縮刷版2000年9月下旬号


【9月30日】 起きてシドニー五輪サッカー決勝「スペインvsカメルーン」。後半5分過ぎくらいから見始めたらこれが名場面にドンピシャで、まずは右からえぐったエムボマのファーをねらったセンタリングがディフェンダーにあたってオウンゴール。あしこまでテンポよく食い込んでこそ体を寄せられることなくボールを上げることが出来たんだろーし、ディフェンダーにも当てられたんだろーからやっぱりサッカーはボールを前へ、ゴールへといち早く運ぶことが大切なんだってことを思い知らされる。ゴール前1対1でフォワードがパス? そりゃサッカーじゃないバスケだよ。

 2点目はエトゥ(日本名=江藤、うそです)が足下に来たボールをうまくトラップしてシュート。あのスピードで走り込んで来てどーして左足すぐ前にボールを残せますか。ほかのプレイを見ても外国の人ってトラップが正確で柔らかくって次のプレイに直ぐ移れるのが凄い。ストイコビッチがあれだけ活躍できるのもそーした基本的な部分での積み上げなり才能がモノを言ってるんだなーってことを世界の国々が参加する大会を見て改めて実感させられました。アメリカ大会フランス大会を見た後みたく、「Jリーグ」がタルく見えるよーになってしまうなあ。しかし9人になってもそのうちの7人を守備に回してしのいだスペインも流石。あれだけ人が多いと崩したって崩せるもんじゃありません。フリーキックの1発は強烈だったけど、そこで入らないのがアメリカ戦の日本も同様、結果もスペインのPK戦負けと同様。決める時に決めるのも勝利に不可欠とやっぱり思い知らされたシドニーの週末であった、見てたのは千葉だけど。

 「ヤングキングアワーズ」11月号は「コミックマスターJ」がコミケネタ。圧倒的な人気をバックにコミケから商業誌へと移ったものの売れずコミケに戻って来た漫画家に向かってJがあの顔で言う台詞のすさまじさ。染み出る1点、求め続ける1点があれば勝算は小さくても勝利できるんだとゆー言葉の本当に正しいかは別にして力はある。コミケで1万人は「萌え」させられても全国100万人を「萌え」させることができる作品ってのが何かを提示してないあたりがJさんちょっと無責任、と思う人もいそーだけど売れる売れないに関わらず「志」だけは持ち続けろとゆーメッセージを読みとってもらうことがまずは大切、ってことなんだろー。

 ガレージキット自体がアートなんだと言ってガレージキットに「リスペクト」されたよーな作品を否定する漫画を描きながら、キットをギャラリーに展示したら集まって来たのはガレージキットのファンばかりだったとゆー展開をオチにして、結果としてガレージキットファンの人たちを褒めているのか貶しているのか分からなくしてしまった「ギャラリーフェイク」に比べると、途中の紆余曲折を経ながら熱いストレートで占める「J」の方が萌え、じゃない燃えられる。「あしたのジョー」に「巨人の星」に「男組」に「男一匹ガキ大将」に「男どアホウ甲子園」、ってな気温50度湿度1120%な熱い漫画が「ギャグ」にしか見えなくなってしまったシラケの季節が陰りを見せて、再び熱さが強さになる季節が巡って来ているのかなあ、それともこの熱さ自体が未だにギャグなのかなあ。

 あと「ジオブリーダーズ」、サービスカットいっぱいにお兄さん大喜びです。やっぱり巳晴くんはダメだったのかなあ、このエピソードに続いているっぽいアニメの第2弾には出てないし。「うちの社員よ無事に決まってんじゃないのよ」とゆー根拠のないセリフが妙に虚ろに響きます、でもまあ「ジオブリ」なんだし「神楽」なんだしハウンドのメンバーだって「壮絶な格闘戦の末全員昏倒中」なだけみたいなんできっと大丈夫でしょう、たぶん(根拠ない)。「エクセルサーガ」はメイド物。なぜか「ヤングキング」本家からメイド物にコミケなんかでも「萌え」ぶりを発揮している柴田昌弘さんが「サライ特別編」で出張して来てて「メイド対決」を見せてくれてます。エクセルは強いけど護衛メイドも強いけどやっぱり最強はハッちゃんでしょう、だって死なないもの。

 サッカーも終わって残る楽しみもほとんど無くなった五輪をうっちゃって夕方から本郷で開幕の「DASACON4」へ。途中お茶の水駅前にある丸善で金子達仁さんの過去に所属していた「サカーダイジェスト」とか独立してから「ナンバー」なんかに発表して来た文章を集めた本を読む。昔だったら需要がきっとなかたスポーツノンフィクションとまでは言えないショートルポやエッセイの集成が出てしまい実状は、1つには金子さんが主戦場とするサッカーへの関心が高まっているる割には書ける人が少なかったことがあり、1つには既存のスポーツメディアが「スポーツ」じゃなく「スポーツ選手」にばかり注目する、ほとんど芸能マスコミと同一化している現実に、読者が本当のルポを求めていることがある。「ナンバー」なんかが10年かけて作って来た土壌の上にようやく花が咲き始めたってところで、その花の1つがひときわ目立つヒマワリ金子だった、とで言えば良いのかな。

 読み返してみるに昔から監督は更迭するもので協会はダメでマスコミは最悪だと言い続けていて、今もやっぱりトルシェはアメリカ戦で臆し協会はそんなトルシェに臆している状況を非難しているように変わってないあたりに、なるほどスタンスの首尾一貫ぶりは伝わって来るけれど、これだけ世間的には影響力がありそーな金子さんをして、変化しない監督に協会ってのはどこまで傷んでいるんだろーと思う一方、ありそーな影響力ってのが実はお釈迦様の手の上の孫悟空よろしく、単なるガス抜きに役立たされているだけのちっぽけな力でしかなかったりするかもしれないと心配になる。主義主張の苛烈ぶりに全面的に賛同はできないけれど、言ってる内容の本質的な部分には共鳴できるところもあって、そんな金子さんを孤立させないよー応援だけはしていこー。続刊も近く発売とか。儲けてるなあ嫌いだなあ……いかん共闘共闘。

 で「DASACON4」。読書感想文のページとかがそれなりに書評ページの中でも皆さんに読まれているとかで初の「DASACON賞」を安田ママさんといっしょに受ける。オープン以来4年ちょいでアクセス13万ってのは決して多い数字じゃないけれど、まあ地道に更新し続けたってあたりが皆様の気にいって頂けた理由でしょうか。「受賞記念企画」なんかも考えたけれど、400冊分以上の感想文がたまっているけどジャンルは見事にバラバラで最近はヤングアダルトの漫画ばかりで文章はベタベタおまけに長いとあっては、記念にプリントアウトして製本して即売会とかで売ろうにも売れないから止め。まあ地道に積み上げていくのが責任であり義務であると改めて認識して、逐次適当に思いつきをダラダラと綴り積み上げていくことにしよー。年内に450冊を越えられると良いかな。500冊いければ良いんだけどな。

micoputiko.jpg  こんばんわにゅ、リウイチの秘書でもなんでもないぷちこだにゅ、今時珍しくSFなんてマイナーなジャンルの本を読んでる人たちがおおぜい集まってひそひそ話を繰り広げる「DASACON4」に潜入してきたにゅ、やっぱり暑かったにゅ。暑い夏でも黒いシャツと黒いズボンの姿がぜんぜん変わらないクラニーさんも居て秘書のミーコ姫を連れて来てたにゅ。ぷちこが自己紹介すると気にいってくれたみたいでミーコ姫といっしょにぷちこのところにやってきたにゅ、きっとぷちこの魅力にめろめろになったんだにゅ。違うって言ったおまえは目からビームでおしきにゅ。にゅ。にゅーっ。ビームが出ないにゅ。

 クラニーさんは何度もやってきてぷちこを可愛がってくれたにゅ。嬉しかったにゅ。ライターの永江朗さんが出版業界の実状について話したレクチャーを聞いたにゅ。ほかの出版社が文庫とかをどんどんと出して来るとまずSFの専門文庫か切られるらしー話が出て来たにゅ。だからSFの未来は暗いんだそーだにゅ。ぷちこにはぜんぜん興味がない話だにゅ。切られてもゲーマーズには関係ないにゅ。「電撃G’s文庫」を切るような本屋だったら目からビームだにゅ、こんどは失敗しないにゅ、にゅ、にゅーっ。

 「DASACON4」ではほかに福井健太さんの首にぶら下がって麻雀を観察したにゅ。オークションも得体のしれないカルタも見て夜通し遊んだにゅ。でも何やってるのかさっぱり分からなかったにゅ。SFって得体が知れないにゅ。ふんいきがあぶないにゅ。11月には京都でもっとたくさんのSFが集まるイベントがあるそうだにゅ。あぶなさも倍増3倍増だにゅ。あやしいやつらを見てみたいにゅ。行けたらいくにゅ。下僕のリウイチを連れていくにゅ。ほかほかごはんを用意しておけにゅ。夏の吉村達也に続いて我孫子武丸さんも綾辻行人さんも清涼院流水さんも批評してやるにゅ。覚悟しておくにゅ。にゅ。


【9月29日】 榎戸洋司さんと長谷川眞也さんの「少女革命ウテナ」な2人が「月刊ニュータイプ」誌上で展開していた「少年革命ミコト」、って言ってもよさそーな小説&イラストによる連載「少年王」(角川書店、1600円)が描きおろしイラストなんかも追加の上で刊行。長谷川さんが描く表紙のなんだか「ウテナ」っぽい美人のイラストに一瞬ときめいてしまったけど、「少年王」ってゆーくらいで可愛くても長髪でも立派な少年つまりは「男性」って訳で、よく見ると股間なんかもタイツの裏がモッコシしていて触れたとしたら感触がちょっと楽しそう、堅いのかな、柔らかいのかな。

