。アニメスタイルが編集した「+MADHOUSE」の書籍も何点か売られてたんで、店頭で見かけなくなって久しいそれらを是非に欲しいという人は駆けつけよう。「千年女優画報」もあったぞ。もう行くしかないね、うん。

 サッカーを通してサッカーを語り、サッカーを通して恋愛を語り、サッカーを通して家族を語り、サッカーを通して人生を語る、そんな小説が白河三兎さんによる「神様は勝たせない」(ハヤカワ文庫JA)。中高一貫ながらもやっぱり中学校最後となりかねない大会に是非に勝ちたいと臨むチームのゴールキーパーと女子マネージャと軟派なディフェンダーと万年ベンチのユーティリティプレーヤーとエースストライカーと天才司令塔のエピソードが、連作的に少しずつ重なりながら描かれていく。ゴールキーパーは中学に入ってバスケでもやるかと思っていたところ、監督から背が高いからと誘われ入ってそこで未経験だから自信が無いと嘆きつつ、女子サッカーでGKの経験があった女子マネに叱咤され特訓を受けて熱血に成長し、今は最後列から選手を怒鳴り導くようになっている。

 女子マネはそんなGKを教え子として最初は思いつつだんだんと恋情も育みつつ、一方で小学生の時に所属していた女子チームで熱血やって仲間たちから浮いた過去に縛られ、自分でもプレーするという選択肢を選べないで悩んでいる。イケメンDFは軟派に見えて実はそんな女子マネが好きといった具合に、少しずつズレて重なる思いってものが紡がれていく。何かとっても青春。どこか中性的で女子マネをチーム内でも1番口を利く万年ベンチの少年は、GK以外ならどこでもそつなくこなせるユーティリティプレーヤだけれど熱に乏しく、監督からは試合にはよほどではないと出さないベンチ要員と言われてしまう。

 もっとも、一方で必要な時があるからベンチにいてくれと言われ、辞めずにチームに止まっては、選手が怪我をしないかとちょっぴり黒いことも考える。それが高い観察眼につながって、後に選手ではなく監督としての道を彼に歩ませる。エースストライカーは監督が父親でそれによって贔屓なんじゃないかといった周辺が抱く感情を払拭するため、ストイックになり過ぎな上に母親が死んだ時に父親がチームを優先させたことにわだかまりを抱いていて、そこにさらに別件が持ち上がってチームの仲間や監督との関係がぎくしゃくする。そして天才肌の司令塔はその人生に大きな秘密があって、最後に明らかとなってチーム全体を迷わせ自身も悩ませるけれど、それでもしっかりと自分自身の道を見つけていく。

 サッカーをするなりスポーツをするということに真剣に挑むGKに、真剣さが浮く要員となって迷う女子マネにチャラい割に実は真剣というDFに、プレーへの熱って何だろうと惑う万年ベンチに贔屓と実力の狭間に泳ぐストライカーに天才故に理詰めが苦手な司令塔。GKがどんな心情でゴールを守りストライカーがどんな気持ちでボールを蹴るか、万年ベンチとはどんな気持ちか、女子がサッカーをすることの大変さとは、等々のサッカー選手としての心情も描き込まれていて、それぞれがサッカーというものと向き合い考えるサッカー小説として読み込める。なおかつGKに恋する女子マネに、女子マネを好む軟派DFに司令塔の14歳離れた姉が好きな万年ベンチに監督である父に素直になれないストライカーに、そのストライカーと関係が複雑化した司令塔。人間らしい恋情や感情もはしっかりと描かれる。人間だものアスリートだって。そんな白河三兎さん「神様は勝たせない」を読んで知ろう、サッカーを、そして人間を。


【3月29日】 何だ第25話って。って話はさておきテレビアニメーションの「キルラキル」は、予想したように神羅纐纈を纏って地球を衣服で覆い尽くそうと企む鬼流院羅暁を相手にひとり纏流子が挑んでこれを討ち果たし、成層圏を燃えず神衣鮮血との離別を経ながら地球へと帰還して大団円。決戦に向けてすべての生命戦維を神衣鮮血が吸収してしまった関係で、誰も彼もがすっぽんぽんになっていたけど成層圏から落ちてくる流子をそんな皐月が受け止め、四天王が受け止め満艦飾一家が受け止め本能寺の全員で受け止めて無事に助けてそすべてが終了。アニメーション史上に残る全員裸ってビジュアルを見せてくれた。

 そして戦いが終わって本能寺学園も無くなった地上で、流子と皐月とマコの3人の幸せな日々が始まるというハッピーエンドで幕を閉じた「キルラキル」。これでもう十分だけれど25話ってのを付け足し他の面々の“卒業”って奴を描くそうで、マコと蟇郡との間に視点はあったのか、とか皐月ちゃん大好き蛇崩乃音の流子への嫉妬はないのか、とかいった部分は気になるんで見てみたいけど、BD買うのはなあ、そこが目下の悩み所。昔だったら感動と感嘆の気持ちを表そうとDVDなりBDを買いそろえていったことだろうけど、景気も悪くなった最近はどうにもパッケージに手が伸びなにだよなあ、買っているのは物語シリーズくらいであとは劇場公開された作品か、近いところだと「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新篇]反逆の物語」を買う予定かなあ。

 「キルラキル」も悪くはないし、おまけのボリュームも凄いんだけれど最近、そういうおまけに気持ちをとられるってことも少なくなって来た。監督買い、って意味では同じ今石洋之監督による「天元突破グレンラガン」はそろえたんだけれど、あれはパワフルな作画とエスカレーションしていくストーリーに加え、設定の深く重たくて意外性にあふれた部分に惹かれたってところがあるからなあ、つまりはSFとして。「キルラキル」も某「カエアンの聖衣」を思い出させてくれるくらい、SF魂にあふれた作品ではあるけれど、「グレンラガン」のぶち抜けぶりと比べるとちょっぴりこぢんまりとしている気がしないでもない。それが予想どおりって印象につながっている。

 十分に凄いんだけれど十二分には届かない、その贅沢すぎる悩みがパッケージに手を取らせていないんだとしたらいったい、いったいどんな作品が買うに値するのか。キャラクターなのかストーリーなのか監督なのかパンチラか。貧乏が上げてしまったハードルを越えられる作品、越えさせるシチュエーションについて考える時期が来ているのかもしれない。だったら「Wake Up’ Girls」はどうなんだ? って話になるけど、劇場版は買ってテレビシリーズの第1巻は悩み中。最終回が放送されて綺麗なところで収まった、って言えるけれども活躍はまだ遠くI−1クラブに及ばずローカルからようやくメジャーデビューが決まりかけたところで「明日はどっちだ?」状態だったりする。なんだ映画と同じ引きか。

 だからこそ続きが見たいって来もあるけれど、ここらか舞台を東京に映してデビューしてから全国的な人気を獲得していくようなストーリーになってしまうと、ローカルアイドルが地元仙台で頑張りながら、地域への関心を持ってもらうっていった作品が持ってた意味性がちょっと薄れてしまう。ご当地があっての作品が持つひとつの制約というか。同じ山本寛監督による「かんなぎ」は仙台を出ていかないからなあ。でもせっかく、ああいう場を得たキャラクターであり声優さんは応援していきたいところであるし、そういう意味でも買っても良いかなあ、とは思っているところ。たとえ全国区になったところで、地元への意識を忘れさせないように出来るってことは「あまちゃん」も証明しているし。だからあとはストーリー次第。そして演出次第なんで山本寛監督には是非にその辺りを勘案し、挑んでいって欲しいもの。第1巻を売っているのをまだ見てないから、実物を見て買うかどうかを考えよう。

 資料整理とか再読とかしなくちゃいけない仕事が入って来たんでそれの準備をしつつも、好天を受けて去年はなぜか出不精になってほとんど見られなかった「なでしこリーグ」が開幕するってんで味の素スタジアムの西競技場まで行って「日テレ・ベレーザvsASエルフェン埼玉」の試合を見物に行く。ここの競技場は始めてでメインのスタジアムがあるにはあるけど小さい上に1800円も取るんでサイドからバックへと続く芝生の自由席で観戦、って席なんかないけどね。まあそれも女子サッカー。昔だったらメインも含めて無料で見られたんだけれど、人気が出てきたこととそれから、やっぱり女子サッカーにも自活への自覚なんてものを持ってもらいたいという意識もあってか、人気チームに限らず有料化ってのが行われたらしい。それは結構、あれだけの試合をタダで見せるのは惜しいと思っていたから。

 そりゃあいざ払うとなると何でタダじゃないって思う気持ちも少しはあるけど、それが成長への道なんだから仕方がない。あとは対価にふさわしい試合をちゃんと見せてくれているか、ってところでそこは日テレ・ベレーザ、最近はINAC神戸レオネッサにすっかり持って行かれているけれど、かつて盟主を名乗ったチームだけあって今もクオリティの高い選手が在籍していてしっかりとしたボールつなぎからスピーディーな攻撃から相手を囲んでシュートを打たせない守備からしっかりしたプレーを見せてくれている。狭い範囲に両チームの選手が固まってわーわーやっているって感じはなし。サイドに開いてボールをもらい、パスを出すと誰かが走り込んで受け取りといったサッカーがちゃんとやれている。2002年頃から通い始めて12年。人気だけじゃなくって実力もちゃんと成長している。だからお金をとれる。良いサイクルで回っているなあ女子サッカー。

 なるほどベレーザは強くって、小さいのに積極果敢に飛び込んでいった中里優選手とかのゴールとかもあったりして、結果的なスコアは5対1とベレーザが圧勝したけれど、押されまくっていたエルフェンも、得点を奪われたシーンのちょっとした不注意をなくせばあれで十分に対抗してけるような気はした。1点奪ったし。っていうかフォワードにかつてのベレーザのエースストライカー、荒川恵理子さんが入っていたのに驚いた。知ってはいたけど違うチームで違うユニフォームでベレーザを相手にプレーする姿を見るのって何か新鮮。それはミッドフィルダーに入った伊藤香菜子選手やゴールキーパーの山郷のぞみ選手も同様か、

 山郷選手といえば元なでしこジャパンの守護神で、埼玉レイナスから浦和レッズレディースを名を変えたチームでもずっとゴールを守っていた人が、同じ埼玉のエルフェンに移籍し宿敵ベレーザを相手にゴールを守る。何という光景。昔だったら移籍なんかあんまりなくって卒業のように引退していく選手が多かったけれど、こうやって流動化が起こって底上げが行われるようになったことで、日本の女子サッカー全体が強くなっていく期待が浮かんできた。あとはちょっと行き過ぎている感もある海外組が、そこでの経験を国内に還元してくれればさらに強くなれるんだろうけれど。そのためにも国内がもっと盛り上がって選手がそれで自活できるような環境がさらに整備されていかなくては。そのためにも今年は頑張って通ってお金を落とそうかな。

