満蒙開拓団

殉難者拓魂 長野県 ・北信

 

楯之平出雲社

 長野県飯山市

第九次索倫河下水内郷開拓団 慰霊之碑

碑誌

満州国独立を期に国として満州開拓移民を結成 我が第九次下水内郷開拓団は昭和十五年二月二十一日

勇躍索倫河に入植し労苦を惜しまぬ努力の甲斐あり 十九年十月盛大に秋祭りを行う しかし二十年八月九

日突如ソ連軍の侵攻に依って女子子供山中に逃れ 数日山野を彷徨し 疲労に加えてソ連軍の暴力銃丸に

仆れる者 自ら命を絶つ者多く 田中勇治団長は止むなく解散を決意し 自らも銃丸に仆れ死亡された 犠牲

となった四五〇余名の霊を慰め 永遠の平和を祈願して 慰霊之碑並びに開拓親子地蔵尊を建立する

建立委員会  一九九五年八月十五日

 

満州親子地蔵尊

 

東山公園

 長野県中野市

高社郷開拓団 満州開拓者殉難慰霊塔

碑文

満州国独立以来 その発展と開拓とはわが国の責任とし国策として取り上げるに至った 

北満の荒野に匪賊が出没して治安未だ定まらざる第一次武装移民の弥栄を初とし第五、六次の県

集団信濃村に至る間 入植したる八八世帯に及ぶ。更に青少年義勇軍の創設と共に馳せ参ずる者

二二七名 開拓の熟愈々高まりつつある折柄 下高井郡に於いても分郷の計画着々進み 昭和十

五年二月十一日の吉日を卜し 東安省寶清縣に第九次万金山開拓団高社郷の入植式を挙げるを

得たのである 地の利と団員の努力が幸いして 其の整備活動が寶清縣地区第一位を以って称せ

らるるに至った 東亜戦の進捗に従い 軍籍にあるものは悉く召集せられたるも 残れる者よくその

志を継ぎで事なきを得た

昭和二〇年八月九日 ソ連の参戦となり 次いで終戦の報伝えらるるや 団員家族の避難状況思う

だに目を覆うに足るものあり 愛しき吾が妻吾が子を銃剣にかけ 兄弟相抱きて爆死せる者 更に

脱出せんとして敵弾に倒れる者等その数を知らず

此際分郷高社郷の避難は八六歳の高齢者を初め 六〇〇余名一糸乱れず 北満特有の雨の中を

爆撃に銃弾に反抗し 食なく昼夜間なく二週間を経 漸く佐渡開拓団に終結したのである 而も周囲

の状況我にあらず 祖国日本の弥栄を祈りつつ六〇〇余名収容としてこの地に自害したのである 

時は昭和二〇年八月二十五日のことであった

この悲惨なる状況を侍えんと脱出したる者わずかに二〇徐名に過ぎず 思ふに下高井郡民は純真

にして情誼に厚く 郡の中央に吃立せる高井富士 高社郷を以って理想とし 恥を知り名を惜しむ風

盛んなるものがある 開拓団員が窮して乱れず 克く其の終を潔くすることを得たるは この郡民精

神の象徴たることを銘記すべきである

満州開拓の先駆者 下高井郡殉難者 決して徒死を以て目すべきではない 録して以て後世の鑑となす

昭和二十六年八月二十五日  満州開拓団殉難者下高井郡慰霊委員会

 

