縮刷版2001年5月中旬号


【5月20日】 谷口裕貴さんの「ドッグファイト」(徳間書店、1600円)に吉川良太郎さんの「ペロー・ザ・キャット全仕事」(徳間書店、1600円)と2回目の「日本SF新人賞」の受賞作が単行本になって出て、秋には2回目の「小松左京賞」も多分決まって刊行されるだろー関係で、「SFオンライン」がやってる新人の第1長編の中から1番良い奴を表彰する企画も候補が去年以上に目白押しになりそーだけど、ここに登場した1作によって一気に賞取りレースの緊迫の度も増して来そーでそれどころか来年の「SFマガジン」のベストとか「星雲賞」とかにも影響を与えて来そーな感じ(含む願望)もあって、投票なりに関われそーな身として早くも目移りに頭を悩ませそー。「日本SF大賞」ばかりは流石に高踏過ぎて一切の関わりがないんだけど、これが入ったら果たして皆さん何とゆーかが楽しみだったりもする、「『ナウシカ』だね」とか「『もののけ姫』じゃん」とか。

 と聞けば読んだ人なら何の本を指して言っているかは分かるだろー、そう「第3回ファミ通エンタメ大賞」で晴れの入賞を獲得した伊東京一さんって人の「BIOME(バイオーム) 深緑の魔女」(エンターブレイン、640円)のことですね。時は不明で所も不明でもしかしたら地球かもしれないし違うまったく別の星かもしれないけれど、とにかく地表の96%が緑の樹海で覆い尽くされている星で、人間は迫る森の動植物たちと戦いながら僅かな土地を切り開いて国を作って生きていた。圧倒的な自然を前に人間たちが出来ることは、自然の摂理に関する知識を使って森の動植物を管理する「森林保護者」(フォレストセイバー)を雇って虫を殺したり森の恵みを利用したりすることとか、ハンターに頼んで害獣を駆除してもらうことくらい。それでも中は管理に失敗した森の反攻によって街ごと緑に呑まれ滅びることもあったとゆー。

 「もののけ姫」にも確か、かつて山は人間たちを脅かす恐ろしい場所で人間たちはそれを征服することで進歩発展をとげて来たって経緯が語られていたけれど、何せ96%が森なんで早々に容易くは森を手懐けられない。かといって「ナウシカ」のよーに森やら虫やらと超能力めいたもので交流を図ることもできなくって、主人公のライカとゆー少女も生い立ちにこそ謎めいた所がありながら、こと力に関しては人間と同じってゆーかつまりはただの人間で、かろーじて父親から仕込まれた自然に関する知識、すなわち科学によってフォレストセイバーとして生き抜くことが出来ていた。そんな彼女が仕事を求めて立ち寄ったのがパドゥーラとゆー国。聞くと大量発生したバンクシアワームによって村に収入源でもあった蔦がやられてしまい往生しているとかで、ライカは領主に頼まれてワームの駆除に乗り出したものの、どーやら裏がありそーな事件の渦中に巻き込まれて大変な目に遭ってしまう。

 あちらを立てればこちらが立たず、風が吹いたら桶屋が儲かる、ってな感じに複雑に絡み合った自然の関係を知識によって読み解いていく手順の、自然科学とか生物学とか生態学にそれほど詳しくない目には実に緻密で示唆に富んだ描写はなかなかで、そんな関係性が途切れた部分を埋めよーとしてライカが巡らせる洞察の推理小説的な楽しみもあれば、ライカ自身の抱える問題とかから浮かび上がる人間の業の深さに対するおののきもあって楽しめるし身も引き締まる。パドゥーラとゆー町が直面している脅威の根底にある因縁めいた話、その結果引き起こされよーとしている事態の実に入り組んで重層的で圧倒的な点にも驚かされる。

 けど何より決してナウシカのよーなスーパーヒロインでもなければアシタカとサンのよーな神を殺すことによる前進も受けられない、圧倒的にすさまじい森の脅威に自身の能力のみで立ち向かうライカの姿に感銘を受け、彼女を取りまく人々の見せるさまざまな姿に怒り笑い涙する。デフォルメ抜きにシリアスさで通したOKAMAさんの絵も内容にピッタリ。虫とか苦手な人は背中が痒くなるかもしれないけれど、逆に虫退治の方法なんか分かるかもしれないから是非に一読を。

 その文章を読めること1年に1度とも10年に3度とも言われる生きた天然記念物にしてテニスする世界遺産的作家の火浦功さん。中内功ダイエー会長が経営者の座を追われ大川功CSK会長が人生の桧舞台から引き下がった今、残る世界3大”功”の1人ともなってその動向その言動が注目されていたところに恐れ多くも仰天至極、かの「産経新聞」にてその名前その文章を見るなんて、世界に生きる60億人のほとんど全員が予想もしていなければ想像もしてなかったことで、手にとって開いた新聞をながめておよそ2時間ばかり呆然とする。あっ寝てた。

 もちろん死亡して訃報が出た訳でも出会い系サイトで乱交をした訳でも編集者に殴られた訳でも全然ない、だってそれなら文章なんて読める訳ないからね。載っていたのは読書面。どーゆー経緯かあるいは何かの間違いか、もしかすると同姓同名の別人による文章なのかもしれないけれと、ともかくも「火浦功」なる人物が数ある中断中の作品の続き執筆も雲の彼方へと押しやって、あろー ことか奥ちゃん奥田英朗さんの「邪魔」(講談社、1900円)の紹介文なんか書いていやがって原稿を待ちわびて幾星霜、お兄さんからすっかりおじさんと化してしまった歴代編集者たちのため息が彼方から聞こえてくる。あるいは本当に涅槃からの声もあったりして。

 内容といえばまあそれなりで、火浦さんに特徴的な行ごとのギャグもダジャレも一切ないのが残念と言えば残念で、あるいは本当に同姓異人かもしれないと思わせるそれが根拠になりそーだけど、最後に結んだ言葉のこの本を読もうとしている時に周囲にかける声、すなわち「邪魔するな」とゆー言葉が何だか火浦さんの人生楽ありゃ楽ばっか、ってな生きる上での哲学にもつながっていそーで、やっぱりあの! かの!! その!!! SF界が誇る鉱物資源現在発掘中止中な火浦さんだろーと推定したい。しかしやっぱり不思議な登場、いよいよ資金が尽きたか、テニスする。

 それにしてもな5月20日付け「読売新聞」書評欄、いや別に東浩紀さんの書評がどうって訳じゃなくって(5月18日付近況の件、完了)そもそも今回は東さんは執筆していないんだけど、他の出ている書評者の人たちのことどこく大学の先生ばかりってな状況に、書評の世界でメシを食うならやっぱり学者にならなきゃいけないんだろーか、ってなくらーい気持ちに落っこちる。もちろん偉い人が言及しているからその本が偉く見えるなんてことはなくって、専門な人たちが専門な観点から専門領域についての本について書いているんだから決して悪い訳じゃないんだけれど、使う側の気持ちとして書く中身より発言する内容より肩書きの方を気にしたがる風潮があるんだとしたら、これはもうどっかの大学を63点の卒論でかろーじて卒業させてもらった非アカデミズムな人間としては、ごめんなさいもうしませんと言うより他にない。

 ちなみに月20日付に登場しているのは教員の肩書きだと京大助教授の大澤真幸さんに東大助教授の木下直之さんに早大教授の山元大輔さんに東大教授の吉川洋さんに慶大教授の小林良彰さん。あと文芸評論家の肩書きでも千石英世さんは確か立教の先生だし、詩人・作家の肩書きでも松浦寿輝さんは東大助教授。川村二郎さんはどうだったっけ、今は少なくともアカデミズムじゃないのかな。もちろん批評とか創作活動と学術活動は別なんだけど、創作なり批評とやる人でもサラリーマンの傍ら専業なりな所にいる人じゃない、アカデミズムに片足突っ込んでる人が新聞の書評欄なんかだと気にかけられるのかなあ、ってな印象をちょっぴりやっかみも入った頭で考えてしまう。在野のテニスプレーヤーじゃやっぱ読売に書評者で登場は無理ってか。だったら「産経」を読むだけだ。


【5月19日】 インディペンデントなアーティストの人とかがブースを並べて作品を見せたり売ったりしているイベント「デザインフェスタ」が「東京ビッグサイト」で開催中なんでのぞく。表参道から青山へと伸びる道路の歩道に店を出してる習字とか似顔絵とかアクセサリーの人とかが全国からワンサと集まったイベント、って言うと近いのかな、もっともマジでアートとかしてたりする人もいればファッション学校の生徒さんとかミュージシャンとかもいたいりするんでフリマな雰囲気にアンデパンダンなニュアンスも交じりつつ美大の学園祭的なノリも入ってあとは松戸の駅前と一頃の代々木公園がミックスした、不思議な雰囲気のイベントになっている、ってつまり「誰でもピカソ」? まあ当たらじとも遠からじって感じでしょう、どっちにしたって「オタク」とは対極っぽい空間だ。