 深海での惨劇に話題が沸騰しているライトノベル界にもう1つ海中物が。中村学さん「アクアノート・クロニクル」(ファミ通文庫、600円)は温暖化とかいったものではなく、最初っからすべてが海に覆われた世界が舞台。つまり海上という概念が存在していない世界で、誰もが海底に置かれたシェルターにこもって暮らし、海中を移動して交易している。主人公の少年ウル・ナンムは運送屋として社長で少女のメリル、操縦なんかを受け持つシバヤスといっしょに働いていて、その日も運送の仕事から帰る途中、ウルは海底で疲れたか何かしてぐったりとしていた少女を拾う。連れ帰って事情を聞くと、どうやら南方の王家のお姫さまらしく、故国が戦乱にあって帝国に支援を求めに来たらしい。

 そんなアビシャイという少女を狙っていた追っ手の女がいて、ウルが海底に落としていたIDカードを拾い居場所を調べて追い付いて来てウルを見て怒る。ケセンという名のその女が愛しく思っていながら、1週間前に起こしたテロで命を落とした男が持っていた眼と力をウルが受け継いでいたから。ケセンはウルがそのテロリストを殺して眼や力を奪い取ったと信じ、どこに逃げても絶対に追いつめ殺すという呪いをウルにかけて追い回す。ウルはといえばケセンをとりあえずしのぎ、メリルらとお姫さまを帝国に届けようとして逃げた先。怪物が現れ戦いになり、ウルだけがお姫さまを追う船団に捕らえられる。

 いったりきたりの運命。危険もあったけどウルには怪我が直る不思議な力も備わっていて1カ月前にテロで重傷を負った時に何かあったと気づく。さらに内紛のようなものも起こってしっちゃかめっちゃかな中、ウルはケセンとの決戦へと向かうというストーリー。メリルという幼なじみの少女に好かれ、怪物から助けたといって北方旅団というアヴィーを追う勢力に所属する眼鏡っ娘で貴族の娘から巨乳で迫られ、その北方旅団に傭兵として参加しているこれまた巨乳の美女から好ましく思われてとウルくん大モテ。ただケセンだけは命を削ってウルを仇と追い回すそのすれ違いぶりがちょっぴり悲しい。勘違いしなければ彼女だってもっと……。誰も彼もがハッピーエンドになれる訳はない。そこの「絶深海のソラリス」ほどではないけれど、残酷な現実って奴を見せられる。

 海の中なのに光が届き作物なんかを育てられる環境とか、いったいどこから調達しているか分からないけどシェルター内には酸素があって、大勢の人間が生きていて文明を育み国家や宗教を育んで領土を奪い合う戦争を地上と同じようにやっているという不思議な世界観。それが出来た理由は。というよりそもそもどこなのか。「地球」という言葉が何か憧れなり夢なりの存在として示唆されているところにも秘密がありそうで、そんな謎が解き明かされていくだろうこれからの展開に期待がかかる。あとはウルがいったい誰を本命にしているのかも。メリルは甲斐甲斐しいけど姉として弟に接しているようだし、アヴィーは助けてもらったお礼といった感じの接し方だし。眼鏡っ娘のシャクティや傭兵のヴォーレンランドは本気っぽいけど、それはウルが大変そう。恋の行方も含めて続きを待とう。


【3月28日】 8億円の熊手っていったい何が付いているんだろう。金銀珊瑚に瑠璃瑪瑙が散りばめられているんだろうか。ダイヤモンドが何十個となく輝いているんだろうか。それでも8億円には達しない。そんなものをDHCから借りたお金で私的に買いましただんて言って爆笑されると思わないんだろうかと誰もが感じるところを、当人だけはsれが通じると思っているから間抜けというか何というか。みんなの党の渡辺喜美代表。2回あった選挙の時にタイミングよく3億5億と借りていたのは何故ですか、って聞かれた時なんて完全に目が泳いで言葉につまっていたもんなあ。何を言っても拙いと感じていたのかどうか。いずれにしたって通らない言い訳。額も半端じゃないだけに、猪瀬直樹前都知事の立件から略式命令で罰金50万円となった一件もふまえて何らかの動きがあるだろう、でないと不公平だし。それにしてもどうしておのタイミングで。そこだけが不思議。

 名人といったら大山康晴十五世名人で、棋聖は桐山清澄九段で王座は塚田泰明九段でといった具合に将棋のタイトルには何か棋士のイメージがついているというか、将棋を見始めた頃にタイトル戦に絡んでいた人たちの印象が強く残っている感じがあるんだけれど、実際の在位数は大山十五世名人を別格とすれば誰もそんなに多くはなくって、それこそ中原誠十六世名人や羽生善治三冠の方が、よほど多く在位数を重ねていたりする。ただみんな強すぎてタイトルを多く持ちすぎていて、この棋戦にはこの棋士といったイメージを残しづらいというのが正直なところ。なので時折そのタイトルに在位する人の印象がやっぱり残ってしまう感じ。王将はといえばうーん、米長邦雄九段といった感じなんだけれど在位は3期で突出してないんだよなあ。人徳か。んで王将戦に決着がついて羽生三冠が渡辺明王将に挑んで奪取に失敗。渡辺さんは二冠を維持したようで2期3期と重ねていってその名を王将戦に刻んで欲しいもの。羽生さんは次に名人戦が控えているからそっちにシフトして是非に奪取を。同一棋戦で4連続の敗戦はやっぱり羽生さんらしくないから。

 気が付いたら浦和レッドダイヤモンズのゴール裏に陣取るサポーターグループがまとめて解散を発表していたというか、解散すると発表させられたというか。チームとサポーターグループとのやりとりはよく分からないけれど、傍目には問題を起こしたグループがゴール裏にいたことを鑑みて、その連帯責任をとらされたという格好だし、ちょっと踏み込めばそうしたことが起こり得る風土を全体が醸成してしまっていた以上は、解散するのも当然といった感じでもありそう。自分たちは関係ない、って言えないし言っても通じないものなあ、世間には。さて問題はこれからの応援がどうなるか、ってあたりで例えば柏レイソルと名古屋グランパスとの試合でサポーターどうしの暴力沙汰が起こったことなんかで、ゴール裏の大手団体が解散してたような記憶があるけれど、その後に応援が滞ったかというと別の人たちが入ってちゃんと応援は続いてた。浦和もそうなるか、っていうと日立台とはスタンドのサイズが桁違いだからなあ、埋められるものじゃないし。だからどうなるか。ちょっと興味。まあこっちはJ2なんで埼玉スタジアム2002に行くってことはないけれど、今年も、そしてたぶん来年も。

これで幾つ目のサインだろう  天気も良かったんで3月5日に続いてカイカイキキギャラリーで4月2日まで開かれているタカノ綾さんの展覧会「すべてが至福の海にとけますように」を鑑賞しつつ開幕の時には売っていなかったカタログを買う。とにかく巨大な絵がいっぱいでそこにはたくさんのモチーフが散りばめられていて、ひとつひとつ覚えるのも大変ならそのモチーフがどういう意味を醸しだし、どう連携しているのかを考えるのも大変なんでこうして図録になっているのは有り難い。2011年頃からずっと描いてきたという他の絵なんかも収録されているし。でもって松井みどりさんとの対談でタカノ綾さん、最近は朝方まで酔っぱらって記憶をなくすような生活はしておらず、しっかりを早起きをして野菜を食べてヨーガとかにも通っているらしい。何というヘルスケア。でもそれは健康に目覚めたというより311を経て自分の行き方を見つめ直した結果らしい。その影響が作品にも表れたのが今回の展覧会ってことで前とは違った静謐な中にさまざまなモチーフが描かれ沈思させらえるような絵が増えているという印象。だからずっと見ていたくなる。その意味ではカタログで見るより実物を浴びるように見るのが正解かも。行って欲しいなその現場。サイン入りのカタログも売ってるし。

 わははのは。超ヘイトな川柳が投稿されてはとりあえず全国紙の看板の下に掲載されているのを指摘されてもまるで引っ込める気配がなかったウエブサイトの機能が、評判になり過ぎて指摘がわんさか寄せられついでにヘイトの度合いが高まった川柳も増えてしっちゃかめっちゃかになっていたのにたまりかね、月内をもってサービス終了になった模様。いっそだったら即座に止めてしまうのが健康には良さそうなんだけれど、それを言うと問題の投稿が多いことを認識しながらほったらかしにしていたことが露見してしまうから、知らず気づかないまま年度替わりの改革ですからって言い分で、終了しようとしているのかも。とはいえこうして明らかになったからには、ラストスパートでとんでもない川柳が書き込まれる可能性も。誹謗中傷差別助長も平気の平左がはびこれば、被るダメージも大きさを増すんだけれど。さてもどうなる。

 「『名古屋を最も憎んでいるのは東京人でも岐阜人でも、世界のほかの誰でもない』『誰だよそれはッッ!』感情的に俺が叫ぶと、なごのは静かに答えた。『宿命の相手……三河人だよ』。」という訳で石原宙さんの「8番目のカフェテリアガール2」(集英社スーパーダッシュ文庫)は驚嘆の引きで凄絶な次巻の戦いを予感させる。いったい名古屋は勝てるか? そんな興味はさておいてもシリーズ第2巻となって学食にある食堂どうしが進退をかけてバトルするというストーリーは、いったんの勝利を収めた主人公の少年が働く満天という店で働く料理長で元暗殺者という訳が分からない経歴の少女が、自分に自信を失い蓬莱って別の店で修行をするって展開になりつつそれは実は仕組まれたもの。タイミングをはかったかのように料理勝負が始まって最下位を連続するとお取りつぶしに合うって状況に満天に残った主人公や店長代理の少女やアイドルだけれどストーカー気質の少女なんかが力を合わせて挑む。主人公の妹で味噌大好き少女があんまり目立ってないけど地元名古屋にたぶん帰る次巻あたりで巻き返してきそう。何せ相手は八丁味噌の三河だし。間にはさまった名古屋メニューでコメダ珈琲店ならぬコンパルが登場しているのがなかなか通かも。あるんだよそういう喫茶店チェーンが。


【3月27日】 野田市にそんな橋があったとは、まるで知らないまま腐食によって撤去されたという「とんとんみずき橋」の話が朝日新聞に出ていて、25年保つといわれたのに雨で腐って危なくなったんで10数年で撤去しなくてはならなかったのは、設計が甘かったからだと施工に当たったURを相手に野田市が訴訟を起こす準備をしているとか。もらっておいて腐ったのは施工者が悪いというのも無体な話だけれど、そういう触れ込みだったから渡した方も問題か。どうやら愛媛県でも同じようにボンゴシ材というアフリカの材木を使って作られた橋が、早々に腐食して落下したそうで、それで何で同じ材木で作ったんだと野田市が言うのも分かる。ただ受け渡しの時期が愛媛の落下と重なっていることもあって、別に事情があったかもって考えたかもしれない。自分のところは大丈夫だとう自信も含めて。

