長慶院 ちょうけいのいん 興国四〜応永元(1343-1394) 諱:寛成(ゆたなり) 別称:慶寿院 法諱:覚理

後村上天皇の第一皇子。母は嘉喜門院か。後亀山天皇の同母兄。子には海門承朝・権僧正行悟・大僧正尊聖ほか。
正平二十三年(1368)三月十一日、父帝が崩御。その前後に践祚したものと思われる。この頃は摂津住吉に行宮があったが、たびたび幕府軍の攻撃を受け、吉野、河内天野金剛寺と移り、天授五年(1379)頃には大和五条の栄山寺に住した。弘和三年(1383)末より翌元中元年(1384)閏九月の間に煕成親王(後亀山天皇)に譲位し、その後院政を行なう。翌二年九月十日、高野山に宸筆願文を納めている。晩年の事蹟は不明であるが、南朝への支援を求めて全国各地の武将のもとを渡り歩いたとの伝もある。出家後は和泉の禅院長慶院に居住し、それにより長慶院の称号が贈られたものらしい。応永元年(1394)八月一日、崩御。五十二歳。菩提供養のため、皇子海門承朝によって慶寿院が創られた。陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵(慶寿院跡)とされている。
和歌・学問に熱心で、源氏物語の注釈書『仙源抄』の著作がある。天授元年(1375)の「五百番歌合」を催し自らも作歌。また同二年南朝内裏歌壇で催行した千首歌『長慶天皇千首』がある(二百余首のみ現存)。弘和元年(1381)、宗良親王が撰修した新葉集を勅撰集に擬える旨の綸言を下した。勅撰入集は新続古今集のみ(読人しらず)。新葉集には五十二首入集。
以下には新葉集と『長慶天皇千首』(以下「千首」と略称)より十一首を抄出した。

  2首  2首  1首  6首 計11首

吉野の行宮にて人々に千首歌めされし次に、山花といふことをよませ給うける

わが宿とたのまずながら吉野山花になれぬる春もいくとせ(新葉109)

【通釈】ここが私の定住地と頼むわけではないが、吉野山に住んで、花に馴れ親しんだ春も何年になるだろう。

【補記】天授二年(1376)の千首歌。長慶天皇は文中二年(1373)に吉野に遷幸。

【参考歌】伊勢「後撰集」
わがやどとたのむ吉野に君しいらばおなじかざしをさしこそはせめ

千首歌めされし次に、花挿頭といふことをよませ給うける

をさまらぬ世の人ごとのしげければ桜かざして暮らす日もなし(新葉1032)

【通釈】天下は乱れ、安定しない世間の俗事が繁忙なので、花の名所吉野に住みながら、桜を挿頭にしてのどかに暮らす日とて無いことだ。

【補記】千首歌では春の部、新葉集では雑の部に収める。

【本歌】山部赤人「新古今集」
ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮らしつ

朝鹿を

をぐら山みねの朝霧たちならし思ひつきせぬさを鹿の声(新葉291)

【通釈】小倉山の朝霧立ちこめる峰にいつも立って鳴く、物思いの尽きない牡鹿の声であることよ。

【補記】「たちならし」は、いつも決まった場所に立って、そこを踏み均すことを言う。無論、朝霧を立ち均すのでなく、峰を立ち均すのである。「たち」は霧の縁語。「思ひつきせぬ」は鹿の鳴き声を聞く人の物思いが尽きないということだが、鹿自身が憂いを抱えているようにも読める。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
雁のくる峰の朝霧はれずのみ思ひつきせぬ世の中の憂さ

谷菊

むすぶ手のしづくぞかをる白菊の花の露そふ谷のしたみづ(千首)

【通釈】掬(むす)んだ手のひらに受けた雫から、ほのかな匂いが立ちのぼる――白菊の花の露が落ち添う谷蔭の清水よ。

【補記】菊の露には長寿の効験があるとされた。「かをる」とは、菊のめでたい霊気を感じるということである。

【参考歌】藤原俊成「新古今集」
駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川
  花山院師兼「師兼千首」
白菊の色も匂ひもうつるらん花の露そふ谷川のみづ

嶺雪をよませ給うける

み吉野は風さえくれて雲間より見ゆる高嶺に雪はふりつつ(新葉472)