 いやいやそーでも実はないみたいで、今や「オタク」な図像が脳に焼き込まれたスタイリッシュなフォルムだったり遺伝子を刺激する共通の体験だったりする訳で、例えば「プレージャーシーカーズ」ってところが出していた「GENOME ROID」って作品は、鉄の棒とかチェーンとかを溶接して作ったロボットなんだけど、形がどう見てもGではじまる日の出製のロボットで、トマホークを持っている奴とか地球を浄化したいとはり切る奴の愛機とかもあって、上は30代後半から下は10代前半の男の子たちだったら、見た瞬間にその懐かしさ美しさ格好良さに神経を擽られる。ををこれは逆Aではないですか。ほかにも「スターウォーズ エピソード1」に出ていたドロイドとか「エイリアン」のギーガーとかもあったけど、洋画の特撮なアイティムよりもまずそっちに目が行ってしまうあたりが今時な日本人のフォルムに対するテレビやさまざまな派生物を通して教育された感性なのかも。「現代美術ガンダム」(ミナミトシミツ+勢村譲太、リトル・モア、1800円)なんてのもあったし。

 共通体験だからこそリスペクトするフリしながらズラして揶揄るのも成立する訳で、去年の秋も出ていて1枚「親切」なTシャツを買った「ちくわぶ」ってところで今回は例の青い猫型ロボットが登場する漫画の中に出てくるサービスカットをモチーフ? にしたTシャツを購入する。題して「初恋」。その小学生にはあるまじき推定でBは行ってそーなカップを堂々を突き出して見せてくれている彼女の肢体は、上は40代前半から下は現役の小学生まで幅広い年齢層の男の子たちの胸を疼かせることだろー。流れで行くならエスパーな彼女が父親のヌードモデルをやってる場面とかをプリントした奴も欲しい気が。パロディ系だと街に溢れ過ぎて有難みの薄れたシアトル経由の濃い目珈琲屋の緑色したマークの中がポッカの兄貴になっている奴が胸と背中にプリントされたTシャツとか、雪のマークの下に「毒印」と書いてある奴とかがなかなかにクリティカル。着て珈琲屋とかミルクスタンドに入ればもうバッチリだね、嫌がらせに。

 目についたブースだと杉山実さんって「アフタヌーン」の四季賞取ってたりアーバナートに出展してたりする漫画とアートの両面で活躍してるらしー人が描いた「ダンバイン」に「ナウシカ」を混ぜた雰囲気もちょっとだけある不思議なフォルムを持ったロボットの模型とかボックスアートとかトランプとかポストカードが良い感じ、あと四日市から来てい日本の着物をアロハに仕立てて売っている古谷さとむさんって人のウランド「無月」ってところがなかなかな人気で、22000円とか結構な値段のリフォームアロハがガンガンと売れててバイヤーさんにも注目されていた。そもそもがアロハの源流って日本の着物の仕立て直しだった訳なんで新品のビンテージってことになるのかな。名古屋駅前の「生活創庫」にも店出てるらしーんで夏い良いアロハが欲しい人は寄ってみよー。

 原宿系ってゆーのか、デザイン学校とが美大とかにいそーな(いるかどーかは不明、入ったことない)スリムでスレンダーで痩せた女の子たちが出展者としても客としてもわんさといて、それがジーンズ姿でしゃがんで品物を並べたり、作品ってのか商品を物色してたりするんで、背中の下とジーンズのベルト通し部分との隙間から、見たくもないこともないのに見えちゃうのが嬉しいやら恥ずかしいやら。まあ単なる布きれの端っでしかないんだけど、普段見慣れてないんでそれだけで例えるなら文学作品に登場する接吻のシーンを読んで興奮に寝付けなかった10代前半のよーなときめきが背筋を走る。あらかじめ見せることを想定してローウエストのジーンズの下にハイウエストの色物をはいてたりする子もいて、なのに感じてしまう自分がちょっと悔しい。もちろんジロジロと見たり、ましてや写真なんて撮ったりするのは罪になるんで見るなら首は固定して目線だけを走らせよー。「デザインフェスタ」は20日まで。

 池袋で溝口肇さんのコンサート。大昔に名古屋の「ハートランド」であれは「A PARTY DANCE」が出た後だからかれこれ10数年前になるのかな、それから4年くらい前の銀座のギャラリーでミニコンサートが開かれた時に続いて、本人がナマで演奏している姿を見るのはこれが3回目になるけれど、中ホールとはいえ大きなキャパシティーの会場で見るのは初めで、ライブハウスでもなくイベントスペースでもないコンサートホールに満席のお客さんの姿に、この間の人気の上昇ぶりを実感する。あの顔立ちあのサウンドでどーしてデビュー直後に人気が出なかったのが今もって不思議なところで、当時は同じソニーだと村松健さんがもてはやされていた記憶があって、会う人ごとに「溝口を聞け」と言っていたんだけど、こーして人でぎっしり詰まった会場を見るにつけ、出てくる人はやっぱり出てくるんだってことを改めて思う、ああ良かった。

 不思議な客層。クラシックほどじゃないけどそれなりに着飾った女性もいれば年輩のカップルに親子連れ、それと有明は有明でも盆暮れに集まりそーな雰囲気を身にまとった女性男性も自分を入れて結構見られて、ここまで人気が出てくる途中にたどった山ほどの仕事の多彩さがよく分かる。寄せられた花につけられた看板の「COWBOY BEBOP制作スタッフ」って名前にビビッドに反応できる女の子、って分かりやす過ぎ。あるいはピアノを担当している菅野よう子さんも含めてのファンだったのかもしれない、メンバー紹介でも菅野さんのところでひときわ大きな拍手が起こったよーな気がしたし。

 もちろんコンサートでは「天空のエスカフローネ」も「僕の地球をまもって」も「人狼」もやってくれなくって(当たり前だ)もっぱら新作CD「Angel」からの楽曲で、個人的に1番好きな「noise man」とかあったんでちょっと嬉しい。あと「ハーフインチ・デザート」に入っている定番の「キリンと月」も。どーせだったら「眠るミルクブッシュ」も聴きたかったなあ。不思議だったのは「世界の車窓から」が2回も演奏されたことで、あるいはアレンジを変えてあったのかもしれないれと詳しいことは不明、ただ一応のラストとして演奏された後の方ではだんだんとメンバーが退場していくよーなアレンジになっていて、最後に菅野さんと溝口さんだけ残ってしめるとゆー演出になっていたのは良かったし面白かった。才能もビジュアルもお似合いだぜ、悔しいけれど。コンサートは6月1日の愛知県芸術劇場大ホールからあと石川富山静岡福井岐阜の北陸東海を回って群馬三島を経て世田谷葛飾保谷と再び東京に。チケットどーなってるか不明だけど小さめのホールで近い位置で見たい気もしたんで、とれたらまた行こう、アレンのコスプレとかして(しません)(できません)。


【5月18日】 「E3」を見物に蒲田へ行く、違ったセガのアミューズメントマシンのプライベートショーだった、でもまあ世界に冠たる「バーチャファイター4」を間近で見られるんならカリフォルニアが京急蒲田でも大した違いはないってことで。開場までちょっと時間があったんで商店街を散策、みかけた古本屋の2軒ともに内田美奈子さんの「赤々丸」に匹敵する代表作作にして電脳シティ物の指標化石的作品「BOOM TOWN」(竹書房)が4冊揃いで売られていたのを目にして、救出しよーかと思ったけれどちょっと前に掘り起こして読み返した後、枕元常設本にしていたばっかりなんでとりあえずは見送って、欲しい人のために権利を譲ることにする。もー新刊ではよほどの書店でもない限りみかけなくなった貴重過ぎる本なんで欲しい人は急げ蒲田に。京急かまたから伸びる商店街の途中にある古本屋と、JR蒲田に向かって歩いた右手にちょい入った所にある古本屋、根性で探せ。もっともそこまでして読みたがる人がいたら掲載誌も潰れなかっただろーけど。どこかで続きが読みたいなー。

