土御門院 つちみかどのいん 建久六〜寛喜三(1195-1231) 諱:為仁

後鳥羽院の第一皇子。母は承明門院在子(源通親の養女)。大炊御門麗子を皇后とする。贈皇太后土御門通子との間に覚子内親王(正親町院)・仁助法親王・静仁法親王・邦仁王(後嵯峨天皇)をもうけた。
建久九年(1198)正月十一日、四歳で立太子し、即日受禅。三月三日、即位。承元四年(1210)十一月二十五日、皇太弟守成親王(順徳天皇)に譲位。この時十六歳。承久三年(1221)の乱には関与せず、幕府からの咎めもなかったが、父後鳥羽院が隠岐へ、弟順徳院が佐渡へ流されるに際し、自らも配流されることを望んだ。同年閏十一月、土佐に遷幸し、翌年幕府の意向により阿波に移る。寛喜三年(1231)十月、出家。法名は行源。同月十一日(または十日)、阿波にて崩御。三十七歳。陵墓は京都府長岡京市金、金原陵。徳島県鳴門市池谷に火葬塚がある。
新勅撰集などによれば内裏歌合を催したことがあったらしい。建保四年(1216)三月成立の『土御門院御百首』には定家・家隆の合点、定家の評が付されている。御製を集めた『土御門院御集』がある。続後撰集初出。勅撰入集百五十四首。新三十六歌仙

  3首  1首  3首  1首  3首  6首 計17首

百首歌よませ給うける中に、うぐひす

雪のうちに春はありとも告げなくにまづ知るものは鶯の声(続後撰18)

【通釈】雪の降る中に春はあるとも告げないのに、真っ先に知るものは鶯の声である。

【補記】《雪の降る中、立春を迎えた》という状況設定をして、春告げ鳥としての鶯を詠む。誰が教えるわけでもないのに、真っ先に鶯は鳴き始め、春を告げ知らせる。鳥があたかも暦を知っているかのようだと訝しがりつつ、その不可思議を、季節の順行に叶った目出度いこととして受け止めている。建保四年(1216)、堀川百首題によって詠作した百首歌。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中の憂きもつらきも告げなくにまづ知る物は涙なりけり
  二条后「古今集」
雪のうちに春は来にけり鶯の氷れる涙今やとくらむ

名所柳を

舟つなぐ影も緑になりにけり六田(むつだ)の淀のたまのを柳(風雅98)

【通釈】繋いだ舟の影も緑色になったのだった。六田の淀の玉の緒柳よ。

【語釈】◇六田の淀 大和国の歌枕。激流として知られた吉野川が大きな淀みをなす一帯である。和歌では柳の名所として詠まれることが多かった。◇たまのを柳 柳の枝を玉の緒(宝玉を貫く糸)になぞらえて言う。「たまのを」は初句「つなぐ」と縁語の関係にある。

【補記】春のうららかな陽射しを浴び、川辺の柳が水面に影を映している。岸につないだ舟の影もまた、萌え出たばかりの柳の美しい緑色に染められている。『土御門院御集』増補分に「名所春」の題で載る十首の一。

花の歌の中に

見わたせば松もまばらになりにけり遠山ざくら咲きにけらしも(続後撰71)

【通釈】遠くの山を見わたすと、白く霞んだ雲のようなものに埋れて、松の緑もまばらになっている。桜が咲いらしいなあ。

【補記】常緑の松と白い山桜の対比は、源俊頼の秀詠(下記参考歌)からインスピレーションを得たことが明らかである。創意あふれ奇抜な俊頼詠に対し、こちらは大らかな帝王ぶりの歌。建保四年、若き日の百首歌。

【参考歌】源俊頼「詞花集」
白川のこずゑの空を見わたせば松こそ花のたえまなりけれ

 

百敷の庭の橘おもひ出でてさらに昔をしのぶ袖かな(御集)