 そんな愛媛の橋の腐食について、農林水産省森林総合研究所が調査した結果ってのが2000年に上がっていて、そこで「ボンゴシは腐りにくい樹種である。ただ、絶対腐らないと言う思いこみ(設計上の配慮不足)が、部材を過酷な環境に追い込み、今回の事態(耐久設計上の弱点である接合部の腐朽による断面欠損、落橋)を招いたと考えられる」って指摘が出されている。これを受けての設計変更はすでに完成していた「とんとんみずき橋」には無理だったとしても、何らかの対策はとれたって気もするだけに、そこから何年も放置して結果的に腐食させた罪はある。それが渡したURなのか受け取った市なのかは判断に迷うところだけれど、住民サービスに資する意味でも市には早急に対策を講じる必要があったんじゃないのかなあ、それが何もしないで腐るに任せて撤去し今は橋もなく、利用者には不便をかけている。自分に責任はないそんなお金はないという行政の事なかれ主義にもやっぱり、指摘があってしかるべきだと思うけど、どうだろう。

 とはいえ情熱を持って仕事をしたって、親方日の丸と非難されてしまうから公務員のやる気だってそがれてしまうだろう。頑張れば出過ぎと言われ、引っ込んでいれば休みすぎと言われるなら、決められた範囲で決められたことをかっちりやるのが安全安心。けどそれで良いんだろうかと未来に燃えている青年は思って口にして袋叩きに合いかけた、というのが青柳碧人さんによる新シリーズ「朧月市役所妖怪課 河童コロッケ」(角川文庫)のイントロダクション。父も母も公務員で、とくに父は市役所の窓口に座り続け何十年、市民のためにと奉仕を続けて来た。どれだけの強面が相手でもひるまず怒鳴らず喧嘩をしないで応対し続けたその父親は、市民の夢を見るのが公務員の仕事だと息子に語って聞かせていて、それを聞いて育った息子も公務員として市民の夢のために頑張ろうと思い、制度改革で生まれたインターンとはちょっと違う行政アドバイザーの職に就こうと試験を受けて合格。しばらくの待機を経て朧月市役所というところに採用される。

 これで希望を叶えられると喜び勇んで行った朧月市で、宵原秀也はそこがとんでもない場所であり、採用されたのがとんでもない部署だと知る。第二次世界大戦後、進駐してきたマッカーサーの命令によって全国の妖怪が集められて封じられたのがその朧市。住民たちはだから妖怪と半ば寄り添い、時に被害を受けながらも暮らしているけれど、そのことが全国に知られていないのは、朧市を出るとすべて忘れてしまうという結界が張ってあったから。当然に秀也も知らず入って自分が妖怪課というところに配属され、街で起こる妖怪が絡んだ苦情の処理をすることになったと知って驚いた。とはいえ帰る訳にはいかない。入った寮でいきなり部屋を幾つも幾つも作ってしまう妖怪にとりつかれてしまった。一緒には出られない。お祓いにはしばらくかかる。だから残るしかなかった。

 何よりようやく得た仕事を捨てる訳にはいかなかった。父の教えも果たせる場所。だからと勇んでみたものの、周囲はどちらかといえば文字通りの公務員気質の人ばかり。範囲を超える仕事は嫌がり上の命令には絶対で、周辺との軋轢も避けたがる。それで良いのかと問う秀也に返ってきたのが「お前公務員向いてない」という声。自分の信じる公務員と、一般の公務員とはそんなに違うものなのか? なんて問いかけが投げかけらえる。実際、杓子定規に解釈するよりなあなあな中で、丸く収まるような公務員仕事でスムースに事が運ぶこともあった。けれどもそれでも最初は市民のためだったことが、だんだんと自分たちの効率のためとすり替わっていってしまった果て、市民からは何もしてくれないという批判が起こり、それが朧市にとって転機となるような事態を引き起こす。どうなる朧市、というのはシリーズの続きで。いわゆる民営化がもたらす問題なんかもそこで語られそう。

 そんな社会的な問題と平行して、さまざまな妖怪が引き起こす事件に挑むというミステリー的な要素もあるこの「朧月市役所妖怪課」。サブタイトルにもなっている河童に似た狒狒爺という妖怪が何故か川もないのに現れ人を襲った事件の真相は。もぎ取り川をむくと大声で叫ぶ人面果実をめぐっておこった事件の犯人は。そして市役所では排除はしても駆除はしない妖怪が何者かによって退治されている事件を引き起こしている者たちの目的は。それぞれの事件に理由があって推理から真相へと迫り明らかにされる経過になるほどと驚ける楽しみがある。あとは人間と妖怪の共生は可能かといった「ぺとぺとさん」や「夜桜四重奏」なんかでも描かれているテーマの探求。いろいろな角度から楽しんでいける新シリーズの登場をまずは喜び、順調に刊行されていくのを待とう。映像化とかやっぱり遠いかなあ。

 2回、候補になりながらも受賞を逸してもうこれまでかと思われたかというと、ますます支持を集めて遂に「マンガ大賞2014」の受賞となった森薫さん「乙嫁語り」。恒例のニッポン放送で行われた会見には作家さんも登壇して創作のヒミツなんかを話してくれたけれどもとにかく作品に対して真摯なスタンスが見えてきた。「エマ」を終えて今度は隔月刊での連載となった時にゆっくり描くということに流れないで、2カ月あれば描ききれるテーマだということで中央アジアのお話を描こうと決断したところがまず真摯。ネットとかで論文は見られるしAmazonを使えば資料だって取り寄せられる時代ではっても、それらを探して集めて閲覧するだけでも相当な苦労が伴う。描きながらそれをやり、時には国会図書館にも通って資料を探すというから入れ込み具合は半端ない。おまけに自分ではまだ中央アジアには行ったことがないとか。今行けばいろいろ見えるだろうという意見はつまり、それだけ対象をじっくりと見たいという気持ちの表れでもあって、そこにも描くことへの真摯さが滲んでいる。

 結果生まれた、あの厳しいけれども豊穣なタジキスタンほか中央アジアの世界。「この作品はその街に済んでいる気持ちになれるように描いている」と森薫さんが言うように、読んでいるだけであの時代のあの地域に滞在しているような感覚になってくる。絵で読ませ物語で感じさせる漫画という媒体のすばらしさを、見事に体言している作品ってことでなるほど「マンガ大賞」にこれほどふさわしい作品はなかったかもしれない。もちろん僕が最終選考で上げた「七つの大罪」「さよならタマちゃん」「重版出来!」もそれぞれに素晴らしい漫画なんだけれど、決してメジャーではない地域を描き、決してメジャーではない媒体で描き、決してメジャーではない内容を描いてなおこれだけ支持されるってことの裏には、漫画というものにかける情熱の大きさがあって、それが読む人に伝わったってことがあるんだろう。改めておめでとうございます。しかしマンガ大賞、女性の受賞が続くなあ、男性は1回目の石塚真一さんくらい。どうした男子。どうした熱血。来年こそは「デストロ246」を送り込みたいけれど、無理かなあ。

 早々に削除だけしていた朝日新聞のウェブサイトにあった「ウソうだん」ってコラムの小母方さん回についてサイトに謝罪が出たとかで、対応の早さに感心するとともに架空と銘打ってはいても犯罪者でもない特定個人をただ怪しいからといってやり玉にあげて虚仮にするようなコラムが、朝日新聞の看板を背負ったサイトに掲載されることに、いかがなものかという印象を抱いて問題にした人がやっぱり多かったってことなんだろう。それだけ一挙手一投足が注目されているという。翻ってとある全国紙がそのサイトで繰り広げている川柳サービスに差別丸出しなものが平気で掲載されていることが、じわじわと問題になっているけど改まるどころか認知を受けてさらに酷い川柳が寄せられるようになっている。なるなる様子もなければ削除される様子もまるでなし。責任はとらないよって宣言はしていても、看板が掲げられている以上は同じと見なされる可能性もあるのに。やっぱりリアクションがケタ違いってことなのかなあ。100分の1とか1万分の1とか。それはすなわち媒体力の差って奴でもあって。寂しいなあ。


【3月26日】 こんなに面白いアニメーションがあったとは。花澤香菜さんの名前につられて見物に行った丸ビル7階で開催の「おにくだいすき! ゼウシくん」のファン感謝祭&CD発売記念でまとめて見たアニメCMがどれもシュールでそしてほのぼの。雲の上にある「にくにくランド」の王子さまというゼウシくんが、牛のぬいぐるみというみの太くんと一緒に地上へと降りてきて三伊戸家に居候。そして娘のミカちゃんやお父さんお母さんたちといっしょに食卓を囲んで肉を喰らい空を見上げては雲を肉に見立ててと、肉尽くしの生活を送るというまるで肉の宣伝みたいなアニメーションだけれどそれも当然、肉の宣伝アニメだから。国産の。

 JA全農が国産肉の普及を目指して作ったという作品で、手がけたのはDLEというFROGMANさんを抱えて「鷹の爪」シリーズなんかを世に送り出している会社。なるほどだからシュールでそして面白い。決して派手なアクションがある訳でもないし、キャラクターだって萌え系だったりする訳でもないけれど、どこかゆるキャラっぽくて4コマ漫画っぽい絵柄でもって繰り広げられるコントのような展開が、毎回ちゃんとおかしく面白くってついつい見入ってしまう。とはいえ決して知られている訳ではなく、あの花澤さんをゼウシくんの声に起用していても全国的な認知を得ているとは言い難い。そこで登場のCD発売。ひたすら国産お肉を食べる喜びを唱えるような歌を広めることによって、認知を上げて、待望の第2期と行ってくれればようやく知った人間としても嬉しいところだけれど、果たして。

 あとイベントには振り付け師の南流石さんも登場して歌に合わせて踊ってくれた。それがまた流石は流石さんといったところでいっしょに踊っていた花澤さんも楽しそう。その踊りを果たして今度のツアーで歌とともに披露することはあるのか? なんて期待もしてしまうけれどとてもじゃないけど行けそうもないのでリポートに期待。何でもツアーでは花澤さんがレシピを監修した「かなちゃんとゼウシくん 秘密のレシピ SPYCE“25”ビーフカレー」っても販売されるそうで、全体の25%が肉という大盤振る舞いなカレーのいったいどんな食感か気になる。食べたいなあ。名古屋ならまだチケット余っているようだけれど、でも平日だから無理か。全農の力で商品化して欲しいと願おう。

 「虐殺器官」と「ハーモニー」のノイタミナブランドによる劇場アニメーション化発表をきかっけにして、またぞろ「伊藤計劃以後」がどうしたって話がネット界隈を賑わせているようで、その用語をプッシュした評論家とかから説明があったり、別に伊藤計劃さんの作品を強く押す評論家から異論が寄せられたりして賑やかだけれど、そんな中にセカイ系から社会を描くような“変革”が以前と以後ではあったと聞いて、そうか社会を描いているなら伊藤計劃以後って括られるのかと理解。ということは「浜村渚の計算ノート」シリーズで教育行政の暴走をテーマに盛り込み「千葉県立海中高校」では政府による開発行政の迷走を描き「判決はCMのあとで ストロベリー・マーキュリー殺人事件」で裁判員裁判の制度がやがてエンターテインメント化する可能性を警告し、「希土類少女」では国策という大義の前に少女たちの運命が翻弄される悲しさを描いてそして最新作「朧月市役所妖怪課 河童コロッケ」で公務員という仕事の意義を問うた青柳碧人さんは、伊藤計劃以後の中心を歩く作家なのかと思ったけれど誰も話題にしていない。どうしてだ?

