[◆テキスト(台本)の稽古]

◆稽古の進め方
1.簡単に役者全員で読み合わせをするか、作家が本読みをするか、いずれか、。
稽古初日の儀式があるかも知れません。
演出は、最低限スタッフ・役者全員に、この脚本を芝居にするにあたって、。
「観客に何を伝えたいか」「なぜ今舞台化するか」を説明する必要(義務)があります。
そのコンセプトにそって、各スタッフはプランを組み立て、。
俳優は芝居全体の中の自分の役の役割を組み立てて行きます。

2.最初の場面、もちろん台詞も覚えていない状態で、作者が用意した事実を表現していくこと、。
自分達の言葉でそして事件を発生させることを試みるため、
事実と事件をなぞりながら、自分達の言葉で場面を組み立てて行きます。
つまり、作者が場面をイメージして、登場人物達に台詞を与えたように、役者は、相手役と共に、
自分の言葉をつかって、作者の用意した事実と事件を表現して行きます。
このとき、二つのケースが発生しやすい。
一つは、自分でも違和感なく、作者の展開した事実と事件を起動できる場合。
これは大変幸せなことだが、かえって結果的に淡白な演技創造になりやすい。
もう一つは、作者の展開した事実と事件が中々発生させられ無い場合。
これも大変幸せな事。
イ.自分と作者の感覚とがまったく違う事が理解できた。
ロ.作者の事件や事実の展開が自分とあっていない。
ハ.作品が今の時代感覚とあっていない。
二.自分の理解がまったく足りない。
ホ.事実の量が足りなくて事件が起きにくい。
ヘ.事実の説明があり過ぎて事件が発生しない。
などなど、様々な角度から本を理解する手がかりが得られるのです。
この稽古から役者は、台詞のポドテキストを理解できるようになります。
役者の仕事として、ポドテキストによる台本の組み立てを実践して行きましょう。
(ポドテキストのためにも、台本には台詞の通し番号が絶対必要です。)
演出や舞台監督等の注意やアドバイスも、台詞ナンバーを基に進めることで、
間違いや勘違いが少なくなります。

3.自分の言葉から台詞に移行して、事件や事実も丁寧に表現できるようになってきた時、
相手役との適応や交流が疎かになる傾向が有ります。
登場人物の行為の論理がなおざりにされ「相手を見る・モノを見る・言葉を聞く」という
単純な行為の論理が省略されていくのです。
その結果、台詞も、あらかじめ用意された感情や意志を説明するために使われます。
良く有る創造の行き詰まりです。
このまま舞台にかける集団が多いのですが、これでは舞台は、戯曲の説明にしかなりえません。

此の時点で演出と役者は、台詞が行為から生み出されることを再確認して、
相手役との繊細な交流を大切に、一つ一つの行為と表現の適切さを確かめて行く必要が有ります。
これがポドテキストとの整合性の確認という作業になります。
ポドテキストを「台詞まわし」(物言いの言い方や台詞の上手な話し方)で表現しようとしないで、
行動で表現する工夫をしてみましょう。
台詞を、文章として表面的に理解される意味を伝えるのでは無く、例えば、「こんにちわ」と話している時に、
この登場人物は相手役に怒っている、あるいは不愉快に思っている、あるいはまずいのに会っちゃったと
ポドテキストで解釈した場合、台詞まわしで「こんにちわ」を怒っている風に(何々らしく)言うのでは無く、
ポドテキストを動機とする行為の目的を考えてみましょう。
相手役から離れるように、相手役を見ないように、ポドテキストを動機とする行為の目的を達成しつつ、
「こんにちわ」と言ってみたらどうなるだろう?
今までと違う、行動・行為として、積極的に相手役から遠ざかる行為によって、
あるいは、相手を見つめるまたは見つめない行為によって、台詞がどう変化するのか、
演技として何が創造されていくのか……。
その結果として、言葉の色彩が変わり、行為のテンポリズムが変わり、
相手役同士の見ること・話すこと・聞くことなど、すべてが新鮮に生まれ変わります。
これが解決方法の一つです。

4.ポドテキストとの整合性も整理され、行為も安定して来たような段階に至れば、
演出は、行動目標や相手役との交流から、行為の発見と発明を喚起し、
役者の表現が常に新鮮に輝き出すようにしなければなりません。
特にモノローグなどは、紋切り型・月並みな「何々らしい」ものに陥りやすい。
モノローグも、感覚の記憶や感情の記憶を使って、
事実の表明と事件の喚起に他ならないことを実践してもらいましょう。
後は舞台表現として、無駄や饒舌性の排除・テンポリズムの分かりやすさ
場面毎のメッセージの明瞭さの確認・全体のメッセージの単純さ、明瞭さの確認を実践すれば良い。
時間が有れば、衣装や小道具、舞台装置に至るまで、全体のメッセージの単純さ、
明瞭さのために貢献するよう、再度確認作業をおこないましょう。
舞台作品は、生活カタログではない。
主義主張や自分のモノの見方・視点を、観客に押し付けるものでも無い。
観客に楽しんでもらいながら(泣いてもらうのか、憤ってもらうかも知れませんが)、
何か心を動かしてもらいたいものです。