 しかしこの表紙だとよほどの「ウテナ」ファンじゃないとちょっと引くんじゃないかと思うけど、ストーリーの方はなるほど学園で起こる謎に転校して来た少年が挑むとゆー展開で、鳥の形をした戦闘ロボットを連れて学園で「陛下」と呼ばれる少年を殺すために画策しているところに、謎の美女やら謎めいたマシンが絡むとゆー、なるほどやっぱり「ウテナ」じゃんと思わせるところが多々あるけれど、ファンタジックな衣にくるんで「少年の成長」なんかを描くあたりは、どこか流行りの「J文学」にも重なって読めないこともない。「ウテナ」を知らない人が例えば長谷川さんのイラストを見て、「少女漫画」と思うか「耽美」と思うか「J文学」と思うかは判断に苦しむところだけど、そのどれとも言えそーなところに「ウテナ」よりは広めのマーケットに受け入れられる可能性があるかも、ただしちゃんと手に取らせ、読ませることができさえすれば。

 「少年王」が手にする宇宙と関わる謎めいた銃は、神林長平さんの「敵は海賊・海賊版」に出てくるフリーザーとは基本的には違うもののどこか関連づけてみたくなるよーな不思議さがある。話を思い出せないけれどベイリーの「禅銃」なんてのにあるいは重なる部分があるのかも、もちろん全然関係ない可能性の方が高いんだけど。「少年王」自体は1つの「王」の誕生で終わっているんだけど、背景には空間的な広さも時間的な長さもありそーで、帯にあるよーな「この世界の恐るべき全貌を明らかにする過酷な物語の序章」に過ぎない。はたして全部の「それは別の物語」がちゃんと語られるんだろーか。何しろ連載の長期化が恒例なアニメ雑誌のことなんで、希望はやまやまだけどとりあえずは一応のケリがついてる「少年王」が出たことだけでも喜ぼう。

 その「連載長期化」の最右翼に当たるのかもしれない「ファイブスター物語」(角川書店、1000円)の最新刊になる第10巻が刊行中、10巻に10年はかかっているから1年に1巻きってことはもしかしたらとり・みきさんの「遠くへいきたい」よりもペース早い方なのかな。中身はすでに連載の方で読み切っちゃってる奴ばかりだけど、亀よりもおそい歩みでじくじくと進む展開を微細におよぶ書き込みともどものめり込んで読んでいると、木の葉の脈を見て森を見ない状況に陥って忘れてしまいがちになるから、やっぱり単行本はありがたい。デコース・ワイズメル格好良いです、やっぱ悪役でへらへらなのに強いってところに悪役でへらへらなだけの男の子は憧れるっす、ダグラス・カイエンともども。中断中なんで次が出るのはきっと2年とか3年は先になるんだろーなー、まあそーゆー「間」ともども楽しむのが月刊連載にして描き込み系な漫画家さんへの正しい態度。やっぱりなかなか出ないけど「ヘルシング」とか「ジオブリーダーズ」あたりなんかを交えて腰を落ちつけて21世紀中の完結を待ちましょう。もしかして22世紀にも続いてたりして。

 さて「角川春樹事務所4周年&小松左京賞受賞パーティー」。去年の3周年にはどちらかと言えば一般の文芸の人と交流の広さを繁栄してか芸能関係財界関係の人が結構来ていたけれど、今回は「小松左京賞」の発表も重なってるって関係と、角川春樹事務所自体がSF関係日からを入れていることもあってSF関係の人が結構な数集まっていて、雑誌なんかで見かけたことのある顔が「日本SF大会」の時に並ぶくらい見られてなかなかに壮観。賞の冠になっている小松左京さんはもちろんのこと、山田正紀さんに高千穂遥さんにたぶん豊田有恒さんに眉村卓さんに堀晃さん。ホラーなら朝松健さんに井上雅彦さんがいて、ヤングアダルト方面若手方面でも庄司卓さんに高瀬彼方さんにゆうきりんさんといった面々があるいてた。女性のファンタジーな人もいたみたいだけど顔しらないからちょっと不明、新井素子さんもいたみたいだなあ。評論の人翻訳の人も含めて全体の10分の1は確実にSF関係者だったでしょう。出版市場もこんな比率だったらどれだけ皆さん潤って、そのおこぼれがこっちにも回って来るものかと溜息もちょっと出たけれど。

komatuhiratani.jpg  いやいや溜息をつくのは今日までで、明日からは絶対に「SFの時代」だと太鼓判を押す角川春樹社長の威勢のいい挨拶に続いて始まった「小松左京賞」の表彰式は、挨拶に立った小松さん(右から2人目)が「横溝正史さんだって賞をつくってから8年は生きていたから自分も8年は生きるだろう」「誰も応募がなかったら自分で応募して自分で審査して落とす」といった去年といっしょながらも楽しい言葉で場内を沸かす。加えてSFファンにはきっとたまらない「小松左京を襲名制にして平谷美樹さん(写真=1番右)に『虚無回廊』の4部をまかせる。そのためにも今のうちに彼に賞をとってもらう」といった言葉もあって、ちょっと小松さん手形を乱発し過ぎじゃないのと心配になったけれど、前に手形をもらった人は「サイファイ」になってしまったから平谷さんに回ってもきっと大丈夫なんだろー、問題は受け取るかどーかだけど。

 その平谷さん、「発表の日、午後の4時を少しまわったあたりでFAXを受信してなんだろうと見ると次回の『小松左京賞』のお知らせで、駄目だったんで来年も応募しろということなのかと思った」とゆー話を披露。佳作に入った浦浜圭一郎さん(写真=右から3人目)は懐からこの日のために用意した文章をしたためたペーパーを出して、「ホラーとSFは大きな変化に直面した人間が変化するところを描くという意味で表裏一体」といった自説を披露しつつ、変化の途上にある今はその変化にとまどっている様を描いたホラーに人気があるけれど、変化に立ち向かうこれからの時期はSFが流行るんだってなことを言ってくれて、SFの人を嬉しがらせる。

 とはいえ角川春樹事務所では来年に立ち上がるハルキ・ホラー大賞だかを立ち上げる予定なんで、ホラーにも引き続き流行っておいてもらいたいところ。選考委員は森村誠一さんにお願いしたいところだけど本人はやっぱり躊躇しているよーで、もしかしたら角川春樹1人ってことになるのかも、けどグレイだって友達な角川春樹さんを恐がらせるよーなホラーって書ける人いるのかなあ。とにもかくにも世の中激変続きなんで、ホラーとSFとゆーコインの表裏がくるくるとしながらどちらもしっかり市場を確立していくことを期待しよー。SF陣営では平谷さん浦浜さんに努力賞の高橋桐矢(写真=1番左)さん、そして賞からは漏れてしまったけれど北野勇作さんも含めてこれまでと、これからのすべての「小松左京賞」応募者に頑張って頂きましょー。

tomino&hiratani  エンターブレインから出ている「TVチョップ」での角川春樹インタビューでもちょっと触れられていたけれど、角川春樹事務所とかメディアファクトリーあたりがたぶん絡んで小松左京さんの作品のアニメ化を1本検討中で、その話がパーティーの席上飛び出してSFな人たちの頭にさまざまな期待と憶測を巻き起こす。監督は富野由悠紀さん(写真=左の輝いている人、右は平谷さん)、確か「SFセミナー」でも角川春樹さんが富野さんに何かアニメを作ってもらうってことをを言っていたなーと記憶している人もいるでしょー。問題はそのタイトル。何とあの小松左京さんの「果てしなき流れの果てに」をアニメ化するんだっゆーから吃驚仰天。ほかに山ほどの作品がある中で、よりによって「果てしなき……」とは。

 たとえば「エスパイ」だったらヒーロー物で「日本沈没」だったらスペクタクルな作品として映像にしやしし事実なっているけれど、「果てしなき……」の場合、あの言葉によって綴られた壮大な宇宙のイメージをどうやって「セリフ」と「絵」で見せるのか。時間なんかが入り組んだ話ってよほどうまくシナリオを作らないと見ている人が混乱してしまう可能性が高く、思弁的な内容もなかなか映像には乗りにくい。肝心要のシナリオが今のところはまだ出来てなさそーで、判断のしようがないだけに期待以上の不安もふくらむけれど、富野さんが手がける以上はそれなりにしっかりとした哲学を通しつつもエンターテインメントとしてまとめて来てくれる、だろーと期待したい、けど、さてはて。話半分で消えてしまうアニメ化話が多い中で、ここは最後までちゃんと完成させて、21世紀の映画ファンSFファン小松ファンに「小松作品映画に傑作なし」なんてことを言われないよー頑張って下さい。お願いします富野さん角川さん香山さん。


【9月28日】 「アニメと漫画とゲームこそが、日本が世界に誇れる文化です」なんてマニアたちにとっては自明だったことを、最近になってお役人とかが盛んに言い立てるよーになって、ようやく分かったかと悦に入りたくなる一方で、果たしてそーゆーお役人たちが果たしてどこまで本気に「アニメと漫画とゲームは日本の文化」なんだと考えているのか、時々悩むことがある。文化と自慢し財産だと認めるならばそれらを育て広めていく方向へと走るのが当然なんだけど、現実には「アニメと漫画とゲーム」を心底から日本の宝と純粋に育成するよーな施策に、実はあまりお目にかかったことがない。

