縮刷版2001年10月下旬号


【10月31日】 パンツ3割増量中、ってそのうちの2割分は「ジオブリーダーズ」だったりするかもしれない「ヤングキングアワーズ」12月号。前号だか前々号だかから引き続きでパンツいっちょうブラ1枚なんだけどあんまりクラッと来るタイプでもない梅崎真紀ちゃんが、ベッド上でのムフフフやら床に這い蹲ってのイテテテやらで見せまくっているのに加えて、柄じゃないけど見かけだったら真紀ちゃん以上かもしれないコング、じゃなかった姫萩夕ちゃんの「うっふーん」以降のオーバーオールもかなぐり捨てての大活躍が、見る人の人によっては大感動の境地へと誘う。何号か前の露天風呂シーンに続いての当分保存号、単行本出るのにどーせあと2年はかかるだろーからね。

 残るうちの大半も「ドキドキロコモーション」が確保しちゃってて、インパクトで言うならエカテリーナさまだったっけ、敵キャラのドロンジョみたいな女ボスが傾いたカラクリの中で椅子の背にしがみついてぶら下がっている場面を下から煽ったシーンでほの見える色ならおそらく白かピンクのデルタが、モロ見せな真紀ちゃん夕ちゃんのコング&モンキーのコンビの大量な白を上回ってなお余りあるくらいの官能を読む人にもたらしてくれてそー。プラス手とか足のベンチレータから蒸気を吐き出し体調の回復に努めている最中のマサコさんのスレンダーな下半身を包むこれは絶対に白のデルタの神々しいこと。1ページまるまるのこの絵を切り取りパウチっこしてこちらは当分じゃなくって永久保存したい気分にさせられる。しないけど。

 探せばほかにも掃除婦4コマでの着替えシーンとかに出てたりして、最終回までとりあえずはパンチラを維持し続けた「ラブひな」以外はまるで皆無に近い状況の「少年マガジン」に比べれば、およそ10倍程度のミニスカポリスな気分を味わえる号だったかもしれない。真紀ちゃん夕ちゃんは引き続き白黒抹茶とはいかないまでもピンクブルーに肌色当たりを見せ放題で想像で言うなら津とか四日市とか桑名あたりを走り回ってくれそーで、2002年の新年号から少なくとも2割増量の楽しみは味わえそー。ほかとなると「朝霧の巫女」とか期待薄そーだし「夜と燈火と日向のにおい」はむしろ最近減量中の兆しがあってこれまた期待薄。かくなる上は「ヘルシング」のインテグラさまにひとはだ脱いで頂きたいとおろだけど、ズボンだし下トランクスとか履いてそーだしなー。「トライガンマキシマム」のエレンディラは……履いてたとしてもモッコシが。頭痛い。

 バスト4割増量中、ってちょっとしつこいか。けど同じ「ヤングキングアワーズ」12月号は表紙からして「ジオブリーダーズ」から成沢嬢のハイネックなセーターに包まれたたわわな実りが目に飛び込んで来るし、伊藤真美さんの「ピルグリム・イェーガー」はカーリンが迫力の谷間を大きく開いた襟刳りからのぞかせれば、アデールもアデールで行水シーンとか見せてくれて先っぽまでバッチリくっきり。同じく先っぽだったら「ドキドキ路子モーション」で修理中のマサコさんもしっかり見せてくれてて目に福を与えてくれる。極めつけは「ヘルシング」の扉に登場の婦警。腰に手を当てそらした胸には当然ながらも巨大な球が2つ並んでついていて、いつかモロに拝める日が来るだろーことを心から激しく願わせる。悩み性でいつまでもグジグジやってるアニメ版セラス(予告編は別、あれ本編と性格まるで違ってるし)だとあんまりやってくれそーもないポーズなんで、これまた切り取り下敷きに挟んで会社に持っていってはお昼休みに取り出し眺めることにしよー。「フジテレビでアニメ化中です」って言えば怪しまれないだろーから(そんなことはない)。

 8月だかに続いて「ロフトプラスワン」でエロマンガへの規制とどう戦うかってなことを漫画家さんとか漫画評論家の人とかが話し合うイベントがあったんでのぞく。山本夜羽さんとか永山薫さんといった前回と同じメンバーに加えてジャーナリストの人とか児童ポルノ法案が成立する際に絵の除外を求めて戦ったNGOの人とかが並んで現状どーなっているのかを報告。今日明日にも法案が改正されるって訳ではないけれど、とりあえず来年の見直しに向けた動きがあれこれ進んでいるよーで、当面は12月だかに横浜で開催される児童ポルノの禁止なんかを話し合う世界的な会合の場で、前回は除外された絵とかも含めて禁止すべきってな意見が打ち出され兼ねず、そこに向けてどう反論を構築し相手を説得していくかってな当たりがひとつのステップになりそー。

 基本的に規制すべきってな意見が集中しそーな場で、もぐり込むよーに規制反対のワークショップをやるのって、反響も含めて結構なインパクトがありそーで、説得力を持った反論を展開できて見方も集められたとしたら、何かにつけて権威にすがり御威光を仰ぎ見るメディアも、反児童ポルノ規制法勢力が袋叩きにあったぞサマーミロ的な言説じゃなく、写真とかビデオと違って直接的な被害者がいる訳でもない絵とかと規制することで、結果的に表現の自由の再現なき制約を招きかねないことはちょっと問題かも、といった言説を頭が固く固定観念に凝り固まって新しいことを理解しよーとしないデスクに編集幹部の目をこっそりくぐりぬけるなり、正面突破するなりして、紙面化できるかもしれない。どんな有り様になるのかも興味があるけれど、入れるかどーか分からないんでとりあえずは頑張って下さいと期待を表明しつつ、夕方の報告会には可能なら顔を出すことにしよー。

 2部だと町田ひらくさんとか砂さんとかいった実作者が登場して、どーして少女が出てくるエロマンガを書くのってな話とかがあって、どんな人かと興味のあった町田ひらくさんをナマで見てこーゆー人だったんだと感動しつつ、描くからといって実際の行動としてペドファイル的な振る舞いが出る訳じゃなくって、まったく別のものであるんだってことがひとつと、漫画自体がたとえそう見えたとしても、日本の漫画表現が年齢とかを比較的低く見られる描き方になっていたり、表現の目的からがペドファイル的な欲望とは無縁な所にあったりするんだとゆーことを、どーやって漫画を読み付けていない人に理解させればいいのかってなことが語られて、今後の戦略を組み立てる上で参考になった。

 つまりは言葉を尽くして説明しろってことなんだけど、絵による表現活動だったりするだけに、描くことが戦いみたくとらえる人がいて、それはそれで素晴らしいことで読者がそうした活動をささえていればなるほど美しいんだけど、法律を作ってる人にはそんな共同体の理論なんか通用しない。文脈を知らず圧力を受けて法律を作って縛ろうとしている訳で、表現による説得が通じるはずもない。彼らを納得させられる言葉を組み立てていかないと、出来る説得も出来ないまま、遠い場所で作られているにも関わらず、すべてに影響を及ぼす枠組みが出来上がって来てしまう恐れがこれは多分にある。商業出版がダメなら同人誌があるってゆーけど、イベントで出た話だとすでに東京都からコミケ会場も18禁はゾーニングで囲い込め、って要望が準備会の方へと出ているらしく、難しい状況になっているらしー。どーなるのかは不明だけど、囲うのは面倒だから出すなとか、囲って高まった密度の中でけが人が出たんで次からは禁止とか、気持ちをマイナス方向に<働かせるよーな空気が醸成されつつあって、精神的な支柱を立てるための早急な対応が必要になっている。

 あと漫画にも残すべき価値があるのとないのがあってないのは無くなったって構わないでしょ、って意見が必ず出てきて「ウチが価値があるから残るだろう」って一派が出来て、「ほかは残らなくって当然」といったスタンスを取りお上と結託して自分たち以外を潰しにかかる可能性だって否定できなかったりする訳で、そうならないためにも今という価値観が永久に残るとは限らないこと、判断する側の恣意的な基準によって表現の良し悪しが決められてしまうことへと思いをめぐらして、心情的には敵でも同じ表現物を心の糧とし胃袋的にも糧としている人が、ひとつ同じ目標に向かって共闘できる「言葉」を組み立てていかないと、切り崩され、囲われ潰される動きを幾度か繰り返された挙げ句、青少年の環境を健全にどーしたってな法案がポルノだけじゃなく暴力表現に悪所的な場所の排除といった、これまた曖昧なオヤジ基準でもって表現を縛ろうとする動きとも相まって、表現に不自由な国が出来上がっていたりしかねない。

 じゃあどーすればいいのか、歌舞伎町の地下で作家とファンがあつまって気勢を上げたって外には全然つながらないぜ、ってな意見もまたこれありで悩ましいところ。メディアにいるとはいっても社員の家族と企業の広報部しか読んでなくって、一般に目の触れる機会の極端に少ないメディアであれこれやっても影響力は乏しいし、かといってネットであれこれ言ったところで伝わる範囲は極めて狭い。かろうじてメディアの性向として権威にはぶら下がりやすいってゆー特徴があるってことは分かるから、そんな観点から戦っている人、戦おうとしている人は外につながる回路を取り込み権威におもねるんじゃなく相手の権威好きを利用するよーな方法、あるいは自分たちにも無関係ではないんだとゆー共通の意識を教示して、共闘しやすい言い訳を作っていって頂きたい。できることがあれば、やりますんで。


【10月30日】 「週刊ビッグコミックスピリッツ」で完結なった高橋しんさん「最終兵器彼女」のラストを読んで「『劇エヴァ』かぁ……」と呟いた人の数と、「週刊コミックバンチ」で熱血好評連載中のこせきこうじさん「株式会社大山だ出版仮編集部員山下たろーくん」に登場する「コミックショーネン」連載の漫画「もんもんモンスターの大冒険」の作者を見て「ちよちゃんじゃん……」とニヤついた人の数の果たしてどっちが多いか少ないか、ってのはともかくとしてやっぱりだけどしっかりの終わり方だった気がする「最終兵器彼女」。途中ほとんど読んでないから分からないけど生き残ったよーに見える彼って山のよーに人が死んだ攻撃をリアルな意味でくぐり抜けたんだろーか、それとも記憶だけが最終兵器な彼女に受け継がれていて、その回想とゆー形ですべての事態が描かれたんだろーか、あれこれ考えてみたくなった。単行本、やっぱ揃えないといけないのかなー。