【通釈】大宮の庭の橘を思い出して、さらに過去へ遡る昔を思慕する袖の香であるよ。

【語釈】◇百敷(ももしき) 宮廷。上代、「ももしきの」で「大宮」にかかる枕詞として用いられたが、のち大宮そのものを指すようにもなった。

【補記】橘の香に昔を偲ぶとは、古今集の読人不知歌「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」により定式化された趣向である。都を離れた土地で嗅いだその花の香に「百敷の庭の橘」を思い出し、「さらに昔を」、おのれ一代の過去の追想には留まらない、宮廷の遥かな昔を偲ぶ、という。百人一首にも採られた順徳院御製「ももしきや古き軒端の…」に似通うのは偶然だろうか。
『御集』増補分に「夏五首」として見える。晩年の作であろうか。続後拾遺集548には下句を「さらに昔のしのばるるかな」として採っている。

鹿

深山路や暁かけて鳴く鹿のこゑすむ方に月ぞかたぶく(御百首)

【通釈】深山で、夜中から暁にかけて鳴き続ける鹿――その声が澄んで聞こえる方向へと、月は沈んでゆく。

【語釈】◇深山路(みやまぢ) 深山という場所を漠然と指して言う。ここでは「山道」の意はない。

【補記】澄んだ秋の夜、ゆっくりとした時の進みがよく感じられる。建保四年の百首歌。玉葉集568では第四句「こゑするかたに」とある。

題しらず

秋の夜もややふけにけり山鳥のをろのはつをにかかる月かげ(続後撰377)

【通釈】秋の夜もようやく更けてきた。お供えの初穂に月光がかかっている。

【補記】「山鳥のをろのはつを」は万葉集東歌に由来するが、古来難解句として知られる。たとえば契冲は「山鳥の雄の最末尾」の意と解した(万葉代匠記)。現在では「をろ」は「尾」に接尾語「ろ」が付いたもの、「はつを」は「初穂」(初物の穂)で、「山鳥のをろの」は「はつを」の導入句に過ぎず、要するに月への供物(くもつ)としての初穂と解するのが有力になっているようで、これは納得できる説である。土御門院の歌も、明月の夜が更けお供えの薄の初穂に月がかかった、との情景を詠んでいるのだろう。もっとも、深山の林に眠る山鳥の垂れ尾に月がぶら下がっている景を思い描くのも面白い。建保四年の百首歌。

【本歌】作者未詳「万葉集」巻十四東歌
山鳥のをろのはつをに鏡かけとなふべみこそなによそりけめ

題しらず

ちりつもる紅葉に橋はうづもれて跡たえはつる秋のふるさと(続後撰434)

【通釈】散り積もった紅葉に橋は埋もれて、秋が去って行った跡もすっかり絶えてしまった古里よ。

【補記】『土御門院御集』によれば白氏文集の句「紅葉添愁正満階(紅葉愁ひを添へて正に階に満つ)」を題として詠んだ歌。《季節が橋を渡って去る》と見る趣向は「暮れてゆく春やこれより過ぎつらん花散りつもる青柳の橋」(藤原頼宗『入道右大臣集』)など和歌にも先例が少なくない。本作に言う「橋」は、秋から冬へと季節が渡る橋である。その道は紅葉に埋もれて、足の踏み場もなくなっている。「秋のふるさと」は新古今時代に流行った結句であるが、この歌では、擬人化された「秋」が住み慣れた里、の意も帯びる。年月不明記の詠五十首和歌。『土御門院御集』の配列によれば承久四年(1222)の作となり、遷幸地土佐で詠まれたことになる。

冬の御歌の中に

むら雲のたえまたえまに星見えてしぐれをはらふ庭の松風(玉葉846)