 アニメと漫画を表彰する「文化庁メディア芸術祭」ってのがあるじゃない、と指摘されればなるほど確かにごもっともで、受賞の対象にはれっきとした漫画も、アニメも含まれていて授賞式では文部省の偉い人の手から漫画家に、アニメ監督に、ゲームクリエーターに賞状が手渡される場面は何度も見た。けれどもだったら、それが現場において次につながるよーな活力なり、資金なりを発生させているかとゆーと難しい。例えば今年の春に開催された「メディア芸術祭」で関連企画として実施されたのは、アニメや漫画やゲームに出てくる「ロボット」を切り口にして日本における「ロボット文化」の受容をアートとか技術とかいった分野に広げて考察したよーな展覧会で、「ロボットアニメ」「ロボット漫画」「ロボットゲーム」といったものが持つ価値なりパワーそのものを考えさせるものではあんまりなかった。

 来年に開かれる同様の企画展では、「キャラクター」とゆーキーワードを軸にした作品が展示されることになっているけれど、キュレーションが美術評論の人だけあって前回同様に「アートにおけるキャラクターの受容」なり、「ルパン3世トリビュート映像の上映」といった周縁部分成りアレンジ部分の展示が中心になるみたいで、なるほどそーゆーものへと影響を与えたアニメなり漫画なりゲームのキャラクターが持つポテンシャルの高さは分かるけど、アニメや漫画やゲームの文脈に登場し、背景に膨大な物語を持つが故にカッコ良いキャラクターを素のままで見せるんじゃなく、「アート」なり「文化庁」なりといった「権威」といったフィルターを通して「カッコ良いものなのだよ」と見せているよーな感じがして、どこかに釈然としない気持ちが残る。

 リスペクトとかトリビュートってスタンスにはもちろん含むところはないけれど、そーしたスタンスしかないってのはちょっと居心地がよろしくない。キャラクターを生み出す根っこの部分から目線をはずしてエッセンスを抽出して上澄みを掬って「すごいだろう」と言うことがオシャレだし正しいんだと想う態度からは、世界を感嘆させるよーなキャラクターは生まれてこないよーな気がする。原田大三郎さんが作るとかゆー「ルパン3世」の名場面をつないで音楽をつけた「トリビュート映像」は、多分カッコ良いものになるんだろーけれど、それがカッコ良いのは「ルパン3世」とゆーカッコ良いキャラが根っこにあったからであって、トリビュートされた映像からは絶対に「カッコ良いルパン3世」は生まれてこない。上澄み掬い屋なかりなるのを恐れるのはそんな理由から。

 もちろんカッコ良い上澄みをなめて原典へと立ち返る有意の人間が出てこない訳じゃないからトリビュートやリスペクトも決して悪いことじゃないけれど、ことさらに結果だけをアピールするのはやっぱり本末転倒のよーな気がしないでもない。文化庁のイベントの仕切りは確かに美術評論の伊東順二さんだけど、クリエーターのモンキーパンチさんも里中満知子さんも運営する委員に名前を連ねていることだし、払われる敬意なりを糧にしつつより新しいキャラクターを創出していくよーなスタンスを見せて欲しいし、他のクリエーターにも「権威」を利用しトリビュートなりリスペクトといった回路を利用して、アニメやゲームや漫画といった本質的な部分での向上発展を図っていって欲しい。でないと単なる政府の「わたしたち理解あるでしょ」的プロパガンダの先棒だけ勝がされてしまうことになっちゃうから。

 ここにも森総理に被害者が、ってことに果たしてなるのかそれともならないのか。創業以来エニックスの社長を務めて来た福嶋康博さんが10月1日づけて会長になるって人事が発表になって、会見場へと行って理由を聞いたら「あと5年以内に光ファイバーがつなごうと思えば全部の過程でつなげるよーな環境が確実に来るとわかって、そーゆー大容量超高速の通信インフラを使って展開するビジネスを考えることに専念する必要があった」ってことらしく、つまりは森総理の通信インフラに関する公約的な発言が、決断を後押ししたんだと言っていえなくもない。まあ決定したのは春だけど、「ドラゴンクエスト7」の発売時期のズレなんかもあって6月の株主総会では決定できなかったとゆーから、総理の責任ばかりって訳でもなさそーだけど。いずれいしたって代表取締役会長兼最高経営責任者ってタイトルの福嶋さんが新社長の本多圭司さんの上に君臨し続ける状況に変化は亡いわけだし、エニックス自体が大きく変わるってことはないでしょー。ゲーム業界の団体役員人事は五月蝿型の福嶋さんの進退も含めて一波乱ありそー。

 「第5回スニーカー大賞奨励賞」を受賞した「上を向こうよ 格闘少女スズ」(白石かおる、角川スニーカー文庫、600円)を読んで無く。スラム育ちで貧乏だけど格闘技に才能があって大会に出て一旗挙げたいと思っている娘がいて、そんな娘に決して裕福でない家族が「目のとびでるような」お金を作って娘に木製だけど大きな斧を武器として買ってやったものの、1回戦で後に最強と呼ばれる格闘少女と対戦してしまって斧はへしおられ(木だもんなあ)、かつ出身地がスラムだからと直せば使える斧も捨てられてしまい、家に返れず涙をこらえて公園でひとりブランコをゆすっているとゆー冒頭のシチュエーションに、貧乏じゃなかたけど欲しいものはあんまり買ってもらえなかった身として、実に心からジンジンと沸き立つものがあって、染み出る涙に思わず下を向いてしまう。つれえよなあ。

 それでも頑張った娘がコンプレックスをはねのけ、上を向いて前に進めるよーになるまでを、友人たちの素晴らしい友情なんかをはさみつつ描くストーリー。反発したいと思っても虐められ続けた性分からどこか卑屈になっていて、けれども頑張ろー父親の期待に答えよーと思う健気さ純粋さを捨てない娘の心理の動きとか、格闘シーンの一撃必殺的な凄みとか読み所も多くって、そんな物語にシンミリしつつジンワリしつつ途中に怒りが吹き上がり、最後に喝采を送りたくなること必定。はいあがることに懸命過ぎて、スずっとスラムに居続けても卑屈にならず屈託もなく毎日を生きている娘の両親たちとゆー良い実例がありながら、スラムに居るから差別されるんだとゆーテーマを訴え過ぎることで、かえってスラムに居続けざるを得ない他の人々への差別にもなっているよーなのが気持ちにちょっとひっかかる。悪平等に逃げないのは良いけれど、どこかにスラムの良さ(それがないから出たいとゆー力の源になるのかもしれないけれど)も伺わせるよーなエピソードを、もしも次があるなら入れ込んでもらえると嬉しいかも。


【9月27日】 「猿はあけぼの」の執筆で大変なのか最近あんまり更新のない田中哲弥さんの日記だったりするけれど、そのただでさえ電波に浸食されまくった饒舌にして過剰な文章が、ここん家のフィルターを通すとなおいっそうの電波はいりまくりになって既に読み終えて新しいものが読めないとお嘆きな人でも2倍が2乗になった感さえある迫力の日記を楽しめます。本家デンパな牧野集さんではまだ試してないけどどーなんだろー。ごくごくフツーの日記からして爆裂のデンパ日記に変えてしまうくらいだから、こちらは2乗どころか4乗いや16乗の迫力でももって読む人の脳髄をトコロテンにしてくれるかもしれない。書評系の文章なんかも通すとなかなかに凶悪な文章になって面白い。上っ面では褒めているよーでも心の奥底にはる本当は批判したいってな気持ちを案外とむき出しにしてくれているのかも。これからはいったん、ここを通してから日記も書評もアップしよーかなー。

 OVAはすでに3巻の「マルラバ」までが発売されて、ニナモリのブルマ姿に全国2000万人のニナモリファンの心をトロトロにしてしまった「フリクリ」だけど、脚本家がそのまま担当したノベライズ版の第2巻「フリクリ 2」(榎戸洋司、角川書店、400円)は、ほぼ本編どーりに展開した「マルラバ」に続いて第4話の予告編では野球ばかりやってる映像が入っていた(しか入っていなかった)第4話の「フリキリ」が、おそらくは完璧に再録されているから現時点で未発売のタイトルってこともあって先行きのセンス・オブ・ワンダーぶりを楽しみたい人は買っても読まない方がいいかも。ギミックやガジェットのセンス・オブ・ワンダーよりも物語の奥深さに重点を置いて成果物であるところの番組をなめるよーに見る人でも、さすがにハルハラ・ハル子の正体はビデオで確認したかっただろーから、よほどの精神力を持つ人か物語に興味のない人以外は「そんな小説、買っちゃダメー」と言っておこう。しかしそーだったのはハルハラ・ハル子さんは。マジで5巻、6巻の解決への早期以降を願いたい。

 他を圧倒する力を持ちながらも理由があって封じ込められている少女が、過酷な運命と引き替えに爆発するってな設定が醸し出す、どこかで聞いたり読んだりしたことがありそーだけれど、それだけ大勢の関心を惹き付けてやまない魅力にあふれた小説が登場。渡邊裕多郎さんって人の新刊「紅伝説」(朝日ソノラマ、580円)は、妖怪変化を屈服させながら東京の治安を護って来た退魔の一族「破礼門」の総帥の一人娘でありながら、死んだ父親によって魔物をいっさい殺せないよう封印をほどこされていた少女、乱麗を主人公の葛藤と覚醒の物語が、復活しようとする強大無比な敵との激しいバトルを通じて描き出される。スピード感があり重量感にあふれ肉と肉とがぶつかりあう音まで聞こえて来るよーな緻密なバトルシーンの描写と、魔物たちの社会が人間社会とも重なり合い時には反発しあいながら時を刻んで来た中で、人間社会を護るために様々な退魔の一族が勃興して来たとゆー設定の強さがとても新鋭とは思えない。

