付録

[◆行為と言葉]

◆行為と言葉
わたくしが学んだ「ことばに関した書物」の中で、一番素晴らしい考えと示唆に溢れた書として、
『山鳥 重(やまどり あつし)』先生の「ヒトはなぜことばを使えるか」(講談社現代新書 ナンバー1427)をあげます。
僭越ながら、その書の中から、私が感動した部分を抜き出してみます。

■人間の心と言葉と行動・行為の関係について

『動物の心の動きは行動(運動)に現れる。
行動は決して特定の刺激に対する反応ではない。
刺激は世界の一部にすぎない。
その部分が突出しているから、見えやすいだけである。
刺激に対する解釈を含めた、心全体の動きが行動に表現される。
人間の場合も、心の動きはやはり行動に現れる。
楽しければ笑い、嬉しければ群れ、悲しければ泣き、怖ければ閉じこもる。
希望に満ちれば身体は躍る。絶望すれば身体は凍る。
ことばは行動の一つの形式である。
行動が身体の一部に収斂(しゅうれん)し、その内容が細かく分節されたものである。
発声、構音という行動、あるいは手話という行動、あるいは書字という行動である。
ただ、全身を動員する行動とまったく同じ水準の行動ではない。一段高い形式である。
ことばは同じ心の構造を持つ動物(つまり人間)の共通の行動の形式として発生し、発達した。
これは進化の素晴しい贈り物である。
ことばのおかげで、われわれは世界に対する自分の反応を、より精緻なものにすることができるようになった。
自分の心の動きを切り分けて(分節して)表現できるようになった。
相手に対し、より細かい心の動きを伝えることができるようになった。
ことばの受け手から言えば、相手の心をより細かく「見る」ことができるようになった。

……中略……

■プロソディはことばの印象をつくる

センテンスになると、プロソディという性質が現れる。プロソディは日本語では音調と訳される。
話しことばには全体としてのリズム、メロディ、抑揚がある。
センテンスをどのような速度で話し、どの部分を上げ、どの部分を下げ、どこまではまとめて話し、
どこでポーズを置き、どの部分を強調する、などということは全体の流れのかたちである。
プロソディは、地方によっても、年代によっても、また職業によってさえ変わる。
東の方の人は大阪の人がしゃべっていると喧嘩しているみたいでこわい、というが、
京都の人がしゃべっていると雰囲気がやわらかいという。
一方、関西の人は、東京の人のしゃべりを聞いて、すごく威勢がよい、とか
ポンポンと喧嘩しているみたいだという。
この、ことば全体の与える印象がプロソディである。
単語や語尾の表現を真似ただけでは、なかなか生きたその地方のことばにならないが、
それはプロソディが真似られないからである。
プロソディ全体を正しく表現できるようにならないと、完成したことばにはならない。
このように、ことばには単音/語/センテンスなど、記号性(非生物性)を特徴とする側面と、
拍・アクセント・プロソディなど音声的特徴(生物性)を表わす側面がある。
両者あわせて、ことばの外形が作り出されるのである。

……中略……
■言葉の記号性を含みこんだ生物学的情報とは

話しことばは、本書の文字言語のように、紙の上に並んだ中性的記号列と異なり、記号列は記号列でも、
表情、ジェスチュア、声音、などさまざまな生物学的属性を持つ記号列として発せられる。
むずかしく言えば、中性的記号列が運ぶ意味(形式的意味)と生物学的音声系列が運ぶ意味(情動的意味)をあわせ持つ、
「生きたことば」として発せられる。
これを受け取る側も、言語記号の持つ形式的な意味だけでなく、相手の表情、ジェスチュア、声音などすべてこみで送ってくる
情動的意味を含めて解読する。
記号性だけが(つまり単語にコードされた意味だけが)行き来するのではなく、
記号性を含みこんだ生物学的情報が行き来するのである。
事例…………
知人に気持ちよく 丁寧な表現で 「こちらへおいでいただけませんか」と言われれば、
その通りの意味(形式的意味)が表現されているだけかもしれない。
見知らぬお兄いさんに、いやに丁寧な、しかしドスの利いた声で「こちらへおいでいただけませんか」と言われれば、
逃げようのない恐怖に襲われるかもしれない。
あるいはだれか虫の好かない人に、慇懃無礼に言われることだってある。
その場合はきわめて事務的な意図が伝達されているわけで、借家を出て行けという交渉の前触れかもしれない。
逆に、「貴様、こっちへ来い!」ということばが、表現は荒くとも、仲間への親しみをこめた呼びかけであることもある。