 その右手に入った所にある古本屋でこれまた貴重過ぎるだろー本を見つけてこれはおそれ多くもかしこくも購入させて頂く。書名「それ行けトヨザキ!!」(文藝春秋)、著者豊崎由美。かつてストイックにしてアナボリックな雑誌「ナンバー」の巻末を飾っているのか彩っているのかはたまた占拠しているのか判別のしよーがなかった、ってゆーか事実を指摘しよーものなら3日と命のなかったコーナーをまとめた本で華々しくも「ナンバーブックス3」なんてシリーズ番号が振られている。もちろん刊行された時に新刊の書店でその存在を確認はしていたんだけれど、あまりの人気かアッとゆー間に店頭からみかけなくなって幾星霜、別に根を詰めて探し歩いた訳ではないけれど、それがどーゆー数奇な運命をたどってか、古書店の書棚の本が並んだその上の、本の天辺と本棚の板の隙間に寝かされていたところを「BOOM TOWN」に惹かれて発見、これはもう運命だと思って有り難く買わせていただいた次第、値段も大盤振舞の250円と太っ腹価格でお昼ご飯も食べられない(ダイエット中なんで)身には有り難い、ああ有り難い。

 開くと当時の小さな新刊案内が綴じ込まれ、あまつさえ帯の折り込まれた部分に「バーン券」まで切られず残されているとゆー美本。これでスリップまであったらまるで新刊じゃん、ゾッキ本じゃんとか思ったけれど、流石にそこまでのことはなかったんできっとどなたかが有り難いご高説を広く世に伝えんと欲し、後ろ髪をひかれつつ慚愧の念を感じつつ「バーン券」も切らずチラシもすてずに古本屋へと里子に出したんだろー、これで著者謹呈の紙片とかはさまってた日にゃあ、それも贈った相手の名前なんかが分かった日にやあ考えるだに眩しくも恐ろしい光景が繰り広げられただろーけれど、残念にも幸いに誰がどーとかゆー訳でもないみたいで、だからこそエンピツで「250」なんて数字が入れられている以外は美麗にして完全な姿でもって、「それ行けトヨザキ!!」を手に入れられたってことになる、うん有り難う、出した人。けどこの「バーン券」、今でも送って果たして間に合うんだろーか、そもそも先着100人がもらえた「粗品」っていったい何だったんだろーか。実験してみる価値、あるかな。

 戻ってセガの「プライベートショー」。国内居残り組だったみたいな香山哲・共同最高執行責任者が登壇してはじまった「バーチャファイター4」のプレゼンテーションは、最高潮だった「バーチャファイター2」の時のインカム1日12万円とかを大きく上回ってロケテスト段階で1日35万円とかを上げている人気ぶりを証明するかのよーなすさまじい仕上がりで、その美麗なグラフィックにはきっと誰もが関心するだろー、感動はちょっとしないけど。ってのもポリゴンのキャラを動かしてリアルな迫力を感じさせてくれた「2」の衝撃に比べると、なるほど進化はしたけれどCGに馴れグラフィックに免疫が出来てしまった目には、「NAOMI2」が誇るグラフィックの美麗さもこれくらい出来て当然だ的な域にどーしても思えてしまって、例えば「セガサターン」で「バーチャ」を見た時のよーな衝撃にはちょっと到らなかった。

 とはいえ、とゆーかだからこその凄みがこの「バーチャファイター4」にはあって、スピード感とか操作性とかいった部分での徹底的な絞り込みや、雪の舞台砂の舞台で戦った時のフィールドに残る踏み荒らした跡、みたいな凝りに凝った表現なんかに前作からの一段の進歩を見てとれる。キャラクターが可愛いか、ってゆーとセガなんで「バーチャ」なんでこれまでの流れに沿ったデザインで、決してナムコの「ソウルキャリバー」に見られるよーな人間っぽさを持たせつつグラフィック的な人工の美を追究したキャラクターとはちょっと傾向が違っているけれど、それでも肉体の表現スタイルの表現での進歩にはなるほど大きいものがあって、おそらくは簡単になって奥深くなった操作系ともどもゲームの魅力になっている、みたい。何せ「トウキョウヘッド」的な「バーチャ」へのハマり方なんぞ生まれてこの方したことのない人間なんで、どこまで練り困れどこまで進歩してどれだけ面白いのかはまったく分からないけれど、それでも感じるパワーにはやっぱり圧倒される。早く「PS2」で遊びたいなー。あれ? 「Xbox」ってことになってたんだっけ?

 ほかだとビーチバレーをゲームにした奴が褐色のムチムチにビキニが着せられたブラジリアンな選手の迫力なんかもあって良い感じ。それからこちらはセガお得意のスポーツ物でもコントローラーが異色な「メジャーリーグベースボール」(だったっけ?)も個人的には注目の逸品。飛んでくるボールを打つ動作がボタン部分に取り付けられたバットを手前に引いて離すって実に分かりやすいものになっていて、まるで「野球盤」のよーなインターフェースに懐かしさを覚えつつも関心する。ジェットスキーとかカートとかリアルな実在するスポーツをゲームにしていくってのが戦略みたいで、いつかはジェットスキーとか、いつかは野球選手とかいったリアルなんだけどアンリアルな夢をかなえてくれるゲームこそが受けるんだとゆー信念があるのかもしれないけれど、妙にハまりこまなくっても気軽にスポーツしている感覚で楽しめるゲームの登場は、「市場を反転させる」と香山さんが言いったよーな状況にあるいは通じているのかもしれない。バケツにモップを拾って武器にできる「スパイクアウト」のシリーズもユーモラスで良かったよかった。けどやっぱり「バーチャ」の前に霞んでしまうんだろーなー。

 終わったんで銀座へと抜けて眼鏡を新調、前のでも度とかに違いはないんだけれど踏みつけて壊した眼鏡の代替として適当に選んだ影響もあって鼻の座りが悪くってすぐズレて、夏場に結構鬱陶しかったりしたんでこの最夏前に新調しておくかってことにした。で行った先が銀座に店を構える「999.9(フォーナインズ)」って一部オシャレさんには知られ尽くした眼鏡メーカーの直営店舗で、入ると今流行りの小さい眼鏡がいっぱいあって、巨大な玉のばっかりをかけて来た身では最初は躊躇する。けどそこは同業者にも芸能人にも勿論ユーザーにも1度かけたら次も確実な眼鏡を送り続けている「999.9」だけのことはあって、かけていくうつに顔になじむし店員さんも勉強がしっかりしていて選ぶにあたってあれやこれや教えてくれて、何時間も悩まなくっても比較的スンナリとフレームを選ぶことができた。

 歌手の大江千里さんが、「999.9」の創業者の人も実は登場していた「トップランナー」って番組でかけていたよーな、端の尖ったよーなフレームは流石に遠慮したけれど、それでも今のよるははるかに小さい玉の奴を選んであとは色決めへ。金縁も捨て難かったけどそこは成金趣味はやめて質素につつましやかに行こーとチタンの地金の色がまんま出ているフレームを選んでレンズも選んで料金を払って自腹を痛めてごっつんこ、抜けたらどんどこどん。40分ほどウロついて戻ってから出来上がった眼鏡に施してもらったフィッティング上の調整が、実に微に入り細に渡っていて、フレームのデザインだけじゃないこーゆー凝り様がユーザーを増やし続けてるんだろーと納得する。フィッティングが良いのかもともとのデザインが良過ぎるのか、かけると耳に絡まっている感じが一切せず、なおいっそうの人気の秘密が分かったよーな気になる。1つ手に入れると次も欲しくなるのがまた物欲って奴で、ちょっと違った形のとか、セルフレームのとかがちょっと欲しい気分、困ったものです。


【5月17日】 「週刊文春」に田中康夫長野県知事の「脱記者クラブ宣言」に関する独占告白、発表から2日後に発売の雑誌に内容も理念もふくめてまるっきり出てしまう周到さは、長くメディアの業界と関わって来て「田中康夫主義」(ダイヤモンド社、1400円)とゆーメディアウォッチ本を出している田中さんらしー、効果的で効率的なメディアの使い方って気がするけれど、だからこそ既成の巨大なメディアに嫌われて疎まれてしまうんだろーか、見出しにある「自分たちに都合の悪い事をメディアはどう報じるか。この告白と比べてお読み下さい」って言葉に従いたくっても、当のメディアのとりわけ東京近郊で発行されている新聞の実に扱いの小さいこと。たまたま当日所沢の農家が起こしていた「ニュースステーション」のダイオキシン報道を訴えた裁判の判決が出ていたってこともあったけど、自分たちの仕事ぶりが全否定されたに等しい「脱記者クラブ宣言」に対して淡々と事実関係を報じつつ、権力による言論統制が起こるぞ的なコメントを添えて社会面のはじに割と小さく報じた程度で、ましてや社説で反対の論陣を張ってその正当性を訴えるメディアなんてひとつもない。

