土御門天皇の第一皇子。母は贈皇太后源通子(土御門通宗女)。宗尊親王・後深草天皇・亀山天皇・覚助法親王・月花門院ほかの父。
二歳の時承久の乱が起こり、父土御門院は土佐に配流されたため、母の叔父土御門通方に養われた。通方は暦仁元年(1238)に亡くなり、その後は父方の祖母承明門院在子のもとに身を寄せる。そのまま僧籍に入る予定であったが、仁治三年(1242)正月九日、四条天皇が十二歳で崩じると、順徳天皇の皇子忠成王と共に皇位継承候補と目された。九条道家は縁戚の忠成王を推したが、反幕的院政の復活を危惧した幕府は邦仁の即位を要請したものらしく、立太子を経ず践祚、同年三月十八日に即位した(第八十八代後嵯峨天皇)。同年八月、西園寺実氏の息女(のちの大宮院)を中宮とする。四年後の寛元四年(1246)正月に譲位し、以後、後深草・亀山二代にわたり院政をとる。建長四年(1252)、北条時頼の要請に従い、皇子宗尊親王を征夷大将軍として鎌倉に下す。高野御幸、鳥羽殿での遊宴、亀山殿造営など、治天の君としての華やかな活動は『増鏡』に詳しい。文永五年(1268)、出家。法号は素覚。同九年二月十七日、崩御。五十三歳。
宝治元年(1247)、歌合を開催。同二年、応製百首歌「宝治百首」を主催、当時の著名歌人に詠進させた。その後も「八月十五夜鳥羽殿歌合」「白河殿七百首」「弘長百首」を催すなどし、承久の乱後沈滞していた内裏歌壇を復活させた。二度にわたり勅撰集撰進を命じ、建長三年(1251)には藤原為家に『続後撰集』を、文永二年(1265)には為家・真観・基家・行家らに『続古今集』を撰進させた。また物語歌撰集『風葉和歌集』も後嵯峨院の内裏歌壇において企画されたものらしい。
続後撰集初出。以下、勅撰入集は計二百九首。著作に『後嵯峨院御記』『朝覲(ちょうきん)行幸次弟』ほかがある。
春 3首 夏 2首 秋 6首 冬 1首 恋 4首 雑 6首 計21首
建長六年三首歌合に、梅
袖ふれば色までうつれ紅の初花染めに咲ける梅が枝(続拾遺44)
【通釈】袖が触れたら、薫りばかりでなく色までも移し染めよ、紅の初花染めのように色鮮やかに咲いた梅よ。
【語釈】◇袖ふれば 袖が触れたならば。「袖振れば」(袖を振ったのだから)ではない。◇紅の初花染め その年最初に咲いたベニバナの花で染めること。
【補記】建長六年(1254)三月、西園寺にて開催された歌合か。散佚して伝わらない。
【参考歌】よみ人しらず「古今集」
紅の初花染めの色ふかく思ひし心我わすれめや
題しらず
吹く風のさそふにほひをしるべにて行方さだめぬ花の頃かな(続拾遺79)
【通釈】吹く風が我らを花のありかへといざなう――その芳香を道案内にして、目的地も定めずにさまよい歩く、花の咲く頃であるよ。
【参考歌】藤原忠通「金葉集」
峰つづきにほふ桜をしるべにて知らぬ山路にかかりぬるかな
暮春の心を
暮れてゆく春の
【通釈】暮れて行く春への餞別がこれなのだろうか。今日という日、桜の花は幣のように散り乱れる。
【語釈】◇手向 神仏への供え物。ここでは去り行く春への餞別。◇ぬさ 幣。神への捧げ物。旅に出るとき、紙または絹を細かく切ったものを袋に入れて持参し、道祖神の前でまき散らした。
【本歌】よみ人しらず「拾遺集」
春霞たちわかれゆく山道は花こそぬさと散りまがひけれ
残花のこころを
たづねばや青葉の山のおそざくら花ののこるか春のとまるか(続古今186)
【通釈】たずねたいものだ、青葉の山の遅桜よ。そこにはまだ花が残っているのか。春が留まっているのか。
【語釈】◇たづねばや 訪ねたい・尋ねたいの両義を掛ける。
【参考歌】源通具「千五百番歌合」
散り残る青葉の山のさくら花風よりのちをたづねざりせば
河夏祓
さばへなす荒ぶる神にみそぎして民しづかにと祈る今日かな(白河殿七百首)
【通釈】夏の蝿のように騒がしく荒々しい神々に対し、川で禊ぎをして、民が心おだやかに暮せるようにと祈る今日六月晦日である。
【補記】「さばへなす」は記紀万葉時代から用いられた古語で、「荒ぶる神」を枕詞風に修飾する。「さばへ」は陰暦五月頃の蝿。「神」は国つ神。文永二年(1265)七月七日、白河殿(禅林寺)において自ら主催した当座探題歌会での御製。