 それにしてもますます快調な「週刊コミックバンチ」。昔の名前で出ています的な「エンジェル・ハート」に「蒼天の拳」が面白くないことはないのは当然としても、やっぱり昔の名前ながらも「俺の空 刑事編」みたく環境をガラリと変えた「山下たろーくん」は面白さ倍増しで個人的には今連載中のあらゆる少年漫画の中でもトップクラスに入れたい気分。加えて原作付きながらその巧みなアレンジぶりで今とゆー時代に実にピッタリはまってるよーな気がする「眠狂四郎」に「リプレイJ」が、毎週毎週この先いったいどーなるんだろーと楽しみで仕方がない。

 まあ「リプレイJ」はちょっぴりご都合主義的だったり熱血だったりが鼻につく所もあるけれど、今週掲載の話については「必死なればこそ奇跡はおこるのだ」とゆー決めセリフへの持って行き方が上手くって、読んで心に沸き立つものがあった。引きがまた最高で、否が応でも来週を読めってパワーがそこから感じられて、ここ何号か立ち読みで済ませてたんだけど、しばらくは朝のキオスクで「週刊プレイボーイ」を押しのけて買ってしまいそーな予感がしてる。御免よ「キン肉マン2世」。

 野球漫画だとタイトル忘れた「少年マガジン」連載の久里って選手が派手なパフォーマンスの陰で実に緻密な野球理論を繰り出していろいろと勉強させてくれる作品が今の所個人的には最高なんだけど、「パンチ」連載の「ワイルドリーガー」もピート・ローズを鬼みたくした赤井コーチの登場もあって場が引き締まってちょっとドキドキ。赤井がしかける奸計かそれとも良計か判然としないタクラミの行き着く先をいち早く読むためにも、やっぱり「週刊プレイボーイ」は後回しになてつぃまいそー。今週号なんて田中麗奈さま様さまのヌードも水着もないけどスラリとした脚線美がバッチリなグラビアが掲載されているのに、まだ買ってないんだから。色香も熱血にはかなわなかった? 田中麗奈さまと色香が結び付くかどーかは不明だけど。

 見直したよ辻仁成さん、って芥川賞作家で自称・文学の救世主に向かってズブの素人が言うのはちょっと僭越だけど、箱入りなんて豪華過ぎる装丁で見かけ倒しかと思って読んだ最新作の「太陽待ち」(文芸春秋、1810円)につづられている物語は、作者の気負いとか勘違いとかを読んでいる人にまったく意識させることなしに、何かを想い続ける人間の辛さと強さを流れるよーなストーリーの中に描き上げていて、読んでいて揶揄ではなく感動させられる。あんまり読んだことのなかった池澤夏樹さんを真剣に意識して読むよーになった大作「マシアス・ギリの失脚」に通じるよーなボリューム感に読了感があって、ミュージシャンの余技と小馬鹿にしていた辻仁成さんてゆー作家への目を、見直すこれがきっかけになるかもしれない。遅いって? でもなあ、ときどきトンデモな話を書くからなあ。

 黒澤明監督をモデルにしたよーな、手抜きも妥協もいっさいしない芸術家肌の老映画監督が十勝平野で待っていたのは60年前にドキュメンタリー映画の撮影で赴いた中国の南京で見たものと同じ太陽。何度もの撮り直しを経ても満足する太陽がとれず、プロデューサーはじめいらだつ周囲のなかでひとり、美術を担当している四郎だけは監督を話が合って、四郎がいる美術の置き場は監督の避難場所になっていた。四郎には二郎という兄がいて、二郎は老監督の秘書のような役割を果たしている丸山智子という女性の彼氏でもあったが、麻薬の密売を仕事にしていたせいもあって何者かに拳銃で撃たれ、今は意識不明の状態で病院で寝たままとなっている。

 60年前の南京で出会った少女をめぐる苦い思い出を今も引きずって「太陽待ち」を続ける監督の姿。人事不省のまま眠り続ける二郎を忘れられない智子。そんな智子に心惹かれる四郎。原爆投下の直前に広島で撃墜された米軍のパイロットと看護婦との間に生まれ、二郎にドラッグの仕事を仕込んだ謎の男・藤沢のルーツを探し求める想いも含めて、容易には叶えられがたいさまざまな望みが交錯し、60年前の南京と原爆投下目前の広島と現代という時間までもが交錯するなかで、織りあげられるドラマが胸に時に激しく、時に心地よく感じられて目が潤む。日本軍の南京での所業の描写とか、広島における悲劇の扱いぶりとか、ともすれば説教臭くなるよーな主題を扱っているんだけど、読んでそれほど鬱陶しくなく、けれどもしっかりメッセージは伝わるよーになっていて感心する。

 820枚もありながら、ページ数で486ページもありながら、代わる代わる登場する語り手の現在と過去が行き来する展開が、ページを繰る手をゆるませず一気にラストへと連れていってくれる。映画の美術に関する描写とか、映画も撮る人ならではの蘊蓄もあって得した気分にもなれる小説。映画になった江国香織さんとの共著「愛と情熱のなんとか」は未読だけど、映画から想定される内容のヌラヌラとした感じに比べると、クールで幻想的な部分もあってスリリングでメッセージもあって、それでいて読んで楽しい「太陽待ち」の方がずっと良さそう。「白仏」はフランスで「フェミナ賞」を受賞したそーだけど、やっぱりフランス語化される本作も何か取るのかな、「ゴンクール賞」とか(日本人作家でもとれたっけ?)。


【10月29日】 アートが別に反権力とか反戦といったメッセージを折り込まなくっちゃいけない義理はないなんだろーけれど、かつてない事態が起こってしまって何にもやらないでいられるほど、アーティストの人たちが世の中に無関心とも思えなかったんで、テロが起こった時にはすでに開幕していたとはいえ、何かしら新しくメッセージがそこに加えられた作品でもあるのかな、って思って見ていた「横浜トリエンナーレ2001」。けど実際のところ、とりたてて新しく手が加えられたって作品は目に留まらなくって、「日展」よろしくあれだけの人が来ていたイベントで、普段はあんまり省みられない現代アートの人たちにとって、何かを訴えかけるのに絶好の場所だっただけに、ちょっともったいないって気がした。

 「今」ってゆー時代を切り取って、時にはストレートに、時にはいろいろとひねって、何が問題なのかを人々に見せるに相応しい、フットワークの軽い表現方法も、展示物としてブースにおさまってしまって観賞の対象になってしまうと、重たくなってしまうものなのかもしれない。あるいはアーティストが何かをしたがったとしても、会場の方で準備の都合とかあって断ったってこともあるのかな。期間中にアーティストによるパフォーマンスなんかがどっかで行われていて、そーいったメッセージが発せられていたかもしれないんで、ちょっと調べてみよー。ヨーコ・オノさんの貨車の展示に掲げられた平和を願うプレートは最初からあったものなのかな。事件後につけ加えられたのかな。

 そうそう、前に赤坂にあるギャラリーで見たヘリ・ドノってインドネシアだかのアーティストの作品が「パシフィコ横浜」の会場に出ていて、兵士だか民衆だかを思わせるよーな人形の立像の股間につけられたペニスの先っぽにのぞけそうな穴があけられている作品で、来る人来る人が男性も女性も老いも若きもひざまづいて、ペニスに目を当てていたのが妙だったけど面白かった。たしかいしかじゅんさんも「週刊アスキー」か何かに載ったリポート漫画に書いていたっけ。もっとも裏に回るとこの人形、首筋から生えたまさしく「AK47」が頭に突きつけられていて、あの国で起こっている悲惨な状況を暗に体言している作品になっていたのが、他にあんまり反戦っぽさを感じさせる作品がなかったなかで、前に見知っていた作家ってこともあったけど、ちょっと印象に残った。裏に回って見る人なんてあんまりいなかったけど、ペニス穴人形ってことで関心を持ってもらった先にある、あの国で続いている困難に関心が及べばそれはそれで良いってことなのかも。キャッチ重要。

 川原泉さんの「メイプル戦記」にゲイバーで仕事をしていたものの野球への夢捨て難く、女装したまま女性だけの球団に入って活躍する豪速球投手ってのが出て来たけれど、プロであってもなかなかに夢のようなシチュエーション、ましてや時代錯誤のはなはだしい、青春が潔癖で純真に道徳な高校野球で、対極とも言える「お水」な世界が許容されるんだろーかってことに挑んだ小説が、室積光「都立水商!」(小学館、1300円)。これまた川原泉さん「甲子園の空に笑え」じゃないけれど、フッサールがルソーで自然に還れとばかりにシード校をなくした高野連よろしく、何を思い立ったか「都立水商!」の舞台になった東京都の教育局、水商売に関する専門教育を行う学校「東京都立水商業高等学科」を歌舞伎町に設立して、「ホステス」「ソープ」「ホスト」に「ゲイバー」の学科を作って専門化たちの要請に乗りだした。

 最初は落ちこぼればかりが集められた学校だったけど、優秀な教員たちの手もあって「本業」ともいえる水商売の世界で敬われ親しまれる優秀な水商売人たちを次々を送り出しては注目を集める一方で、一芸に秀でていたても、平準化をねらう一般的な教育の世界ではこぼれてしまっていた生徒たちがいたせいもあって、部活動の分野でも全国を驚かせるよーな成果を出しはじめてしまう。けどそこは「水商売」の養成学校、詰めかける応援団はプロフェッショナル一歩手前のソープ科の生徒に美しさを探求することにかけては女性だって上回るゲイバー科の生徒たち。選手にだってゲイバー科の生徒はいる訳で、丸坊主が決まりな高校野球の世界に混じって長髪で見目麗しい選手が混じっていたりする。