 おそらくはメディアも記者クラブが持つ「公権力の監視」なんて性格の嘘っぱちさを自覚していて、スペースの関係もあって社内に置けない取材拠点としてだったり、権力に特権的に近づける窓口として記者クラブを位置付けていて、田中知事の裏も表も知り尽くした上で打ち出して来た施策に、正面から堂々と反論できないって負い目もあったんだろーけれど、全国の自治体から中央省庁から山とあっては日々田中知事の指摘しているよーなことをやり続けている記者クラブを持つメディアがやっぱり、反論なり是認なりしないのはちょっと恐ろしい気がする。田中知事はなるほど開かれた県政をやっているから許せるかもしれないけれど、そーした事由も含めて今回の宣言を新聞的に位置付けておかないと、将来それも決して遠くない将来に上っ面だけ追従してはメディア=悪だなんて論旨で権力による言論統制を図ろーとする輩が出てきた時に、正しくて当然の反論をできなくなる恐れがある。言うべきは言ってこそ改めるべきが改められる。無視が1番恐ろしい。そして恐ろしい方向へと世の中が流れている。

 言うなら「週刊文春」の記事は、費用面でのおんぶにだっこな関係とか、談合しなれ合う状況といった過去現在そして未来にも登場して来そーな「記者クラブ批判」の水準と同等には人々の関心を引くだろーけれど、ややもすればやっかみが交じるそーした批判に隠れてしまいそーになる、記者クラブの存在が読者にとってどんな不利益を与えているのかってな部分のケーススタディがあんまりない。人々のメディアに対する見方を啓蒙してメディアのレベルを上げて監視能力を高め純粋さを育成し、結果としてそーしたメディアに見張られている県政なり国政なり経済といったもののレベルも上げよーとすることを狙った、本質的な部分に迫るメディア批判が隠れてしまっているのがちょっと悔しい。田中知事の動静がどうメディアによって解釈されて世に出回ったのか、そうしたメディアの解釈はいったいどーゆーバイアスによって成り立っているのか、ってな部分に踏み込んだ記事だったら、ニュースが作られるプロセスの恣意性と、そんな恣意を頑なに守り続けているメディアの不思議さを浮き彫りにして、人々のメディアに対するスタンスを1歩2歩、大人のものに出来ただろーに。

 けどまあ、「週刊文春」が改めて派手に扱ったことで、もしかすると「朝日新聞」を読んでいる層なんかよりもはるかに大勢の人たちに新聞の曲がり角ぶりが伝わった可能性は高く、小さな1歩でも後の1万歩につながる大きく意味ある1歩だったと後世において評価される気がしないでもない。とりあえずは受け流す感じで対処したメディアが来週頭から続々と刊行される「AERA」なり「週刊朝日」なり「ヨミウリ・ウィークリー」なり「サンデー毎日」といった新聞社系の週刊誌で、どーゆー叩き方をしてくるのかが今は楽しみ。「知る権利」の代弁とかいったお為ごかしの理由なんかじゃなく、物理的経済的な理由も正直にしながら改悛の情を表明した上で、それでも長野県のモデルにはあんな弊害があるこんな事件になる、といった冷静でかつ理路整然とした意見を言ってくれるこを期待しているんだけど、やっぱり「長野のムソリーニ」なんて悪意のある見出しを掲げられながら、似非っぽさ漂う人権主義への賛歌の生け贄として糾弾されることになりかねないから難しい。「脱ダム宣言」じゃないけれど言葉の響きのみに反応して中味を吟味しない人たちと同様、この「脱記者クラブ宣言」がメディアでどう咀嚼されていくのかに、しばらくは注目していたい。

 新潮社の「三島由紀夫賞」決定。かたや映画「EUREKA」で世界を席巻して刊行した同名の本も好評の映画監督、青山真治さんの小説版「EUREKA」、こなた数々の音楽活動を経て映画評論の道でも特異のキャラクターを活かしたコラムを物にして来た中原昌也さんの「あらゆる場所に花束が……」が同時に受賞することになった訳で、ちょっと聞いてないから分からないけれど、映画評論の人として中原さんが青山さんの映画作品「EUREKA」をどう見たのかって部分は是非とも聞いてみたい所。逆に青山さんが中原さんをどー思っているかも聞いてみたいところで、発表後の記者会見に出てそんな”修羅場”にある2人の関係が、記者会見の席でも演じられていたとしたらちょっと面白かったかも。さすがに工業でITな人間が呼ばれてもいないパーティーに入り込めなんてしないんで、会話なりケンカなりも含めて見てきた人に是非とも感想を聞かせてもらいたいところ。しかしこの2人に受賞させるとは、選考委員もよほどネットなバトルが好きだったのかなー。ちょっとドキドキ。


【5月16日】 そうそう思い出したけど「週刊コミックモーニング」から派生した「播磨灘」の外伝とか新入社員時代の島耕作が登場する漫画が載る確かえっと「イブニング」だったっけ、そんな雑誌が講談社から夏前くらいに出るとかで、昔の資産にすがって、じゃない昔の資産を有効活用して生き抜こうってのは老い先短い、じゃない最近厳しい漫画業界には常套手段ってことなんだろー。したがって「北斗の拳」の時代を遡っての復活も、「シティハンター」のもっこりが浮きまくった復活も、全然まったく問題ないどころかむしろ必然だったのかもしれない。「週刊プレイボーイ」で人気なのも「筋肉マン」に「男塾」の流れを組んだ作品だし、「オールマン」では「俺の空」が老け顔の一平で連載されているこのご時世、次はあるいは「ドラゴンボール」の大復活かそれともさらに遡って「巨人の星」の2世物か、舞台はサンフランシスコでイチロー相手に号泣投げ込むヒューマ・ホシの話、みたいな。

 それにしてもな過去の遺産を食いつぶす、じゃない過去の資産を温故知新するばっかりの漫画業界を傍目でながめていると、もはや新作を生みだし送り出すだけの根性がなくなっているのかなー、なんてちょっぴり思いたくなる。もちろん新作を捨てて過去の作品のリバイバル物を「懐かしー」と喜び支持してしまう僕みたいな読者がいるからいけないんだけど、そーした元漫画少年な今おっさんを漫画の市場に取り込んでもなお市場全体では冷え込んでしまっているってことの理由には、それだけ新しい人が漫画の読者市場に入って来ていないって可能性がある訳で、趣味思考の変化なのか出版社側の怠慢なのか描き手の堕落なのかは分からないけれど、ともかくも単純に古本市場の台頭、言い切れば「ブックオフ」の繁盛だけに理由があるとは言えなさそー。新しい読者を引きつける新しい漫画があればそれだけ新しい本も書店で売れるもの。にもかかわらず古い作品を読んで楽しむ人が多いのは、それだけ新しい作品に人を引きつける力がないってことになるから、ね。

 聞くと最近、漫画雑誌なんかで「ブックオフは悪だ」みたいな意見広告をぶつ上げまくっている団体が会見を開いたそーで、蔓延る「ブックオフ」にいずれは著作権を保護するよーな法律の制定なんかを働きかけていかなければ、ってことを言ったらしー。実を言えば著作権者が著作権をタテにして利益を得ようって構図に異論はなくって、もしも利益が得られなくなるんだったら中古市場のあまりな拡大はやっぱり好ましいものではなく、著作権者が潤い次の創作に力を入れられるよーな環境を立法でも何でもして手に入れよーとする気持ちは分かる。本当に活躍して欲しい人の作品はだから極力新刊で買うよーにしている。

 問題はそーした人の有名無名を問わず、あまりに書店店頭での陳列の開店が早すぎて、手に入れられなかったら以後2度とお目にかからないってケースが結構あったりすること。別に「コータローまかりとおる」の「旧」も「新」も全巻揃えて置いておけとは言わないけれど、2年前に出たコミックがすでにどこの店頭からも消えてしまっていたりする状況を日々見るにつけ、補完としての「ブックオフ」の存在には十分以上の理由がある、と思えて来る。面白いものを描いているんだから新刊で売れないのはケシカラン、とゆー作家の自負自尊心はそれで尊重するとして、そーした作家を支え続けるだけの施策を取らないのか取れないでいるのか、そのあたりは縷々検討の余地はあるけれど、ともかくも現状において新刊コミックであっても一過性のものとしか見ていられない出版社側の内情にも、漫画家の人たちは「ブックオフ」にあれやこれや言う前に「どうのこうの」と言って突っ込んでやって欲しい気がした。まあ言えないからこそ矛先が「ブックオフ」の1点に向かうんだろーけど。