 それは知らないからって可能性があるし、知っていても取りあげて自分の価値を上げられないからかもしれない、世間一般で「浜村渚の計算ノート」シリーズが累計で40万部とか行って、それなりなベストセラーになっていても、SF方面ではほとんど取りあげられていないから。ミステリ方面だと……僕がミステリマガジンで取りあげたっけ、記憶が雲散霧消しかかっているんで思い出せないけれどでも、ミステリな方面からアプローチがあって青柳さんは早川書房から「ヘンたて 幹館大学ヘンな建物研究会」ってシリーズを刊行した。妙なタームで作家を区切らず早川から出ずんばミステリにあらずといった立場もとらず、どん欲に作家を取りあげていく感じ。対してSFは……。まあいずれ何か書いてくれると思いたい。その前に角川書店が本気で売り出そうと考えるかな。講談社文庫はどうにもその当たりのメディアミックスが弱い感じだし。「浜村渚の計算ノート」シリーズなんてとっくに映像化されてたって不思議じゃないのになあ。

 そんなシリーズ最新作「浜村渚の計算のーと 5さつめ 鳴くよウグイス、平面上」は修学旅行で京都に行った浜村渚と仲間たちが大活躍。碁盤の目のように道路が走る京都の町を座標に見立てて二次関数やら一次関数やらが繰り出されてはひとつの事件が起こりそして解決される。その展開はいつもどおりだったけれど、気になったのはドクター・ピタゴラス亡き後に後を次いだ森本洋一郎という男が前にも増して「黒い三角定規」を過激な集団へと変えて導こうとしている点。それの反旗を翻そうとした京都の面々が巻き込まれたのがさっきの事件だし、ドクター・ピタゴラスの時代から幹部として“活躍”して来たキューティー・オイラーの身辺にも危機が及んでちょっぴり武藤龍之介をやきもきさせる。彼は彼女が気になるのかな、それとも彼女が彼を気にしてる? どっちにしても浜村渚には関係なさそう。ただ過激さを増すとなるといつも事件に出しゃばってくる渚を「黒い三角定規」が狙ってくるってこともあるのかな、限に収録の最初のエピソードえは鑑識の面々が誘拐されてしまった訳だし。どうやらまだまだ続きそうなんでその辺りをふまえて展開を追っておこう。しかしドラマ化とか本当にないのかなあ、勿体ないよなあ。

 4月5日の上映開始を前に刊行された押井守監督監修で山邑圭さん作による「THE NEXT GENERATION パトレイバ1 佑馬の憂鬱」(角川文庫)を読んだら4月半ばに吉祥寺でパトレイバーが起きあがってパレードするのがどれだけ危険なことなのかが見えてきた。警視総監を前にした観閲式でもとんでもない事態になったんだから、不特定多数が集まるパレードでもしもそんなことになったら……。考えるだけでも阿鼻叫喚。まあそこは自立する訳じゃなくってトレーラーからのジャッキアップだから大丈夫だと信じたい。ストーリーはそんなエピソードも加えつつ劇場で公開される第1章の内容なんかも含みつつっていったところか。篠原遊馬とか泉野明といった初代の暗躍が今なお伝わる状況が示され、それを現在の3代目たちが気にするといった具合につながっていく感じ。映画もそうなるかそれともぐうたら特車二課のテキトーな日々になるのか分からないけれど、描き込める小説版は過去と今とを描いて前からのファンを喜ばせてくれそう。何巻になるか分からないけど読んでいこう。


【3月25日】 やっとこさ見た「となりの関くん」に自動車教習所時代を思い出す。最初はちょいぶつけたけれど、途中からクランクも縦列駐車も失敗せず坂道発進も全然平気となって、割とすんなり教習所内での運転はクリアして路上教習に移れたように記憶しているけれど、1回くらいは落ちたかもしれない。教習所で教わった坂道発進はブレーキを話してアクセルを煽るタイミングとか、縦列駐車で車の左後ろを止めたい場所のどこを目標にしてバックしていけば良いのかって話は運転していた時代に結構役立った。運転免許試験場がすぐそばにあったから、そこにいきなり言って試験を何度も受けて通過を目指す方法もあったけれど、それでは安全運転とか操作に関する技術は教わらない。そうやって世に出た人たちがする運転とはひと味違うぞ、って自負があったけれどもう20年以上も運転してないと、そういう知識もまるで意味を持たないんだよなあ。運転再開したいなあ。田舎に帰るかいい加減ヤバいし。

 最初のiPadを買ってからだから3年と10カ月は使い続けたイー・モバイルのポケットWi−Fiがどうも調子が悪くって、スイッチを入れるとずっとロゴが出てそこで固まる状態になったんでこれはもう換え時と、家電量販店に行って同じポケットWi−FiのGL06Pって奴に乗り換える。もっと新しい機種とか出ているのは知っていたけど、4G回線とかでソフトバンクと相乗りしていてそれの切り替えが面倒だとかどうとかいった話もあって、それなら安定して繋がり続ける方にしたいと古い機種を敢えて選んだ次第。5月から何か月間の使用量に応じた速度制限なんかもかかってくるらしいけれど、もとよりテキストに画像が中心で映像とかほとんど見ないんで気にしない。ちゃんと繋がりちょっとだけ早ければそれで嬉しいんだけれど、果たしてどんな感じだろう。帰って早速見ようエロ画像。

   映画であれ小説であれ舞台であれ絵画であれ、芸術と呼ばれる分野の作品を作ったことがないからそれらを生み出す苦労といったものをよく知らない。構想やらアイディアやらが沸いたとしてもそれだけでは作品にならない。映画なら役者を集めて演技させ撮影して現像して編集して上映してようやく映画と呼べるものとなるし、絵画だってただ線を書き殴っただけではそれは絵画と呼ばれない。徹底的に突き詰めそこが完成だと思った段階まで描き抜かなければ作品にはならない。その過程で受ける葛藤なり不安なりはどれだけの凄まじさなのだろう。最初は自信満々で臨んだとしても途中で生じた迷いがやがて大きな暗闇となって身を包み、これでいいのかこんなものかと心を苛む。それにくじけて立ち止まったらもう作品は完成しない。

 徹底的に覚悟して全面的に献身する。その果てにしか芸術は生まれ得ないのだとして、それでも芸術に立ち向かうためにはどれだけの動機が必要なのだろうかと考える。あふれかえる自己顕示欲か。いつか世界を見返したいというジェラシーか。そんな境地にたどり着いたことがないからまるで分からないけれど、そんな境地に迫ろうとする者たちの言動を追うことで少しは理解に近づけるかもしれない。つまりは一とかいて“にのまえ”と読むらしい一肇という作者による「少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語」(角川書店、1600円)という小説を読めということ。ぎっしりと詰まって切々と綴られていく物語から、映画という芸術にのめり込んで命すら捧げようとした者たちの葛藤と逡巡、そして到達から突破へと至る心情が浮かび上がって読む者たちを導くから。

 熊本から2浪して東京にある大学に入った十倉和成は、友楼館という古い下宿に入って家からの仕送りもないままかろうじて母親が送ってくれた食料品やカップラーメンを頼りにしばらくの間を凌ごうとしていた。ところがちょっとだけ目を離した隙にカップラーメンが1つ消えてしまう。その前にもマフラーや鋏が消えてしまったことがあり、ほとんど荷物もない部屋で見失うはずがないこれらはきっと誰かに持っていかれたのだと思った十倉は、誰に語りかけるでもなくそれらの物品への思いを語るとおや不思議、押入の上の天袋からおかっぱ頭の楚々とした少女が降りてきた。黒坂さち、と名乗った彼女はもう何年もその部屋の天井裏に暮らしていたけれど、寒さで風を引き食事にも困って十倉の部屋のものに手を付けたのだと言って謝る。

 そうかそれなら仕方がない、と笑って許す許さない以前にどうして高校生の少女がひとり家にも帰らず何年もそんなところで暮らしていたのか。のぞくと布団があり明かりもあり風呂屋に行くための洗面器もあって寝起きできるようになっている。なっているけれどそこに居続けるのは大変。何しろ友楼館は女人禁制が言われていて、なおかつ暮らしているのは安アパートにふさわしいおかしな奴らばかり。十倉と同じように2年遅れで入学して来た亜門に久世といった面々をはじめとした住人に見つからず、果たして何年も暮らしていけるものなのかと疑問は浮かんだものの、そこは耳そばだてて建物と一体になることで、誰が何をしているかは分かるから大丈夫だとさちは言う。そういうものか。いやどうだろう。

 そんな不思議な少女と十倉とのラブストーリーがこれで始まる、かと思いきやそれは実はサイドストーリーに過ぎなかった。十倉にはかつて映画作りで賞も取り、もっと映画を撮りたいといって東京に出てその大学に進みながら、撮影の途中で死んでしまった才条という同級生が、最後に何をしようとしていたのかを知るという目的があった。才条が途中まで残していた作品のタイトルが「少女キネマ」。けれども未完成に終わったそのフィルムは同じキネマ研究部の誰も手を付けられず、ひたすらに傍若無人だった才条の天才と狂気の伝説とともに残されていた。それを見てそして十倉がだったら自分がと動き出すかというと、彼は高校でも才条の暴走を横で見ながら抑えたりもしながらアドバイスもしながら伴走していただけの存在。天才を爆発させてそして逝った才条の後を継ぐなんてことは考えもしていなかったし出来るはずもなかった。けれども。

 黒坂さちという不思議な少女が久世の作る映画に出たことで、さちを久世にとられるんじゃないかといった気持ちが十倉に浮かんでやきもきさせる。才条のことを悪し様に言い十倉に映画作りには絶対に手を出すなと強調する、同じ友楼館の住人の宝塚八宏の存在もそこに重なって、逆に映画への興味を募らせそしてひとつの道が見えてくる。映画とは何か。映画を撮るということはどういうことかを探求する道が。そして突きつけられる大きく分けて2つの驚き。ひとつは映画というものに捧げられた魂の発動であり、もうひとつは映画を通じて捧げられた思いに対するリアクション。それらが明らかにされて後、得られる映画作りというものへの感嘆が心にひとつの指針をもたらす。立ち止まっているんじゃない。諦めてばかりでは勿体ない。作れ。歩め。恐れるな。若いから出来ることかもしれないけれど、老いても先は長い現在。老若男女を問わず読んで強い気持ちを得られる、そんな小説だ。