5.もう本番です。やれることはすべてやり尽くして、後は野となれ山となれです。
事故なく、安全に快適にすぎてゆけば、観客の拍手を待つばかりです。

6.舞台の準備、仕込みのために。
仕込みの為に、小さな劇団などでは、役者も仕込みの手伝いにはいります。
注意する事は、汚れても良い、手袋、長袖、長パンツで仕込みに入りましょう。
少しでも怪我などをしないように気をつけましょう。
仕込みの段取りを考えて、自分に出来る用意と働きを心がけましょう。



[◆役づくりへの道程]

◆役づくりの進め方

■役づくりというと様々な誤解を招きそうだが、「芝居の中の登場人物を、まさに生きている人物として表現する」
……このための手がかりを考えてみよう。
多くの俳優は、自分の演じる登場人物の台詞を暗記するが、相手役や全体の流れを中々汲み取ろうとしない。
しかし、登場人物自身の台詞の中の自己評価が、登場人物を適格に表現しているとは限らない。
役づくりの手がかりは、多くの場合相手役やその他の台詞にある。

作家は、登場人物の評価を、相手役の台詞に託すものだ。
相手役が「君は○○だ」と言っている時、それが正しいか間違っているかでは無く、相手役にそのように言わせた作家が、
何かしら登場人物の具象化(表現)の方向を示しているのだ。
注意すべきは、作家というものは、俳優の、登場人物の表現の手がかりの為に、台詞を書いているのでは無いということ。
場面場面で、登場人物をその場において、思い付くまま語らせて行く。
戯曲の流れが求めるまま、台詞を綴って行く。
これが作家の作業だと言える。
だから相手役が語る人物像を、そのまま登場人物の人物創造に用いることは注意しなければならない。
それでも、役づくりの手がかりは、ト書きと相手役などの台詞にしか無い。

■相手役が「あなたはごう慢で冷酷だ」と云い、別な相手役が「なんと軟弱なんだ」という登場人物があるとして、
どのようにして具象化(表現)して行けばいいのだろうか。
まず普段の生活の中で、「ごう慢で冷酷だ」と感じる人物を探してみよう。
その人物のどのような行為や姿勢、物言いが、自分に「ごう慢で冷酷だ」と感じさせるのか、研究してみよう。
また、「なんと軟弱なんだ」という点についても、「なんと軟弱なんだ」と感じさせる行為や姿勢、物言いを探してみよう。
人はあるがままの姿で、「ごう慢で冷酷だ」とか「なんと軟弱なんだ」とか感じさせるものでは無い。
なんらかのアクションによって、そのような評価を受けてしまう。
私達は、駅などで誰かを待っている人を、「あの人は誰かを待っている」と感じ取ることができる。
なぜだろう?
たまには笑いをこらえている人を、泣いていると勘違いすることも有るけれど、
人の行為への評価、何をしているかを感じ取る力は、普通に生活をしている中で私達に培われている。
勘違いすることも有るのは、超心理学の云うシンパシイやテレパシイではなく、経験から学んだ、行為の記号性によって、
人の行為の意味を推理し評価することができるからにほかならない。
つまり、記号性を有する行為を実行することで、「ごう慢で冷酷だ」とか「なんと軟弱なんだ」という表現を達成することができる。

○注意点……
これは、生活文化を共有する人々の中で成立することで、生活習慣が違えば、
ある目的で実行した行為が、別な意味を伝達してしまうこともある。
また、月並みとか紋切り型といわれる、昔から有る「○○らしい」演技に陥りやすい。
気をつけなければならない。

■しかし、「ごう慢で冷酷だ」と「なんと軟弱なんだ」という両極の評価を受ける人がいるものだろうか?
例えばベニスの商人のシャイロックの法廷での姿はどうだろうか。
シャイロックは軟弱な人物では無い。しかし、法廷で彼は逡巡する。なぜ?
ユダヤとして差別され忌み嫌われた彼は、ベニスの商人達に頭を下げさせて、
優越感に浸りながら彼等の命乞いを許してやるという復讐を夢見ていたのに、
無惨に打ちのめされてしまう。
相手役の台詞は、その瞬間の登場人物の姿を的確に表現しているかも知れないが、
シャイロックという登場人物として、彼を描く要素のすべてを云っているのでは無い。
ユダヤの民がなぜ忌み嫌われたのか、なぜシャイロックは金貸しなのか、なぜアメリカでは上演されないのか?
登場人物の置かれている状況は、歴史や経済や時の法律や当時流行っていた思想などから推理しなければならない。
つまり、登場人物の社会的背景の研究が必要なのだ。