 こーゆー読み方はたぶん正しくはないんだろーけれど、「自分たちが漫画の市場を支えているんだ、歴史を切り開いていってるんだ」ってゆー自負と過剰な自意識でもって面白い漫画を探し読み集めていた経験から照らすと、絵さえ描いてあれば何だっていいや、ってな人のもしかすると増えて来ている状況にはちょっぴり寂しいものがある。時間つぶしになるよーな面白かったら古いものだって良いから「ブックオフ」で買うんだ、ってな風潮がもしも蔓延しかかっているとしたら、それは面白い漫画があるんだ、読むんだ、集めるんだってゆーことをしてこなかった、やったとしても面白さを伝えきれなかった側にも問題があったってことになる訳で、知識をかざして温故知新を喜ぶよりも、今なにを読んでおくと後々「しあわせ」なのかを伝える努力と、もっともっとしたいんだけど何しろ数だけは山ほどあるからなあ。シバタさん頑張って。

 それでもちょっとだけは一助を、ってもまるで役に立たない可能性はあるけれど、世紀を超える大傑作と評判の高い「ひみつの階段」(偕成社、880円)の紺野キタさんが同人誌に発表していた作品を集めた「夜の童話」(ポプラ社、580円)が満を持して刊行されたんでここに大宣伝、どれを読んでも「しあわせ」の形が見えて来て感じられて来て、心おだやかになってくる。絵の巧みさ人物の可愛さ話の上手さのどれをとっても素晴らしいのに、こーした作品が同人誌とゆー遠くになかなか届きにくい世界でしかこれまで流通してこなかってことに、いったい何が問題なんだろーか決して「ブックオフ」ばかりじゃない大きな陥穽が出版界にはあるんじゃなかろーか、ってなことを考えてしまう。短いけれども悲しくそれでいて幸福のひとつの形を見ることができる「あかりさき」が強力。とにかく新刊で買って読め、なければポプラ社に聞け。


【5月15日】 何度も見て穴が空くまで見て穴を開けてみたけどやっぱりなかった「週刊少年ジャンプオリジナル」の題字、あるいは「週刊少年ジャンプスピリッツ」でもいーや。「少年ジャンプ」からスピンアウトした漫画をゴッソリと乗せて、「少年ジャンプ」のお兄さん、ってゆーと年齢詐称気味なんでここはおじさんかな、とにかく「ジャンプファミリー」の長兄的存在の雑誌としての題字を持って創刊された、出版社の飽くなき読者獲得競争の落とし子みたいな雑誌かとマジで思ってしまったよ「週刊コミックバンチ」。原哲夫さん描くところの濃い兄ちゃんの顔に脇が北条司さんの端麗な美女、でもってさらには井上武雄彦さんなんて名前が表紙に載っていれば、当然至極に神保町のあの建物から世に出た漫画雑誌と思って不思議はないだろー。

 もちろんこれは間違いで発行しているのは地名に神は付くけど神楽坂の方面にある老舗の新潮社、でもって編集しているのがコアミックスなんて一瞬コアマガジンかと思ってしまったくらいに紛らわしくも新しいプロダクションで、これはいったい何事が起こったんだろー、あるいはナチスドイツ支配下のドイツから優れた頭脳を持ったユダヤ人学者がこぞって亡命でもして来たのか、なんて知らない人なら思ったかもしれないし思わなかったかもしれないけれど、ちょっとばかり漫画業界をかじった人なら編集人の堀江信彦さんが「週刊少年ジャンプ」の元編集長で、作家さんを引き連れてコアミックスってプロダクションを起こして新潮社から週刊漫画誌を出すって話を聞いているだろーから、今さら驚きもせず冷静に、ってゆーか果たしてどんな作品を出してくるのか興味を面ってこの日を待っていただろー。

 でもって遂に登場の「週刊コミックバンチ」だけど、単刀直入に言えばオールオッケーな30代おっさん。「北斗の拳」復活! ああ良いですねえ定番ですねえ「お前は既に死んでいる」うんうん印篭ですねえ、ってな感じだし「シティハンター」今一度!! うんうん冴羽はやっぱりモッコシしてるねえ元気だねえ強いねえ、って印象? どっちにしても結構な年齢になってから受け止めた作品なんで今さらキャラクターがどうイジられていよーと入れ込む気持ちもなく、かといって決して達観してから見たんじゃなくって、割と毎週楽しみにしていた口でもあってロゴスとパトスが拮抗する、醒めた目線と熱い感情がバランス良くミックスされた感情で読むことができて、さてこれからどう料理していってくれるんだろーかってな期待なんかを覚えてしまった。だから次も絶対に買う。

 なるほと中坊林太郎みたいじゃんと拳志郎の豹変ぶりを今の人なら思ったりする可能性もあるけれどまあご愛敬。とにかく強い、圧倒的に強いヒーローの名前も年齢も中味も違うけれどもやっぱり”帰還”と言えるだろー登場を、「ユアーショック!」とテレビで叫んでた世代だったら素直に喜べるだろーし、且つ今なテイストも織りまぜての展開を素直に楽しめるだろー。あと「よろしくメカドック」は決してマストな漫画じゃなかったけれど、「TOYOTA200GT」のレストア話な次原隆二さんの「レストアガレージ251」はヒストリックカー好きなエンスー野郎だったら涙なしでは多分読めない、徳大寺モドキも車モノにお約束のよーにちゃんと出ているし。

 個人的には「眠狂四郎」の意外な雰囲気の良さに良い意味で裏切られた気分で、劇画にならず漫画とも違った微妙なレベルで美形かつ無頼な狂四郎の狂いっぷりを見せてくれていて驚く。「たかが拝領品ていどカチ割れずして改革の大志とほざかれてはこそばゆいのだ」とゆー啖呵の切り方の力強さ、格好良さ。田村正和さん演じた狂四郎が最近だと頭に浮かぶ人も多いだろーけれど、昔は知らないとして今の田村さんの妖しくも枯れた雰囲気とは違うセクシーさとパワフルさと繊細さと剛胆さを混淆したよーな狂四郎の姿をビジュアルでもって見せてくれている。

 とにかくも殺陣のシーンのスピード感と残心の部分での艶やかさは逸品、このテンションが毎週続くよーならきっと読み続けるだろーけど、58ページあっての盛り上がりなんで毎週はちょっと無理かな。7本しか漫画が掲載されてない週刊誌、ってのも妙で改善されていくことになるんだろーけれど、この熱さこの重さなら月刊は我慢できないけれども隔週くらいのペースでじっくりと読ませてくれる漫画が掲載され続ける方を選びたい気もしてきた。ともかくもスタートした久方ぶりの週刊漫画誌がさてはてどこまで耐えられるのか。続く限りは観察していきたい、もち「ワイルドリーガー」が続く限りって意味だけど。

 田中康夫・長野県知事が県庁の記者クラブを廃止するってな話を持ち出してまたぞろ既存のメディアとの抗争が続きそーな雰囲気。前に鎌倉市で同じよーな事態になった時も、既存のメディアはやれ権力の監視がどーの国民の知る権利がどーのといった反論が起こって揉めたけど、それでも実行に移して元の記者クラブをメディアセンターにして現在、果たしてどんな問題が起こっているのかを伝えるメディアのない所を見ると、案外と問題は起こらなかったんだろー。ましてや普段から私生活も含めて包み隠さず伝える田中知事の指揮下にある長野県庁で、導入できないはずがないってのは普通の発想なんだろーけれど、そこは何かにつけてトップが変わろうと中味が変化しよーと「公権力」=「悪」と考えるメディアが素直に理解するとも思えない。さてはて明日以降の報道内容や如何に。やっぱり言うんだろーなーナニワのモーツァルト、じゃなかった信州のヒトラーって。

 もちろんこれが他の県でも真似されれば良いとは全然思ってなくって、前提として情報をすべてオープンにする、それも分け隔てなくってな基本スタンスが必要で、これが現在過去未来のいずれをとっても情報は隠蔽して専門家だけが分かっていれば良いんだ的運営を行って来た、あるいは行っていこーとしている権力だったら、導入は問題だとキャンペーンを張るのも仕方がないし、叩き潰すべきだろー。ただ今回の場合はあくまでメディアとの付き合い方に熟知して、かつパブリック・サーバントとして納税者たちとお付き合い方のあるべき姿を追い求めている田中知事が言い出しっぺだけに、あとのケアも含めてちゃんとやってくれそーな期待はあるんで、廃止は廃止で構わないよーな気になっている。

