弁内侍 べんのないし 生没年未詳

藤原信実の娘。藻壁門院少将少将内侍の姉妹(同母か)。従二位法性寺雅平との間に女子(新陽明門院中納言)を生む。
寛元元年(1243)、後深草天皇立太子の時に「弁」の名で出仕し、同四年、同天皇の践祚により内侍となる。以後、正元元年(1259)の退位まで仕えた。文永二年(1265)、妹少将内侍の死去により出家。晩年は比叡山横川の北麓、仰木の山里に隠棲。『西園寺実材母集』により、建治三年(1277)頃までの生存が確認できる。
宝治元年(1247)九月の後嵯峨院歌合、宝治二年(1248)に後嵯峨院の召した百首歌、建長三年(1251)九月十三夜影供歌合などに詠進。続後撰集以下の勅撰集に四十五首入集。著作に『弁内侍日記』がある。また連歌にも巧みで、『菟久波集』に十三句を採られている。『新時代不同歌合』歌仙。女房三十六歌仙

題しらず

おのづから風のやどせる白雲のしばしと見ゆる山桜かな(続拾遺90)

【通釈】たまたま風が峰に宿らせた白雲のように、しばしの間だけ留まっていると見える山桜である。

【補記】雲と同じく、風が吹けば散ってしまうだろう、との思いを籠める。

題しらず

ながらへて生けらば後の春とだに(ちぎ)らぬ先に花ぞ散りぬる(新後撰1252)

【通釈】生き長らえて、まだ命があったなら、後に来る春に再び逢おう――せめてそう約束したかったのに、その前に花は散ってしまったよ。

【補記】『現存和歌六帖』に「はな」の題で入集。『人家集』にも見える。

【本歌】藤原長能「拾遺集」
身にかへてあやなく花を惜しむかな生けらば後の春もこそあれ

九月十三夜十首歌合に、初秋露

おく露は草葉のうへと思ひしに袖さへぬれて秋は来にけり(続後撰247)

【通釈】露が置くのは草葉の上と思っていたのに、私の袖さえ濡れて秋がやって来たことだ。

【補記】秋がもたらす悲哀の情に袖を涙で濡らす。「袖さへ濡れて」は万葉集に用例が多いが、「秋は来にけり」と結びつけたのは意表を突いた。建長三年(1251)九月十三夜、後嵯峨院仙洞での影供歌合。

暮秋を

月だにもあり明ならば暮れてゆく秋のなごりは空に見てまし(人家集)

【通釈】せめて月だけでもある有明ならば、過ぎ去る秋の名残は空に眺めようものを。

【補記】晦日月は肉眼では見えない。秋の最後の日、月によって名残を惜しむことは叶わないのである。

初冬のこころを

冬の来る神なび山のむら時雨ふらばともにと散る木の葉かな(続拾遺379)

【通釈】冬が訪れる神奈備山――村時雨が降るなら一緒にと、散り急ぐ木の葉なのか。

【補記】「神(かみ)なび山」は奈良県生駒郡、龍田神社の背後の山。紅葉の名所であるから、この木の葉は当然紅く染まっている。

宝治二年百首歌、寄滝恋

音になほたてぬも苦し思ひせく心のうちに滝なくもがな(続古今1026)

【通釈】それでもなお声に出さないのは苦しい。思いを堰き止めている心のうちに、このように激しい奔流がなければよいのに。

【語釈】◇思ひせく 恋心を必死で押し止めている。「せく」は「急く」の意にもなり、「思いがはやる」とも解せる。

【補記】古今集の名歌二首を本歌取り。宝治二年(1248)、続後撰集撰進の資料とするため、後嵯峨院が当時の主要歌人四十人に詠進させた百首歌。

【他出】宝治百首、秋風抄、秋風集、題林愚抄

【本歌】三条町「古今集」
思ひせく心の内の滝なれや落つとは見れど音のきこえぬ
  よみ人しらず(猿丸大夫)「古今集」
石ばしる滝なくもがな桜花手折りても来む見ぬ人のため

建長三年吹田にて十首歌たてまつりけるに

逢ふまでの命を人に契らずは憂きにたへてもえやは忍ばむ(続拾遺872)

【通釈】逢うまでは命ながらえましょう――そう約束を交わしたからこそ、自制できるのです。そうでなければ、辛いのには耐え得ても、どうして人目から隠し通すことなどできましょうか。

【補記】建長三年(1251)閏九月、西園寺実氏の吹田(大阪府吹田市)の山荘に後嵯峨院の御幸があり、この時に催された十首歌会での作。続千載集に重出。

正元元年の春、南殿の花を見てよみ侍りける

春ごとの花に心はそめおきつ雲居の桜われを忘るな(玉葉1886)

【通釈】春ごとに咲いた花に、その都度私の心は染み付けておいたよ。私がいなくなっても内裏の桜よ、私を忘れてくれるな。

【補記】正元元年(1259)十一月、後深草天皇は十七歳で退位、亀山天皇が践祚した。後深草立坊の時から仕えた作者が内裏を去るにあたっての感慨。


更新日:平成14年12月06日
最終更新日:平成22年02月11日