臥竜公園

 長野県須坂市

満州珠山開拓慰霊

碑文

満洲開拓は当時の国策であり、上高井郡においても、この要請に応じて分郷建設が推進されました。かくて、

昭和十七年三月満洲国東満総省宝清県頭道河子村珠山に二万五千町歩の地を定めて、永井正雄団長以下

先遣隊が入植し、零下三十余度の未開の地に幕舎を張り第十一次珠山上高井開拓団の建設を始めたのであ

ります。

当初治安いまだ定まらない原野に開拓の鍬をふるい、やがて戸数九十余戸団員二百八名に達し、団の建設

は着々とその成果を上げつつありました。昭和二十年には水田造成工事もなり、報告農場併設も決まって、今

井弥吉隊長以下百名の隊員を迎えて村造りに一段と前進したのであります。

しかるに、昭和二十年八月九日突如ソ連の参戦によって農場家財を放棄し立退きの事態に立ち至りました。

弾丸雨飛にさらされ山野に伏し草の根を食し露命をつなぎ避難の行路は長期に亘って、この間銃弾に倒れ悪

病に没しあるいは自ら生命を断つ等悲惨な限りを尽くし大陸に殉難したもの百三十余人に及んだことはうたた

痛惜に耐えません。

ここに満洲国の業を記念し、これら異郷に眠る同胞の霊を慰め、あわせて世界永久の平和を祈願して、同志相

はかり、この碑を建立した次第であります。

昭和三十七年十一月十八日

 

善光寺雲上殿

 長野県長野市

第五次黒台信濃村開拓団慰霊之碑

碑文

第五次黒台信濃村は当時の国策に則り 長野県が全国に魁けて企図した最初の単県編成の開拓団にして

昭和十一年 祖国の与望を担って元満洲国東安省蜜山県に入植し 爾来民族協和と豊かな楽土建設

に精魂を傾注すること十年 漸くその基盤を確立した

然るに昭和二十年八月 突如としてソ連軍の急襲に遭い この楽土は一瞬にして地獄絵図さながらの

中に崩壊し 死の逃避行となった 当時男子は殆んど応召し終戦と共にソ連にとらわれ 終戦当時の

在籍者三百戸 生還者は四百名に過ぎず 生還の吾等深く悲しみ歳々法要を営んできたが 今回同

志相議り追憶の記録を刊行し 併せて茲に慰霊之碑を建て非業に逝きし諸霊の冥福を祈ると共に 

之を同志の集霊の場としやがて吾等も此処に集いて先霊と相語り 供に人類永遠の平和を祈念する

ことを期す

昭和四十七年十月  第五次黒台信濃村開拓団同志会

 

第六次長野村開拓団慰霊碑

碑文

満蒙開拓団第六次長野村は飯田市下久堅出身 故平沢千秋団長のもと 結団し 昭和十二年六月

満州東安省南五道崗に入植した

無住の荒野は丘に連なり山を望み 湿地や流水に続いていた そこに道を開き橋をかけ 水田

耕地を拓いて十部落を配し 西五道を加え 三百余戸一千三百七十余名の開拓村を建設した

時に太平洋戦争職烈となり 団員青壮年は動員された 昭和二十年八月九日 突如ソ連の進撃に

より 残された老幼婦女勤労奉仕隊員は 村を離れ辛苦の運命へと突入していった

昭和二十一年六月 故国に引き揚げた者は三百九十一名 ここに犠牲者の霊を弔い永眠の処

を定めようと 生存者遺族相計り この地に碑を建立した 人類の永遠の平和を祈って

昭和五十年四月吉日  建設委員長 原 繁生

 