【本歌】藤原長能「拾遺集」
さばへなす荒ぶる神もおしなべて今日はなごしの祓なりけり
初秋のこころをよませ給うける
さらでだに夏を忘るる松かげの岩井の水に秋は来にけり(続拾遺221)
【通釈】ただでさえ夏を忘れてしまう涼しげな松の木蔭――そこの岩間から湧き出る清水を手に掬べば、冷たさに秋が来たことを実感する。
【本歌】恵慶法師「拾遺集」
松影の岩井の水をむすびあげて夏なき年と思ひけるかな
題しらず
【通釈】秋を待っている間、誰の袖に包み隠されていたのだろう。立秋の今朝になってこぼれる落ちる、露の白玉。
【補記】「つつみ」には「慎む・抑制する」の意が掛かり、「露の白玉」は涙を暗示する。すなわち涙が洩れないよう袖で抑え止める女のイメージを連想させ、秋歌に恋の風趣を添えている。
九月十三夜十首歌合に、朝草花
忘れずよ朝ぎよめする
【通釈】忘れないよ、朝の清掃をする殿守どもの袖に散った秋萩の花よ。
【語釈】◇殿守 後宮十二司の一つ、主殿司(とのもづかさ)の官人。ここでは清掃に従事する下級の女官たちを指す。
【本歌】源公忠「拾遺集」
殿守の伴のみやつこ心あらばこの春ばかり朝ぎよめすな
建長三年九月十三夜、十首歌合に、山家秋風
山ふかき住まひからにや身にしむと都の秋の風をとはばや(新後撰284)
【通釈】山深い住まいだからこれ程身にしむのだろうかと、都の秋風のもとを訪ねて訊いてみたい。
建長三年吹田に御幸ありて、人々に十首歌よませさせ給ひけるついでに
もろこしもおなじ空こそしぐるらめ
【通釈】唐土も、同じひとつの空でつながっているが――かの国の空も、こちらと同じように時雨れているのだろうか。唐紅という美しい染めの色さながら紅葉するこの頃は。
【語釈】◇吹田 摂津国吹田に営まれた実氏の山荘を指す。建長三年(1251)閏九月、後嵯峨院の御幸があり、十首歌が講じられた。◇しぐるらめ 時雨が降るのだろうか。時雨は晩秋から初冬にかけての通り雨。この雨に濡れるほど、木の葉は色美しく紅葉すると信じられた。◇唐紅 大陸渡来の紅。「もろこし」と「から」は一種の縁語。
紅葉盛といへるこころを
枝かはすよその紅葉にうづもれて秋はまれなる山の常盤木(続拾遺363)
【通釈】枝を差し交わす、別の木々の紅葉に埋もれて、秋には稀にしか見えないことだ、山の常緑樹は。
【語釈】◇よそのもみぢ 常磐木以外の紅葉した木々。
初冬のこころを
かきくらし雲のはたてぞ時雨れゆく天つ空より冬や来ぬらむ(新後撰442)
【通釈】空をいちめん暗くして、雲の果てが時雨(しぐ)れてゆく。天空の涯から冬がやって来たのだろうか。
【補記】「雲のはたて」につき定家著と伝わる『僻案抄』は「日のいりぬる山に、ひかりのすぢすぢたちのぼりたるやうに見ゆる雲の、はたの手にも似たるをいふ也」と説く。中世には「雲の旗手」と解していたらしい。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて
【他出】雲葉集、和漢兼作集、題林愚抄
忍恋のこころを
わが涙露もちらすな枕だにまだしらずげの真野の秋風(続拾遺783)
【通釈】白菅の真野に吹く秋風よ、私の涙を露ほども散らさないでくれ。枕さえまだ知らないこの恋を、世間に漏らしたりしないでくれ。
【語釈】◇露も 「ほんの少しも」の意を掛ける。◇枕だに… 涙を耐えてきたから、枕もまだ恋を知らない。◇しらすげの 「知らず」と、真野の枕詞「白菅の」の掛詞。◇真野(まの) 今の神戸市長田区真野町あたり。万葉集の歌から、白菅の繁茂するハンノキ林があったことが知られる。但し琵琶湖西岸の真野とする説もある。
宝治百首歌めしける次に、寄関恋
聞くたびに
【通釈】「来るな」という意味の勿来の関の名を耳にするたびに、辛くなる。あの人の家へ行っては拒まれて帰る私は身につまされて。
【語釈】◇勿来(なこそ)の関 奥州三関の一つ。今の福島県いわき市勿来町。蝦夷に対して「な来そ」(来るな)と願っての命名と伝わる。
九月十三夜十首歌合に、寄月恨恋
来ぬ人によそへて待ちし夕べより月てふものは恨みそめてき(続後撰986)
