藤原実行 ふじわらのさねゆき 承暦四〜応保二(1080-1162) 号:八条太政大臣・八条入道相国

三条家の祖。権大納言公実の二男。母は藤原基貞の娘。待賢門院璋子(鳥羽天皇中宮)の兄。顕季の娘を妻とする。子の公教(後三条内大臣)・公行も勅撰歌人。
寛治七年(1093)、叙爵。右中弁・蔵人頭などを経て、久安五年(1149)、右大臣となる。同六年、太政大臣従一位に至るが、保元二年(1157)、辞職。永暦元年(1160)、出家。法名蓮覚。応保二年(1162)七月二十八日、薨去。八十三歳。鳥羽院の近臣として権勢をふるった。
永久四年(1116)・元永元年(1118)、自邸に歌合を主催(「六条宰相歌合」)。判者はいずれも藤原顕季。源俊頼・藤原顕輔・源顕仲・藤原仲実・源仲正ら当代著名歌人が出詠した。久安二年(1146)、顕輔歌合では判者を務めた。金葉集初出。勅撰入集十四首。

新院位におはしましし時、月のあかく侍りける夜、女房につけてたてまつらせ侍りける

すみのぼる月の光にさそはれて雲のうへまでゆく心かな(詞花293)

【通釈】澄んだ光に輝きながら昇る月に誘われて、私の心も雲の上まで昇ってゆくようです。

【語釈】◇新院 崇徳院◇雲のうへ 宮廷の暗喩。ここでは崇徳天皇の内裏。

【補記】崇徳院の在位した保安四年(1123)から永治元年(1141)までの間の作。同想の歌は少なくなく、例えば『久安百首』の藤原顕輔詠「秋の夜の月のひかりにさそはれてしらぬ雲路に行く心かな」などは瓜二つであるが、実行の作が先行する。初句「すみのぼる」が鮮やかで、類歌を凌いでいる。

【参考歌】肥後「肥後集」
秋の夜は空ゆく月にさそはれて雲の果てまで心をぞやる

行路雪といへる心を読み侍りける

夜な夜なの旅寝の床に風さえて初雪ふれるさやの中山(千載502)

【通釈】東海道をずっと旅してきて、毎晩毎晩、野宿の寝床に風が冷たかった。そうして小夜の中山に辿り着いたら、とうとう初雪が降るのに遭ったよ。

【語釈】◇さやの中山 遠江国の歌枕。静岡県掛川市日坂と金谷町菊川の間、急崚な坂にはさまれた尾根づたいの峠で、東海道の難所の一つ。

【補記】題詠の旅歌。名高い歌枕を生かして、冬の旅の厳しさをしみじみと詠んでいる。

上西門院賀茂の斎院(いつき)と申しけるを、替らせ給ひて、唐崎に祓へし給ひける御供にて、女房のもとにつかはしける

きのふまでみたらし川にせしみそぎ志賀の浦波たちぞかはれる(千載972)

【通釈】昨日までは御手洗川でなさっていた禊ぎを、今日は志賀の唐崎でなさる――志賀の浦の波が立っては次の波に替わられるように、斎院は替わられたのですね。

【語釈】◇上西門院 鳥羽院皇女、統子内親王(1126-1189)。母は待賢門院璋子。大治二年(1127)より五年間賀茂斎院をつとめた。◇唐崎 滋賀県大津市唐崎。琵琶湖の西岸。斎院退下に際しての禊ぎの場所。◇みたらし川 下鴨神社境内を流れる川。

【補記】長承元年(1132)、七歳の統子内親王(のちの上西門院)は病により賀茂斎院を退下し、慣例に従って志賀の唐崎で身を浄めた。伯父にあたる実行はこの儀式に臨席し、その時の感銘を知り合いの女房に書き贈った。『今鏡』の「志賀の禊」に引用され、「丈高く、いとやさしくこそ聞こえ侍りしか」と賞されている。

【他出】続詞花集、今鏡、定家八代抄、歌枕名寄

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

公実卿かくれ侍りてのち、かの家にまかりけるに、梅の花さかりにさけるを見て、枝にむすびはべりける   藤原基俊

むかし見しあるじがほにて梅が枝の花だに我にものがたりせよ

【通釈】昔お逢いしたこの家のご主人様のような態度で、せめて梅の花だけでも私に話しかけてくれ。

根にかへる花のすがたの恋しくはただこのもとを形見とは見よ(金葉605)

【通釈】根に戻る花が恋しいのでしたら、ただ木の下を形見と見て下さい。亡き父を恋しく思って下さるのなら、子の私を形見と思って下さい。

【語釈】◇根にかへる 和漢朗詠集の詩「花は根に帰りしことを悔ゆれども悔ゆるに益なし」云々を踏まえた表現。◇このもと 「木のもと」「子のもと」の掛詞。

【補記】金葉集巻第十雑部下の巻頭。嘉承二年(1107)十一月十四日、実行の父公実が亡くなった時、哀惜の歌を贈って来た藤原基俊に応えたもの。


更新日:平成15年09月29日
最終更新日:平成22年08月15日