 お固い教育界とかスポーツ界とか高野連としては、やっぱりどーにかしたいと思うんだけど、そこはそもそもが「都立水商」なんてものが存在する世界だけあって、あっさりと、けれども本当にこーなってくれたら嬉しいかもって思わせるよーな解決がなされて、晴れて桧舞台へと進んでいく。教育って何だろう? ってことを真正面から金八先生よろしく説教訓話の類でやられると正直辟易とするけれど、世間が目を顰める「水商売=陰」といった価値観をひっくり返した上で最初は一種のギャグとして水商売肯定論を徹底して貫いていくなかで、自分に真っ正直に生きることの嬉しさと、スポーツを純粋に楽しむことの素晴らしさが浮かび上がって来て気持ちがほころぶ。加えていったん認知され持ち上げられると、今度は「水商売=陽」として徹底的に擁護され、エリート視されてしまう風潮にも、本当にそれでいいのかと疑問を呈する目もあって、あれこれ考えさせられる。軽く読めて深い1冊。この手で「オタク工業高校」とか書けるかな。甲子園のスタンドはコスプレーヤーで埋め尽くされるんだ。


【10月28日】 デビュー作こそ難解っぽい文章使いでライトなノベルに慣れた人たちを1歩も2歩もひかせたけれど、その後に繰り出したおバカな小説でもって読者の度肝を抜きまくっては、串に刺して売って歩く日を続けている秋口ぎぐるの、「激突カンフーファイター」に「銀河帝国の弘法も筆の誤り」と並ぶ21世紀日本3大バカ小説のひとつ、「ショットガン刑事 炸裂! リボルバー娘。」(富士見ミステリー文庫)に待望の続編が登場。そのあまりのバカぶりに、「こいつはやっぱりバカだった」って、他意のない最上級の誉め言葉を贈りたくなった。

 その名も「ショットガン刑事 強奪! リボルバー刑事。」には、前作にも登場して世の婦女子から顰蹙をかいまくった「まるだし刑事」の妹という「エプロン刑事」が堂々の登場。ニックネームがあらわすように、エプロンを身につけた刑事で、ってゆーのはちょっと舌足らずだから言い直すとエプロンしか身につけていない美少女の刑事が、裏に表に影に日向に大活躍を演じてくれる。裸エプロンの常として、後ろに回れば背中どころかヒップの割れ目だってその奥だって見えてしまうのが位相幾何学的も常識中の常識。なのに不思議にもこの「エプロン刑事」、未だかつて背中を誰かに見られたことがないというからちょっとしたもので、裸なのに見せない以上は裸ではないという究極のチラリズムでもって、遣り手ながらも乱暴者の「ショットガン刑事」すらたじたじとさせる。

 聞くほどのおバカな設定だけど、これに留まらないのが秋口ぎぐるの秋口ぎぐるたる所以。ダブルの誘拐にダブルの救出劇が重なり、敵が味方となって見方が敵に回る錯綜した状況のなかを、正義を名目にしつつも自己目的の達成に向かって突っ走る人間を描いて、そのおバカさ加減で大いに笑わせてくれる。入り組んだ展開を最後にピタリと着地させ、なべて世はこともなし的にまとめあげる強引さもさすがなもの。ただひとり車に跳ねられまくって息も絶え絶えの少年がいて可哀想だけど、それで死なないところがやっぱりバカ小説のバカ小説たる所以。次回以降も変わらぬバカさでもって、「ショットガン刑事」の暴走に「エプロン刑事」のエロスに「まるだし刑事」の活躍、そしてヒトミ少年のやられキャラぶりを描き読者をバカの渦へと巻き込んでやって頂きたい。誰か「エプロン刑事」のコスプレやんないかなー。後は見ないって約束するから。

 シウマイの香りにさそわれて横浜参り。いや別にシウマイは食べなかったけど、横浜で開催されている「横浜トリエンナーレ」をよーやくやっと見物して、そのあまりの「日展」ぶりにちょっと驚く。何が「日展」かってゆーとそれは集まっている客の数と層。現代アートって言えば日本だとたとえ東京の美術館で展示されても誰も見に行かないし客だって集まらないのが常だったはずなのに、「横浜トリエンナーレ」の会場になった「横浜パシフィコ」は雨だってゆーのに場内はゆっくり観賞もできないくらいの人の波で、ルノワールでもゴッホでもないアート作品を背伸びして見なければいけない状況に、もしかすると自分の知らないところで現代アートがトレンドになっていたりしたんだろーかと考え込む。「Hanako」とか「egg」とか「ポップ・ティーン」とかで特集、組まれてたんだろーか。

 あるいは「主婦の友」とか「壮快」なんかでも特集されてたんじゃなかろーか、って思えるくらいに年輩の客も結構いて、歳のそれなりに行った人がわんさと詰めかける「日展」なんかを思い浮かべた、それもひとつの理由になっている。外国人の著名作家だろーと日本人の有名作家だろーとおかまいなしに見て歩いてはいろいろ言いまくるパワフルさはさすがなもの。ジミー・ダーハムって作家が作った、どこかの事務室をコンクリートで固めた作品に向かって「電話帳が埋まってるよー」「テロで壊れた部屋みたい」と笑いながらしゃべくりながら歩いていく姿に、いったい誰がどーゆーシチュエーションで使っていた部屋なのかが分かんねーよ、本棚には長谷川慶太郎の本があるし机の上に電話帳が出しっぱなしだしラップトップのパソコンは超古いし机はスチール性の安っぽいものだし、ってな具合にコンテクスト以前の状況作りのヌルさをボヤいていた身がちょっと恥ずかしくなる。「考えるな、感じるんだ」はアートの世界でも至言ってことで。

 だだっぴろいホールを区切ってブースを作って現代アート作品を展示する、そのスタイルを見て思い出したのが90年ごろに「幕張メッセ」で開催された「ファルマコン」って現代アートのイベントで、今回も目玉っぽく出ている草間弥生さんとかまだ存命だったバスキアとか、ボルタンスキーとかいろいろな人が出品していた記憶があって、今にして思えば「横浜トリエンナーレ」なんかよりも凄いイベントだったかもしれないけれど、夏の盛りに訪れた会場は客の姿がまるで見えず、ブースからブースを渡り歩いても他人と出会わずゆっくりじっくり作品を見られたってことを覚えている。それから10余年、かくも大賑わいとなったのには、「横浜」って場所の利以外に、何か理由があるんだろーか。現代アートが見直された? うーん、やっぱり単なる宣伝の多さだけなのかなー。

 「パシフィコ横浜」と「赤レンガ1号倉庫」の会場をざっと見て、塩田千春さんの巨大なドレスが天井から吊された作品の迫力にまず感嘆。場の利を活かしたインパクト充分な作品だと思います。都築響一さんの「国際秘宝館」の再現は行列が多くて見られず残念、名古屋に住んでるうちに行っておけば良かったなーと後悔する。木で作った円環のシリーズとかが好きだった遠藤利克さんは天井から水を地面にビチャビチャと流す作品でちょっと以外。けど眺めているうちに滝やらわき水やらに和む気持ちが起こって来て、流れ落ちる水の持つ生命感の強さを改めて思い知る。そーゆー目的の作品だったのかは知らないけれど。

 「赤レンガ倉庫」にあったやなぎみわさんの作品は、前に「アサヒグラフ」でも紹介されていた、若い人にどんな婆ちゃんになりたいかを聞いて特殊メイクと合成写真で再現したもの。高い場所からマングローブのよーな地面を経て摩天楼をのぞむSFっぽい作品がなかったのが残念だけど、海女さんたちを従えて磯に経つ老婆の向こうに、墜落した宇宙船らしき残骸や傾いたビルらしき建物が見える作品にも、積み重ねられた時の重さを写真でもって知らしめるSF的なスピリッツが感じられて面白かった。けどやっぱりやなぎみわさんは案内嬢のシリーズが良いなあ、やっぱほら、制服フェチなもんで。


【10月27日】 「神田古本まつり」を見物に行く。でもって新刊ばっかり買って帰る。これがスノッブって奴か(違う)。爲我井徹さんの原作で相良直哉さんが漫画を描いてた妖怪美少女物(端折り過ぎ)の「KaNa」(ワニブックス、900円)に第4巻登場、妖怪を支配下において何事か企む一味との緒戦にいよいよのぞむのかと思いきや、ますますのさばる敵を相手にほとんど手も足も出ない状況のなか、ヒロインは自分を見つめ直すために遠く彼方へと旅立ち未だ帰還せずな状況となり、あれだけの喧噪に巻き込まれて命だって決して大丈夫じゃないにも関わらず、少年は何事もなかったよーな感じで日常生活を送っているとゆー展開で、「吸血姫美夕」とか「ダブル・ブリッド」とかいった作品とはまた違った切り口で、人類と妖怪との関係に踏み込んでくれるのかなー、なんて思って読んでいただけに、なんか梯子を外された感じがして落ちつかない気分になる。

 「第一部完」とかだったら良いんだけど、あとがきめいた文章には「終わりです」なんてあるからこれで終わりってことになってしまうのか。まあ一種のシリーズ物として他のメディアでもサブストーリーとか展開されているんで、いつの日かの復活を期待しつつ気長に哀ちゃんが遠くバビロニアの地から紫外線に焼かれガングロになって帰って来る日を待つことにしよー。来ればだけど。

 「大蔵通産に警察自治といった内務省系が幅を利かせる霞ヶ関ヒエラルキーを飛び越え、目立つ『特配課』なる組織を派手に立ち回らせることは難しいと思うのだが。やはり次官局長に大臣をも含めた『郵政族』に連なる面々の思惑を越えた高みで権力を束ねる権力が暗躍し、かくも奇妙な『特配課』を後押しし成り立たせていると考えるのが自然で、だとすれば反権力と言いつつ働く現場の人々の純粋な思いを利用した権力に、やがて気付き挑むのがスジだろう」。

 なんて感想を徒然と書いた記憶があった小川一水さんの「こちら郵政省特配課」(朝日ソノラマ、530円)だったけど、省庁再編で郵政省が消えてしまって郵政事業庁なんてものに業務が移管されて且つ、民営化の懸念すらふくらんでいる実にホットホットな状況の中を登場した続編「追伸・こちら特別配達課」(朝日ソノラマ、552円)は、言いがかりめいた当方の文句を完璧以上に跳ね返すディティール面での確かさを持たせた上で、この厳しい状況なんかも巧みに折り込んで、ある意味社会派とも言えそーな内容の物語に仕上がっていて、やっぱり凄い人だなあと関心し感嘆し感動する。社会派ライトノベル、ってジャンルがあったらその筆頭格に確実になれる人だね。