 朝日新聞がやっている手塚治虫文化大賞って漫画の賞に羽海野チカさんの「三月のライオン」が輝いたそうでめでたいというかようやくやっとというか。まあでもマンガ大賞で大賞を受賞した頃からさらに内容面で深みを増して将棋漫画に止まらず家族や学校や様々な問題についてえぐりつつ、その解決につながる道ってのを示すようになっているから、ここで賞をきかっけにより広く読まれるようになれば、何か世の中も変わるんじゃないかと思いたい。どうにも世知辛いことが多い世の中だけに。短編賞では「バーナード嬢、曰く」とかが妙に人気になっていた施川ユウキさんが「オノンジ」なんかで受賞し、新しい人に与える賞では新しくない気もするけれど今日マチ子さんが「みつあみの神様」なんかで受賞した模様。いわゆる少年誌とか青年誌で人気の漫画家がいないところに朝日新聞ならではの香りが見える感じ。でもバイオレンスとかサスペンスとかが入ってないのはちょっと残念かもしれない。そういうのはやっぱり無理なのかな。来年に期待。


【3月24日】 4人に1人も選挙に行かず行ったうちの13%が無効票だった選挙に、果たしてやった意味はあるのか、結果に正当性はあるのかって考えた時に、そうした選挙に候補を出さず戦わず、選挙そのものの無効化させようとした勢力に責任はないのかって話になって、だったらそもそもそんな無意味な選挙をやろうとした市長の態度は、誉められたものなのかって話にまで遡ってしっちゃかめっちゃかになるからここは、選挙があって当選はしたけれどもはや後には何もないレイムダック状態の人間が1人、生まれたと考えるのが良いのかなあ、大阪市長選。

 ただ、任期が終わったその後でまたある選挙に出るのか否か。あれだけ都構想をぶちあげその実現を大儀に抱えて叫んできた人間が、もうダメだと引くのは無様だし出てもしつこいだけ。どっちに進んでも壁にぶちあたる人間が、いったいどこへ向かうのか。国政? それも鬱陶しい話。厄介な人間が1人、社会を引っかき回すだけ回して後に焼け野原だけが残ったこの数年が、日本の歴史にどういう意味合いを持って刻まれるのか。綸言汗のごとしを堅守すべき政治家が、どれだけ酷いことを言っても撤回すれば許されるような風潮を作った中心的な人物でもあって、そんな風潮が日本を世界から孤立させ乖離させ右へと曲げて、地獄へとたたき込もうとしている状況を鑑みるなら、終わりの始まりとして刻まれるんだろう。参ったまいった。

 アラタの姓は美少女を泣かす。ってもはや断じて正解かもしれないと思った芝村裕吏さん「遥か凍土のカナン2 旅の仲間」(星海社FICTIONS)。遠くウクライナあたりにコサックの国を建てるんだってことで、そこのお姫さまのオレーナを連れて日本からはるばるロシア西部を目指していた新田良造だったけれど、船で到着したシンガポールでオレーナを狙った賊に襲われどうにか撃退したものの、そのまま旅を続けては行く先々で襲われるの目に見えていると、当地の騎馬警察に所属していた元英国王室騎兵隊のグレンに頼み、一緒に当時はインドで後にバングラデシュ領となるチッタゴンへと船で行き、そこから馬を仕立て羊もそろえ銃も仕入れて鉄路と陸路でウクライナ方面を目指すことにする。

 途中でやっぱり起こるオレーナの良造への思慕とそれを邪険にされることへの寂寥が、彼女にぽろぽろと涙を流させるんだけれどそれでも彼女を嫁にとは言わない朴念仁。そういえば孫のアラタも子供兵のジニに嫁にして欲しいと訴えなかなか飲まず心配ばかりかけて泣かせていたっけか。おまけにアフガニスタンに入ったところで、そんなジニのご先祖様かと思えるようなジニって名を持つ少女が現れ、最初は盗賊として良造たちの隊商を襲ったものの良造が放つ村田式歩兵銃の餌食となって何人かが射殺され、人が大勢死ぬのを目の当たりにしたオレーナの涙に気づいた良造も銃を撃つのを止め、少女は降参して捕虜となり後に解放されたものの、そこからしばらく行った良造たちがたどり着いた村を仕切っていたのがその少女で、そこで良造に男たちがいっぱい殺されたから子種が欲しいと要求する。

 なんといううらやましい身分。でもそれをホイホイと受け入れる人間でもないところが良造の強さであり面倒くささでもあって、袖にされたジニを惑わせ最愛の人を取られるんじゃないかとオレーナを迷わせる、それも自覚無しにそうさせてしまうところに後のアラタの影が見える。血統だったんだなあ、あのどこか冷静過ぎて女心なんてまるで気づかないふりを貫き通しながら、それでも女たちから頼られ慕われるという性格は。ともあれそこで捨て置けず、ジニの村の人々が安心して暮らせるような土地を探すと約束してしまって、そして始まる南アジアから中央アジアの旅。どんな冒険が待っているのか。そしていつになったらウクライナへとたどり着くのか。巻数も増えたそうで「マージナル・オペレーション」にも負けない壮大な歴史冒険物語って奴が繰り広げられそう。追いかけていこう、あと何人美少女たちを泣かすのかも数えながら。

 世を拗ねるような性格の人間が新聞記者といったヤクザな商売へと飛び込んでいた時代は、何か批判するにしても上から目線で虐げるような格好悪い真似はせず、諧謔を含み韜晦をしつながらどこか理不尽な状況を浮かび上がらせ、改善へと向かわせようとしてたけれども、そうした新聞が一種の権力となって久しい昨今は、上から目線で自分に分からないことは分からせようとしない相手が悪いんだといった態度で臨んで、いったい何様だってな反感を世間から買っては、そのライフをどんどんと削り取られて言っている。それはもう削られすぎて先なんてない状況なんだけれど、周囲が見えていない新聞の人間は未だ権威と思いこんで大言壮語を吐くからたまらない。

 4月に来る消費税の引き上げは、今や不要不急のものとされてしまった新聞に大ダメージを喰らわせそうだけれど、そういう自覚なんてなさそうだからなあ。あったら書けないよ、学術論文に難しい言葉が頻出するのはケシカランなんて。九州の北の方をテリトリーにするブロック紙だから格はなかなか。名前ばかりの全国紙なんかよりよっぽど優秀な人材も集まっているはずなんだけれど、それでも「ネット上に公開された大学などの論文にある『解釈的文脈』『モダリティ辞』『ディアスポラ』『語用論』って何? 高度な論文でなければ注目されず、不勉強と冷笑されもするだろうが、難解な言葉で自己陶酔する世界観が学術界に広がっていないだろうか」と書いてしまうからたまらない。だって学術論文だぜ。専門家が専門家に向けて書いた文章だぜ。それが専門家でない自分に分からないことがどうして問題になる?

 別に彼らは難解な言葉で自己陶酔している訳でなく、共通の頭の土台の上に立って相互理解し合っている。それを批判するなら不勉強をまず恥じ、調べその上で論文そのものが適当か、そこに引っ張り出された用語が適性かをかを論じるべきなのに、自分が分からないからと難癖をつけるからみっともない。そういえば少し前、科学者に話を聞きに行って相手が難解な言葉ばかり喋るのは、科学者に記者を通して世間に理解させようとする意思がないからだとかいって批判した記者が、それを分かる言葉にしようとするのが翻訳者たるべき記者だろって突っ込まれて炎上していた。分からないことが分からないのは、分からせようとしない相手ではなく分かろうとしない自分のせいだって、どうして分からないんだろう? 謙虚さを失いプライドを背伸びする方向ではなく相手をおとしめる方向へと向けて発する人間の多さが、紙面の世間との乖離を生んで市場を大きく減らしている。もう後がないのにこの始末。案外と終わるのは早いかも。

 いやそれなら先に逝っちゃうところがあるから西の雄はまだ大丈夫かな。とある媒体の看板を見せびらかしながらツイートしている人間が、例の無観客試合となった一件に関して「騒ぎを起こした一部の浦和サポーター。横断幕は『JAPANESE ONLY』ではなく、『竹島を返せ!』にすればよかったのに」なんてことを書いていた。なんとたわけたことを。人種差別に類する文言がスポーツの現場で繰り出されることは最悪だけれど、同時に政治的メッセージをそこで繰り広げるのもスポーツの世界では厳禁。なおかつ浦和レッズとサガン鳥栖との試合のどこに竹島問題についてアピールする意味がある? そんなことも分からず感情にまかせて適当なことを書き散らかす人間がいるってこと自体が、媒体への信頼をとてつもなく損なっている。

 横断幕を掲げた人間の内心にあるいは特定の人物への排除意識があったかもしれないけれど、とりあえずは自分たちの応援レベルを維持したいという思いがあったとも言っている相手に向かって、本当は嫌韓じゃないのか、だったら書けよ横断幕にと言ってのけるような言葉を書いて恥じないその精神が淀んでいる。言われた方にとっては、自分たちの思いをそういう政治的なスタンスだと見なされたに等しいわけで、聞けば怒り心頭でもって抗議のひとつでもしたくなるだろう。というよりその集団に限らず、浦和レッズのゴール裏そのものが、政治的なメッセージを出して平気な心性の持ち主たちだと見なされたも同然の物言い。そこまで考えていなかったら阿呆だし、考えて言ったらならなお厄介。そんな言葉が一部にもてはやされているのを全面支持だと勘違いして突っ走った果てにたどり着く隘路、その先の奈落を想像すると、夜寝られなくなっちゃうけれどもう止まるものでもないからなあ。来年何しているんだろう。

 そして行われた無観客試合を受けて浦和レッズの選手なんかが、応援がなくプレーへのリアクションがないのはやってて難しいとかコメントしていて、サポーターによる応援のありがたみって奴が選手たちに伝わったようだけれどでも、一方で観客がいようといなかろうと全力を出すのがチームを応援してくれているファンのためでもあり、サッカーという競技に全霊を傾けている自分自身のためでもある。応援の無さは嘆いても、それでプレーが落ちるとか言ったら、長年観客なんてほとんどいない中でも、自分たちのプレーの質を高めモチベーションを維持し続けて来た女子サッカーの選手たちに申し訳ないような気がする。