【通釈】吉野の山は風が冷え冷えと吹くままに夕暮れて、雲間から見える高峰に雪が積もっている。

【補記】「さえくれて」は、凍りつくような冷たい風が吹き募るうちに日が暮れてゆくこと。冬の奥吉野の厳寒と山々の険峻さが鮮やかに描き出されている。

【参考歌】源実朝「続後撰集」
夕されば汐風さむし波間より見ゆる小島に雪はふりつつ

羈中峰

山たかみ見つつ越えゆく峰の松かへりこむまで面がはりすな(千首)

【通釈】それを目印に眺めながら高い山を越えてゆく、峰の松よ――私が帰って来るまで、変わらない様子でいてくれよ。

【補記】松に「待つ」を響かせるのは常套。松の擬人化は倭建命の伝承歌以来の永い歴史を持つ趣向である。長寿の松にさえ「面変はりすな」と呼びかけることで、帰還が困難な旅であることを予想させる。長慶天皇千首の羈旅歌にはほかにも「月にゆくかちのの原の秋の夜は宿のなきこそ心ありけれ」など、趣深い歌が見られる。

【参考歌】大伴家持「万葉集」巻二十
龍田山見つつ越え来し桜花散りかすぎなむ我が帰るとに
  紀貫之「古今集」
山たかみ見つつわがこし桜花風は心にまかすべらなり
  藤原基俊「続古今集」
世にあらばまたかへりこん津の国のこかげの松よおもがはりすな

五百番歌合に

あつめては国の光と成りやせんわが窓てらす夜はの蛍は(新葉1079)

【通釈】集めれば国の光、国の力となるのではないか。私の如く、夜更けまで蛍の光のもとで学問に励む人々の力を結集すれば。

【補記】車胤が蛍を集めてその光で書を読んだという『晋書』車胤伝の故事を踏まえる。天授元年(1375)、長慶天皇内裏で吉野帰山中の宗良親王を判者に催行された南朝五百番歌合出詠歌。

雨中懐旧

ふりまさる音につけても恋しきは昔の人や雨となりけむ(千首)

【通釈】一層降りしきる雨の音を聞くにつけても恋しく思われるのは、昔の人が雨となって私に寄り添ってくれているのだろうか。

【補記】人が雨になるとは、『文選』の宋玉「高唐賦」、夢に逢った神女が別れにあたり楚の襄王に言った文句「旦(あした)には朝雲と為り、暮には行雨と為る。朝朝暮暮、陽台の下にす」を踏まえる。掲出歌では亡き忠臣たちに思いを馳せるか。

【参考歌】よみ人しらず「雲葉集」
ぬれぬれも花橘のにほふかな昔の人や雨となりけん

千首歌めされし時、寄日述懐を

いかにせんしぐれてわたる冬の日のみじかき心くもりやすさを(新葉1249)

【通釈】どうしようか。時雨がたびたび降る冬の空を渡る太陽のように、せわしなく、曇りやすい我が心を。

【補記】千首歌では初句が「いかがせむ」、結句が「くもりやすきを」となっている。新葉集入集にあたり、宗良親王が添削して改変。

千首歌めされし時、夢中懐旧

思ひつつぬれば見し世にかへるなり夢路やいつも昔なるらん(新葉1319)

【通釈】思い出しながら寝入れば、過ぎ去った時代に帰って懐かしい人々をまざまざと見るのだ。夢の中の路はいつも昔に通っているのだろうか。

【本歌】小野小町「古今集」
思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを

寄河述懐

いにしへにはやたちかへれ水無瀬川ふかき心のすゑの白浪(千首)

【通釈】政(まつりごと)が往古の聖代に早く立ち戻ってほしい。水無瀬(みなせ)の昔を深く心に懸ける私の願いが、将来叶うかどうかは知れないけれど。

【補記】水無瀬川は摂津国の歌枕。三島郡島本町のあたりを流れ、淀川に合流する。そのほとりに後鳥羽院が築いた離宮は名高く、この歌でも後鳥羽院に対する敬慕を暗示していることは疑いが無い。「たちかへれ」「ふかき」「すゑ」などは川または波の縁語。「白浪」に「知ら(ず)」を響かせる。

【本歌】慈円「玉葉集」
たちかへる世とおもはばや神風やみもすそ河の末の白浪


公開日:平成15年06月22日
最終更新日:平成21年07月10日