ことばが運ぶプロソディ、表情、人間配置など、生物学的意味を読み解かない限り、ことばを理解したとは言えないのである。

……中略……
■比喩とユーモアについて

センテンスが伝える意味には、もう一つの地平がある。
比喩とかユーモアと呼ばれるものである。
比喩には直楡と隠喩がある。
直楡は言葉の通り、そのまま直接くらべるもので、「このパン、石みたい」というときのパンと石のくらべ方である。
隠瞼は、何か関係深いものでその特徴を表わし、間接的に表現するものである。
「アメリカ政府はこう言っているしという代わりに「ワシントンはこう言っている」と、
アメリカという国をその首都であるワシントンで表現するのなどがそうである。
たとえば、何か日米政府の交渉についての話題で、「ワシントンはやると言っているしという表現を聞いたとき、
われわれはごく自然にワシントンを米国政府と置き換え、そのことばを理解する。
ところがこのような連想/置き換えができないと、内容は分からなくなる。
ワシントンという名の人がやると言っている、と解釈したり、ワシントンという街がやると言っている、
と解釈しては、なんのことか分からなくなる。
形式的な意味理解だけではこの意味は読み切れない。
センテンスの背景にある文脈が視野に入っていなければならない。
「石橋をたたいて渡る」という諺は、「用心の上にも用心を重ねる」という意味を比喩的に表現したもので、
人口に膾炙しているが、これだって、もし比喩的な連想が働かないと、
「石の橋があるんですが、それをたたきながら渡ることです」という、
文字通りの解釈を一歩も出ないことになる。
なぜたたくのだろう?さあ、いい音が出るんでしょうね。
石も橋も渡るもたたくも理解し、その文法的脈絡も理解していても、これだけで言語活動は終わらない。
形式的な意味からも三段展開して、次の意味を探らなければならない場合がある。
センテンスの表わす意味を一つのシーンに表象し、その表象と、
人間行動の類似のシーンとを重ね合わす作業ができないと、本当の意味は出てこない。 』


■「役作り・言葉と行為」に書かれているように、言葉には音程がある。
日常の慣習としての礼儀作法の中にも、意識するしないは別にして、必ずこの音程が利用されている。
夫婦喧嘩や兄弟喧嘩に見られるように、相互の言葉が段々と音程音階をあげていくものもあるし、
葬儀のご挨拶のように、お互いが音程を下げていくものがある。
喧嘩の時に音程を下げていくと喧嘩にならないし、葬儀の挨拶で音程をあげていくとなんて無礼なやつだと思われてしまう。
このように言葉の音程は、話された言葉の意味とは別に、その言葉を話す人物の精神状態や姿勢を表現している。
会議などで、話している相手より高い音程で「それについて・・・」等と言えば、すぐに反対意見だなと理解できる。
逆にセールスが客に話す時は、客の音程にあわすかそれより下の音程で会話し、
最後に高い音程で印象づけるということがよく行われている。
また会話の音程によって、穏やかさや親密度、緊張感・緊迫感なども表現できる。
演出が「相手の言葉をよく聞いて」という場合、大抵この音程やテンポリズムを指している場合が多い。
なぜなら、相手役の言葉に対して、どの程度音程をあわすのか、下げるのか、あげるのか、テンポリズムの合わせ方は?等など、
そのハーモニーが、大切なコミュニケーションやアンサンブルの調和につながるからだ。
大阪に住んで20年、関西の言葉ほど、この音程やテンポリズムに応用変化の多い言葉は無いと感じている。
関西弁の豊かな表現力と底知れない可能性に、畏怖すら覚える。
標準語は、関東弁として一気に喋らないと、どうも新派や古典劇のようにまだるっこしいモノになってしまう。
またアクセント辞典にない下町言葉は、東京の田舎者以外、必死で耳に入れないとただの棒だら言葉になってしまう。
固くって食えたものじゃ無い。料理するのも大変だ。
標準語は、関西弁からみれば不思議なほど平板だが、「言葉をたてる」という言い方ができるように、
どのセンテンスの中の言葉でも、一語だけ強調することができる。
それは不自然なのだが、その不自然さが標準語の特徴なのだ。
この不自然さは、東京弁や標準語の環境で育っていないと、使いこなせないのかも知れない。
新派を新派劇として創造するのなら、それも素晴らしいのだが、モダンプレイで、しかも関西人が標準語を使うと、
音程もテンポリズムも死んでしまって、こましな朗読になってしまうきらいがある。
関西には、上手な標準語の言葉使いの人も多い。しかし、スピードがあって音程もテンポリズムも溌溂とした新鮮な言葉を使おう。
それには自分の育った言葉が最適だ。
言葉を魅力あるものにすることが、芝居に観客を呼び戻す一歩につながる。



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