 2003年の8月31日に同じ埼玉スタジアム2002で見た当時の埼玉レイナスと大原学園の試合なんて、100人いたかどうかって観客の中、メインスタンドをのぞいて閉鎖され空っぽのスタジアムで、炎天下の午後1時くらいに始まった試合を選手たちは精一杯にプレーしてた。その姿を見ていると、観客がいないからどうっていうコメントには何かひ弱さを感じてしまう。ファンに応援してくれてありがとうと言うことはもちろん必要。その上でどんなアウェーな環境でも、自分自身を出し切る強靱な意思の必要性も感じたと、言わずとも思ってもらえたらさらに強くなれるんじゃなかろーか。槇野選手とか代表から外れてしばらく経つし、この遍で外面を良くするだけじゃなく、内面を強化してか最強のディフェンダーであり点取り屋になって欲しいもの。進化を期待しよう。


【3月23日】 大団円、と言えるんだけれど一抹の寂しさも残った富士見ファンタジア文庫から刊行されていた細音啓さん「氷結鏡界のエデン」シリーズ最終巻。穢歌の庭(エデン)の底へと異篇卿のイグニドを追いつつ世界の崩壊を止めようと戦うシェルティスほか天結宮の剣士たちと、それから巫女のユミィだったけれども先行したユミィが追い付いたイグニドの正体と、その数奇すぎる運命にまず同情。なおかつそんなイグニドが選んだ過酷すぎる道も、やっぱり何で1人だけって思いが浮かんで泣けてくる。あそこでその道を選んでしまうのもイグニドというかユミエルらしいんだけれど、それを認めてしまって行かせるユミィのスタンスが果たして妥当かどうかってところが迷う点。シェルティスと一緒にいたいという思いと、自分に限らず誰もが幸せになって欲しいという願いのどちらを選ぶか、あるいは選んだかってところでこれからユミィは悩むのか。悩まないまでも気にはかけて欲しいかな。

 幸いにしてユミエルことイグニドは存命で異篇卿たちもだいたいが無事。中には筋肉莫迦のゼアドールのその蟇群苛みたいな実直さでもってほだされてしまった女性もいたけれど、残る面々が同じ目的だった世界の救済を結果的に果たした後、見つかった異世界へと向かい冒険する中に加わって、新たな自分って奴をつかんでいってくれると嬉しいかな。でも時々は戻ってユミィと入れ替わってシュルティス成分を吸収するってのもありか。シュルティスの仲間だったモニカが最後にあんまり目立たなくなってしまったのはちょっと可愛そうだけれど仕方がない、最初っから当て馬だった訳だし。馬にもなっていなかったか。エリエも同様だけれどまあ彼女も友人みたいなものだったし。イリスの登場から活躍もあったけど、「不完全神性機械イリス」を読むのをうっちゃってたんで詳しいニュアンスがつかめなかったんで、これから時間を見て読んでいこう。次のシリーズもまた面白そう。科学と魔術の対決? 聞いたことあるけどそこには収まらない壮大な世界観を持った作品になるだろう。期待して刊行を待とう。

 今日も今日とて「アニメジャパン2014」へと朝の9時前には入ってとりあえず「THE NEXT GENERATION パトレイバー」の様子を観察。まだ寝てた。ずっと寝っぱなし。いい加減ジャッキアップしないと現場の指揮官から怒鳴られそうだけれどそこは特車あけあって後藤田隊長が「いえねえ、立てられない訳じゃないんです、でもねえ、天井の高さがあれでしょ、立てると確実にぶち抜いちゃいますけど、責任とてくれます?」とか言って拒否してそう。実際問題ホールの境目にあって天井がちょい低くなったところに寝ているし、立てて倒れでもしたら大惨事じゃ済まないから仕方がない。寝ていても大きくそしてだいたいが寝ているものだという認識でいれば映画を見たら逆に凄いと思うんじゃないかなあ、立ってるって。そういう保管方法なだけなんだけれど。

 朝はやいんでそれほどでもない人波を縫ってビジネスセミナーの会場へとたどり着き、そこで1時間目の若手アニメプロデューサーの現在と未来って演題の話を聞く。氷川竜介さんをモデレーターにして細田守監督作品を主に手がけるスタジオ地図の斎藤優一郎プロデューサー、プロダクションIGにいて神山健二監督と二人三脚のスティーブンスティーブンって会社も立ち上げた石井朋彦プロデューサー、そしてフジテレビジョンで「ノイタミナ」の編集長をしている山本幸治さんといった面々が揃って話すことはそれぞれの立場でプロデューサーって何をやっているか、って話。斉藤さんは細田さんを支えその作品世界をとにかく世界へと向かって送り出すことが1番の仕事といった感じで、そのためには労を惜しまないという立場。山本さんは誰それと寄り添うって立場ではなく、企画なんかを立案することもあれば持ち込まれた企画を判断する事もある中で、“意図”という言葉でもって個々の作品をどういう範囲、どういう深度で作りだし、展開していくかを考える総合的な役割ってものを見せてくれた。

 石井さんは作品の立ち上げからその展開までいろいろと関わっているという感じ。「東のエデン」では山本さんと話しつつ山本さんが「ノイタミナ」の立場として何をやって欲しいかと望んだとき、それを現場に説明しつつ現場のスタンスも認めつつ、最良の道を探っていくといった感じ。それぞれの発言を聞いていると、レイヤーっていうか役割っていうか、様々な違いがあってプロデューサーといってもひとくくりには出来ない存在なんだってことが3人から見えてきた。そして斉藤さんが話していたことだけれど、そうしたプロデューサーが何人もいるってことは決して船頭多くして何とやらではなくって、それぞれがもてるスキルなりノウハウを結集して、作品のために貢献出来るってことでもあるらしい。

 「おおかみこどもの雨と雪」の場合でも東宝の川村元気さんがプロデューサー陣に加わっていたように、劇場を中心とした映画としての展開なんかでその立場が大いに発揮された。だからこそスタジオジブリ作品ではなく、派手なアクションなんかもない、ファンタスティックではあってもどちらかといてば子育てという身近な話だった映画が40億円なんて超える映画へと広がった。1人で全部なんてやってもやっぱり煮詰まるし行き詰まる、それを打開し成長させていくためには誰かの助けも借りつつ進める必要があるってことらしい。絶対のプロデューサーなんていない。だから自分がプロデューサーになるとして、どいう立場でスタンスで関係で作品に関わるか、あるいは自分なら何ができるかってことを考えるのが、その道を目指す人には必要なんだろうなあ。

 面白かったのは、その斉藤さんが企画の立ち上げにあたって最初のころはとくにこれと決めず、監督もスタッフも含めて世間話みたいなことを得年と行うってこと。今なにに興味持っているとか、関心があるとかいった。そうした話の中から出てくるそれぞれに関わる話題なり問題を、広げていくことによって周辺の誰もが感じている悩みであったり話題が見つかり、それは世界の誰にとっても不変の問題だってことが分かってくる。そこをつかんで広げていくことによって、世界の誰もが自分に関係のある作品だって興味を持ってくれるってことなんだろう。独りよがりで狭い市場に向けて作ってそれを作家性ということで支持される場合もあるけれど、それでもやっぱり限界がある。斉藤さんが目指すのはただの宣伝文句ではなく本当に世界中の何十カ国で喜んで受け入れられて見られる作品を作ること。難しいけれど間違っていないアプローチから絶対に何か生まれてくると信じたい。

 石井さんで興味深かったのは、プロデューサーは絶対に折れないことが必要だって話。そりゃあ難しいこともあるだろう、最初に手がけた作品が押井守監督の「スカイ・クロラ」だったから、並以上の大変さもあっただろうけれど、最初は押井さんに石井さんほか数人のスタッフで始めたものでも、そこで作り出された共通の認識なり考えを、欲しい人材に投げかけ納得してもらって引っ張り込み、ふくらませていくために出来る限りの努力をすることがプロデューサーには求められている。当たり前っていえばそうだけれど、なかなか出来る話ではない。精神的にもキツいだろう。でもやり抜いたから「スカイ・クロラ」は出来たし、「東のエデン」も大きく育った。諦めないで言い続ける。そして周囲の経験豊富な人たちに助けてもらう。そんな仕事の結果が台西欧に終わったら、やっぱり楽しいだろうなあ、それがあるから辞められないのかプロデューサー。僕には無理だな諦め早いし。

 何か画期的な発表があるっんで、GREENステージで行われたnot TVの発表会を見物に行く。登壇したのはそこで番組を持っているニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さん。そして繰り広げられたのは、村川梨衣さんと山本希望さんという2人の女性声優さんたちによる、走れメロスがクラウチングスタートして拾い食いしてお腹を壊し、羅城門の老婆が髪の毛をむしってそして血反吐を吐くという歌の生ライブ。いやもうグダグダ過ぎるんだけれど、何しろ関わっているのが「gdgd妖精s」の監督とシリーズ構成の人だから仕方がない。2人の声優さんが三次元CGで作られたキャラの後ろであれやこれや喋って喋ってそして出てきた会話から、歌を作ってて唄うという展開なんだけれど、これのどこが新しいかというと、遠くない将来というか夏にはそれが生放送的に行われてしまうから。

 つまりは生放送アニメ。ドラマの生放送はあったけれどもアニメの生放送はなかった。というか出来るはずがないことが出来てしまう。だから画期的。ぶっちゃければおそらくはキネクト的な人体スキャンのテクノロジーで人のモーションとそれから口の動きなんかも読みとって、それを即座にCGキャラクターの動きに反映させるってことで、キネクト対応のゲームだとやれている訳だから、技術的に革新的かというとそうでもないけれど、それを美少女キャラクターでやって声優さんの声だけでなく、動きも読みとり画面の中でリアルタイムに演じさせるっていうことは今までになかった。だって面白そうじゃないもん。基本的にはその場で動くだけな訳で、ストーリーも何もないからね。

 ただ、そこはラジオの人間である吉田アナの着想で、ラジオならではのリアルタイムの面白いしゃべりと、そしてインタラクティブなリスナーからの反応を盛り込むことによってその場に物語というより一種の劇場空間を作り上げることができる。演芸空間とも言えるかな。それをgdgd妖精s的なユニークさでもって脚色したたところに生まれる場当たり的な笑いなり驚きを、見せることでひとつユニークなコンテンツができあがると考えたのが、この「みならいディーバ」ってことになる。大昔だけれどテレビに登場させる3DCGのキャラクターの手足とか口をスイッチングによって動かしあたかも魂が入っているかのように演じさせることが行われていたし、今だって時々そんなキャラも出てくるけれど、アニメーションとしてそれも60分もの長さで繰り広げてしまうという無茶から、いったいどんな未来が生まれて来るのか。単純にトんでる2人の声優のグダグダなしゃべりを楽しむだけでも面白そうだけれど、将来につながる何かがそこからつかめれば、それはそれで面白いかも。not TV。見たいけど機器が……スマホ対応とかになるのかな。そこにも期待。


