満蒙開拓団

殉難者拓魂 長野県 ・中信

 

小丸山公園

 長野県上水内郡信濃町

満州開拓黒姫郷之碑

碑文

満州黒姫郷開拓団は昭和十五年 当時の国策に副い北山部七ヶ村を母村として北安省薬泉山の地に入植し

幾多困難を克服して建設の目的を達したが 不幸敗戦の為既墾二百余町歩に及ぶ豊沃の地を捨て引き揚げ

途次力尽き斃れたもの男女百十余名 未帰還者十八名 帰国したもの僅かに四十余名に過ぎなかったことは

洵に痛恨に堪えない

茲に謹んで殉難者の冥福を祈り奉り団員諸君の労苦に厚く謝意を捧げるものである

昭和二十九年八月  上水内郡北山部七ヶ村

 

善光寺別院 観音寺

 長野県更級郡上山田町

更埴満州開拓団殉難者慰霊碑

碑文

この塔は、大東亜戦争によってもっとも大きな犠牲者となった満州開拓者の遺族と関係者とが、再び

戦争の悲劇を繰り返す事なきを祈り、又玉砕して果てた殉難者の霊を慰めるために、心から平和の願

いをこめて、建立したものである。

憶えば昭和の初期より軍国国家の伸長は、五族協和の名の下に、満州国建設を国策として積極的に

その開拓を推し進め、全国で三十二万人が之に参加、且つ、先進県として長野県下では、分郷・分村

相次ぎ、且つ、信濃教育会を中心とした義勇隊を合わせ、その数三万余に上った。

当時の更級・埴科両郡下に於いても一二〇〇余名が之に加わり、中でも更級郷・埴科郷は母郷

の町村長会が建設本部となって、約八〇〇人を送出していた 現地では国境整備と兵站線を確

保しつつ、困苦欠乏に耐えながらも、既に王道楽土は目睫の間にあった、

然るに戦況は日を迫って不利、ついに開拓民さえも戦火の真只中に巻き込まれ、悲惨きわまる

情景は真に目を伏せ言語に絶するものがあった。されど、更科郷・埴科郷は終始行動を共にし、

死の逃避行を重ねたる後、昭和二十年八月二七日に、八月十五日の終戦も知らず、佐渡開拓団

跡において団長以下六四九名が玉砕して果てたのである。

偶々、わずかに生き抜いて故国の土を踏んだ同志相議らい、終生の願いとして建塔を目論み、

戦後二〇年を過ぐるに及んで漸く其の機を得、関係市町村当局の協力のもとに、地域在住の全

戸の浄財を基として、発起以来一ヶ年にして平和の塔の建立を見るに至ったものである。

実に、この塔は世界平和招来の砦として広く世人に戦火の惨を訴え、さらには、英霊の来たりて

眠る地として、且つ又、満州開拓の歴史を留めるものとして永く後の世に伝えんとするものであ

る。冀くは、英霊よ、来たりてこの塔の下に安らかに眠れ。

昭和四十二年四月十八日建立  更埴満州開拓殉難塔建設委員会、更埴市、篠ノ井市

更埴満州開拓自興会、更級・埴科町村長会

 

豊里地区

長野県北安曇郡穂高町

満州開拓第一次弥栄村長野県出身者 殉國

碑文

(碑文無し)

 

長野縣護國神社

長野県松本市

満蒙開拓青少年義勇軍 第7次斉藤中隊 拓友之碑

碑文

元満蒙開拓青少年義勇軍斉藤中隊は 217名の隊員をもって編成 昭和19年6月 斉藤義男中隊長指揮のもとに

14・5才の少年達が肉親と別れ 遥か満蒙の広野に開拓の意気高く 時の国策を信じ大陸に渡る しかし昭和20年

8月 国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前に なんら為す術もなく全員捕虜となる 銃口を背に 過酷な重労働

