須佐之男命 すさのおのみこと

伊邪那岐命(いざなきのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つくよみのみこと)の弟。素盞嗚尊とも書く。速(はや)須佐之男命、建速(たけはや)須佐之男命とも。大国主神の父。
伊邪那岐命より海原を支配するよう命ぜられるが、従わず、八拳髭(やつかひげ)が胸先に至るまで泣きわめいて、青山を枯山にし、河海を泣き乾した。父に咎められると、「僕は妣(はは)の国根の堅洲(かたす)国に罷らむとおもふがからに泣く」と答え、怒った父神によって追放を命ぜられた。姉に別れを告げに天上へ向かった須佐之男は、ウケヒによって三柱の女神を産む(多紀理比売・市寸島比売・田寸津比売の宗像三神)。これを勝ち誇って、大御神の田を荒らし、御殿に糞をし散らした。須佐之男の悪行はやまず、ついに天照大神は天の岩戸にこもり、八百万の神は須佐之男の髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
出雲の国に降った須佐之男は、八俣の大蛇から櫛名田比売(くしなだひめ)を救い、姫を妻に得て、須賀の地に新婚の宮を建てた。この時詠んだという歌が「八雲立つ…」であり、古今集仮名序などに見られるように、古くから短歌の起源と信じられた。古事記・日本書紀両方に載るが、以下には古事記から引用した。

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八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を

【通釈】雲が何重にも立ちのぼる――雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。妻を籠らすために、俺は宮殿に何重もの垣を作ったけど、ちょうどその八重垣を巡らしたようになあ。

【語釈】◇八雲(やくも)立つ 雲が数限りなく湧き起こる。和歌では普通「出雲(いづも)」の枕詞として用いられる句であるが、掲出歌は古事記によれば須佐之男命が立ちのぼる雲を見て詠んだ歌なので、実景を指すことになる。「八雲」は数限りない雲、あるいは勢いが盛んな雲をあらわすと思われるが、かつては八色の雲(瑞雲)と解するのが普通だった。◇出雲(いづも) 国の名。今の島根県東部にあたる。◇八重垣(やへがき) 何重にも巡らした垣。◇妻籠(つまご)みに 新妻を籠もらせるために。一説に「こみに」を「もろともに」の意とし、「妻と共に」と解する。◇その八重垣を 助詞「を」は前句「作る」の目的格を示すと取れるが、詠嘆をあらわす働きもしていよう。

【補記】八俣の大蛇を退治して櫛名田姫を得た須佐之男命は、新婚の宮を造るべき土地を求めて出雲の国をさすらった。須賀の地に至ったとき、「ここに来て我が心は清々しくなった」と言って、そこに宮を造ることにした。故に、その地をいま須賀というのである。須賀の宮を造り始めたとき、雲がたちのぼった。そうしてよんだのが上の歌であるという。独立した歌として見る時、様々な解釈が可能であることは言うまでもなく、実際多様な説が唱えられているが、ここではあくまでも古事記の文脈に沿って解釈している。

八重垣神社の写真

【ゆかりの地】八重垣神社 島根県松江市佐草町。古く佐久佐神社と称したが、中世に大原郡須賀の八重垣神社を迎え、相殿とした。社号には変遷があり、大正時代以後八重垣神社と称して現在に至っている。祭神は須佐之男命・稲田姫命。古来、縁結びの効験があるとされた。

【他出】日本書紀、古今和歌六帖、俊頼髄脳、和歌童蒙抄、奥義抄、和歌色葉、古来風躰抄、色葉和難集、平家物語(延慶本・覚一本)、和歌無底抄、和歌灌頂次第秘密抄(家隆口伝抄)、太平記

【主な派生歌】
すさのをのみことを祈るともなしに越えてぞみまし波の八重垣(和泉式部)
思ひあればへだつる雲もなかりけり妻もこもれり出雲八重垣(寂蓮)
八雲立つ出雲八重垣けふまでも昔の跡は隔てざりけり(藤原良経[続古今])
しきしまや大和言の葉たづぬれば神の御代よりいづも八重垣(藤原良経)
八雲立つ出雲八重垣ひまもなくめぐみにこめよ君がよろづ代(源家長)
八雲立つ出雲八重垣かきつけて昔語りを見るぞ畏き(後嵯峨院[新後拾遺])
そのままに神代もとほくへだたりて跡やふりぬる出雲八重垣(宗良親王)
世にこえて猶ぞさかえんことの葉を神のさだめし出雲八重垣(正徹)
よもの空春を神代のつまごめに八重垣つくる朝霞かな(肖柏)
もろ神のぬれてやつどふけふよりは時雨の雲のいづも八重がき(下河辺長流)
わが心すがすがしてふ跡とめて今も八雲の道は汚さじ(桜町院)
鶯のつまやこもるとゆかしきは梅咲きかこむ庵の八重がき(蓮月)
妻籠に籠りし神の神代より清(すが)の熊野にたてる雲かも(*平賀元義)
八重垣のむかしのままに霞むらし出雲の宮の春のあけぼの(千種有功)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日