【通釈】叢雲の絶え間絶え間に星が見えて、庭の松風は時雨を払うように吹いている。

【補記】時雨をもたらす叢雲の切れ目切れ目に、星の光がまたたく。地上にはぱらぱらと雨が落ちているのだが、それも庭の松風に吹き払われて、星の眺めを邪魔しない。新古今時代、「しぐれ」「まつ」などは暗喩的表現として用いられることが多かったが、この歌は純叙景歌として受け取ってよいように思われる。京極派の歌風を先取りしている観あり。承久四年(1222)正月の詠二十首倭歌、「四季雲」を詠んだ四首のうち秋。しかし玉葉集は冬歌として採った。

後朝恋

あかつきの涙ばかりを形見にてわかるる袖をしたふ月かげ(御集)

【通釈】暁に流した涙ばかりを思い出のよすがとして別れる、私たちの袖――あたかもその袖を慕うかのように月の光が宿っている。

【補記】後朝(きぬぎぬ)は、共に一晩を過ごした恋人同士が明け方に別れること。普通、男が女の家を去って行く、という形になる。有明の月がその悲しみを演出する場合が多いが、この歌もその例に洩れない。涙ながらに別れた後の帰り道、月の光があとを慕うように袖の涙に宿り続ける。承久三年(1221)の百首和歌。続後撰828では第四句を「わかるる袖に」とする。

旅の恋をよませ給うける

わかれても幾有明をしのぶらむ契りて出でし古郷の月(続千載1399)

【通釈】別れて後も、幾たび有明の月に面影を偲びつつ眺めることだろう。それを見たら私を思い出してくれと約束して出発した、故郷の月よ。

【補記】これも承久三年の百首歌。旅人の立場で、故郷に残してきた人への恋心を詠む。旅立ちの朝は有明の月が出ていた。以来、幾たび有明の月に恋人の面影を偲んだことだろう。「同じ月を見るたびに、私のことを思い出してください。私も月にあなたを偲びます」、そう約束して別れた、というのである。良経に先蹤があるが、こちらは長旅における切ない慕情が滲む。余情哀婉の作。

【本歌】藤原良経「新古今集」
忘れじと契りて出でし面影は見ゆらむものを古郷の月

雪月花時最憶君

おもかげも絶えにし跡もうつり香も月雪花にのこるころかな(御集)

【通釈】あの人の面影も、通いが絶えてしまったあとに残されたものも、移り香も、月・雪・花につけ、まだ色濃く残っている頃であるよ。

【語釈】◇月雪花 雪月花の順序を入れ替えたのは調べを慮ってのことか。

【補記】承久四年(1222)、土佐での詠五十首和歌、恋。和漢朗詠集にも採られて名高い白楽天の詩「寄殷協律」(→資料編)の一句を題とする。原詩の「君」は友人を指すが、掲出歌では恋人の意に転じた。離れて行った男のなごりを季節の風物に感じている女の心を詠んだ歌。

【参考】「白氏文集」「和漢朗詠集」(→資料編
琴詩酒伴皆抛我 雪月花時最憶君(琴詩酒の伴皆我を抛ち 雪月花の時最も君を憶ふ)

神祇の心をよませ給うける

ひかりをば玉串の葉にやはらげて神の国ともさだめてしがな(続後撰532)

【通釈】光を榊の葉に和らげるように、仏が尊い光を和らげて神として顕れた国として、この日本を揺るぎなくしたいものだ。

【語釈】◇玉串(たまぐし)の葉 榊の葉。

【補記】「光をやはらげ」との言い方は中世の神祇歌・釈教歌に頻出する。これは、仏が光(知恵の象徴)を和らげて、煩悩の塵に交わり衆生を救済する、とした「和光同塵」の考え方を敷衍し、本地垂迹(ほんじすいじゃく)・神仏同体をこのような言い方で現したものである。「神の国」とは、仏が神として顕れた国、ということ。御集増補分「木名十首」の一。

寄風述懐

吹く風の目に見ぬかたを都とてしのぶもくるし夕暮の空(御集)