【3月22日】 ラス前ってことでいよいよラスボス戦へと入ってきた「キルラキル」は四天王に3つ星極制服がそろって纏流子と鬼流院皐月とがそろって鬼流院羅暁に挑む戦いに参入するもののそこに現れた巨大な針目縫。本当に巨大化しているのかただそう見えるだけなのかは分からないけれどもグランクチュリエの全霊をかけて作り出した羅暁のための神衣だか何かを送り出し、そこに鳳凰丸を吸収させて決戦の場へと送り出す、って戦うのは羅暁様なのか、針目縫は何をするんだ、鳳凰丸ってただの養分要因だったのか、っていろいろ思ったりもしたけれど、そんなこんなも全部吹っ飛ばしてラストへと向かって突き進む。気持ち的には落ち着くところに落ち着いているなあって感じだけれど、ここから一気にエスカレーションってものもあるのかな、劇場版とか続編につながるような引きを作っておくのかな。ありそうだけれどまあ良い、ここまで楽しませてくれたことに応えてつき合おう。でもブルーレイディスクはまだ買ってない。置き場所がないんだよ部屋にはもう。

 まあでも最近はビデオ売り上げにも増して配信ってのが伸びているようで、今日から始まった「アニメジャパン」のビジネスセミナーの1発目で登壇した日本動画協会の増田弘道さんが最近の市場環境なんってのを数字で見せてくれたらなるほど配信が伸びている。dアニメストアみたいなスマートフォン向けってのも登場したし日本テレビに買収されたhuluやらバンダイビジュアルがやっているバンダイチャンネルやらニコニコ動画やら、配信のプラットフォームが増えた上に新作アニメのウインドウとして配信ってのが確実に1つの選択肢となってきた。曜日限定時間限定ながらもネットで見られる環境を作っておくことで、ネットが入らない地域にも存在を知ってもらえてビジネスに結びつくってことをどこも学び始めたってことなんだろうなあ、「TIGER&BUNNY」あたりから。こうなるとパッケージは高級志向なりグッズ志向の人の選択肢に過ぎなくなってますます高くなっていく? それとも配信なみのクオリティとパッケージングで「GJ部」のBDボックスみたく安くなっていく? そんな分かれ目も見え始めた春、彼岸。寒いよう。

 そんなビジネスセミナーではぴえろでイベントなんかを企画している鈴木修一さん、東映アニメーションから「美少女戦士セーラームーン」の新しいののプロデューサーをしている神木優さんという人とそれから東映アニメーションの総務にいる立石夏子さんという人が登壇して何を目指してアニメ業界に入ったのか、なんて話をしてくれた。鈴木さんの場合は高校を出てアルバイトとして業界に入ってそしてやがていろいろ吸収して今のポジションにたどり着いたみたいで、これから業界を目指す人には書店でも何でもいいからそういう業界に触れて感じをつかんでおくと良いよって話してた。神木さん立石さんは決してアニメおたくな女子って感じでもなく神木さんなんてほとんど知らなかったとも言っていたけど3年経ってプロデューサー。吸収して展開できる人ならキャリアも知識も関係なく仕事ができる場所だよってことを話してた。必要なのはその作品が好きだという情熱。でもそれだけじゃない目配りなんかもやっぱり求められるんだろう。

 東映アニメーションから来た2人が女性ってところが気になったのか増田さんも話を振っていたけれど、男社会っぽいイメージがあるアニメ制作スタジオが実は今、女子の職場になっているって感じらしい。プロデューサーにも演出家にも脚本家にもアニメーターにも女性って実際増えているからなあ。試験なんかの成績は女性が上だし、仕事に対して真剣に前向きに意欲的に取り組むのもどちらかといえば女子の方ってことも増田さんは話してた。男子はやっぱり仕事というより趣味のコアなところとしてアニメをとらえそこに関われることが目的化してしまっているんだろうか。分からないけどそんな女性が多い職場に肩身が狭いと思っても、飛び込めば男子はなかなか好環境。けっ飛ばされて虐げられて、それでも頑張れる性格の持ち主ならやって行けるんじゃなかろうか。立石さんなんてもう男装の麗人って感じだったし。東映アニメーション、狙い目かも。就職相談やってるし。

 それにしてもすごい人でだ「アニメジャパン2014」。幕張メッセで一部を仕切って開かれていたアニメコンテンツエキスポの時ならいざしらず、東京ビッグサイトの東館の全ホールを使って開かれるんだから「東京国際アニメフェア」より広い訳で、これなら通路に人があふれるなんてこともないかと思っていたら甘かった。各社のブースがそれぞれに物販をやったりステージイベントを開いているからそこに向けて行列ができ、また並びきれない人を外に列形成させて折を見て移動させているから人がなかなか途切れない。ブースを見て回る人も増える一方でそうした人なみが通路を埋めて歩くのもなかなか大変な状況になっている。それだけ期待も大きかったってことなんだろうなあ、このイベントへの。

 なるほどパッケージメーカーの宣伝と物販のためのイベントで、それに国とか支援するのってどうなのって思われそうな気もしないでもないけれど、このタイミングで来日して商談とかしている人も結構いるし、海外に向けた販促って意味も大きそう。その意味ではクールジャパンで産業振興なイベントって位置づけは護持している。出来ればそうした役割を混雑じゃない中で果たせるようなビジネスデーってのを1日だけ、もうけてくれたら更に有り難い人もいたんじゃないかと思うけど、無理するのも大変だから仕方がない。せめてクリエイターズワールドだけは復活させて欲しいかな。新人が世界にアピールできるチャンスだったから。

 場内では寝たまま起きあがろうとしない「THE NEXT GENERATION パトレイバー」を眺めたり、なんとかプリキュアがペアでポーズをとっていたりするのを見たり。だんだんと人も増えてきて、場内に居場所もないんで会場を出てベンチで寝ころんだりしつつ戻ってビジネスセミナーの4時間目、アニメと地域とのコラボレーション事例を富山県の南砺市にあるP.A.WORKSの専務さんが語るセミナーを聞く。北海道大学の山村高淑教授をモデレーターに行われた事例紹介では、「true tears」における地元の祭りの融合による登場から「花咲くいろは」における架空の祭りの現実化、「Anotehr」なら死んでた地元の高校の旧校舎を使った展示会に「有頂天家族」における京都の老舗劇場、南座を使ったイベントときて「恋旅」という地元でしか見られないワンセグアニメの提供など、5作品についての事例が語られそれぞれにおいて伝統の尊重、そして継続に向けた協力の必要性って奴が語られた。

 そう継続性。アニメーションの舞台になったからと、大勢の人が観光に来るってのはよくある話だけれど、時間がだんだんと経っていって、作品の記憶が薄れていくとやっぱりファンは離れてしまう。そういう人に向けてやっぱり地元の人たちが継続的に来て欲しいと願い頑張ることが必要なんだけれど、その努力をもしもアニメーション制作会社に求めるんだとしたらそれはちょっと違っている。彼らは半ばビジネスとして作品を作っているのであって、無償で継続的に1つの地域のために力を裂くってことは難しい。とはいえ地元の伝統を取り込んだ作品を作っている以上は、そうした行為が招いた現象に対する責任もやっぱり付いてくる。だから地元が頑張って継続させていこうという動きを見せれば、それに協力だってしていく。P.A.WORKSの場合は、そうした継続性をにらんで祭りなんかを取り入れ提案して、それを使って地元を盛り上げてもらえるようなスタンスで臨んでいるところがある。だから成功するんだろう。

 作品は必ず終わるし人気はいつかしぼむ。でも生まれた芽ってのが枯れるまでには時間がかかるし、育てれば葉が茂り花も裂いてそして永続的に成長だってしていく。アニメーション制作会社が蒔く種を、だから地元はしっかりと受け入れ育てる努力をし、それに対してアニメーション制作会社も肥料なりを与え新種を投入して盛り上げていくことによって、相互に楽しい聖地巡礼なり地域興しができあがるんじゃなかろーか。経済的に潤ったとか何人来るようになったっていう結果は二の次。まずは何をしたいか、そして何をできるか、さらに何をしていくかってところを突き詰めることが必要なんだろう。それが出来るアニメーション制作会社と組めたら幸せだし、それが出来る地元があったら幸せだよなあ、作品にとって。とてつもなく大勢の人が聞いていたこのセミナー。関心の高さがそのままP.A.WORKSの哲学が普及し浸透していくことにつながるって欲しいもの。

 お取りつぶしという話はどうなったか、調べてないけど決まっているならもう見られなくなる可能性が大ってことと、それから声優の戸松遥さんが出演しているってことがダブルに重なってこれはもう行くしかないと、青山円形劇場で行われている芝居を見に行く。「サ・ビ・タ 〜雨が運んだ愛〜」は韓国で1995年に初演されたという結構な歴史を持ったミュージカルで2008年に日本にも上陸してそれなりの人気を得たようで、だからこその重ねての公演なんだけれど、前回2012年の時から場所を青山円形劇場に移して、戸松さんとそれから「テニスの王子様」で白石役をしているらしい佐々木英喜さんにもう1人を加えた3人がメインで登壇し、演じてこれも話題になったらしい。そこで満を持しての戸松さん佐々木さんをフィーチャーしての再演だけれど今回はWキャストで別に矢坂沙織さん矢崎弘さんを迎え駒田一さんが両方に出るって形で開幕。当然ながら見るのは戸松さんの回ってことで、アニメジャパンまっただ中のビッグサイトを抜け出し青山円形劇場へと駆けつける。

 なるほどこれは良い劇場。まず狭い。だから近い。ほとんど数列先に戸松さんが立って歌って踊って暴れ回る。お尻だってふりふりしちゃうその姿を例えばスフィアで見ようとしたら、いったいどれだけ前列に出なければいけないか。って考えるとこれはファンにとってたまらない演目だろう。でもって円形だからこその演出ができるところが良い。全員が外を向いたり観客を意識したりしつつ一体化させながら演じていく。っていうかそうしないと場がもたない。近いのに無視して演じ続けるって手もありだけれど、それはどこか芸術がかった出し物ならではのお話で、コミカルな要素も入れつつ盛り上げそして泣かせて喜ばせるミュージカルが観客席から切り離されていてはつまらない。そのために間をつなげようとする演技が入りセリフが入り、小細工も入る。それをお互いが理解しながら進めていくから一体感が確実に生まれて、誰もが演目へと引っ張り込まれる。

 そして何より演目が良い。兄弟の話。親しいようで離れていて、反発しているようで愛し合っている。そんなことを確認し会うようなストーリーに飛び込んで来た少女も絡んで、最初はどこかぎこちなかった2人の兄弟の間柄を、いったんぶちこわしてそしてつなげ直してフィナーレへと持っていく。家族や兄弟の関係ってのが日本にも増してシリアスな韓国、そして学歴とか職歴なんかがものすごく気にされる韓国で生まれたミュージカルだなあとストーリーから思ったりもした。でも日本だって昔はそうした兄弟愛の話とかあったはずで、今は家族ってものがちょっぴり希薄になっているけれど、それを思い出させてくれるストーリー。だからこれだけ日本でも愛されるんだろう。