 ってことで記憶を頼りに調べたらこの渡邊さん、字面はともかく同じ名前で前に「ヴァンパイア・ガーディアン」(小学館、543円)って本を書いていたことが判明、当時から妖怪変化が人間社会と折り重なって生きている社会に興味があって、「紅伝説」も同じ指向の延長線上に心機一転巻き返しの意味も含めて書かれたものなんだろーってことが分かって来る。あとがきの「いままで小説を書かせてもらってたところで本がだせなくなってしまった」とゆー言葉は、傍目には爆発的にマーケットを拡大して本棚を占領しつつあるよーに見えるヤングアダルトが、決して一筋縄ではいかないくらいに厳しい土台の上にあるってことを示していて、そんな中で売り込みにいそしみ執筆の機会を得てしっかり本も出して来る作者には、やはりそれなりの力量があったんだろーと類推する。事実それだけの中身があったしね。

 敵を倒すためにはあらゆることにタブーをもたない「破礼門」の、たとえば魔物ではなく同じく東京を護るために組織された別の一族とプライドをかけて戦う場面の身も蓋もない戦いぶりが、笑えるけれども理にかなっていたりして驚きつつも関心。人質をとろうとしたり丸腰の相手に拳銃をぶっぱなしたり明かりを消して皆殺しにしたりと、フェアなんて人間の半ば傲慢さが生み出した態度の対極を行く行動パターンにはちょっと惹かれる、ほら人間ってどこまでいっても綺麗好きでいい子ぶりっこしたいものだから。主人公の乱麗にもそんな「いい子ぶりっこ」をさせたい親の欲目が働いていたのかと思いきや、明される理由がまた身も蓋もなく残酷で、けれどもそんな残酷さを内面の激しい葛藤は脇において、諾々と理解し軽々と越えているよーにふるまう主人公の強さにも憧れる。薄いよーに見えて充実し、軽いよーに見えて重たい1冊。その面白さに(前のだって面白かったけど)今度はファンレターいっぱい届くでしょう。


【9月26日】 たぶん不幸な運命の果てにたどりついた立場なんだろーと想像した「森の魔女たち」(松本花、新書館、520円)に登場してくる魔女たちの正体は、1巻の桃と梅の生い立ちに続いて待望の発売なった2巻でいよいよ桜についても明らかになって、その哀しくも優しい生い立ちにしばし呆然とする。魔法を使えて日々を楽しく生きている魔女たちも、そこに至るまでに乗り越えて来た哀しみたりやいかばかりか。そんな記憶と経験があるからこそ、初めて口紅をつけて好きな男の子の前に立った時に、無神経にも「ジャムついてる、口に」と言われて泣き出した女の子に向かって、「好きじゃないならそんな風に傷ついたりしないものよ」と言って気持ちを軽くしてあげられるんだろー。とゆーことは作者の松本花さんは経験豊富な魔女ってことになるのかな。体はアレでも梅ちゃん相変わらずかーいー。巻末のおまけ漫画の「終わりの日」はちょっと怖い。これでとりあえず完結みたいでちょっと残念だけど、少ない巻数ながらも広がりのある物語を見せてくれた「森の魔女」たちに有り難うと感謝。でもって気がむいたらいつかまた続きを書いてと切望。

 「想いはかたちになる」。そんなパンフレットの言葉を読んだ時、これは作品にかける「想い」がよーやく実ってフィルムになり、放映が決まったことを指し示した言葉なんだと思ったくらいに、雨宮慶太さんの久々の作品「鉄甲機ミカヅキ」が企画から完成へと至る過程には長い時間がかかった。その間にくぐりぬけた困難もきっと数多かったろーけれど、10月22日の「序夜」を手始めにフジテレビでの放映が決定して、本日その発表記者会見が開催されるってんでお台場のフジテレビへと乗り込む。マルチシアターでは「製作総指揮」なんてまるでガメラでの徳間康快さんみたいな立場にあるメディアファクトリーの人とか玩具を出すタカラの人とかがいたんで挨拶、まずの作品の完成をお祝いしつつも何せ「こんなもんつくるな」と登場人物に言わせてしまった(別に作品に向かって言わせた訳じゃないけれど)「タオの月」の雨宮さん、本編のストーリーと見ないことには両手で万歳は早いんで、舞台で続く監督キャストの撮影の間も気持ちは次に始まる試写の方へと向かう。

 「父性がテーマ」と雨宮さんが言ったことばに出演者たちの役柄そしてメイキング映像なんかで少しピンと来たことがあたけれど、それも本編を見てから。ってことでいよいよスタートした「今世紀最後のSF特撮スペクタクル」にして「新世紀最初のヒーロー」こと「鉄甲機ミカズキ」を見る、見た、凄かった。何が凄いってまず特撮が凄い。「テレビでガメラやっちゃって」とカヤマさんが始まる前に言ってたように、念入りに作られた街並みを巨大なロボットがベリベリと踏み潰していく場面の容赦なさといい、合成されたCG部分のセットとのマッチングの良さといい、ほとんど映画と言っても良いほど高い品質迫力の画面を見せてくれる。かかっている費用だってちょっとした映画並みってことらしく、そんな大盤振舞も含めてまさしく監督の、キャストの、スタッフの「想いがかたちにな」った作品と言えるみたい。

 さて物語。山奥の遺跡に発掘に向かった調査隊が行方不明となって数年。東京に突如あらわれた巨大怪物を戦うはアカマツ工業の社長動かす覚醒人、じゃなかったあけぼの重工の女子高生社長・火野あかね動かす巨大ロボット月光機。ホットパンツ(死語?)姿で太股をむき出しにしてかけごえもいさましく力いっぱい鉄人を、じゃない月光機を操縦しては怪物に挑みかかる途中、あかねが逃げ遅れていたところを拾い上げた子供こそが、かつて山奥の遺跡で行方不明になった岩動哲郎の息子・風雄だった。果敢に挑むあかねと月光機だったが、怪物によってからめ取られ瀕死の状態。やがて風雄を命の危険が襲った時、彼方よりあらわれたベターマン、じゃなかった巨大ロボットがどこからともなく現れて3姉妹の、じゃなかった風雄の命を救ったのであった。

 ってな具合に、どこか「ネオランガ」だったり「ジャイアントロボ」だったり「巨神ゴーグ」だったりするけれど、「スパロボ系」もしくは「リアルロボット系」と並ぶメジャーな「遺跡ロボット系」では定番の展開だから、それだけ感動の入れ物として十分の大きさを備えているといえそー。プラス進化の問題とか超人の問題もからめた「ベターマン」的な奥深いテーマも絡めてあって、ロボット好きにはロボットバトル、哲学好きには人間存在の意味なんかを教えてくれる、懐の深い作品に仕上がっている。そしてなにより虐められっ子だった少年が、自らの内部に眠る能力に対して若干の怯えを抱き葛藤している姿からは、前向きに、心たくましく生きるんだってな子供へのメッセージが聞こえてくる。ついでに「逃げちゃだめだ逃げちゃだめた逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」ってなセリフも聞こえて来たよーな気がしたけれど、これは幻聴。ただし画面では伸ばした両腕で動かないロボットをゲシゲシとやる使徒、じゃなくって怪物の姿がありました。これってデ・ジャ・ヴュ?

 テンポのよいカットのつなぎに怒涛のようなエピソードが初回80分の長丁場を全然飽きさせず、雨宮作品には欠かせない螢雪次郎さんも含めた3人が変身するパワーレンジャーもどきな変身ヒーローの殺陣のスピード感やデジタル時代の「キョーダイン」っぽく顔の前に現れる顔を映し出すスクリーンのよーなギミックなども楽しめる。小学生の美少女たちやあかね社長の太股もむっちりなローアングルからの奮闘姿とビューポイントも多々あって、どこから切っても楽しみ所が満載な上に、前述したいよーな迫力の特撮迫真のドラマが加わって、たとえ「ベターマン」が「ネオランガ」で「エヴァンゲリオン」だとしても、存分以上に楽しめる映像作品に仕上がっている。怪物の姿は「D」のチキン怪獣に並ぶ奇天烈さかも。第2夜以降が楽しみです。

 巨大なロボットが中へと浮かび地面に降り立った瞬間の衝撃のすさまじさを表現した、これでもかこれでもかこれでもかってな具合の特殊効果は実写ならではの迫力を見せてくれるし、組み合わされたCGの怪物たちも、「タオの月」のマカラガからは大きく進歩して、画面の中への溶け込み度合いを高めてあんまり違和感を感じさせない。杉本哲太さん高岡早紀さんに「櫻の園」の白島靖代さんに元セラムンの原史奈さん「タオ月」以来の吉野紗香さんに背水の陣の高知東生さんと役者陣もまずまず。繰り広げられる物語にも紆余曲折の果ての感動が予想される今、10月22日の午後4時を手始めに月イチ全6回で繰り広げられる「ミカヅキ」は確実に世紀末を彩り新世紀を飾る作品になるだろー。特撮ファンは刮目して待て。フトモモフェチはビデオのセットを忘れるな。