 ちょっと前まではNTTにすら軽く見られていた省庁の次官の癖して国政にまで立ち入るよーなワルダクミっぽいことを考えていた水無川って男が功績もあってか郵政事業庁の長官におさまって次に考えたのが日本中の配送業務をオール自動化してしまおうってゆー構想。故に体を張って配達するよーな「特配課」の面々は用済みとなりかかっていて、これはマズいと課員の面々が立ち上がろーとしたものの、先手を打たれ機材は没収、身柄も拘束されそーになり、かろーじて逃げ出しては仇敵だった民間の輸送会社と協力しながら人が手で運ぶ配送業務の優秀さをアピールして、水無川の構想を封じ込めようとする。その頑張りもあって窮地へとお込まれた水無川は、最後の手段として自動の高速配送網をフルに活用できる仰天のプランをぶち挙げて、一気に挽回を図ろうとしたのだった。

 ケーブルテレビのケーブル1本引くのにとんでもない書類を申請があちらこちらの役所に必要なこの国で、長官といえども役人でしかない水無川が自分の構想を押し通そうとしている部分で、たとえば長老国会議員への根回しとか、ゼネコンも含めた幅広い企業への効果の波及とか、構造改革が叫ばれるご時世に相応しい省力化・省人化の可能性といった、推進するに必要な政経面での理由付けがちゃんと描かれているのが、社会人生活も長くなって世の中の仕組みに多少なりとも通じている人間にも、納得感を与える。

 小説のアイディアの核として、本来だったら祭り上げられこそすれ絶対にその意義を疑われることなんてなさそーな「特配課」の存在にも、時代の流れを受けつつしっかり突っ込みを入れておまけに妥当な結論まで出し、感動のうちにまとめあげているあたりも流石なもの。ともすれば青臭いとか理想論だと笑われそーな説教とか議論といったものが、この作品だと上滑りせず、地に足がついたものとして伝わって来る感じがして、読んで好感が持てた。

 市販車がテール・トゥ・ノーズだったりサイド・バイ・サイドで峠のくねくねした道を競い合うレースの描写のドライビングテクニック的にもチューンナップテクニック的にもリアルなことといったら。あと京都の街を走る郵便屋さんの苦労も実際に見て歩き聞いて回った成果が出ているよーで、読んでいて主人公たちが直面するさまざまな苦労の場面が目に浮かぶ。水無川が自動配送システムの整備に燃えた真の理由は、国益はいうに及ばず省益ですらなく局益課益にも至るよーなナワバリ争いが原動力になりかかっていて、そんな省庁間の足の引っ張り合いが結果国益になるんだとうそぶく人間たちが霞ヶ関に今もわんさと巣くっていそーな状況にあって、人間味を感じさせられ気持ちをホロリとさせられる。政治も経済も社会もしっかり取り込みつつ、人情の暖かさ素晴らしさもしっかりと描ききった1作。もう蛇足なんていりません。

 リアルって意味では会社は違うけど同時発売っぽくなった小川一水さんの「ここほれONE−ONE!」(集英社スーパーダッシュ文庫、514円)も、綿密な取材と調査にもとづいた描写が圧巻の1作。祖父との2人暮らしで生活に逼迫していた少年は、祖先がノコした埋蔵金らしき印のついた地図を、たったの4人ながらも技術力でもってそれなりの知名度を得ている地質調査会社に持ち込んだ。すると本当だったら莫大な費用が必要な調査を逆に金を支払うからやらせてくれと調査会社の美少女社長から言われてしまう。それだけでも奇妙なのに、仕事をしている途中、現代の科学では理解不能な装置が次々と繰り出されたり、謎めいた言動が次々と出て来る。

 いったい彼女たちは何者なのか? 彼女たちが集める鉄床石とは何なのか? って話なんだけど、地質調査に関する描写の深さ詳しさはともすれば「追伸・ことら特別配達課」の公道レース以上で、よくもまあ調べたもんだとゆー嘆息すら浮かぶ。物語的に盛り上がる山はあっても本筋の謎は残ったままで、結構大がかりな、それこそ地球の構造とか文明の誕生とかにも関わって来そーな感じがあって先が楽しみ。書く方は書くだろーから、問題は出版社が途中で二の足踏ませることなくラストまでしっかり出版させてやること。期待しつつも途中で止まっている長編もあるレーベルだけに、とにかく最後まで書かせてやって頂きたいとお願いしつつ、その一助にでもなればとここに宣伝しよー。買わなきゃ、読めない。


【10月26日】 「一致団結」して「殺人事件」に挑んで解決しては悪をこらしめる「勧善懲悪」の話が面白くないはずがないんだけれど、そんなエンターテインメントの”方程式”に新しく加わった4文字であらわせる条件が「百円均一」。なにそれ? って人は近所にあったら100円ショップの「ダイソー」をのぞいてみればいい。巨大なプラスチックのたらいからパンツからプランターから玩具から何から何まで100円で売っているお店に登場した100円均一の文庫シリーズ。その中になんと「ダイソー・ミステリー・シリーズ30」と銘打って、たぶん書き下ろしだろーミステリー小説の中編を収録した文庫をすべて100円で売ってしまうシリーズが登場していて業界を驚かせている、のかいないのかは分からないけれど、たまたま偶然近所に巨大な「ダイソー」があった関係で、何冊か買って読んだところでは、出来のどーでも良い新書なんかより1000倍は面白い小説が、少なからずありそーだってな印象を受けている。

 とりあえず読んだ1冊が通し番号では30番目にあたる矢月秀作さんって作家の「チーム 女警視・渡辺暢子捜査ファイル」って小説、値段はもちろん100円。警察官が密造銃によって射殺される事件が相次いで、捜査本部で捜査に行き詰まっていた女警視の渡辺暢子は最後の手段に出ることにする。それは刑務所に入っていた詐欺師とハッカーとヤクザと女テロリストの4人でチームを作り、釈放と報償を条件に事件の捜査に当たってもらうとゆーもので、それだけ聞けば想像できるよーに4人は詐欺師が口先三寸でのたらし込み、ハッカーはパソコンを使った情報収集、ヤクザは昔の仲間の伝を頼り女テロリストは昔の同志の伝を頼ってそれぞれに事件の真相へと迫る展開になっていて、それぞれが超能力的には突出してはいないもののそれなりな力を発揮してひとつ、またひとつとハードルをクリアしていく様が、分かり気ってはいても読んでいてワクワクとさせてくれる。

 囚人を捜査にかり出せるか、協力したから釈放できるかっていったあたりの事実関係は脇におくとして、類型的過ぎるキャラクターも類型的だからこそ安心して活躍していく様を読めるとゆーもの。それぞれの資質がしっかりと成果を発揮しピンチにも存分に役立つといった展開は、舞台なんかで大見得を切ってかけ声を飛ばされる歌舞伎役者にも似た定番ぶりでありきたりなんだけど溜飲が下がる。難敵だったはずの相手の迫力充分とはあんまり言えそーもない正体とか、慎重なはずの女テロリストのときどき見せる気のゆるみなんかが気になるけれど、読んでいて瑕疵に思うほどでもなく、知らずページがめくられ物語が進んでいく様に、改めてこれが100円で良いの? って気にさせられる。時間潰しだけじゃなく、探せば本気で読書にグッドな作品が混じっているかも。全部そろえたってハードカバー2冊分の300円。どんな玉が眠っているかを週末に頑張って探してみよー。

 ラインアップから想像するなら、田中文雄さん「冬の旅殺人事件」とか秋月達郎さん「夏服のアストレーア」あたりがネームバリューで期待してみたくなる2冊。若桜木虔さんの「湘南葉山の三重殺人」と「W殺人の謎」はさてはてどーなんだろ。タイトルからだと桜庭輝人・りえさんの「ミステリー大賞殺人事件」がメタっぽくて面白そー。あと浅川薫さん「就職超氷河期の殺人」とか藤宮弥生さん「贋作名画殺人事件」はいわゆる贋作ものっぽい匂いがしていて読んで中身を確かめたくなる。伊吹卓也さん「納沙布岬殺人事件」に吉岡道夫さん「紫陽花寺殺人事件」に矢島誠さん「長崎踏み絵殺人事件」「金沢兼六園殺人事件」とご当地殺人物とかも混じっていたりするあたり、ノベルズっぽいラインアップだけど年々値上がりして今や700円800円が当たり前のノベルズよりもコストパフォーマンスが高そーな雰囲気がある。

 あるいは全国の「ダイソー」で売られる前提で相当部数を刷ってるとして、ノベルズなんかよりも印税が入っていたりするから参加している作家も多いのかな。印税制をとっているのか買い取りなのかも分からないんだけど、仮に印税として10%もらえるとして1冊につき10円が入るんだとしたら、それが全国の「ダイソー」に10万部くらい配られていたら100万円が印税ってことになる。1万部しかなければ10万円。どっちなんだろ? もしかして買い取り制だったりもするのかな。ともあれ内容に関しては割と比較的真っ当っぽいってことの分かったこの「ダイソー・ミステリー・シリーズ」俗称「100円ミステリー」が今後どこまで伸びるか、でもってどんな作品が登場してくるかは全然分からないけれど、出版社に取次に書店が入って収益を分け合うモデルが平常な出版業界に風穴を開けるよーなシステム&値段で持った登場したってことで、あるいは新しいカテゴリーとして定着していく可能性なんかも想定しつつ、注目しておいて損はなさそー。「SFシリーズ」とかも出てくれたら嬉しいけれど、市場とかやっぱりなさそーだしなあ。漫画とか出てきたらそれはそれで凄いかも。