を強られ 寒さと飢えと疲労のため つぎつぎに病に倒れ 実に120余名の隊員が 異国の土となる

あれから30余年の星霜が流れ とかく忘れがちなこの厳粛な事実に思いをいたし きょう茲にわれら生存者は美須々

の森に集い 亡き師 亡き友を偲び  御霊の安からんことを祈願し この地に拓友の碑を建立する

歳月は流れども われらはいつもこの碑に集い 師を憶い 友を語り やがていつの日にか碑下にて相まみえんこと

を誓い 以て恒久平和への礎としたい

昭和51年11月吉日建立 興安拓友会

 

斉藤中隊足跡

.        昭和19年 3月 南北佐久、東西筑摩、南北安曇松本より217名にて編成  内原訓練所へ入所

.        昭和19年 6月 元北満州  満蒙開拓青少年義勇軍嫩江大訓練所へ入所

.        昭和19年10月 元西満州 興安訓練所へ移行 入所

.        昭和20年 8月 ソ連軍の進攻により訓練所を撤収し避難行軍を開始

.        昭和20年 9月 武装解除後収容所へ収容される 以後多数の隊員が病死

.        昭和21年10月 第一陣の帰国にはじまり昭和34年をもって生存者の帰国を終る

 

満蒙開拓青少年義勇軍 佐藤中隊 拓友之碑

碑に寄せて

思えば昭和14年満蒙開拓青少年義勇軍大いなる夢と希望を抱いた3百余名の14、5才の少年が国策の第一線

興亜の大業をめざして遠く異国の地に骨を埋める決意も固く懐かしい故国を後に敦賀港より壮途につきました。

満洲国勃利訓練所への道は遠く一日48キロの行程に大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し一人の

落伍者もなく到着 涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の4年有余 やがて大東亜戦争勃発数多くの者が応召され

或は病に倒れ終戦を迎えました 其の間の労苦は筆舌に尽し難いものがあります

不幸にして病に倒れ戦果に散り永遠に満蒙の地に眠る同志に対し哀惜の感に堪えません 終戦後同志を捜し求む

る術もなく20数年の歳月は水の如く流れ去りましたが同志の熱意によりここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは

同志と共に歓喜に堪えません

当時中隊長佐藤剛吉

昭和48年4月17日 拓友会一同建之

 

佐藤中隊の足跡

.        昭和14年 4月 茨城県内原訓練所入所

.        昭和14年 6月 満洲国三江省勃利訓練所入所

.        昭和16年 4月 同 腰林子訓練所入所

.        昭和17年 3月 義勇隊訓練期間終了

.        昭和18年 3月 樺川県田録村大堆峯に移行 国美義勇隊開拓団となる

.        昭和20年 8月 終戦と同時に苦難の祖国復帰への途を辿る

 

知鳥峠分水嶺公園

 長野県塩尻市

満州八洲訓練所折山中隊 八洲魂

八洲魂歌誌

昭和十三年早春 国策として満蒙開拓義勇軍発足し県下多数の青少年がこれに参加 この内の三百数名と

高知出身者二名を以て折山中隊を編成 元満州国黒河省嫩江県八汐訓練所入所 北満の荒野に若き開拓

の■熱く燃え その地に開拓団として入植 中には妻子もあり一家の経営としての■様になりました

戦果次第に烈しくなるや若者は戦列に加わる者多く この間に散華したる者や 開拓途上 終戦時に又帰国

後に物故された者等 子女を含め多数の同志を失いました

それらの方々の霊を弔い慰めんと八洲会員一同相計り 当■■良一氏の御協力を得て 茲善知鳥峠の分水

嶺地に八洲魂碑を建て 慰霊祭を営み

昭和二十二年八月十一日

 

東山霊園

 長野県塩尻市

満州東筑開拓団殉難碑

 

北    信  東   信  中    信

諏    訪  上 伊 那  下 伊 那  木   曽

 

満蒙開拓団    拓魂・長野県

更新日:2012/01/01