【9月25日】 ゴメンよ僕のところは1冊写真集で1冊はライトなミステリーでもう1冊はルポ的エッセイな周防正行さんの「スタジアムへ行こう」(角川書店)だったよ、弁当箱2つ分はあるノンフィクションはなかったよ、と誰に向けるでもない独白をしつつ課題図書の「スタジアムへ行こう」をペラペラ、つまりはスポーツは現場を踏めってことですね。もちろんテレビなんかでスポーツを観戦する楽しみはあって、それは例えば前に「東京ドーム」で開かれた小川直也と橋本真也のバトルを見た時に思ったよーに、アリーナでもないスタンド席の中段からでは選手なんてまるで豆粒、格闘技系のプロレスにある細かな技の応酬どころか大技に至る組み合いすらもよく見えないのに比べると、テレビだったら選手の体が画面いっぱいに映し出されて何が今どんな具合に行われているのかが良く分かるってなことに現れている。

 けれども一方で、松阪がイチローに投げてイチローが打った時にテレビが写すのは投げる松坂のフォームに打つイチローの姿、でもって憮然とする松坂だったり1塁上で手袋を外すクールなイチローの姿であって、打った瞬間に守備陣がボールに飛びつき誰かがベースカバーに入るってな守っている9人のシステマチックな動きについては、目には全然入らない。野球ってゆースポーツが決してピッチャーとバッターだけでプレイされている訳じゃないことを、日本のテレビのフレームではたぶん絶対に伝えられない。それはスタジアムでしか触れることができない。サッカーにしたって点と点を結ぶ視点じゃなく、面として選手が動き敵陣へと攻め込む流れの鮮やかさはグランウンドを俯瞰して始めて得られる情報だろう。プラス現場でしか味わえないリアルタイムで同時代的な感慨も含めて、スタジアムでのスポーツ観戦の醍醐味を内からにじみ出る感動で綴った楽しくなる1冊。読むとまさしく「スタジアムに行」きたくなる。渡り鳥な花田紀凱編集長を迎えての今は亡き「メンズウォーカー」も良い仕事をしました。新天地を求めた渡邊直樹編集長を迎えた中央公論新社はさてはてどんな「良い仕事」を見せてくれますか。

 さらに課題図書の佐藤正午さん描く「ジャンプ」(光文社、1700円)を読む。付き合っていた彼女が夜、コンビニに林檎を買いに行くからといって走り去り、彼は一足先に彼女の部屋へといってそのままバタン。起きても彼女の姿はなく、それでも心配せずに直接会社の仕事で出張へと出かけて戻って来たものの彼女は部屋には戻っておらず、そうこうしているうちに1週間が過ぎて失踪してしまった可能性が強まって来る。事件に巻き込まれでもしたんだろーか。別に男性でも出来たんだろーか。男が彼女の行方を探し求めてから5年、ようやくにしてたどり着いた真実は何とゆーか偶然と必然の重なり合うものだった。ってな話は言われてみればなるほどあるあるってな理由だったりするけれど、真相へと至る道筋の長さを考えると男がいかに身勝手で、自分中心だってことがよく分かって読む人によっては背筋をカミソリでさっくりやられる気分を味わうこと必定。種明かしをせずに一言忠告するなら「愛は真剣に」。目はどこにあるか分かんないからねー。

 前にNHKの教育テレビだかで見たアドルフ・ヒトラーに使えた人々を取りあげたドキュメンタリーでも名前が上がっていた建築家のアルベルト・シュペーアの生涯を描いた半ば評伝、半ば小説な東秀紀さんの「ヒトラーの建築家」(NHK出版、1700円)を買って読む。浩紀とは一字違いの筆者は歴史小説なんかで知られた人だけど、専門が建築だけあってドイツ第三帝国の威容と神々しさを世界に見せつけた「ニュルンベルグ党大会」の会場を担当して一世を風靡し、後に軍需大臣となって生産性向上なんかを果たしながらもヒトラーからは遠ざけられ、かといって憎まれ放逐されることもなく、「ヒトラーの友人」としての地位を最後まで保ち得た建築家、シュペーアの喚起と絶望の日々を端的に掬い挙げている。

 アドルフ・アイヒマンの凡庸ゆえにナチスドイツの方針を諾々を受け入れユダヤ人たちを滅亡の縁へと追いやった生涯とは違って、教養もありもともとは芸術の分野からヒトラーに認められ芸術家に憧れたヒトラーの側近となってはみたものの、ドイツの街をすべて破壊し焦土にしてしまう作戦には反対したり、かといって裁判では大臣就任以後については共同責任を自覚して刑に服する素直さは、ある意味「真っ当な」人間がナチスドイツにもいたってことを読む人に感じさせる。ただしあくまでも「小説」だから、実在の人物との関わりにしても具体的なエピソードにしてもどこまでは真実でどこからが創作なのかは不明。それでも立ち登る「芸術」の完成に向けて進んだ人間の悲劇的に狂気的な振る舞いへの自己批判の姿は、体面ばかりを重じることなく、反省したり勇気ある撤退をすることを、日本ももっと尊ぶべきってなメッセージを投げかける。

 アートはアートとして何物からも中立であるべきなのか、それとも時代の波に洗われてしまったアートはすでにアートではなく、時代と結託してプロパガンダ的な役目を果たすスイッチでしかないのか。世界が混沌としキナ臭さも漂い始めたニッポンで、アートが果たす役割なり、アートが追うべき責任なんかを考えさせる本だろー。この本によって読者はあの悲惨な第二次世界大戦の時代に、ヒトラーやゲーリングやゲッベルスやヒムラーばかりでなく、シュペーアなるある意味善良で正直な男がいたことを思いだ出し、芸術とは何かを考えどこまでの発想の飛躍だったら許容される範囲なのかを探りつつ、規制や偏見といった従来からあるネガティブなエネルギーを湛えた目を、読む人には押し広げていってもらいたい。もちろん現実にある似たよーな危機でも同様なエネルギーの発露を希望したい。


【9月24日】 去年の「日本SF新人賞」で佳作に入った杉本蓮さんの「KI.DO.U」(徳間書店、72円)を読む、これって別に鬼道って意味じゃないよなあ、なんてことをあらすじ紹介見ながら考えて、本編へと入っておそらくは「起動」じゃないかと思うに至る。何かの意味でもかけてあればアルファベットにしても意味があるけど、まんま直しただけだとすればあんまり読み心を誘うタイトルじゃないかも。表紙の方はと言えば森脇末味さんなんて有名人を起用していて美少年が得体野しれない兄ちゃんと抱き合っているホワイトハート若しくはコバルトなんかにありそうなイラストで、あるいは耽美なんだろーか、だったら「鬼道」よりは「衆道」だよなあ、なんてことを考えながら本編へ。うーん確かに「男たちの愛」はあるけどちょっと耽美とは違うかも、むしろ何と言いうか近親相姦に近いかも、それもちょっと入り組んだ。

 そんな小説のどこが「日本SF新人賞」なんだと言えば、詳しくは解説の大まり小真理こと大原まり子さん&小谷真理さんの解説が答えてくれていると思うけど、さらりと触れるなら死んだ筈の父親から届いたメールの内容に従って娘が指定された店に行って凍結してあったヒューマン型コンピュータ、俗称「モバイル」を解凍したとたんに敵がワンサと襲って来る。ところが見かけはやさ男でも優れた運動能力を持っていたヒューマン型コンピュータが敵をすべて皆殺し。娘を連れて脱出し、ともに謎めいた父親からのメールの秘密を解く旅路に出るとゆー展開が「SF」ってことらしい。

 とはいえレプリカントの数年で死に至る自らの運命に対する慟哭が耳に痛く目に熱かった「ブレードランナー」なんかに比べると、寿命が決められているとゆー「モバイル」が妙に死にも生みの親に対してもあっけらかんとしていて、かといって麻城ゆう&道原かつみの「ジョーカー」シリーズの特捜司法官ほどには生まれて来た以上は人類の為に貢献するんだってな使命感もない、やんちゃで我侭で愛情に飢えてるまるで人間っぽさがいっぱいの存在になっていて、テクノロジーが生み出した悲劇的な存在とゆー感じも、本質的には人間ながら差別される存在とゆー感じもなく、切迫した空気が読んでいてあんまり伝わってこなかった。

 相手が強いなら最初からそれなりの準備をしてかかれば良いものを、莫迦の一つ覚えみたいに向かっていってはやられる人たちとかがいて段取りぶりが目につくし、謎が一つひとつ解かれていく過程もフラグを立てて行く感じがあって「読まされている」印象を受ける。何物かと引き替えになる「最後の言葉」へと至る道筋も、迷いや葛藤の心理戦に矛盾の中で生きている人間の莫迦さ加減を見せることなく、スンナリと通ってしまっているのがちょっとあっさりし過ぎかも。とはいえそこは佳作になる作品だけあって、一気呵成に読ませる展開力とか、愛情とか葛藤とかいった部分での読ませどころもあるから投げられないところ。口は悪くて乱暴だけど芯は優しい「モバイル」のキャラに関心を注ぐことだって可能だし、いろいろな切り口から身に入れて咀嚼して行けば、結構楽しめそうな小説だ、と日記には書いて置こう。

 思い出した「東京ゲームショウ2000秋」の初日に開かれた香山リカさんや飯田和敏さんが出席して「ゲームの影響について考える」とゆータイトルのシンポジウムで、挨拶に立ったゲーム会社の人から、最近のゲームはCGがリアルになっている分、見る人にあたえるインパクトも強いってことで体の一部を欠損させるよーな表現にはダメが出るって話が出て、もちろん小指がまな板の上で一刀両断されてしまう職業の人が出てくるよーなゲームは人倫にもとりそーな気がするからリテイクが出ても仕方がないとして、例えば斎藤美奈子さん分析する売れる要素であるところの「下から見上げ上から見下ろす2つの視点」でもって、元極妻今弁護士な女性より先に日本中でブームとなった五体が不満足な人が登場して何かしてくれゲームってのは、やっぱり難しいんだろーかと考える。