 高橋玄監督の「LADY PLASTIC」が新宿・シネマカリテのレイトショーでも楽日となるんで見物に行く。先週と同じ時間なのに整理番号は10番遅い13番でもしかしたら客とか増えてるのかな、それとも楽日だから多いのかななんて想像する。結局は50人以上が入場したみたいで、この人気が2週間くらい早かったら、マスコミとか世間とが見る目ももっと変わっていたに違いない。うーん勿体ないなあ。けど尻上がりにお客さんが増えていったってことは口コミ的なアピールがひとつクリティカル・ポイントを超えたって可能性だって想像できる訳で、そこからさらなる口コミがねずみ算的にひろまれば、現在すでに上映はしていないながらもカルト的に人気の作品となって、伝説化するなりリバイバル上映されるなりして再びの脚光を浴びないとも言えないし、現実に集まった人の反応なんかを見るとそーゆー想像も現実的に見えて来る。帰りがけにドアの開け閉めをしていた女性の従業員の人に「感動しましたー」と言って帰っていく男性もいたくらいだし。次の上映機会とか、ビデオ化・DVD化の時がその意味で楽しみ。

 ストーリーを理解した上で見た「LADY PLASTIC」はカメラの切れと音響の冴えが改めて強く感じられた作品で、フレームの中を過不足なくおまけに格好良くビチッと決めて緩みのないカメラワークと、その仕事にベストな形で出演者たちを演技させた演出があったればこそ、2時間とゆー標準とは言え長丁場を飽きさせずに引っ張り続けられたのかもしれない。音響の凝りようもなかなかで、夏場に虫の声を響かせて季節感を絶妙に表現した音響効果とか、夢に現れた小嶺麗奈さん演じる「美映」が主人公の少年に喋る部分のテープを逆回しているよーな中に意味あるフレーズを混ぜて幻想的な雰囲気を作り上げた音響効果とか、耳から情景を理解させる役目をしっかり果たしている気がする。名のあるスタッフの方々なんだろー。箱詰めされた美映からカメラが引く場面の天地がぐるりっと回るあたりのカメラワーク、凄かったです。

 1回目では30年前の回想場面で次がいったいどーなるの? ってなワクワクさと焦りとが入り交じった気持ちをもってしまったせいもあって、冗長かなって思えたりもしたけれど、内容を理解した上でみると展開に過不足の一切なく、美映の衝撃的な場面での光を影をつかってショッキングさをモロには見せずともショッキングさを伝える展開に、卜書きで書かれた脚本なりあらかじめ描かれたコンテなりの確かさを感じる。ハッピーエンドで終わらせたラストのハッピーエンドとゆー言葉に対するモノローグ、そしてそのあと一瞬だけ映っては消える映像の気持ちに訴えかける強さは相当なものがあって、このエンディングを見るために、もう1度最初から映画を見てみたいって気にさせられる。ほかにも例えば美映がバーチャルからリアルへと浮かび上がる場面での圧倒的な美貌から放たれる存在感に、三度四度と当てられたい気が。次ぎにいつ、どこで見られるかは全然分からないけれど、機会があれば是非ともやっぱり3度目、4度目を見に行きたい。でもって感動の連鎖を繋げたい。だから是非、どこかで、いつか。


【10月25日】 どうやら戦争は終わったらしい。替え玉が射殺された感激を縫ってチムール帝国が遺した水道の跡に逃げ込んだウサマ・ビンラディンだったけど、日本からはるばるたどり着いたジャーナリストとの問答の果てにブチ切れて、蛮族よろしく山刀を手に持ち処刑しようとしたところを、絶妙のタイミングで踏み込んで来た米軍の機関銃によって撃ち抜かれ、水不足の国なのにそこにだけはしっかり貯水できていたダムが破壊され、どうどうと流れて来た水の中へと落ちていって消息不明になり、アフガンでの戦闘にひとまずの決着が付く。

 それでも残っていたアルカイダ日本支部(あるのか?)のメンバーによって飛行機がハイジャックされ、国会でも首相官邸でもなく単なる出先機関の米国大使館に突入されそうになったその瞬間、何故か乗り合わせていた某カルト教団の元教宣部長が立ち上がってハイジャックを阻止。飛行機は無事、羽田空港へと着陸して世界を揺るがせたテロとその後の混乱は、これで一応の終結を見た。だが忘れてはいけない、ウサマ・ビンラディンは死んでも第2、第3のビンラディンは必ずや誕生する、ほら今だってテレビの向こうに髭面で長身のいかにもな男が……。

 って別にこうなったら良いなあなんて願望を書いた訳ではなくって、草薙圭一郎さんのその名も「アルカイダ壊滅作戦 テロリストを抹殺せよ!」(コスミックインターナショナル、857円)によれば、こうなっていくだろうとゆーことなので紹介したまで。あの鉄壁の情報網を誇る米国をしてアルカイダの動きを見過ごさせ、テロを呼び込み挙げ句に団結をゆー御旗を得、同情も得て世界に新たな覇権を唱えるべく進ませ始めた状況の裏側にある謀略的なシナリオを推測するでもなく、成功率99%のスナイパーあるいは女性には朴念仁ながら戦いに関してはミスリルでも一目おかれる凄腕の傭兵もしくは黒豹1人が単身、アフガニスタンに乗り込んでいって核兵器すら一喝して四散させるパワーを発揮して、敵をせん滅する超エンターテインメントに仕立てるでもなく、「今」がどうでちょっと先にはこうなるかも、って情報だけを土台に類型的なキャラクターを配置し型どおりの展開でもって話を作ってしまうチカラワザにただ恐れ入る。

 ちなみにあまりにこの本によれば、現在米国中を震撼させている例の炭疸菌の事件はテロなんかじゃなかったらしい。想像するに事件が起きてアフガンに米軍が侵攻を始めた「今」とゆー時間にだけ通用すればって思いで書き始めて、出す方も同じ「今」ってタイミングなら関心を持ってもらえるだろーと思ったんだろーけれど、残念とゆーか当然とゆーか、その瞬間を現す「今」なんて時間が過ぎれば必ず「昔」になってしまうもの。情報が流れるスピードの早い状況では「今」なんてほんと一瞬でしかないところを、紙なんて書いて並べて印刷して配送する手間暇のかかるメディアで出してしまったことが、この本の「旬」をちょっとだけずらしてしまった原因だろー、なんてことは多分なくって様は魂(スピリッツ)に関わる話なんだろーけれど、ともかくも出てしまった以上は仕方がない、すべてが終わった後で人たちの言葉や振る舞いを検証する上でのひとつの資料として、記録に止めておくことにしよー。表紙は格好良くってTシャツにプリントしたいくらい。誰か作らないかな。

 政治をやっている人の状況を歴史的空間的なさまざまな視点から俯瞰せず私利私欲をうかがわせる言動でもってこの国を引っ張っていこうとしている姿にさしものロック評論家もキレたのか、ロッキング・オンの渋谷陽一編集長がオピニオン誌「SIGHT」の臨時増刊号を編集。派手な写真を並べて良しとする他の週刊誌系の増刊が多い中で、写真の選び方からデザインの仕方、そしてなにより話を聞いたり話を引っ張って来たりする人のセレクトの仕方でもってひときわ”異彩”を放っている。何しろ「『報復は不毛』と日本のメディアはなぜ言えなかったのか」とゆータイトルからして他にないもの。本来だったらこーゆー内容の増刊が”異彩”を放ってしまっている偏った状況こそが妙なんだけど、とりあえず出たってことでこれが単なるガス抜きに終わらず、ここから始まる揺り戻しにちょっと期待したい。

 坂本龍一さんは「朝日新聞」に寄稿して叩かれた意見をさらに深化させたもの。誰もが報復を必然と思っていた時期に「報復どうよ?」と言って慎重になろうよと呼びかけた、その言葉をなぞるかのよーに米国は即時の報復には踏み切らず、根回しをした上で一応は「短期」で「限定的」とゆー手形でもって反撃に踏み出した。結果として空爆になってしまったことはともかくとして、いろいろと考えた米国ははるかにまとも。「空爆の見返りがどれほど大きくつくかっていうことを現実的に考慮せざるを得ない。そういうことをちゃんと考えている人はいるですかね、日本の政治家に」って言葉が示す、日本の信念理念の類が見えない迷走ぶりの方が恐ろしいってなことがインタビューからうかがえて、背筋がちょっぴり寒くなる。

 将来を伺わせる言葉では、藤原帰一さんの「勝ったことにして、すぐそのあと忘れるんでしょうね」とゆー米国のスタンスを指摘した言葉がシニカルながらも端的に今後を示していそーで考えさせられるところ大。アフガニスタンでは多分勝つし、ひとまずテロは収まるだろーけれど、もともとが米国のムジャヒディン支援から生まれたアルカイダが今、こうなってしまったんだとゆー反省はどこかに吹き飛び、タリバンが倒れた後のアフガン情勢のとりわけ普通の人たちの暮らしがどうなるってことへの関心も抱かず、「勝った」と喜び溜飲を下げ、そしてまたどこかの地域(アフガニスタンかもしれない)で紛争が起こってそれが我が身に迫るよーな事態になった時、「そんときはそんときなんじゃないですかね」ってことになるんじゃないかって指摘が、当たらないでいてくれたら嬉しいんだけど、やっぱりそーなってしまうだろーなー。

 問題は「そんときはそんとき」な国といっしょに「そんときはそんとき」をするんじゃなく、「そんとき」を作らないよーなことを他の国がやることなんだろーけれど、なにしろ相手は超大国でここが動かないと世界は動かなかったりするし、その超大国の顔色しか見えない準大国もあったりする訳で、ことは理想的には運ばない。考えれば考えるほど未来は暗くなっていく。ここはやっぱり未来とかを考えるんじゃなく、「今」の状況をカタルシスを得られるよーに繕うかの方が喜ばれるんだろーし気持ちもスッキリするんだろーなー。ってことはやっぱりタイミングばっちりだったってことなのかな、「アルカイダせん滅作戦」の出版は。