 そーした前提が担保されたとゆー条件の下で、「国民の知る権利」を既存のメディア、とりわけ「日本新聞協会」に所属またはそれに殉ずるメディアだけが持って独占的に情報にアクセスしているのは奇妙な訳で、ネットをはじめとした速報性とゆー観点では情報の伝達手段として貢献度の高いメディアにだって「国民の知る権利」を求める必要はあるし与えられてしかるべきなんだ、って認識に、やっぱり立つ必要があるよーな気がする。「知る権利」の代弁者として集めた情報を本業の「報道」以外で金に変えよーとシャカリキの新聞なんかを見ていると、今一度「報道」って何だろー、「メディア」って何だろーってことを考える必要なんかを感じてしまう。誰が仕切ろうとクラブに常駐していなかろーとお構いなしに公権力を監視する目を持つジャーナリズムと、そんなジャーナリズムのスタンスを認める公権力とのバランス良い関係が、これを機会に全国に出来て日本人の田中さん流に言うなら「心智」が一段と増すだろーことを願いたい、けどやっぱり叩くんだろーなー新聞もテレビも。被害者面して。

 「ロフトプラスワン」で開催の「マンガロン」刊行記念唐沢俊一さん×鶴岡法斎さんの対談を見物、唐沢さんから発せられたお題を横にズラしてズラしまくって話を深く広くしてしまう鶴岡さんの話才の凄みに触れる。連想ゲームもかくやと思わせる鶴岡さんの話の飛びっぷりを前に、動じた雰囲気も見せず知性と知識を動員して迫ろーとする唐沢さんも実は凄いんだけど、ポンポンと飛び出す罵倒芸も含めた鶴岡さんの天然風言葉の速射放に触れると、ライブな人としてはあるは鶴岡さんの方に強みがあるんだと思った人も結構いそー。とにかくキャッチボールなのか暴れ球豪速球の投げ合いだったのかは分からなかったけど、4時間近くを一気に楽しませてくれる貴重な2人講演だった。ホント鶴岡さん喋り巧いよ。

 ヤバ系の具体的に言うならアカデミックな系統へのワルクチも率直に面白くって、「アカデミズム=芸人説」なんかには、アカデミズムに憧れつつも到底たどり着けない捻り曲がった神経が賛辞を贈りたくなったくらい。確かに小難しい小理屈を並べて狭い範囲でしか通用しない勲章を獲得して大喜びなアカデミズムの具体的な中味についての議論よりも、アカデミズムな人たちが体面をどー取り繕うかのってな方を面白がってる節があるもんなー、当方には。とにかくも「お前はもう死んでいる」は20年経過しても覚えているのに10分前のことが覚えられない辛い脳には、会話は容量オーバーですでにして記憶の彼方へとトんでいるんでちょっと書くのは不能。それでもナンバーワンしか残らず2番手は消える運命ってな内容の唐沢さん流ライターのポジショニングへの指摘とか、師匠の唐沢さんに向かって「死ね」とゆー弟子の鶴岡さんの凄みなんかは楽しく面白く恐ろしく、次は一体何を言うのか何をやらかすのかを期待しつつ、再びの「ロフトプラスワン」でのコンビ結成(?)の日を待とー。


【5月14日】 「情熱大陸」でのコメントだと溝口肇さんはどこでもどんな環境でも作曲ができてしまうよーで、むしろできるのがプロだってなニュアンスが発せられた言葉からは感じられたけど、90歳を過ぎたどこか辿々しい演奏に、それでも涙が止まらなかったとゆーカザルスの「鳥の歌」の原点を現場を溝口さんが尋ねて歩いて行く番組の中で、カザルスが暮らした水も森も豊かな場所、海も風も豊富な場所なんかを見るにつけ、やっぱり環境は重要なんじゃないかって気になって来る。

 カザルスから教わったとゆースペイン人のチェリストから、溝口さんが「鳥の歌」の手ほどきを今さらながらに受ける場面で、情感の出し方、ってゆーか自分が持っている情感のチェロへの乗せ方の部分では素人の耳ながらも圧倒的にスペインのチェリストの方が勝っているよーな感じがして、単なるテクニックじゃない部分でのプラスアルファがあって初めて、人を泣かせる演奏が出来るし音楽が作れるんじゃないかってな気がして来る。盛り上げる場所は1カ所で良い、ビブラートなんてかけるな等々、なるほどそういった単純なことでも音楽って聞こえた方に差が出てくるものなんだなあ。ちょっと感嘆。

 あるいは自分への自身だったのか、それとも仕事に雁字搦めにされた身への自虐だったのかは分からないけれど、場所なんて関係ないといった溝口さんのコメントのどこか強がりっぽい印象がどうにも拭えず、そんな頭で「angel」なんかを聴いていると、なるほど素晴らしいメロディラインではあるけれどただそれだけ、テレビドラマとゆー目で分かる情感を気分として盛り上げる付属品としての音楽ばかりに埋め尽くされたルーティンワークの1枚、ってな気が僭越ながらしてならない。「眠るミルクブッシュ」の盛り上げていく情感がまた聴きたい。「ゲルニカ」のドラマチックな展開を再び。「パーティー・ダンス」の軽快さを。「BEST WITHIS」の温もりを。何度聞き返してもその度に発見のある、決して「イージー・リスニング」じゃない作品たちで埋め尽くされたアルバムが思い出されて仕方がない。聴くのも実際こーした昔のアルバムが多いんだよね。

 「angel」を通して聴いてやっぱり最初に良いと思った「noise man」がメロディの情感、物語性のいずれをとっても耳に響いて、こーした作品をもっともっと聴かせて欲しいとゆー気に心煽られる。もちろん音楽でご飯を食べられるよーになった溝口さんに、ソニーからキティ、ビクターと渡り歩いて身の置き所を心配しながら頑張って来た時代のよーに、オリジナルのアルバム作りだけに励んで下さいとは言えないけれど、すでにして大御所の貫禄も出始めた今、商業から離れた純粋に内面から染み出る溝口さんの音楽を浴びるよーに聴きたいものです。

 普通じゃないんで買ってしまった文庫版の山田ミネコさん「最終戦争シリーズ1 冬の円盤」(メディアファクトリー、590円)、表紙はもしかして「笑ちゃん」でしょーか。「最終戦争シリーズ」は確か「花とゆめ」コミックスだかに入っていた「冬の円盤」から朝日ソノラマの「ストロベリー・コミックス」の「最終戦争伝説」に東京三世社の「雲中飛行」と時代はちょっと下がって「草原の狼(ステッペン・ウルフ)」に「リュウ」で連載されていた「パトロール・シリーズ」まで、自費出版とか同人誌版とかをのぞけばほとんどだいた読んでいるよーに記憶しているけれど、出版社がバラバラだった上にどれもが完璧に完結したって覚えがなくって、こーして改めてまとまってくえると時系列的にシリーズをたどれてちょっと有り難い気がして来る。問題はちゃんと全部出るか、だな。

 そーいえば「ふふふの闇」なんてのが確か「プリンセスコミック」シリーズから出ていて、これも途中で実は読むのを止めてしまっていたけどいったいどーなっていたんだっけ、文庫版のあとがきなんかを読むといずれは「最終戦争」シリーズに合体するかも、みたいなことが書いてあって松本零司さんの顔をフッと思い出す、まあ「最終戦争」がデーバダッタとゆーはるか彼方からやって来た吸魂鬼を描いていたりして、言うなれば妖怪の話で「ふふふの闇」も妖怪の話、だったよーに記憶しているから接合はありなのかも。ただ現在のところの山田さんがメジャーな場所じゃなく主に同人誌を中心に活動している関係で、果たしてどーゆー展開をどんなタイミングで見せてくれるのかちょっと分からない。目が悪いとも書いてあって心配なところだけど、こーして文庫でシリーズが入り始めたことでもあるし、まさしくライフワークとなてつぃまった「最終戦争」シリーズの、完璧な完結を今世紀中に見せて欲しい。それこそ「最終戦争」が訪れる前に。

 「AERA」の5月21日号なんかを読むと同じ女性写真家のタマゴな人たちが憧れる写真家は1にやっぱり荒木経惟さんで同数に斎門富士男さんがいて、それは分かるけど2位に蜷川実花さんが来ているのがちょっと不思議。3人いっしょに木村伊兵衛賞を獲得したガーリー系な写真家の中では世に出た順番で言うなら長島有里枝さんだし世間的な評判だったらHIROMIXさんが来るはずなのに、特色と言えばやっぱり世界のニナガワの娘とゆー部分で語られてしまいがちな蜷川実花さんが来てしまうところに、先駆の長島疾駆のHIROMIXにはないサラブレッド性への憧れなり作風から受ける無難性があるのかも、近づきやすいっていうか。