 当人が「不自由じゃなく不満足」なんだとむしろ誇っているよーな状況を、果たして杓子定規に規制してしまうことが政治的には正しくても倫理的に果たして正しい行いなんだろーかと思うけど、五体が不満足な人が出てくるゲームが果たして面白いのかってあたりが基本的に問題になるだろーから、あるいはビジュアルノベル的なものになって、マルチメディア化が進んでいる礼の本を映像とナレーションでもってDVD−ROMだかGD−ROMだかに収録して、家庭に普及しているゲーム機で見られるようにしようってな話があった時にはじめて、欠損の問題がクローズアップされて来るんだろー、まずないだろーけど。ところで柳生十兵衛ってのはゲーム内で再現可能なんだろうか。もっと直接的に丹下左膳はいけないんだろうか。フック船長は。エイハブ船長は。水木しげるさんは。「スリーズ・ホロウ」の首無し騎士は……人間じゃないから良いのか。だったらブロッケン伯爵は(しつこいって)。

 で「東京ゲームショウ2000秋」最終日。出展者が減ってしまって入場者数に影響が出る可能性なんかを聞いてみた時、コナミ上月景正社長から「一般公開日を見てから書いてくれよ」と言われたし、やっぱり現場を踏んでこその「じゃあなりすと」。オリンピックの女子マラソンの結果を見極めてたんで朝もちょっと過ぎたけれど、それでも午前の11時には会場に到着して物販のある1ホールからキッズコーナーのある8ホールまでをざっと散策、正直予想をしてなかったくらいの入場者数でゲーム業界に詳しい人が「セガはでない」「スクェアも出ない」と言って影響をあれやこれや予想してみたところで、ごくごく普通のゲームで遊ぶ人たちにとって、「ゲームショウに行く」ことが第一の目的であって、決してセガの何かを見に行く訳でもスクウェアの何かを見に行く訳でもなかったことを知らされる。まあスクウェアはともかく現時点において「セガの何かを是非みたい」とゆー人が「ゲームショウ」の体勢を決するだけの人数、いるのかってところもあるけれど。

 ただし現場に来てはじめて「スクウェア出てないの」と気づいた人もいるそーで、そーゆー人が「だったら次は行かない」と言い出す可能性もあったりするから今回1回だけを見て影響を云々するのは早計かも。あるいはバンダイのブースの一角で「ワンダースワンカラー」に対応する「ファイナルファンタジー」を展示して、配る袋にも「ファイナルファンタジー」のロゴを入れて「なんだスクウェア出てるじゃん」と思わせるよーな仕掛けもあったから、大きな影響はやっぱり出ないのかもしれない。それにしてもバンダイブースの中にあった「FF」をデモってたコーナーにいたコンパニオンの女性たち、通路の方をキッと見据えて一列に並んでニコリともしなかったけどなんでだろう、やっぱり”トクベツ”なソフトだから「さあ遊ぶがよい」とばかりに態度もラフィール入ってたんだろーか。ホント怖い顔ばっかりだったんだよなあ、カメラ向けると睨むしさ。

 昨日今日あたりの朝の様子を聞くと、前回まであんまり機能していなかった「キッズコーナー」からの入場が今回はそれなりに告知もうまくいってそれなりの行列が出来ていたそーで、胸にシールを貼った家族とかを結構みかる。会場への入口が分けてあったり案内している人が親子連れにはキッズコーナーがあることを告知していたりと、運営面での改善も効いたんだろー。コーナー自体はコナミが通路を挟んでドババババっと試遊台を並べる大盤振る舞いを見せていて、費用もかかるだろうし「会長会社で実行委員長会社のコナミさんだから」と嫌味にやっかみもあるだろうけれど、遊ぶ子供にとっては大人の事情なんてまったく関係ない訳で、「DDR」があって「遊戯王」もあって楽しませてくれるってことで、それなりな好感触を抱いたんではなかろーか。こーゆーことをするから例え「BB弾」が「ホワイトベース」なコナミでも、むげに非難は出来ないんだよなあ、うまいなあ、大人だなあ、大人過ぎるなあ。

 キッズコーナーにも出ていたブロッコリーのブースに1ホールの本家から避難して来たのかキッズコーナーでの「デ・ジ・キャラット」3人娘の着ぐるみの評判を確かめたかったのか社長の人がいたんで挨拶。キャラクターグッズを扱っている会社らしく「ワンダーフェスティバル」の動向が気になっていたみたいなんでとりあえず明日発売の「モデルグラフィックス」に出ている海洋 堂の人へのインタビューを読むように勧めておく。とは言えキャラクタービジネスを「ビジネス」として確立していく仕事で頑張って来た人だけに、「ワンフェス」を仕切る海洋堂がどちらかと言えば「営利」よりも「理念」を先行させようとして、結果としてふくらんでしまった状況との間に祖語が生じてしまった状況を、果たして理解してもらえるんだろうかとゆー心配はある。

 例えばブロッコリーでも良いし、「JAF−CON」のホビージャパンでも「電撃ホビーマガジン」を出してて最近は「トイズワークス」ってグッズの会社も作ったのメディアワークスでも良い。「東京キャラクターショー」を開催しているニッポン放送や角川書店でも良いから、費用と効果を重んじる「企業」がリーダーシップを取って、参加規定を明文化して違反者にはペナルティも辞さない厳しい面を打ち出す一方で、当日版権にしても運営にしても出展者の希望を極力入れるよーな施策でもってガレージキットのような立体物のイベントを開いた時、スーパーでスペシャルな物を見てもらってスゲエと言わせるんだとゆー「ワンフェス」の「理念」に集っていた人たちと、大勢の人が集まって好きなキャラクターやメカの話とかに花を咲かせることができる「ワンフェス」の「場」を愛していた人たちの双方が、それでもオッケーと参加してくれるんだろーかどーだろーか。

 どっちでもなく単なる参加者にした過ぎない自分にはいまひとつ分からないけれど、大勢の人がいてすげえ作品がある場が他にないんだったらやっぱり行ってしまうだろー。少なくとも冬の「ワンフェス」はなさそーな状況だし、減り続ける参加企業の動向とか、時期的に旬な新製品が出てこない事情とかを勘案すると、「ゲームショウ」だって来春の開催が飛ぶ可能性も皆無じゃない。となれば、冬から春にかけてのイベントとして1つ、代わりになるよーなのがあれば「出没屋」としても嬉しいんだけど。「夏フェス」の開催が例年どおり8月に開催されるんだとしたら3月あたりってのは両方を狙うディーラーさんにとってはどうなんだろう、無理なんだろうか。どっちにしてもどこが関わるにしても、何かあるなら年内には時期にアナウンスがあるんだろうから、目を皿にしてモケイな業界の動向を観察して行こー。


【9月23日】 自分では太陽のように輝いているように思っていても、実は月のように別の光によって輝かされていたりするケースはよくあることで、自分はスターなんだから自ら輝いているんだと過信すると、いつの間にか光があたらなくなっていることがある。もちろん、希に本当に内部から光があふれている人もいるけれど、恒星のような100億年の寿命なんてない所詮は人間、何年か過ぎれば光の元になっていたエネルギーは尽きてしまう。むしろ自分は月なんだってことを自覚して、月のよーに他からの光を吸収し跳ね返しつつ、輝く太陽に見せかけるくらいのしたたかがあってこそ、スターとして長く輝いていられるものなんだろー。ってなことを、とかく自分は太陽なんだと思いたがる映画業界に巣くう人々をテーマにした桐野夏生さんの「光源」(文芸春秋、1619円)なんかを読みながら考える。

 一流の腕を持ちながら現在は仕事にあぶれている撮影監督のところに、昔付き合っていた女性で今は老映画監督の妻になっていた女性プロデューサーから仕事が舞い込む。大学の映研から出てきた新人監督の初作品に参加してくれとの内容で、現場には彼女の仕事がきっかけになって一流の仲間入りを果たした男優と、アイドルあがりの女優が集められる。しかし自分の才能を信じ感性に正直な素人監督にとって、プロの経験からサポートしたり助言する撮影監督は自分を小馬鹿にする存在にしか見えないし、ようやく一流の仲間入りをした男優からすれば、監督の思いつきによる演出プランや、女性プロデューサーの起死回生への思惑によって無理な演技を強いられて、自分の築き上げて来たものを壊されるのはたまらない。アイドルから女優から映画製作者へと向かいたい女優の思惑も入り込んで、自分は太陽だ、輝いているんだと思いこんでいる人たちの放つ熱い光が撮影現場で乱反射する。

 穏やかに滑り出した撮影が、プライドとか、思いこみとか嫉妬とかいった自分を太陽だと思い込みたい人間につきまとう心理によって混沌へと進んでく場面の人間心理の描写はなかなか。最終的に輝き煌めく人間ですら、実は別の要素によって仕事ではなくむしろ人生という舞台の上で輝かされていたんだと気づかされる展開に、太陽のような人間なんて存在せず、というかすべての人が太陽であり月であって輝き輝かされて生きているんだってことが浮かび上がる。過信するなかれ。かといって消沈も禁物で、そこいらあたりの塩梅をうまくこなしていくことが、世の中を明るく楽しく生きていくために必要なことなんだろー。映画化するとしたら男優の高見役は誰がちょうどあうんだろー、役所じゃ絶対にないしなあ。