【通釈】なかなか現れない月を、来ない人になぞらえて待った夕方――あの時から、月というものを恨み始めるようになってしまった。
【本歌】小野小町「古今集」
うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
藤原定頼「新古今集」
来ぬ人によそへて見つる梅の花散りなむ後のなぐさめぞなき
文永二年九月十三夜五首歌合に、絶恋
【通釈】おまえと俺とは、縹の帯のような仲なのだろうか。様子が変わったかと見れば、たちまち絶えてしまっていた。
【語釈】◇花田の帯 縹(薄い藍色)の帯。絶えやすいものの喩えとされた。
【参考歌】和泉式部「後拾遺集」
なきながす涙にたへで絶えぬればはなだのおびの心地こそすれ
題しらず
男山老いてさかゆく契りあらばつくべき杖も神ぞ切るらむ(続拾遺1416)
【通釈】男山の坂を越えて八幡神に祈った効験あって、老いて栄え行くと約束された我が人生であるのならば、然るべき時に突くことになる杖も、神が自ら切って下さるだろう。
【語釈】◇男山 皇室の祖神を祀る石清水八幡宮の鎮座する山。◇さかゆく 「坂行く」「栄行く」の掛詞。◇つくべき杖 長寿のお祝いとして贈られる杖。「つく」は「突く」「憑く(神が依り憑く)」の掛詞。◇神ぞ切るらむ 下記遍昭の本歌に由る言い方。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
今こそあれ我も昔はをとこ山さかゆく時も有りこしものを
遍昭「古今集」
ちはやぶる神やきりけむつくからに千とせの坂もこえぬべらなり
住吉社遷宮の後、熊野にまうで侍りしついでに、かの社によみてたてまつりし歌
神よ神なほすみよしとみそなはせ我が世にたつる宮柱なり(続古今734)
![]() |
【通釈】住吉の神よ、「やはりこの世は住みよし」とご覧あそばせ。我が代に新しく建立する宮柱にございます。
【補記】住吉社はかつて伊勢神宮同様二十年毎に社殿を新造していた。御製は、わが治世に式年遷宮が巡って来ためでたさを詠んだもの。住吉に「住み良し」を掛けていること言うまでもない。
【参考歌】藤原高遠「高遠集」
都をばなほすみよしと思ひつつ祈りてぞゆく神のこころを
題しらず
榊とりますみの鏡かけしより神の国なるわが国ぞかし(続拾遺1457)
【通釈】榊を採り、真澄の鏡をかけて神を祀って以来、神国であるわが国であるぞ。
【補記】榊は神事に用いる常緑樹。神楽の舞人は榊の葉を手に持って舞う。真澄の鏡は白銅鏡。これも古来神事に用いた。
文永三年三月、続古今集竟宴おこなはせ給ふとて、よませ給うける
【通釈】醍醐天皇の古今集、後鳥羽院の新古今集、そして我が世の続古今集と、三代にわたって「古今」の名も歴史を積み重ねました。玉をみがいて光を増すように、我が世の勅撰集にますます光彩を添えてください、玉津島姫よ。
![]() |
【語釈】◇続古今集竟宴 続古今集は後嵯峨院が下命し為家・真観らに撰進させた、第十一番目の勅撰集。十三代集秀歌選参照。竟宴は、編纂完了を祝って催された宴。新古今集竟宴に倣って文永三年(1266)三月十二日に行なわれた。◇いにしへ今 昔と今。「古今」の名の付く三つの勅撰集のことを言っている。◇光をみがけ 玉津島姫の霊験により、続古今集をすぐれた歌集として後世に伝えてほしいとの願い。「玉」との縁でこのような言い方をしている。◇玉津島姫 和歌の浦にある玉津島神社の祭神。衣通姫と同一視され、また「和歌」の地名から、和歌の神として信仰された。
三首御歌の中に竹を
この君の御代かしこしと呉竹のすゑずゑまでもいかで言はれむ(玉葉2260)
【通釈】私の御代(みよ)を指して「この君の御代は偉大であった」と、末々の世までも、どうかして讃えられたいものだ。
【語釈】◇この君 竹の異称。王徽之が庭に植えた竹を「何ゾ此ノ君ノ一日モ無カル可ケンヤ」と言って愛したとの伝に由る(『晋書』王徽之伝)。◇呉竹の 「末」を導くはらたきをする。
【補記】「よ(節)」「すゑ」は「竹」の縁語。
【主な派生歌】
いかばかり心をそへて政すぐなる代ぞと人にいはれむ(後花園院)
公開日:平成14年09月08日
最終更新日:平成21年07月23日