【10月24日】 あずまきよひこさん、東浩紀さんにならぶ現存する「日本3大あずま」の1人にして筆頭格の吾妻ひでおさんが、ギリギリとしながら作った虫とかメカとかのオブジェといっしょに原画なんかが展示してあるってんで四ッ谷三丁目と曙橋の間くらいにある喫茶店兼ギャラリーを見物する。をを「ふたりと五人」の原画だ懐かしいなあ、って読んでたのか昭和49年前後の「少年チャンピオン」? 答えはイエス。従姉妹が何か毎週読んでて行くと置いてあって時代は前後するかもしれないけれど「あばしり一家」とか「よたろう」とか、「750ライダー」とか「ローティーンブルース」とか「ブラックジャック」とか「魔太郎が来る」とか「恐怖新聞」とかをペラペラ読んでる中で、絵こそとっちらかり気味ながらも疾走するギャグに毎週クラクラさせられた記憶がある。娘に弟に父母に祖母が全員”美少女”だなんて今にして思えば倒錯しまくりの漫画がよくも少年漫画誌に毎週載ってたもんだよなあ、読んでる方も読んでる方だけど、ティーン未満で。

 置いてあるのは他にも「夜の魚」系統の陰々滅々していた頃の原画とか「大冒険児」の「ばーん」とした場面の原画とかいろいろで、個人的には何かに掲載されているのを見た記憶がある「カリオストロの城」のロリコン伯爵とクラリスと不二子とルパン時限ゴエモンと空飛ぶ時計塔のイラストがヒット。これが原画かと感涙にむせぶ。1階の喫茶店部分には94年に大泉学園の本屋のガレージだったかで開催されて、はるばる見に行った記憶もある「復活原画展」の時に売れ残った猫の絵とかも飾ってあって、どーして買わなかったんだろーとちょっとだけ歯がみする。けど結構高かったんだよなー、こっちもまだ金あんまり持ってなかったし。高千穂遥さん所蔵の「変態の方程式」の挿し絵はヘンタイ感が実に吾妻さんしていて高千穂さんが羨ましい限り。

 けどそれより高千穂さんが持っているとゆー東京ガスかどっかが出している社内報だかの方が羨ましさ倍かも。ちょっとした取り柄のある社員を紹介していくコーナーで紹介されちゃっているんですねー、吾妻さんが。写真の回りにいかにも吾妻さん風のイラストが掲載されていんだけれど、紹介文にある文句が記憶だと「セミプロ級の腕前」とか。「セミプロ」ってゆーのは超ベテランって意味だったっけ? 貴重な展示資料です。しかしどーして高千穂さんが持ってんだろ。

 今もガス管の掘り起こしとかやってるのかは分からないけれど、売ってた「産直あづまマガジン1」に掲載の身辺雑記漫画「ひでお日記」を読むと市民ホールと図書館と精神科の病院を言ったり来たりで漫画の方は月産6枚がやっとのよー。けど漫画家さんやっててくれるだけで有り難い。「産直あずまマガジン」に所収の「ななこSOS ACT.57」とか読むと絵なんかは相変わらず可愛いし、行き当たりばったりに見えながらエスカレートしていくキャラクターの言動にリアクションといー、突拍子もない展開にあっさりとして的確なオチといー昔ながら、とゆーより昔以上に吾妻さんしてて、吾妻世代の目にはまだまだイケてんじゃんと映るけど若い人だとどーだろー、けどななこはやっぱり可愛いぞ。あとみゃあちゃんも。ルーズソックスがルーズソックスがルーズソックスが。

 日記漫画に出てくる最近読んだ本のメモはイーガンにバクスターに町田康に福田和也にベアに坂口弘にナンシー関に柳美里って感じで自分と大差ないんだけど、歳の差を考えると実にアクティブな読書傾向かも。SFやっぱり好きなんだなー、ニーヴン&パーネルも探して読んだって描いてるし。場所とか分かりにくいのが難だけど四ッ谷三丁目の交差点からあけぼの橋の方へと向かって左側の歩道を歩いて蔦の絡まるチャペルならぬ料理屋だかを過ぎた細い道を斜め方向に歩いた場所にある喫茶店が会場で、大きな通りから入る場所には案内の看板も下げてあるんで見落とさなければ迷わず行けます。太田出版の真裏って感じ。早川書房から出てた「あずまんが」じゃない「アズマニア」とかマガジンハウスから再刊されてた一連の単行本とかも売ってたんで今度は金持って買いに行こー。「みゃあちゃんドール」は顔がなあ、でも欲しいなあ。11月3日まで。

 「第41回日本SF大会」から「プログレスレポート1」が届く。表紙はTONOさんか。とりあえず本登録者リストを観察、目分量で200人ちょっとくらいがすでに登録済みだけど、地方でのSF大会って行ったことがないんでだいたい何人くらいまでならオッケーなのか分からないんであと何人くらい増えるんだろーってちょっと気になる。ザッと見て目に付く名前の人は律儀に一般で登録みたいな青山智樹さんとほかちょろちょろ。顔もそーだけど名前も覚えられない身なんでどれだけ超有名人が混じっているのか分からないけど知り合い関係はそれほど見えず、このままだと1人島根の山奥の温泉宿を、タリバンに捕まったカメラマンみたくあっちにこずかれこっちにさらされながら、緊張の中に過ごす事態になりそう、って酒飲んでトんでしまえばあんまり関係ないんだけど。まだ9カ月あるとはいっても残りの期間、残りの参加枠をどれくらいの人が埋めてくるのか、届く「プログレス」でチェックしていくことにしよー。

 SF系といえば「セックスフレンド」、じゃなくってSFにまんざら無縁でもないダイレクト電子メールが舞い込んで来て爆笑。「心の関するサイエンスの展示会のお知らせ」なんてあるから心臓のプラスティネーションでも見せてくれるイベントでもあるのかな、なんて瞬間思ったけど文面を下にスクロールしていいって得心。「サイエントロジーとは何ですか? 展示会のお知らせ」って書かれてあって、つまりは「サンリオSF文庫」集めの人にとって頻繁に見かける割にはあんまり欲しくない鬼門的シリーズ、「バトルフィールドアース」のL・ロン・ハバートが創始した例の団体のセミナーだってことが判明する。端くれとはいえSFに足の小指を突っ込んでいて、間の事情を多少なりとも知っている人間にDMするとは良い度胸だと関心したけど、返事を書こうにも個人じゃなくってオフィスっぽいアドレスになっていて、組織的な勧誘なのかマルチ的なディストリビューター組織でもあるのか判然とせず、まあ行かなきゃそれで済む訳なんで返事はやめてここに紹介しておくに止める。しかしなぜウチに。SFだからか。

 それにしても「今回、日本で初めて行われる『サイエントロジーとは何ですか?』展示会」とは良くもまー言っちゃってくれたもので、日本に伝来してどれだけになるかは知らないけれど結構な年月が経って活動している人も結構いそーなものをこーやって初物っぽく紹介するスタイルは、テクとはいってもあんまり頭にスッキリしない。「個人的にいえば、この技術の存在は、多くの日本人は知りません」ともあるけど、ちょっと前にトラボルタ主演の映画をデカデカとやってたんで、多くかどーかはともかく結構な数の人に存在は知られてしまった気はする。あんまりヒットしなかったんで知られなかったかな。言ったらあれこれアドバイスとかサゼッションとかあってポジティブシンキングな気持ちにさせられそーな予感がひしひしするから行かないけれど、「展示会」ってゆーにはあるいは何か展示してあるんだろーかってのが気になるところ。もしかして映画でトラボルタが着た格好悪さ炸裂の衣装とか見られるだろーか、あるんだったら冷やかしにでものぞいてみたい気もしないでもない。日本で刊行された「バトルフィールド・アース」全バージョンとかあったらそれはそれで壮絶。読み比べた人とかいるのかな。


【10月23日】 「衝撃! あの山形浩生が『ハリー・ポッター』大激賞っ!!」って目次には別に踊ってないけどロッキングオンの「CUT」最新号の書評コラムで山形浩生さんが物珍しくもかしこくも、天下の大ベストセラー「ハリー・ポッター・シリーズ」を取りあげていてちょっと吃驚する。別にベストセラーは取りあげない主義のコラムじゃないみたいなんだけど、どちらかと言えばマイナーだったり毒舌だったり社会学だったりオープンソースだったりする本が多かったコラムでの世界的超大ベストセラーの紹介に、一体どんな筆致で貶しまくってるんだろーと興味津々で読んだらこれが意外や貶しもすかしもあんまりなさげな直球勝負のシリアス評。で第4巻の「炎のゴブレット」で作者のJ・K・ローリングが取った展開を評価しつつこれからの展開に注目している。

 よーするに「愛と死をみつめて」についての問題ってことらしく、甘えてばかりで御免とか言った話が大うけするよーな大人とは違った世代を相手にトラウマにならずにどこまで説明しまとめ上げられるかって興味がこちらにもムクムクと湧いて来る。まあ最近のテレビにゲームに漫画で囲まれ山ほどの情報洪水にさらされた子供は、大好きな本で読んだからといって、それが成長のすべてを左右するぐらいに刷り込まれるってこともあんまりないと思えないこともないけれど、あれこれ気を回す親からあれこれ言われる可能性も決して皆無じゃなさそーで、さてはてどーゆー作者なりの解答を用意して、PTAな親の横車を押し返してくれるのかに、これまた注目したくなる。そろそろ米国でも5巻が出るのかな。日本が4巻は来年かな。ああ待ち遠しい。

 「ヒューゴー賞」の受賞に絡んだ話はなくってこれはこれでちょっと残念、まあ「CUT」の読者に「ヒューゴー賞」を絡めて妥当がそうじゃないかを云々したってつまらないだけだから良いんだけど。それにしてもベストセラーとして大衆受けすればするほど引いて見てしまう人が多いなかで、かのスティーブン・キングが「ハリー・ポッター」を好評価していたのがちょっと面白い。発売されたばかりの「小説作法」(池央耿訳、アーティストハウス、1600円)の中で「背景情報に関しては、おそらく、ハリー・ポッターもののJ・K・ローリングが当代一の巧者だろう。読んで損はない」(266ページ)と書いている。

 「ローリングは一編ごとに、いともさりげなく過去の経緯を語ってみせる」(同)ってあるから単なる描写のテクニックを誉めているだけって読めないこともないけれど、すぐに続けて「そればかりか、ハリー・ポッターの連作ははじめから終わりまで、文句なく面白い」(同)と言っていて、稀代のストーリーテラー、キングをして面白がらせる小説なんだってことが伺える。まさか単なるお世辞とも思えないし。お世辞を言う義理もないんだろーし。