■さて、台本の研究から登場人物が、他人からどのように感じ取られているかという特徴を学び、
特徴を具体的に表現する記号性を有する行為の研究も修得も出来、様々な本や資料、図録から社会的背景を学び取った。
これで登場人物の具象化(表現)は完璧だろうか?
ベニスの商人のシャイロックはたいてい、怒っているようにまたは嫌味な親爺として描かれる。
彼は差別を受けて育ってきた。差別の中で生きてきた。その彼が誰からも嫌われるように振舞うのだろうか?
いいや違うだろう、心の中はともかく、表面的には誰からも好かれるように努力して振舞っていただろう。
そんな彼が差別されるのだ。
このようなシャイロックの具象化(表現)の研究は、舞台外の研究と云われる。
舞台に描かれるのは、ほとんど人生の中から切り取られた数年、数日、数時間だ。
それ以前の生活や事件、また舞台以後の生活や事件などは推理して組み立てなければならない。
登場人物の具象化(表現)のためには、舞台上の生活以前の生活や事件から考えなければならない。
その舞台上の生活以前の生活や事件が、登場人物に与えた影響が、
登場人物の考え方や一貫した物事の判断の方向、身体的特徴、行為の特殊性を構成している。
即ち、登場人物の社会的背景の研究から、登場人物の舞台前の具体的な生活の研究に至るのだ。

■もう、登場人物の具象化(表現)のために加えるものは無いだろうか?
今一つ必要だ。
なぜこの戯曲を上演し、どのような感動を観客へ提示するのか?
そのために、この登場人物は、どのように具象化(表現)されなければならないのか。
俳優と演出の戦いが始まる。
俳優は表現者として、自分のオリジナリティーに誇りを持って、演出と向かい合わなければならない。
演出の演出プランが最重要なのではなく、俳優の演技プランも尊重されなければならない。
但し、演出の主張に負けない裏づけの有るものが必要だが。
また登場人物の具象化(表現)には、俳優のリアリティではなく、観客が感じ取るリアリティが必要だ。
俳優は演出プランにも負けず、自分本位な表現では無く、観客を納得させるリアリティをもった、
オリジナルな登場人物を具象化(表現)しなければならない。
そのために、様々な具象化(表現)の要素が駆使されなければならない。
テンポリズム・姿勢の特徴・声の特徴・行為の特徴……。
さあ、役づくりに挑戦しよう。

■役づくりが順調に進めば、次に舞台創造のための役づくり、即ち集団の中での役割を考えてみよう。
俳優の個人的な仕事としての役づくりから、舞台創造のための数ある登場人物の一人としての役づくりを考えてみる。
まずは、戯曲を台本にして舞台創造に入る場合が多いから、台本の構造を考えてみよう。

ドラマは、舞台の物理的制限から、舞台装置が飾られた一場面ごとの展開になる。
また、 場面は幾つかの部分によって構成されている。
その部分の具象化(表現)される内容は、 人物の登場や退場で分けられることが多い。
部分は、できるだけ大きく捉えたほうがよい。
その部分が何を観客に伝えなければならないか明確にするためにも大雑把な部分わけをしたほうが、
場面全体の流れの中で筋道を捉えやすい。
戯曲は多くの場合、木を逆さにしたように(根っこは考えないでネ)展開する。
枝葉の場面から太い幹へと移って、最後は大きな根元のところに収斂して終わる。
そのような枝葉の場面のそのまた部分に登場する人物を役づくりしなければならない時、
その役の人物が戯曲の展開の中でどのような役割を担っているのか、判断しなければならない。
ドラマをおこす役割の人物は、必ず場面や部分の転換点となるアクションを起す。
そのアクションは、純粋な行為の場合もあれば、言葉の場合もある。
またドラマを観客に説明する役割の人物は、大抵ドラマが変化し展開した後、その内容を解きあかすアクションを起す。
そのアクションもまた、純粋な行為の場合もあれば言葉の場合もある。
ただ登場人物の少ない戯曲では、ドラマの牽引役も後押し役も、交互に兼ねなければならない役が多い。
自分の役が、ドラマの進行の中で、どのような役割を担っているのか考えてみよう。

■場面場面、部分部分で、登場人物の役割を考えてみよう。
必ず、「この一言」がなければドラマが先に進まない言葉がある。
あるいはまた、ある行為がなければドラマが先に進まない行為がある。
逆に、ドラマが急に進み過ぎて、観客に伏線の種明かしをしなければならない時がある。
主役ばかりでは無く、どんな軽い役にもその役割がある。注意して自分の役の役割を考えてみよう。
そしてそれが、観客にどのように受け取られなければならないか、理解し表現しよう。



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