 歌は誰もがうまいけれども、やっぱり佐々木さんが若くて浪々として聞き惚れたかな。戸松さんはとっても賑やか。ただやっぱりシンガーとは違う発声なんで、そこを鍛えると良いミュージカル俳優になれるかも。2時間くらいをあっという間に過ぎて迎えたカーテンコールもお楽しみ。お客さんの要望なんかを入れて盛り上げる感じでやっているみたいで、今回は何と東京都長崎に分かれてクラス男女が結婚の申し込みなんかをしていた。ひゅーひゅー。何でも戸松さんなりスフィアのファンらしく離れても2人でよく通っていたといい、今回2人で見に来たことをきっかけに、そして4月から男が関東に戻ってくることも契機となって戸松さんの前でのプロポーズになったとか。そりゃあ戸松さん、悶絶するわ。もう舞台上で転げ回っていた。新婚旅行はちょい気が早いけれど、春に関西に2人で行くそうでどうやら寿さんのライブか何かみたいでそのついでに、大阪にある日本一高いビルに2人で上るハルカス。そんなところまで楽しませてくれました。ともあれ面白い演目とそしてユニークな劇場。また見られたら見たいし、違う演目にも行ってみたい。何より場が維持されて欲しいけれど、どうなっちゃうんだろうこどもの城。


【3月21日】 すっごい異能を持っていたって、それをふるって人を傷つけるようなことをしたら罰せられるから使いたくっても使えない。それこそ正義の味方だって出来やしない。そんな状況下、罰せられない範囲で使うには世間受けする見せ物とかに出て異能を振るうしかないんだけれど、糸川朱雀という少年が受け継いだ異能は死体に命を与えて使役して人を殺す暗殺術。なおかつ使役している煌霊と呼ばれる一種のゾンビは15歳の時に不治の病で死んだ少女の小手鞠だから、朱雀が彼女を使役している姿はロリコン野郎かいたいけな少女を使うひどい奴にしか見えない。そんな人間がテレビで活躍できるはずもなく、冬川朱雀は所属している事務所にあってほとんど仕事をもらえないままバイトをしたり、警備員をしたりして糊口を凌いでいる。

 というのが森田季節さんの新刊「不戦無敗の影殺師(ヴァージン・ナイフ)」(ガガガ文庫)のイントロダクション。小手鞠と朱雀との仲は欲って悪口雑言罵詈雑言を小手鞠が朱雀に投げつけ役立たずの甲斐性無しと誹るくらい。それでもかいがいしく食事の世話をしたりする。ラーメン抜きの野菜だけのラーメンとか、肉抜きの肉じゃがとか。全部貧乏が悪いんだ。ってそう朱雀も叫びたくなるけれど、そんな貧乏にしているのは誰だと優しく突っ込むことろも使役者思い。ただやっぱり暗殺が生業ではそう簡単に仕事は来ず、同期や後輩の少女たちと飲んでは、相手から辞めて家に来ないか世話してあげるとほとんど婿入りを勧められる。うらやましいじゃん。でもそれで事務所を辞めることはしないでどうにか異能力者としての道を歩もうと朱雀は頑張る。

 そこに飛び込んできた、異能力者でも1番に名前の売れている女性からの誘い。対価は2億円。何だそれは。どうやら真っ当じゃなかった。でもそこは暗殺者として受けようと考えた。考えたけれど失敗した。どうして。そこが異能力者としての矜持なのか人間としての弱さなのかは分からないけれど、そこまで自分を追い込むその人気異能力者のある意味でまっすぐな心情が、傍目にはちょっぴり歪んで見えてしまったことに憤って朱雀は立ち向かう。果たして勝てるのか。勝ってどうなるのかといったところは読んでのお楽しみとして世界にはびこる異能力者たちの暴走を、法律だけでなく何か別の力で押さえ込んでいるのかが気になるところ。だって誰もかなわないから胃能力者じゃない。法律で縛れるものじゃないじゃない。でもそうなっているのはそうだからなのか、何かシステムがあるのか。それはどういったものか。そんな辺りが描かれる可能性も勘案しつつ続きを待とう。出るよね続き。

 気がついたら「REDLINE」の小池健監督による「LUPIN THE 3RD 次元大介の墓標」って作品の劇場公開が決まってた。小池健さんといえば「LUPIN the third 峰不二子という女」でキャラクターデザインなんかを手がけてモンキーパンチさんの醸し出す雰囲気を残しつつ、より先鋭的でスタイリッシュなルパンであり次元であり峰不二子といった面々を世に送り出してくれた人。そして「REDLINE」ではアクションもたっぷりに架空の荒野をかけるマシンたちを描いて見せた人。その人が描く次元大介がかっこよくないはずがない。

 どういう映像になるのか分からないけれど、それはきっと荒野をかけまわって愛銃のS&W M19コンバットマグナムの部品を集めて組み立てそして最後の1発を放った「荒野に散ったコンバット・マグナム」に匹敵するような凄みのある次元って奴を見せてくれるんじゃなかろうか。どうせだったら「荒野に……」と併映なんてしてくれたら楽しいんだけれど、それだと次元の声を演じる小林清志さんの声にやっぱり濃淡が聞こえてしまうんだよなあ。申し訳ないけれど、そして頑張ってはいるんだけれどやっぱり違うんだ、昔とは。そこをどこまでチューニングしてくるか。vsコナンの時のように慣れてくればしっかりと出てくるようになるのか。不安もちょっぴり抱きつつ、でも期待をたっぷり持ってその公開を見守ろう。

 せっかくだからと日本橋室町に新しくできたTOHOシネマズ日本橋へと足を伸ばして、夕方からある富野由悠季監督のトークイベントのチケットを引っ張り出しつつ近所を観光。COREDO室町ってビルが3棟一気に建って、近隣の建物や街路も整備されて一気に街の感じが整ったというか、例えるならかつての企業街だった丸の内が丸の内ビルディングの登場とか、明治安田生命ビルやら何やらの建て替えでもって綺麗になって、大勢の人が観光がてら歩くようになったあの感じが、日本橋でも再現されたといったところ。丸の内は三菱地所の縄張りだけれど、その成功に日本橋を本拠地とする三井不動産も感化されたってところか。三越があってあとは金融街とそれから商店ですらない小さな建物が密集していた地域に、商業と観光の風を送り込んだ。

 新橋から秋葉原を抜けて上野へと流れる中央通りのうち、すでに銀座は昔からの観光地で、そして隣の京橋も大きなビルが建つようになって綺麗さを増していながら、その隣の日本橋は角の東急百貨店日本橋店の跡地にCOREDO日本橋が建って以降、それほど大きな変革はなくって、そこから先、お江戸日本橋があるあたりで分断された先に、せいぜい三越がある程度でなかなか人の流れを呼び込めなかった。今回のCOREDO室町の一気オープンで、人の流れが一気に向かって相当な賑わいが生まれそう。歩道なんかも整備されて来たし、裏道なんかにもいろいろな店が増えてきた。

 旧来からある店がCOREDOの中の店に持っていかれてしまうって不安もないではなく、それは東京スカイツリーでも起こったことだけれど、昔からの老舗も多い日本橋だから路面でも商売は十分に可能だろう。何より三越百貨店がこれで生き返る。今まではそこだけだったランドマークが分散されつつ増幅され、カタマリとして日本橋室町あたりをアピールできる。これは大きい。古典的なたたずまいと近代的な建物が融合した、新しい東京の臍となっていく可能性が見えてきた。ちょっと気にして人の動きを見ていこう。

 そして富野由悠季監督トークはとてもとても面白かった。座った席の真後ろに帽子を被った富野監督の奥様が座っておられて見に来られているんだなあと思いつつ、目と耳は登壇した富野監督に集中。コム・デ・ギャルソンか何かおしゃれなスーツ姿の富野監督は、のっけからアニメに未来なんかねえとか言ってみたり、二本足(二足じゃなかった)歩行ロボットなんてといったネガティブな話をしてみせてはいたけれど、そうした制作における種々の制約なり、お約束なんかも含みつつ今自分ができること、やらなくてはいけないことを自覚し、子供に向けて楽しんでもらえる作品ってものを描いていくといった宣言になっていた。

 アニメの未来に関して言うなら、かつては種々雑多な人間が集まり作られていた中で社会に対してリアリティを持っていたはずの作り手たちが、だんだんと変節してアニメを見てアニメが好きでアニメの世界に来た人たちになって、そういうものだろう的な理解の中で狭く作られていて、それはやっぱり社会への広がりが出なくて拙いんじゃない? って感じの監督の危惧につながっているといった風。深夜アニメなんてものが普通の社会は真っ当じゃないとか。まあよく言われる話でもある。72歳になる人間が15歳16歳の子供たちに受ける物なんて作れるはずがない、とも。でも作ってしまうところが富野監督のすごいところで、そこは周囲に流されず売り上げとかマーケティングとか馬耳東風と流して信念と直感で作れてしまうんだろう。だから今なお畏敬される。例の「ガンダム Gのレコンギスタ」もいろいろと含みを持たせてある様子。分かりやすさなんてすっ飛ばし、見続けてようやく分かる何かがあるという。そりゃあ見るしかないよなあ。

 あと作り手のアニメ世代化ってのは確かにそうだけど、案外に作り手の人ってアニメ染まりした人ばかりではなくって、映画を撮ってたり演劇に通っていたり児童文学が好きだったりといろいろで、アニメ大好きでアニメばかり見ていますっていう風でもないように最近思ってる。むしろ問題は、アニメしか見ない観衆の側の価値基準がとっても狭まっていたりすること。こういうものだよという決めつけの中でもって、良いとか悪いとかを即座に判断してしまうという。物語なんてものは脇に置いて。あるいは最初から存在すら気にしないで。

 前ならまだ、アニメってこういうもんだよね、っていう言葉に自嘲のニュアンスを込めて喋っていたところもあったけれど、そこから時代は下がって、こういうものだという観念に凝り固まってそれ以外を否定するというか、認めないというかそんなマインドが浸透していたりする。それが作り手の様々な試行錯誤も冒険もすっ飛ばす。フォーマット万歳、でもってはずれたもの当たらなかったものは即オワコン扱いという、アニメを観る側の刹那的なマインドに向けて商売しなくちゃいけないとなったら、そりゃあ作り手だってそういう風になっていかざるを得ない。そこを突破するにはこれは面白いんだという文脈を多くに理解させる必要があるんだけれど、それをなし得るメディアもまた、刹那的な人気に左右されてマイナーなものを扱わないからなあ。そりゃあ狭まるよアニメの種類も市場も。ってなことをつらつらと考えた1時間半。値段の価値は存分にあった。いずれバンダイチャンネルで配信されるとかで、行けなかった人は気にしておこう。


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