 そもそもがお世辞を言うタイプの人ではなさそーで、車を運転してる時にラジオを聞かないでカセットブックを聞いているのは「ラジオにかじりついていたところで、ディープ・パープルの『ハイウェー・スター』を果たして何度聴けるだろうか」ってな考えの上でらしく、嫌なことを流されてするよーな真似をしない人って印象がここから浮かぶ。あと「小説作法」と銘打ったノンフィクションである以上は冗談とかを極力排して小説の作法について話していると読むのが妥当ってことで、その上で「ハリポタ」を技術的にも内容的にも評価していると言って良いんだろー。でも案外と腹黒かも、キングだし。

 小説を書こうと思ったきっかけがあまりにど下手な小説を読んでこれなら自分にも書けると思ったからってのは聞いて微笑ましいエピソード、よくある話で。しかしその小説ってのがマレー・リンスター(マレイ・ラインスターかな?)のペーパーバック小説「小惑星の鉱父」ってあたりで喜ぶべきは憤るべきか。実は読んだことがないんだけど「小惑星の鉱父」ってキングを天狗にするほどとてつもない小説なの? 「程度の高い創作教室で、超一流の講師を招いてまる一学期、話の種にする価値がある」っていうから是非ともどっかの文学部とかで取りあげて研究して頂きたいもの。日本語版とかあるのかな。

 話の種の話に続けて書くと誤解を受けそうだけど誤解されても構わないんで続けて書こう。例の「ティーンズノベルフェスティバル」にも編集者が出席していたエニックスの「EXノベルズ」の最新刊にあたる建部伸明さんって人の「甲冑の乙女」(エニックス、900円)が出たんで早速読んでみる……周囲で「ラブ&ピース」とか「アッとおどろくタメゴロー」とか「ゲバゲバ」ってな声が聞こえて来る。ってちょっと古過ぎて時代がズレてる気もしないでもないけれど、ともかくも懐かしい思いが湧いてきたのは事実で、もしかしてこの人40代とか50代とかのベテランさんとか思って折り返しの部分を見て作者の年齢を確かめて、自分よりも下だって分かって立ち眩みがさらに激しくなる。

 深夜の繁華街、ひとり走る女の子に向かって酔っぱらいのおじさんたちがかける言葉がまずこれだ。「よう、ねえちゃん。そんなに急いでないで、いっしょに飲んでこうぜ」(6ページ)。そんな男たちに見向きもせず、突き飛ばして進んだ女の子に叫ぶことばがこれ。「くそ。待ちやがれ、このスベタ!」。ティーンの僕には「スベタ」って単語、意味がちょっと分かりません、すべすべお肌ってことですか? それからこんな表現も。「みんな、わたしのことヤクルトって言うの」「ヤクルトですか?」「わたし背が小さいから……コーラの瓶って、均整のとれたモデルさんでしょ。わたしは、ヤクルトの容器」「ハハハ、それはいい」「んもう」(25ページ)……なかなかにざん新な比喩で読みながら目がまんまるになる。「わたしのことトランジスタって言うの」じゃないだけ現代だけど、「ヤクルト」ってのも、なあ。名古屋じゃ「エルビー」だったんで使わなかっただけなのかな。

 お話しの方はといえばアトランティスが前世でリム出版をハルマゲドンしてるってことは流石にないかんだけど、テーブルトークRPGをやっている最中にロールプレイが行き過ぎて内なる人格を目覚めさせてしまったらしー主人公の少女が、その人格「甲冑の乙女」と対峙しつつ恋敵が送り込んで来た身長2メートルもある「マッドマックス2」級に完全武装のライダーと戦ったりする展開には、ちょっとだけ甘く危険な香りを感じる。本当に乖離性同一障害なのかそれとも前世なり異世界からの転生なのかってあたりの、ぼかしているのか説明し切れなかったのか微妙な雰囲気が読んで気持ちをもやもやとさせてくれて、その意味で気にはさせてくれる。ともかくも不可思議な事件の次々と起こる展開は、突っ走って突っ走り抜いた挙げ句にガードレールを踏み越えて100メートルの断崖絶壁をロープなしのバンジージャンプするよーなグルーブ感(例えが変)があって、読めば必ずやいろいろな気持ちにさせられる。このいろいろって言い回しがアレなんだけど、ともかくも出てしまった以上は読んでいろいろな気持ちになって下さい。


【10月22日】 この朴念仁めが、めが、めがと思わず叱りつけたくなったのも仕方がないだろー賀東招二さんはフルメタル・パニック・シリーズ短編第5弾「どうにもならない五里霧中?」。なににそんなに憤ってるの、相良宗介が朴念仁なのは今に始まったことじゃないだろ、って言われれば確かにそーなんだけど、収録されている書き下ろしの「わりとヒマな戦隊長の一日」を読めば、いくらなんでもそれはないだろーと思い、朴念仁も時には万死に値する罪なんだってことに誰だって同調したくなるはず。うんほら今し方、全世界で1億人が賛意の挙手をする音が聞こえて来ました。

 だってだってだって、あのテッサにだよ、若干えっと16歳くらいだったっけ、花も恥じらう乙女にして天才的な戦略的才能を持った美少女に、「レース地の下着の上に、制服のブラウスをひっかけただけの姿」(225ページ)で且つ、「前が開いており−ほっそりと姿態があらわれになって」(同)いて、「アッシュブロンドの髪の三つ編みも、よれよれにほどけて」(同)るといった姿でもって、目一杯あまえた声を出されて頬をすりすりされて、どーしてその情愛に答えないでおられよー。お姫さま抱っこに抱き上げ全力で校庭3週(学校じゃないんだけど)を走り回った挙げ句に保健室へとなだれ込み、愛について語り合って当然なところをあの朴念仁めは手さえ握らないでやんの。まったくもって射殺ものだね、この野郎、もったいないったりゃありゃしない。

 まあテッサだって普通じゃなかったみたいで、素面だったら下着姿どころか制服姿でだって頬すりすりなんてしてくれなかっただろーから、それを見られただけでも良しってことにしたのかな、そんなことはないな、相良宗介に限っては。この「わりとヒマな戦隊長の一日」はテッサのボケだけじゃなくって、キリリとした風貌のクルーゾー中尉の、この不思議な生き物が忘れ物を届けに来るよーな秘密とか、厳格さで鳴るカリーニン大佐の相良宗介ですら逃げ出すよーな凄腕ぶりとかも描かれていて、最高最強の部隊を構成するメンバーの爆裂爆笑ぶりが明かされていて楽しさいっぱい。今後彼ら彼女たちがいくらどシリアスな演技(演技じゃない)をしたところで、まっくろくろすけなジジの顔とかココアと味噌のブレンドされたボルシチの香りとかが思い出されて笑みが浮かんでしまいそー。楽しみがさらに増えました。

 あとがきとかによると「一匹狼」「二死満塁」「三冠王」「四面楚歌」で「五里霧中」と来たから次は一体何ってことで、当たれば良いことがあるかもしれなさそーだけど、「七転八倒」「八白土星」「九尾の狐」とあるのに(何か違うぞ)「六」は「六根清浄」くらいしか思い浮かばないのが厳しいところ。けど「六根清浄」じゃあ戦う人たちの物語にあんまり演技良さそーじゃないしなー。「六価クロム」は体に悪そーだし「六田登」じゃ勝平だし、「六気筒十二バルブDOHCターボ付き」だと燃費あんまり良くなさそーなんでちょっとタイトルには向かないかも。まあ短編集が出るくらいに作品がたまるまでにはしばらく時間がありそーなんで、いろいろと考えて投稿していこー。「六甲おろし」ってのは……関西限定になるからちょっと無理かな。

 映画は撮るまでが大変だってことはあれこれ聞いて知っているけど、撮った後でも公開するのがまた大変ってのも本当みたいで、待機中の作品の実に数多くあるらしーことを漏れ伝え聞くにつれ、たとえば何百億円もかけてとられた映画がポン酢だったりして、その金でいったいどんな素晴らしい映画が何10本出来たんだろーかって憤ることとは別に、そんな映画が全国でロードショーされるくらいだったら、どーしてこの作品が公開すらされないんだって疑問も浮かんでくる。作った側でも必死でレイトショーに単館に地方巡業に補償興行にエトセトラ、さまざまな方法でもってどーにか公開しよーと頑張るらしーんだけど、そんな苦労を横目に今さらどーしてこんな企画が堂々とまかり通って全国ロードショーされるんだって作品が続々と登場してたりして、世の中やっぱりままならないんだってことを強く実感させられる。吉永小百合の紫式部に森光子の清少納言の顔がグランドキャニオン対決、誰が喜んで見るんだろ?

 それでも公開されれば幸運とゆーよりもはや奇跡に近いものがあるよーで、そんな奇跡のひとつに見えられたってことで、「ワーナーマイカルシネマズ」が近所にある暮らしの幸運を心から喜ぶ。「ワーナーマイカル」だけで公開中の映画「ターン」は、出演者のバリューもバリューなら映画そのものの内容もグッド。にも関わらずメジャーな興行網では流れず「ワーナーマイカル」だけって展開になっているみたいで、どーゆー事情があったんだろーって想像してみたくなる。料金もレイトショーでもスペシャルデーでもないのにい1000円とゆー大盤振舞。たっぷり2時間の映画がこんな料金で見られて本当に良いんですか状態で、嬉しいことは嬉しいんだけどちょっぴり申し訳ない気もしてくる。もう1回くらい見に行くかな、実際もう1回くらい見てみたい映画だし。

 いわずと知れた北村薫さんの小説「ターン」(新潮社、1700円)を原作にした作品で、気が付くと誰もいない街にひとり済み、繰り返される毎日を暮らすようになっていた女性を牧瀬里穂さんが演じていて、彼女と電話を通して話すことができる唯一の男性を中村勘太郎さん(勘九郎さんの子供かな?)、彼女の母親を倍賞美津子さんが担当していて、他に柄本明さんとか北村一輝さんといった面々が固めるキャスト的にもしっかりしていて、なおのことこの作品が何故「ワーナーマイカル」独占なの? って気にさせられる。誰もいなくなった東京の街をどーやって撮ったんだろって疑問も浮かぶけど、誰もいない都会の写真を撮った写真集があるんだから、時間帯を選んだり整理をしっかすればちゃんと撮れるものなのかもしれない。それとも実はデジタル処理して主演以外の人間を全部、CG処理して消したとか。それだったら凄いけど、おそらくは時間帯とか選んで撮ったんだろーなー。それにしては影が昼間は昼間の長さだったりするし……やっぱりCGIなのか。