【通釈】吹く風が目に見えないように、目に見えない遥か彼方を都として偲びつつ、夕暮の空を眺めることの苦しさよ。

【補記】四国遷幸後の詠述懐十首和歌。御集の巻頭に置かれている。吹く風は目に見えぬ。吹き去る彼方には都があるはずだが、ここからは望むべくもない。そんな遥かな土地から、都を偲ぶ苦しさを詠む。続古今集942では第四句「しのぶもかなし」とする。勅撰集掲載に際しての配慮であろうが、改竄と言うしかない。

旅行のこころを

白雲をそらなるものと思ひしはまだ山こえぬ都なりけり(続古今943)

【通釈】雲を空にある、実体のないものと思い込んでいたのは、まだ山を越えたことがない、都にいた時のことであった。

【補記】白雲が空にあることは誰でも知っているが、実物を間近に眺めたことがなければ、それは「そらなるもの」、空虚な、それこそ「雲をつかむような」ものでしかあるまい。ところで遠い旅に出ることになった人が、初めて高い山を越えた。その時初めて白雲を実体あるものとして見ることとなった、という感慨である。承久三年の百首和歌。

【本歌】「平中物語」
天の川そらなるものとききしかどわが目のまへの涙なりけり

百首歌よませ給うけるに、懐旧の心を

秋の色をおくりむかへて雲のうへになれにし月も物忘れすな(続後撰1203)

【通釈】秋の美しい光を幾度も送り迎えて、雲の上に馴染んだ月よ、おまえも昔のことを忘れないでくれ。

【補記】建保四年の百首歌。「秋の色」は漢語「秋色」に由来し、もとは「秋の景色」の意になるが、ここでは明月の美しい光を言っている。「雲のうへ」は宮廷を暗示し、内裏から眺め馴れた月に対して、「おまえとともに幾多の喜び悲しみを味わってきた。そんな思いを、どうかおまえも忘れないでくれ」と訴えた歌。四国遷幸の五年ほど前の作なのだが、その後の運命を予告しているかのようだ。流された帝王たちの歌を多く採った藤原為家撰『続後撰集』、巻十八雑下の巻頭に置かれている。

文集、草堂深鎖白雲間といふ心を

谷ふかき草の庵のさびしきは雲の戸ざしの明がたの空(続後拾遺1064)

【通釈】谷深くにある草庵の暮らしの寂しいことは、雲に閉ざされて、なかなか明るくならない明け方の空である。

【語釈】◇草堂深鎖白雲間 草堂深く鎖(とざ)す白雲の間。補記参照。◇雲の戸ざし ◇明がたの空 「明け方」「あけ難」の掛詞。「あけ」はさらに「開け」の意を伴って「戸」の縁語になる。

【補記】承久四年(1222)、土佐での詠五十首和歌、雑。山の峡では朝雲が滞ることが多いので、毎朝の明け方が寂しいのである。詞書の「文集」は白氏文集を指すが、現在伝わる白氏文集に「草堂深鎖白雲間」の句は見えない。『土御門院御集』の当該歌の詞書には「文集」の文字はなく、続後拾遺集の「文集」は編者が誤って付け加えたものであろう。

【他出】土御門院御集、拾遺風体集

題しらず

うき世にはかかれとてこそ()まれけめことわりしらぬわが涙かな(続古今1845)

【通釈】このように辛い目に遭えということで、この現世に生れて来たのだろう。そう納得して苦難に堪えるべきなのに、分別もなくこぼれる我が涙だことよ。

【補記】承久三年の百首和歌。『増鏡』では、四国遷幸の際、「道すがら雪かきくらし、風吹き荒れ、吹雪して来し方行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに」この歌を詠んだ、としている。

【他出】土御門院御集、万代集、新時代不同歌合、増鏡、承久記(古活字本)


公開日:平成14年05月15日
最終更新日:平成21年12月24日