 一概にさすがは発明の国にしてSFの国アメリカ、密かに開発していた人格交換装置をシドニー五輪サッカーの対日本戦とゆー大一番に間に合わせて来るとは、よほど国家的なプロジェクトとして取り組んでいたに違いない。だから今日の柳沢は中に高原が入っていて高原には柳沢が入っていたんだよ、でなければ2度はあったゴール前のどフリーを高原が外すはずはないし、中村のセンタリングを柳沢がポストとして落とさずいきなりヘディングするなんてことはない。途中にちゃんと高原だって点はとっているけれど、それはほら、中身が高原だと忘れてしまってマークをはずして柳沢に点をとられた反省で一時期装置を切ってしまったから中身も外見も高原がちゃんと点をとっただけのことで、高原を残して柳沢が引っ込められた瞬間にふたたび装置が働いて、高原に見えて実は柳沢がグラウンド内に残ってしまったとゆー訳。そう考えるとあの体たらくも納得が行く。

 いやまあ、そうとでも思わなければちょっとやりきれないほど残念だったってことだけど、そうは言っても流石にグループ1位で予選を勝ち上がって来たチームだけあって、サッカー「日本VSアメリカ」に登場して来たアメリカチームはシンプルにパスを回してサイドから切り崩してセンターに放り込む、オーソドックスで派手さはなくても堅実にして正直なプレーが終始崩れず、結果として得点を挙げファウルを誘ってPKをきっちりと決めて日本にちゃんと追いついて来る。楢崎じゃなかったら確実にもう何点か上乗せになっていただろーから、実は柳沢だった高原(まだ言ってる)が決めていても、やっぱり同点かあるいは負けていたかもしれない。アメリカのショルダーチャージや足のひっかけに審判が不思議を笛を吹かなかったけど、贔屓があったとしても前半で感じをつかんでボールを長くもたないよーにすれば良い訳で、なのに日本よりむしろアメリカの方がパスが回っていたよーに見えたくらいだから、苦戦も仕方がないってところだろー。メキシコを越えられずメキシコの遺産にしがみつく協会上層部をヘコませられなかったのが癪にさわるけど、決勝に出られて目標は1つクリアってところだろーからトルシェ監督とりあえずは安泰、次はアジアカップで頑張りましょう。


【9月22日】 博報堂から「広告9+10 ネットワーカー調書」(690円)届く。「2チャンネルというカオスモス」ってなメイン企画が示しているよーにネットに絡んだあれやこれやな話を取りあげつつ、「ネットアイドル」とか「モナー」とか「田口ランディ」ってなネット回りで起こる事々・ネット回りに集う方々を割と真面目にルポした記事が多く、非難めいたスタンスよりは現状報告とどーしてこーゆー人・物が成立するに至ったのかってな状況分析が中心で、普段あんまりそーゆー世界に接していなさそーな「広告」なんてマーケティングの雑誌を読んでる人にも、ネットの結構濃いところの雰囲気を伝える役割は果たしている。

 伊藤剛さんの「モナー」紹介記事を読んで「モナー」なるものが存在しているところまでは分かっても、流れていくスレッドの中に突然ポツンと「モナー」がその表情とはかけはなれて残酷だったり直裁的なコメントをっつけられて出てくる時にフッと浮かぶ気持ちの、時には躓きであったり時には引っかかりであったり時には息抜きだったりと、千差万別な雰囲気はやっぱり実際に流れるスレッドを追い続けなくっちゃ分からないんだろー。どーしてこのキャラで自主製作物の専門即売会が成立するのかってな背景を無視して、単純に「流行ってるんだね、だったらグッズに」とか考えそーないかにもマーケティングな人の意識に、さてはでどこまでフィットするか、でもってそこから何かを感じとってネットの気分に近づいて来てくれるのか。伊藤さんの投げたボールを電博はじめ世間にエスタブリッシュメントな方々には、「分からない」とよけるんじゃなくちゃんと受け止めて欲しいねえ。

 5年前。と言えば「広告」の竹熊健太郎さんによる「2ch」管理人のひろゆきさんへのインタビュー記事の下にある、「ネットコミュニケーション年表」なんかを見ると、ようやくインターネットい接続し始めた時期で、個人のホームページもぼつぼつと立ち上がりつつあったものの、企業でホームページなんて持っているところは皆無に近く、新聞で「どこそこってゆー会社がホームページを作った(作らせた)」とゆー話が、新聞のニュースになるくらいの時代だった。それがどうだろー、わざわざ5年を待つこともなく企業がホームページを持つのは当たり前、でもって肝心なのはそこで何をしているのかって所に関心が向くくらいに、世の中の状況も受け止める人の意識も大きく変革したし、実際問題ネットの技術もインフラも驚くべきスピードで進化している。5年前はパソコンにモデムなんて内蔵されてなくって、おまけに28800bpsだと「高速」っていわれてたんだよなあ。

 森喜朗首相が所信表明演説でITがどーしたってなことを言って新聞各紙がこぞって今朝の朝刊で感想を書いていたけれど、「5年」とゆー年限について期限を切ってやる気を見せたってな論調はあっても、5年なんてネットの世界では1世紀は大袈裟でもドッグイヤーに換算すれば楽に20年に及ぶ「長期間」をかけて、日本中に「超高速インターネット網」(超高速ってどのくらい? いまいちこの辺不明なんだよなー)を構築して世界一のネット環境を作り上げるんだって言っていることへの指摘はない。5年は先行している海外が「兎と亀」の兎さんよろしく日本が追い抜いていくのを寝て見過ごすよーな真似をするはずがないのに。

 だったら本当に5年で世界チップに踊りでるための具体性を持たせた案を指し示すべきところだと思うんだけど、所詮は土建屋大国ニッポン、橋や道路を作ったり農家に減反の助成をするのとほとんど感覚的には同等な光ファイバーの敷設なりパソコン教室への助成なんかをしよーとゆー戦後の自民党政治のプロットを上っ面だけ「IT」に変えただけの方針で、これなら追いつけそうだ、追い越せそうだとゆー自信を与えてくれる言葉も方針もどこにも浮かんで来ない。挙げ句に世界が赤面しそーな「E−Japan」などとゆーネーミングを打ち出してみて、およそ心のともわなないオヤジセンスまる出しのネーミングぶりにますます先が暗くなる。時代におもねりすぎてて、頭に付けるとなんとなく恥ずかしい「E」と「J」を両方持った言葉だよ、言って顔から火がでませんか。

 コンテンツならある、「インターネット博覧会」がそれだ、とゆーことを抜かしてやがる森首相、ならば聞くけれど通称「インパク」のどのパビリオンが、世界に冠たるファイバー網を備えた我がニッポンの通信インフラの上で展開するに相応しいコンテンツ的な成果を修めることができるの? 自治体に振ってページを作れと言って想像できるのは一時の会社紹介ページのようなトップページに首長の顔写真があってストリームで音声を配信していて後は区域内の名産とか特産といったものの紹介、せいぜいがオンラインショッピングといった「ありきたり」なサイトで、これがたとえ300自治体束になったところで、大容量高速回線に流してペイできるだけのコンテンツが生み出されるとはとてもじゃないが思えない。東京都とかが中央線沿線のアニメスタジオやらCG会社やらに一律何百万円だかを出して若い人に短い作品を作ってもらってコンペする、ってんなら見ている方もそれなりに楽しめるし世界にだってアピールできたと思うんだけど、参加しないんじゃあしょうがないよなあ。

 思い出すのは96年だか97年だかに慶応の村井純さんが引っ張って実施した国際インターネット年に絡んだネットイベント。大日本印刷とかいろんな企業が「パビリオン」を意識したサイトを立ち上げたけれど、今の時点でほとんどどこも残ってやしない。デジタルなんだからスペースは無制限で成果はいつまでも蓄積されるってなネット的メリットへの印象が、この事例1つ取っても決して正しくはないってことが分かるだろー。

 やるんなら出費も含めて相当な覚悟がいるってこと。道路は作ってもインターチェンジが出来るのはもしかしたら10年先で、おまけに誰も車を運転できなかったりするから道路の上はいつもガラガラ、なんて状況がマジで現出しそーな予感が漂う森の演説に堺屋の青写真。お手並み拝見と行きたいところだけれど、拝見している余裕なんてないだけに、政治家の皆さんの言葉なんてあてにしない、優れた頭脳を駆使して2年で世界を越えてみせるんだと考えて引っ張っていくくらいのことを官僚な人にはやってもらいたい。もっとも首相の演説だって事務方つまりは官僚が作文してるんだろーから、つまりは森さんのトンチンカンも元は事務方にも責任はあったりするから、案外とやってることは森さんも役人さんもレベルとしては同格なのかも。やっぱり暗いなあ。

 「東京ゲーム(キャラクターグッズ)ショウ000秋」に行く。カッコ内は僕が勝手につけたものだけど、入場して来た人がゲートを出て直ぐに向かうのが物販コーナーだったりした朝の様子を見るにつけ、ゲームを見せたいスクウェアが出展を自体するのも分かるよーな気がする。見て欲しいのはゲームなのに見ている人はキャラに萌えてたりするんだから出しても意味がない、くらいのことを思っているのかもしれない。ビジネスデーなんで1日中ひしめきあうなんてことはなく、あんまり人のいなかったブロッコリーの「デ・ジ・キャラット」関連商品を扱っているブースで、当然のよーにまるで等身大な「ぷちこ」の縫いぐるみを購入、頭身の子供っぽさからか頭がハンドボールほどあって大きく、パッと見はちょっと異様い思えるけれど、つぶらな瞳とか脱がせられるブルマとかいったギミックとかに慣れていくに連れて、なかなかな人形に見えて来る。電撃屋の「ちよちゃんクッション(おさげ着脱可能)」にインパクトでは並ぶ縫いぐるみかも。「DASCON4」でミーコちゃんに遊んでもらおう。次はパヤパヤ作ってにゅ。でもって東小金井あたりで売ってみて来てにゅ。