 それにしても牧瀬さん、「シンデレラエクスプレス」は言うに及ばず、「東京上空いらっしゃいませ」の頃からすらもおよそ10年が経過して、大台に乗ったかどーかってな年齢に来ているだけに、今でも可愛いことは可愛いんだけど、どこか凛然として視線なんかに貫禄も出ていて、時間とゆーものの重みが感じられて面白い。せっかくの繰り返しの日々、それ以上歳をとらなくなった世界にずっと居たらいーのに、なんてことも思うけど、ひとり切りで変わらない日々を暮らす辛さってのは、そこにいる人じゃないとやっぱり分からないんだろーなー。長袖のカットソー姿で歩いたり佇んだりする牧瀬さんの案外と量感のあるバストにちょっとだけ目が釘付け。印象だとスリムで顔立ちなんかも含めて未だに少女っぽさを持っている人かと思ったけれど、体つきもちゃんと成長してました。

 整った顔立ちだけに、左頬の跡がちょっと気になるところだけど、その安心感と裏表の違和感が得られるってのも人間を撮っている実写映画だからなんだろー。こんなファジーな気持ちを理解できるよーになったら、フルCG映画も人間の俳優に大きく近づけるんだろーなー。ラストシーンの処理なんか、ひとつの画面に同じ人間が2人、向かい合っているよー合成して陳腐なんだけど分かり易い絵づくりをするなんてことをせず、別々に映して、それでも同じ空間にはちゃんといて、やがて重なり会っていくよーな表現にしたあたりは気を使ってるなって感じがする。幻想的だったり感動的にやろーと思えばやれるしーんなのに、あっさりと、それでもしっかりと喜びへの道筋を描く腕前は、派手さが尊ばれる世の中にあって良心的なものを感じる。全体のトーンも真っ当で良心的で、それでも妥協なきカットの積み重ねで出来ていて、2時間を安心して見ていられた。多分しばらくは公開中。やっぱりもう1回くらい行こうっと。


【10月21日】 愛知県および名古屋市にとって漫画家とアイドルは鬼門なのかなー、なんてことを今さらながに読んだ木崎ひろすけさんの3冊「少女・ネム」(原作・カリブ・マーレイ、エンターブレイン、1100円)、「A・LI・CE」(角川書店、1400円)、「グランドゼロ」(角川書店、1300円)なんかを読みながら思う。アイドルって言うのは岡田有希子さんに堀江しのぶさんに最近ももう1人か2人くらいいたっけか、漫画家だとかがみ・あきらさんにみず谷なおきさんとゆー気にしていた2人がいずれも本当にこれからとゆー時にこの世を去ってしまって悔しい思いに歯がみした記憶があって、アーティストにとって何か呪いでもかかっているんじゃないかと心配になる。つぼイノリオの呪い? いやまだつぼイノリオさんは活躍中だしアイドルでも漫画家でもないから関係ないんだけど、それにしてもなあ、35歳、早すぎるよなあ、長編も未完のものが多そーだし。

 正直言って存命中に手に取ったことがあるのはフルCGのアニメーションにもなった「A・LI・CE」くらいで、映画を製作するってゆー記者発表会にも行って映画も2度ほど見て、見せ方とか尺の問題とかシナリオとかは気になったけどキャラクターについては割とお気に入りで、そのデザイナーでもあり漫画も描いたってことで関心は持っていた。ただし映画の発表とか「東京国際ファンタスティック映画祭」での上映の時とかはまだ木崎さんの名前は知らず、イベントに顔を見せていたかどーかについての記憶もなくって、もしいたとしたらもうちょっと思い入れは強くなったかもしれない。出身地と、早い逝去とが合わさって強い関心を持つよーになったのは正直言って3冊の「メモリアル・エディション」が出てからで、本格的に気付いた時にはいなかったとゆー状態に悲しみはそれほどでもないけれど、リアルタイムで消化して来れなかった悔しさはその分強くある。

 存命中で認識していたのはコミック版「A・LI・CE」が連載されていたあたりと極めて最近で、それも単行本を手に取るくらいで雑誌掲載についてはチェックしておらず、どーゆー展開を見せていたのかそれほど気にもとめていなかった。改めて単行本にまとまった「A・LI・CE」は、やっぱりな慌てたラストになっていて、バタンと断ち切られたよーに終わっているほかの2冊に比べて果たして良かったのかな、なんて疑問も沸き起こる。良かったのかも、とも思うけどこれはなかなかに難しい。

 「グランドゼロ」に掲載されている年譜を見ると学年も含めて見事にタメ歳で、まあ愛知県といっても広いからどこかでキャリアが重なっているってこともないだろーけれど、知り合いの知り合いの知り合いの知り合いくらいにあたっていないとも言えない訳で、思い入れもなおいっそう強くなる。かがみあきらさんにはイラストなんかを集めた遺稿集が出たしみず谷なおきさんは有志によって原画展が開かれて東京でも見ることができたけど、遅れて来た木崎ファンとしてまずは3冊の「メモリアル・エディション」を読み込んで、追悼の意を示すととに何か動きがあるんだとしたら、惜しまず賛意を示したい。合掌。

 日曜日なんで近所を散歩したりテレビを見たり。仕事も原稿もないってのはサラリーマン的には正しいんだけどライター的にはどうもなあ、けど原稿の依頼なんて新しい所からなんてしばらく来てないし。督促はあったかな。まだ大丈夫のよーな気はするな。もしかして知らずに切られてたとか。まあそれも仕方がないけれど。気を取り直して本屋で新創刊なった「アスキー ネットJ」を見物、特集の合間をコラムが埋め尽くしている感じはまるで「ダ・カーポ」で、裏ネタっぽいのが多そうなところは「ダークサイド・ジャパン」か「噂の真相」っていったところ? ともかくインターネット接続サポート雑誌みたいな所から大きく様変わりしたことは確かで、コラムマガジン好きには嬉しいけれどネットユーザー的にはどーなんだろっていった感じ。どーゆー層の人が読むんだろ?

 漫画ではとり・みきさんの連載があるんだけど、この判形でとりさんとゆーと思い出すのが「頓智」って筑摩書房が何を血迷ってか出して夢半ばどころか初めで消えた雑誌。たしか「くだん」について描き始めた途端の廃刊で、たがみよしひささんの「雪女」に匹敵するマガジンクラッシュなモチーフななろーかと考えた記憶がある。他の雑誌で「くだん」を描いて廃刊になったったってこともないから違うかな。それとも潰してましたっけ。これからどこまで続くかは知らないけれど、挑戦的なことをするんだったら「頓智」が潰れ「奇譚」が潰れて死屍累々の判形への挑戦とゆー視点に重ねて、「くだん」絡みの話を描いてそれでも果たしてどこまで保つのか、って辺りにも挑んで頂けたら楽しいかも、雑誌的には楽しくないけど。

 先週はあまりの完成度の感銘を受けて早速「bk1」でメディアファクトリーから出ている単行本の全28冊をまとめて約3万円なりで注文してしまったほどだけど(コミックも単価が低いけどカタログ性があってまとめて出るってこともあるから良いなー)、さて今週はを期待して見た「サイボーグ009」はオープニングもついて展開的にはまずまずな感じ。70年代テイストにあふれるギャグを70年代テイストの動きと絵柄で何のてらいもなくやってくれちゃっていて、原作のコミック版のテイストと、「誰がために……」なんかがテーマソングじゃい、服が白い「009」が回転撃ちをして(やらないかなー、今シリーズでも)「004」が4方向ミサイル同時発射の技を見せてくれた2本の劇場版が大好きな身としては、動きが紙芝居っぽくっても作画が悪いって言われても、それなりに楽しむことができた。「006」の作ったコウモリ料理を食わされた時とか、「007」の化けたカバにのって動く時とかの「003」の表情が最高。萌えます。

 作画が悪いっていってもアップと「003」はともかく特徴さえちゃんとおさえておけばパターン認識的にサイボーグを把握して処理してしまうんで、実はあんまり気にならない。問題はデジタルテレビでもデジタル放送でもDVDでもないのに画面に移るエッジのギザギザに激しく動く時のブロックノイズで、よくは知らないけれど送出時の問題ってよりはビデオにする時にちょっとマズってるよーな気がして、作り手側の誠意をちょっと疑ってしまう。BGMについてはなあ、始終盛り上がり過ぎていてメリハリに欠けるってゆーか場面の気分に今一つマッチしていないってゆーか、これも気になるところ。戦いの場面だとやっぱり昔の劇場版のハッキリとはしていないんだけれど雄壮な音楽が似合ってたって記憶があるから、それと比べてしまうのかもしれない。ともあれ真っ当に戻るらしー次回からに注目。単行本を衝動買いしたことを悔やまない程度には立て直して下さいな。

 ゴチャゴチャとした街を撮り歩いた写真で有名な金村修さんが「情熱大陸」に出演。写真集とか結構出してて個展も開いてて儲かっているのかと思いきや、アパートは彼女と暮らしててそれはそれで羨ましいんだけど家賃は決して高くなく、保っているカメラも中判が1つでレンズも1本とゆー質素ぶり。おまけに未だに「日刊ゲンダイ」を駅の「キオスク」に配って歩くアルバイトを続けているそーで、あれだけ活躍している人にしてこの状態かと思うと、フリーってゆー甘美な響きとの裏側にある厳しさが浮かんで気をひるませる。1日にブローニーを10本とか使ってたらお金だってどんどんと無くなるんだろーけれど、100枚撮って1枚も使えるのがないのが写真家って仕事。その厳しさがクオリティにつながり金には返られない名声へと発展していくんだろー。100冊読めば100冊について書けるヌルい感想文書きにはなかなか至れそーもない境地。もっとも100冊書こうと500冊書こうと感想文書きじゃ食えないんだから最初っから勝負にならないんだけど。ってことで感想文ページ、現在増量サービス中。


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