 もちろん作品を見れば蜷川さんが相当な腕前だってことは分かる訳で、ほかにも花代さんに宮下マキさんに飯島愛さんにエトセトラ、大勢のガーリッシュな写真家が歴としたプロとして活躍していて「AERA」に登場の新鋭が出るには先はまだまだ長そう。とはいえ男性陣と言えばホンマタカシさんにしても大森克巳さんにしても笠井伸爾さんにしても平間到さんにしても荒木さんシノヤマキシンさん森山大道さんから見れば若手でもすでにして業界では中堅にして半ば大御所で、その後を襲うHIROMIXさんより長島さんより蜷川さんより目立っている人の案外な少なさが気にかかる。女性に優しい「AERA」、とばかり言えず気づくと本当に女性の写真家ばかりがグラビアから報道から飾っていたりする状況が、遠からず来るかもしれないなあ。


【5月13日】 素晴らしき哉ロズウェル町。レストランに入ればウェイトレスが頭からアンテナ生やしているし出てくる料理は「シガニー・ウィーバー・ランチ」に「ウィル・スミス・ランチ」。中味は全然不明だけど噛めばにじみでる緑色の体液が口中をジュワッと焼いてくれそーで、その刺激に毎日だって食べたくなること請負だし、年に1度の町をあげてのお祭りは、全員がメン・イン・ブラックに蝿男にスペースチャンネル5な格好で広場に集まり夜を徹してのドンチャン騒ぎ。クライマックスはミスター・グレイを乗せた円盤を爆発させてお祝いだなんて、さすがは宇宙に一番近い町、宇宙人の侵略から世界を守っている町だけのことはある。ああ住んでみたい。

 けど本当にロズウェルってそーゆー所なの? って疑問がまず起こったNHKの新しい海外ドラマ「ロズウェル 星の恋人たち」だけど、日本人が勝手なイメージで作るんじゃなくって一応は本場なアメリカが作ったドラマなんだし、パーティー好きで冗談好きな国民性ってこともあるんであれくらいのことはあって当然かも。「なまはげ」だって「はだか祭り」だって外国人が見れば得体の知れなさでは「UFO祭り」以上だし。レストランに「レイナード・ニモイ・ランチ」とかないのは対象がエイリアンと戦う人たちであってエイリアンそのものではないって辺りの差か。しかし分子構造を自在に操れるんだったらニセ札だって作り放題なエイリアンが身の危険を感じながらも同じ町に留まり続けているのはちょっと不思議。簡単に死にそうもないんだから脅える必要もない気がするけど、そのあたりなにがしかのタブーなり矜持なり留まり続ける理由があるんだろーから、今時の日本にだってないご都合的不合理ドラマと思わずしばらく見て行こー。主演の女の子エキゾチックで可愛いし。

 にょにょにょにょにょ。「ブロッコリーカードゲームショー」だにょ。11時ごろに着くとすでに行列はなくプレスで入るのも鬱陶しいんで200円を払って入場、下敷きになって「デ・ジ・キャラット」のちょい変わった扮装のイラストが描かれた入場証をもらえてちょっと嬉しい、売れるかな。外には行列はなかったけれど「デ・ジ・キャラットCCG」の先行発売目当てかそれとも「アクエリアンエイジ」あたりを買おーとする人たちか、ブースからテラスへと行列が伸びていて待ち時間120分なんて書いてあってちょっと吃驚、去年の「東京キャラクターショー」なんかだと圧倒的な行列が出来ていた講談社のブースが割と静かだったのとは対照的で、さすがは本家が本場で本気を出しただけのことはある。あるいは「でじこ」ファンしか来てなかったとか。

 「コスパショップ」でガンダムのトレーナー入りお楽しみ袋にちょい心揺れるも取材に着ていく訳には行かないんでパス、あと「たいやき袋」入り「Kanon」グッズセットとか「がおがお袋」(なんのこっちゃ)入り「Air」グッズセットのグッズはともかく袋に心惹かれるも、さすがに取材には持っていけないんでやっぱりパスする。キャラクターの紙袋に取材道具一式放り込んで行きたいもんだね国会取材。メディアワークスの「電撃屋」では「ぴたテン」の6分の1フィギュアが展示中でなかなかな出来で完売の模様、「でじこ」生みの親だけのことはあって「でじこ祭り」な場では人気もすさまじい。TBSのブースでCD−Rを買うと幼稚園服の「ぷちこ」のセル画が当たる抽選をやってて激しく心惹かれるも抽選が午後4時だったんで後ろ髪を引かれる思いで断念。人違いかもしれないけれど「のむのむ」さんらしき人が赤いディパック下げて取材していた姿を眺めつつ退散してバスで秋葉原へと向かう。

 外国人が見たらやっぱり「オー、ファンタスティック!」ってなるんだろー「神田明神祭り」。中央通りを埋め尽くした神輿にいったい彼らは何をかついで押し合いへし合いしているんだろーかと悩むだろーことは確実で、実際問題日本人だって神輿の何たるかを知らない若い子供たちが見たら、キラキラと光る神輿を大勢の人間がワッショイワッショと運ぶ姿に神様への感謝よりも騎馬戦のよーなバトルの様を見てしまいそーな気がする、まあ大差はないんだけれど。あれは褌なのかそれとも派手なブリーフなのか着物のすそをまくって股間をモッコリさせた筋骨隆々な人たちが路地とか埋め尽くしていたりして、半分以下の体重の人たちとか、体重だったら負けてないけど膨らんでいる場所は大違いな人で埋め尽くされている普段との違いに、秋葉原って街のフトコロの広さを感じる。その余りのムレムレさに「ゲーマーズ」に避難して普段と変わらない秋葉原の空気で息継ぎをしてしまいました。「スイングあずまんが」で「大阪」と「榊さん&かみネコ」を確保、「ちよちゃん&忠吉さん」が良い感じ、今度こそは。「かおりん」は……ないか。

 溝口肇さんの新譜「Angel」を購入、テレビのテーマ曲とかCM曲とかばっかり、でもないけれど結構入っていて最近の売れっ子ぶりがよく分かる。それぞれの番組なり映像なしのイメージと結びつきやすい作品が並ぶと頭がどーしてもそれぞれに引っ張られて散漫になってしまって、1枚のアルバムって統一感が出るのか心配になってしまうけど、考えてみれば「星の金貨」も「オードリー」も見てなかったんでそっちに引っ張られるなんてことはなく、単純に今時の溝口さんの音楽的な傾向、イージーリスニング的に耳障りが良いメロディラインの曲だったり心理を描くよーなドラマティックな曲が集まった、聞いていかにも溝口肇なアルバムに仕上がってるって印象を抱く。もっとも素人耳には「どれを聞いてもいっしょじゃん」みたいな感じがあって、「人狼」のサントラみたいな暗さを持った作品とか、「水の中のオアシス」みたいな捻った作品も聴いてみたいところ。19日のコンサートまでには聞き込んで何を演ったかチェックだ。「noise man」は良いねえ。


【5月12日】 体系的でもなければ網羅的でもない単なる1個人の日常を羅列していくだけのweb日記はなるほど、調査なり研究といった分野におけるデータベースとして喫緊の役には立たないけれど、堆積した土が地層を作り埋もれた生命体が化石となって往時の地球を何万年後、何億年後かに伝えてくれているよーに、堆積した日常が何十年後、何百年後かに往時の日本を甦らせる役に立たないとは誰にも言えない訳で、一種ミクロな情報の集約ともいえるデータベースとはレイヤーを異にした、マクロな情動の混沌が今こーして日々積み重なっているんだとゆー、スパンを長くとった理解でもって、web日記にも暖かい目を贈って頂きたいものです「中央公論」6月号で対談の御方々。

 ってわけで今日も今日とて平凡な日常を。先週「ユーロスペース」で見たドキュメンタリー映画「SELF AND OTHERS」で取りあげられていた写真家の牛腸茂雄さんが残した同名の写真集に収録されている作品が展示されてるってことで、東京・恵比寿にある「スタジオ・エビス」へと出向く。といっても牛腸さんだけの写真展じゃなく、牛腸さんと同窓の写真家、三浦和人さんが「SELF AND OTHERS」に写っている人々を20年経って探して写した写真もいっしょに飾ってあって、相対した2人の作品の間に流れる20年の時ってのを感じてじっと手を見る、皺が増えたなあ。