 抜け出して「プラモデル・ラジコンショー」。ほとんど物販展と化すであろー「ゲームショウ」とは違って、ブースの担当者も商品を熟知していて抑え所を知っていて、「サンダーバード」に登場して来たジェットモグラをしきりに勧めるブースの人は、ドリルが回るだけじゃなく、ドリルの根本につく本体部分に組み込まれたクローラーもちゃんと回転するよーになっていて、車台部分のクローラーはゴムベルトのベースにプラスチックだかの板を並べる手法によって適度な硬さがあってかつ、踏んだ時のへこみ具合もホンモノっぽくなっている、ってなギミックを堂々と自慢しつつ語る口調に「欲しいですねえ」と頷いてしまう。気分的にはサンダーバード2号の胴体の4隅にあるリフトがギュイーンと上がってコンテナがポトンと落ちて中から4号とかが出てくるギミックを再現して欲しかったけど、言うとオタクと思われるから会釈でごまかし中座する。

 「モデルグラフィックス」を出している会社のブースに行ったら本屋ではまだ普通には売っていない最新号が並んでいたんで「買えるの?」と聞いたら発売日の25日まではあんまり売れないとか行って、だったら何でブースに並べてるんだろーかと残念に思いつつ立ち読みする、をを出てる(何が?)。書いてるんですが、と交渉したら買えそうだったけど行き違いを慣らすのも面倒っぽいんで買うのは本屋にして、別のブースへとフラフラ、タミヤの「90式戦車」に続けとばかりに、他のメーカーからも小さいもののちゃんとラジコンで走ってBB弾を発射する戦車があって、前にトミーだかで見た弾の出る「90式戦車」なんかと並んで、動かして遊べる仕組みの玩具が今冬のトレンドなんだろーかと考えてみたり。無限に打てるテレビゲームとは違って制約も多い弾飛ばしラジコン戦車が、それでも人気を膨らませつつある状況に、デジタルの良さは無限さとかいった観念を脇に置いて、手で動かし目で反応を見て楽しむリアルな「戦車」の感触に、支持者が帰って来ているのかもしれないなー。危うしゲーム? まあとりあえずは明日以降の「ゲーム(キャラクターグッズ)ショウ」の来場者の入りと対比しての、「プラモラジコンショー」の雰囲気を確認してからだな。


【9月21日】 「これはBB弾、そうかコナミ、そうだったのか」と渚カヲルくんそっくりの顔と声で自分がつぶやいていたってことは自分の妄想の中でのできごとだからつっこまないでねとお願いしつつ、それでもやっぱりつぶやきたくなった「BB弾」のヒ・ミ・ツ。某コナミがこれを商標として登録しようとしているってな話が一時ネットを賑わしていたけれど、何の根拠もなく商標を登録するなんてことはさすがにいくらなんでも滅多なことではやらないだろー、と思って信じて待っていたコナミだけあって、やっている以上はやっぱりなんかやっていたってことが、今日からスタートの「アミューズメントマシンショー」で判明した。どーゆー名前かは忘れたけれど、手前のエアガンだかからホンマもんの「BB弾」を撃ち出して、たぶん接触すると反応するよーな仕掛けが施されたモニターに当てるってゲームで、的が穴だらけになって交換しなきゃいけない手間がなく、BB弾丸でもバーチャルなCGが相手だったら絶大な「破壊力」を発揮できる点とかが受けそーな気がする。あと弾を打ち出す反動とかも。

 だからといって例えゲームとはいって、古来より使われて来た「BB弾」が商標にされてしまったらやっぱりキツさはあるし反発も喰らいそーで、そのあたりを覚悟してでも追随者を押さえ込みたいくらいにこのゲームの力をコナミが感じているんだと考えられなくもなさそー。もっとも商標だって先行投資的な意味合いでやるケースもない訳じゃないから、真実のところはちょっと不明。ちなみに同じ開場の入り口をちょっと入ったところにあるブースでも、やっぱり本物のBB弾を打ち出すマシンがあって、こっちはビデオじゃなくって実際のルーレットだかの的に当たると景品がゲットできる仕組みになっていて、見た目にも「BB弾」っぽくって分かりやすい。これに対してもコナミで何か言うんだろーか、真似すんなとかどうとか。

 その辺のナーバスぶりはコナミさんちょっと肩に力が入りすぎてる観があって、プレスのバッチをぶらさげてコナミ近辺で写真を撮ってたら若い社員の野郎の兄ちゃんが「撮らないで」と寄って来て文句を言った後でバッジを見て引っ込んだ。まずは誰かを確認してから言えば良いのになあ、不愉快だなあと思うこと仕切り、まあプレスは特別扱いが当然ってな意識がちょっとこっちに染み着き過ぎてて妨げられるとキレる傾向が歳取るに連れて強くなってたりするせいもあるんだけど、やっぱりちょっとは相手を見ないと、商標だって著作権だって注意だってウザく五月蝿いと思われ嫌われる原因になるから身をちょっとだけ振り返った方が良いですよと言っておこう。それで改まるならこれほどまでにチカラワザを繰り出し続けるなんてことはしないんだろーけど。

 著作権に関してはコナミが出していた業務用ゲーム機の新製品にカメラのショットで点数を競うゲーム機があってすでに展示もされていたけれど、一方でいちおうは納得点に立ったものの去年からの流れでコナミにあれやこれやと言われて来ていたナムコにも、同様のカメラマンをテーマにした業務用ゲーム機の準備があってちょっと吃驚、最近のトレンドとか状況とかを勘案すれば開発者の意見だってやっぱり同じになるんだってことを、まざまざと見せつけられた思いになる。とはいえナムコはPOPだけの出展だったから、あるいはあれやこれやと大人のふりかけ的事情があったのかも。ちなみに今回のショーに出展さるはずだった韓国の製品が著作権に触れた物だからといって出展を拒否されたってな感じのチラシを読んでいる人がいたんだけど、これってホント? 係争中でも日本の会社がショーからパージされたって話はあんまり聞かないところを見ると、やっぱり海を渡った先は当然ながら「外国」なんだなってことを強く思い知らされる。生き馬の睫を左から3本目だけ抜ける素早くって賢い人たちの集まったアミューズメント業界、いろいろと仕掛けてくれてます。

 そんなコナミの権利抱え込み戦略はコンシューマーの部門でも着々と進行中のよーで、ユニバーサススタジオの系列のゲーム屋さんが作ったソフトの販売なんかで定形した結果、日本ではこれまでソニー・コンピュータエンタテインメントが販売していて「プレイステーション」で遊ぶアクションゲームとしては任天堂で言う「マリオ」並みの知名度を持つにいたった「クラッシュバンデクー」を、次からはコナミが販売することになったらしー。ほかに「ハムナプトラ」とか「ジュラシックパーク」とか「遊星からの物体X」とかいった映画を題材にしたゲームもガンガンと投入してく予定とかで、コアなファンにオリジナリティあふれるゲームを提供し続けなければいけない日本市場とは違って、とっかかりがあって楽しめればオッケーってな西洋おおおらさか(別名温さ)を、作られるあまりにも数多い映画の焼き直しソフトの紹介を見ながら思う。

 そんなアッケラカーのカー(故渡辺ミッチー節)的アメリカ人に果たしてこの深みが理解できるんだろーかと思ったけれど、全員が全員ボタン連打でオリンピックが楽しめちゃう的ゲームよりも1歩前に出たゲームを求めているらしく、「サイレントヒル2」の実写を見間違えるよーなCGムービーのクオリティとか「メタルギアソリッド2」のリアルな戦闘場所を見事に再現していて、「メタルギア」の場合だと酒瓶を撃てば瓶が割れて飛び散るるCGとかに、来賓として来ていたユニバーサルの人もジッと見入っていた。それが直接ゲームとしての面白さかどーかは実際にプレイしてみないと分からないけれど、迫力だけなら結構ありそー。光学迷彩らしきものを着て橋の上から男がロープを身につけたままダイブする場面は押井守さんの映画「攻殻機動隊」の中でもトップ暮らすに美しい場面と関係してそーで、ちょっと聞いてみたくなる、リスペクトですか、とか。

 たしかに村上隆さんはオタク的な文化をリスペクトしているけれど、そのリスペクトは決して上っ面を取り繕って金儲けのためにオタクなマーケットから金鉱を探し出そうってな感じの高みに立ってのものじゃなく、中原浩大さんが作ったフィギュアの塗りも出来もまるでアート界の至宝をパクって来たよーにしか見えないと訝った村上さんが、より本質に近づことしてオタクな人材をかき集めて上澄みを掬うんじゃなく深層水を汲み取るくらいの根性を持って挑んでいることだと理解しているけれど、どうなの細野不二彦さん描くところの「ギャラリーフェイク」では。とはいえ村上さんがやっていることをオタクな立場から見れば、9月18日発売の「ビッグコミックスピリッツ」でのアートとガレージキットをめぐるエピソードは、村上さんのはリスペクトなんかじゃなくってアートの簒奪なんだ、って風に思われるのが普通で、本人が意図している部分とは違った方向に話がネジ曲がって行きそーでそれはそれでちょっと面白い。果たして村上さんは落とした財布から札ビラをまき散らすのか、乞うご期待。


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