瞻西 せんさい 生年未詳〜大治二(1127)

出自未詳。初め比叡山に住み、のち東山の雲居寺に証応弥陀院を建立して同寺を大いに発展させた。声明・説教にすぐれたという。
永久四年(1116)に藤原基俊を判者に招いて「結縁経後宴歌合」を催すなど、雲居寺で歌会や歌合を行なった。絵画も能くし、和歌曼陀羅の創案者という。行尊との交流が知られる。金葉集初出。勅撰入集十首(金葉集は二度本で数える)。

旅宿時雨といふことをよめる

庵さす楢の木かげにもる月のくもるとみれば時雨ふるなり(詞花150)

【通釈】庵を拵えた楢の木陰に漏れる月の光――ふと曇ったと思えば、時雨が降ってきたらしい。

【補記】「庵(いほり)さす」は庵を拵えることを言う。旅の途中、楢の木陰に仮の宿を作ったのであるが、ろくな屋根もないのである。「ふるなり」の「なり」は伝聞推定の助動詞と言われるもので、楢の枯葉を叩く音から時雨だと推断しているのである。時雨は晩秋から初冬にかけての通り雨。すぐにまた夜空は晴れ、旅人は不安のうちにも晩秋の山の旅情に浸ったことだろう。

【主な派生歌】
吹くままにくもると見ればやがて又嵐にはるるむら時雨かな(頓阿)
巻向の檜原の霞ただならず曇ると見れば春雨ぞふる(契沖)
高師山くもると見れば程もなく浜名の橋にかかる夕立(本居宣長)

雪の朝、基俊の許へ申しつかはしける

つねよりも篠屋の軒ぞうづもるるけふは都に初雪やふる(新古658)

【通釈】篠屋の軒がいつになく深い雪で埋もれています。今日は都では初雪が降っているのでしょうか。

【補記】藤原基俊は源俊頼と共に白河院政期の歌壇の重鎮で、瞻西は雲居寺の歌合に判者として招いている。個人的にも親しくしていたのだろう。ある朝、瞻西の住む山に、常になく深い雪が積もった。そこで都の友に、そちらは今日が初雪ではないか、と書いて贈ったのである。「篠屋」は篠で葺いた粗末な住まい。その軒を埋める重い山の雪と、大路や邸宅の屋根をうっすら覆う都の初雪と。この二つの雪のイメージが鮮やかに対比されるが、その背後には、友との間を隔てる距離の大きさが意識されている。基俊の返しは「ふる雪にまことに篠屋いかならんけふは都に跡だにもなし」。都の大路には雪が積もって人の痕跡もない(私も寂しく過ごしている)、「篠屋」とおっしゃる貴宅が心配だ。一見丁重な返歌だが、「まことに篠屋いかならん」にはおどけた調子があり、心の距離は近いことを友に伝えているのである。

【他出】基俊集、定家十体(幽玄様)


更新日:平成16年04月29日
最終更新日:平成22年04月09日