 ドキュメンタリー映画を見た時にも感じた、牛腸さんの写真に写った人たちの、レンズからファインダーから印画紙を通して向こう側にいる牛腸さん、引いてはプリントされた作品をながめる観客を見る視線の、わりと厳しい雰囲気に対して、20年を経過して尋ねて来た三浦さんを見る被写体の視線は総じて落ちついているのはなるほど、年齢とか牛腸さんを懐かしむ気持ちとか被写体となることが割と普通な社会状況とかってのもあるけれど、やっぱり当時の牛腸さんにあふれていた、なにがしかの熱情が対象を岩として硬化させてしまっていたんだろー。飯沢耕太郎さんの指摘する「人間の存在の光の領域に目を向けながら、同時に闇の淵にもまなざしを届かせる」(映画「SFLE AND OTHERS」パンフレットより)牛腸さんの醒めた視線が、そんな対象に跳ね返って見る人を強ばらせるのだ。

 例の有名な、やっぱりキッとした視線で背の決して高くなかった牛腸さんの目線で構えるカメラを真正面から見つめる双子の少女の、今はどこにでもいそーな愛情と明るさにあふれた母親姿が三浦さんの作品には映し出されていて、20年とゆー時が育む人間の感情と愛情の豊かさを知る。ほかの仲間たちや知り合いや通りすがりといった人たちの、やっぱり落ちついた風貌にも同様の思いを抱く。なるほど時間は確実に積み重なっていくものだけど、そーした時間がもたらした変化は単なる年表のよーな情報だけでは表せない。背景があり解説があり感想といった情動があって浮かび上がるものだろー。情報とゆー記録はどこかに積み上がっているけれど情動とゆー記憶は放っておけば薄れ消えてしまう。記録の体系化網羅化には役立てない僕だけど、せめてこーして記憶を文字としてつなぎとめて、いつか何かの役に立てればちょっとは嬉しい気がする。

 新宿へと回って「マイシティ」の地下にある「BERG」って店でも開催中の牛腸さん三浦さんの写真展を見物、始終人が出入りする空間に置かれ、決してメインではない一種壁の花と化している写真たちの存在は、見られることを意識した「スタジオ・エビス」の展示と違ってどこか希薄な印象を受ける。切り取られた瞬間が過去も現在も並列化され今現在の時間の中に折り畳まれて飾られている光景の、けれどもそれが過去現在未来を持った大勢の人間たちが暮らす日常の象徴なのかもしれず、写真とゆー表現にはむしろ相応しい展示方法なのかもと珈琲を飲みながら考える。もっとも恵比寿では切り取られた時間を静まり変えたた空間でながめトリップする気分こそが写真の醍醐味とも思ってた訳で、つまりはどっちも写真の楽しみ方なんだと素人ならではの開き直りを見せておこー。見た時に感じることがすべてってことで。

 与えるからこそ与えられる。ってのがインターネットの有用性であって「ウィンドウズ」を脅かすOSに育って来た「Linux」がそれだにけになったのも、開発者のリーナス・トーバルズが「みんなが改良を加えたのなら、ぼく自身もそれを使いたいから、いつでも新しいソースコードにアクセスしたい」(「それがぼくには楽しかったから」153ページ、小学館プロダクション、1800円)と思ってソースコードをオープンして且つ他の人にもオープンにすることを求めたから。もしも与えるだけだったら、あるいは求めるだけだったら「Linux」はここまで大きくはならなかっただろー、「ミニックス」のよーに。求めるんなら与えましょう。

 もしかしてDVDから直にキャプチャでもしたのかと思わせるくらいにテレビライクなザラザラ感を楽しませてくれる「星界の紋章フィルムブック1」(早川書房編集部編、620円)。あるいはパソコンで再生しながら必要な部分を市販のインクジェット・プリンターで出力したんじゃないかと思わせるくらいに微妙な色合いで、アニメのムックなんか手がけたことのない目にも果たしていったいどんな作り方をしたんだろーかとゆー疑問を起こして止まない。デュープ切り出してもやっぱり同じになるのかな、色校正の問題なのかな。まあこれでも大まかなストーリーは分かるしレクシュさんの艶姿も楽しめるからそれはそれで嬉しいことに違いはなく、画面が小さいのは気になるけれど大判でこの画質じゃ頭も痛むけど文庫サイズなんで見ていられたりもする訳でこれで良しとすべきなんだろー。巻末の森岡浩之さんによる外伝なのかセルフパロディなのかは微妙な短編も掲載されてるんでやっぱり買わずにはおかれない。願わくばもうちょっとだけ、色目とか気にして抱ければ嬉しい所でその辺どーなるかも含めて次巻には善処を期待しよー。


【5月11日】 「犬になる」ってゆーと何か束縛された感じがするのに「猫になる」ってゆーと不思議と開放感を覚えてしまう(「○○の犬めっ」と罵倒はしても「××の猫めっ」とは言わないし)のは、後天的に刷り込まれた犬と猫から受けるイメージの違いってこともあるんだろーけれど、実際問題人間さまにあれやこれや尽くしてくてるよーに見える犬、まあ実際は散歩に連れていけとか餌寄越せとか人間を引っ張り回したりするんだけど、それでも”飼われてやっている”感が強い犬に比べて、別に芸をする訳でもなく投げたフリスビーを取って来てくれる訳でもなく、ただそこに在るだけで人間どもの心を穏やかにする猫の方に、自由っぽさを見てしまうのも仕方がない所だろー。

 だもんでまあ、「犬vs猫」なんて騒がれた「日本SF新人賞」の受賞作2編のうちの犬側代表「ドッグファイト」(谷口裕貴、徳間書店1600円)なんかは犬がモロ、人間のお役立ちメカ(メカじゃないけど)として活躍しては人間を守って死んでいったりして、実に「人間の犬」っぽさを出していたりするし、対して猫側代表の「ペロー・ザ・キャット全仕事」(吉川良太郎、徳間書店、1600円)なんかだと、社会に疲れてしまったナーブでギークな青年が開放感を求めて猫に精神を転送するって話になっていて、「犬vs猫」のジェンダーじゃないけど人間社会における差なり認識を割とストレートに体現している感じがする。こーもあからさま発想の転換が旨のSFなんだからちょい捻りも欲しいかな、って気もしないでもないけれど、発想の拡大ってのもやっぱりSFの旨、その辺りについては両作とも存分に楽しませてくれること請負なんで、月並み過ぎる言葉でいうなら「犬好きは読め」&「猫好きは読め」。嫌いな人が犬のバタバタと死んでいく様に大喜びする読み方もいーけどね。

 で「ペロー・ザ・キャット全仕事」もとり急ぎ完読、「猫は頭にきた」で「重力が衰える時」って感じ? 猫になる話は童話か何かでも読んだ記憶があるから人によっては式貴士さんじゃなくても良いけれど、バターが塗り込められた美女の体をそのザラついた舌で舐め回したいって願望に近いものが、女テロリストのふかふかな胸に抱かれる場面で感じられたりしたんで、ついつい思い出してしまいました。エフィンジャーとの関連は、自由でいたかったのに結果的に街を支配するボスに良いよーに使われるよーになってしまうって辺り。ふとしたことからエジプトで開発された動物なんかに精神を移す技術を手に入れた青年が、金のために始めた強請の仕事がギャングにばれて一味に取り込まれ、「犬」として使われるよーになってしまう展開で、ギャングに飼われているドーベルマンの忠犬ぶりなんかも含めて「犬vs猫」を1冊の中でもやっているのが面白い。

 猫として自由でありたいと願っているとゆーよりも、猫を人間の自由に使おうって気持ちの方が強く主人公から感じられて、世界のあらゆることから切り放されて自由気ままな存在である、とゆー”猫の本質”を追究していないよーな気がしないでもない。だからこそギャングにばれて「犬」として使われるよーになったんだとも言えるんだけど、その点”猫の本質”を追究し続けている? 選考委員の神林長平さんは言及してたんだろーか、選評の載ってる「SFJapan」掘らなきゃ。

 SF性で言うなら、SF的な道具立てを使ったアクション小説と言った方が分かりやすいかもしれず、その分一般的な読者を引きつける可能性は「ドッグ・ファイト」より高そー。街を支配するギャング組織の中で起こった抗争に巻き込まれていく一般人、って構図はミステリーなんかにありそーだし、鬼っぽく見えたのに案外とウエットだったりする軍曹のラストバトルなんてミリタリー的な迫力もたっぷりで胸にも結構ジンと来るし。続編の可能性は分からないし、囲われてしまっている「猫」は果たして「猫」なのかも気になるところだけど、凄腕の用心棒シモーヌなんていろいろ過去とかありそーだし、もっと活躍もしてもらいたいんで機会があったら挑戦して頂きたい所。表紙と装丁は「ドッグ・ファイト」の生頼範義さんと対照的で超モダン。これも猫が持つ粋って奴の恩恵か。


"裏"日本工業新聞へ戻る
リウイチのホームページへ戻る