長野県開拓自興会 拓魂碑

碑誌

資源乏しく狭い国土に溢れた日本人は 明治開国と共に進んで海外に移住し逐次その数を増したが

国際情勢の変化に伴いその道を阻まれ 殊に第一次大戦後の経済恐慌は、我が周民の生活を困難

にした。

たまたま満洲国独立以来その発展と開拓とは国策としてとり上げられた 我が長野県は当時の県情に

鑑み 官民一致の勧奨により第一次弥栄村移民団をはじめとして分県分郷分村・青少年義勇軍・その

他九十余団三万一千余名送り 全国一の開拓送出県となった

これ等選ばれた人々は五族協和・王道楽土建設の理想を掲げ 刻苦精励よく創業に挺身し着々その

成果をあげた 然るに昭和二十年八月九日突如としてソ連軍の急襲を受け 全清洲は一日にして戦火

の巷となった ときに男子はほとんど召集され婦女子主体の開拓団は一片の庇護もなく 飢餓と病魔と

酷寒の山河を彷捏し悲惨その極に達し 死者一万六千有余名 未だ還らざる者一千余名に及ぶ 

又応召の男子はソ連に連行され 累年の苦役に多数の同志を失った

かかる中から奇しくも生還した我等は直に長野県開拓日興会を結成し 相互の再起と大業の夢

も空しく非情に散った同志の無念を慰めんと年々法要を重ねてきたが 今回長野県及び市町村

当局並びに開拓団同志その他県民有志の支援を得て 宿願の慰霊碑を建立し全県民哀悼の下

に謹んで県下満蒙開拓物故者の冥福を祈り 併せて人類永遠の安住と世界平和を祈念する徴と

する

昭和四十九年十一月十四日  長野県開拓自興会長 堀川源雄

 

満州開拓青年義勇隊松田中隊 慰霊碑

碑誌

昭和十七年 諏訪 南北佐久 小県 埴科の五郡出身の紅顔十五六歳の少年二百五十余名 元満州国

黒河省婌江県八洲訓練所に入り 祖国の名誉を負い北満の大平原に三ヵ年若き情熱を傾けて訓練に

励み 現地人に親しみ その地に第五次八洲開拓団を結成した 戦争烈しくなるや軍に投じて散華した

るものをはじめ 帰国後物故した幾多霊位のため わが八洲会は善光寺に法要を度々営み 今回は

慰霊碑を建てその芳魂を弔うこととした 切に冥福を祈る

なお石材は諏訪市と地元牧野組合の好意と協力により霧が峰高原より搬出した

満州開拓青年義勇隊松田中隊 有志  昭和四十二年四月

 

花岡平霊園

長野県長野市

第七次中和鎮信濃村開拓団慰霊碑

碑文

第七次中和鎮信濃村開拓団は当時の国策の線により長野県が送出母体となり全県より選出され

昭和十三年元満州国浜江省延寿県中和鎮に三百戸集団として入植し 以来八年楽土建設と民族

協和に精魂をかたむけ ようやく其の基盤を確立した 然し昭和二十年八月突如としてソ連軍の参

戦により死の逃避行となり 死者六百余名を数ふ 吾れらこれを深く悲しみ以来数度にわたり法要

を営んで来ましたが 昨年吾れら同志相集り慰霊碑の建設と分雌雄の発行を計画し 今回花岡平

霊園に同志の協力により慰霊碑を建立す 吾れら深く非業に逝きし諸霊の冥福を祈ると共に 人類

永遠の平和を祈念する事を祈願致します

昭和五十年三月  元第七次中和鎮信濃村開拓団 線損社一同

 

城山

 長野県長野市

満州開拓青年義勇隊北村中隊の碑

碑文

昭和十二年度第四次満蒙開拓青少年義勇隊

土は劫初の番里 大地は永劫に輝き その夜はまたたきもしなかった 北斗の星座

我々の思を永久に残すべく 真心こめてこの碑を建立す

昭和三十八年九月  北信拓友会

 

この碑をおとずれる方に

私たちが国策のきびしい求めのまゝに北満州の開拓の任をあたえられたのは昭和十六年でした。

総勢二百六十九名。その主力は十五歳代の少年でした。以来 異境の広野にいくたの苦しみを重ね 加えて

第二次大戦の戦乱を身をもって経てまいりました。その間 尊い数々の犠牲者を出しました。

測りがたい心のいたでをも受けてまいりました。

そして、あれから二十有余年。ここに生存者一同 相計り 今は亡き友の霊をしのび あわせて 私たちの歩

みの記録として、ここに一基の碑を建立いたしました。

昭和三十八年九月吉日  北信拓友会、元満洲開拓青年義勇隊 北村中隊

 

北    信  東   信  中    信

諏    訪  上 伊 那  下 伊 那  木   曽

 

満蒙開拓団    拓魂・長野県

更新日:2011/11/03