小倉実教 おぐらさねのり 文永元〜貞和五(1264-1349) 通称:富小路大納言・小倉大納言

生年は文永二年とも。中納言公雄の子。母は権大納言実世女。子の権中納言季雄・同公脩も勅撰歌人。
文永三年(1266)正月、叙爵。侍従・左少将・左中将などに任ぜられ、正応五年(1292)十二月、参議に就任。永仁二年(1294)二月、権中納言。同五年十月、中納言に転ず。正安元年(1299)四月、権大納言(同年六月に辞退)。貞和四年(1348)、出家。法名は空覚(のち阿覚)。翌年九月七日、薨去。八十六歳。最終官位は正二位。
二条派歌人。兼好頓阿らとの親交が知られる(兼好集・続草庵集)。嘉元百首の作者に列なる。乾元二年(1303)の後二条天皇内裏歌合、正和三年(1314)の詩歌合、同四年三月の花十首寄書、元亨三年(1323)の亀山殿七百首、建武二年(1335)の内裏千首などに出詠。康永三年(1344)または四年、『藤葉和歌集』六巻(本来は十巻か)を私撰。新後撰集初出。勅撰入集は計七十一首。

題しらず

風かよふ池のはちす葉波かけてかたぶくかたにつたふ白玉(新後拾遺258)

【通釈】風が往き来する池――蓮の葉に波がかかり、傾く方向に葉をつたって落ちる、玉のような白露よ。

【補記】夏歌。蓮の葉を滑り落ちる白露に涼感を誘う。

【参考歌】藤原俊成「夫木抄」
あけがたは池のはちすもひらくれば玉のすだれに風かよふなり

後宇多院大覚寺におはしましける比、七夕七百首歌中に、野女郎花を

いくとせか嵯峨野の秋のをみなへしつかふる道になれてみつらん(風雅473)

女郎花

【通釈】もうこれで何年、嵯峨野の秋の女郎花を、上皇の御所に通う道に馴れ親しんで見たことでしょう。

【補記】後宇多院が大覚寺を御所としていた頃、通い路に見馴れた女郎花の花を詠んだ。嵯峨野は京都市右京区。秋の花の名所とされた。「七夕七百歌」とは元亨三年(1323)七月七日に後宇多院が主催した亀山殿七百首。

【参考歌】後嵯峨院「続古今集」
名にめでし嵯峨野の秋のをみなへしこれも菩提のたねとしらずや

中納言為藤、神無月の比、北白川にまかりて、人々十首歌講じ侍りける時、河上冬月

早き瀬は氷りもやらで冬の夜の河音たかく月ぞふけ行く(新拾遺625)

【通釈】冬の夜、流れのゆるい川ならとっくに凍結してしまったろうが、早い瀬は氷りきることもなく、川音が高く響くなか、冴えきった月の光も夜が更けるにつれ衰えてゆく。

元亨元年八月十五夜内裏歌合に、寄月旅

くれぬまにわけつる雲は跡もなし月にぞこゆる峰のかけはし(新続古今957)

【通釈】夕暮前は雲を分けるようにして山道を登って来たが、その雲はもはや跡形もない。今や、さやかな月に照らされて越える峰の梯だことよ。

【補記】疲れも忘れて峻岳を越える心の爽快さが余情となる。「かけはし」(梯・懸橋)は、崖に板などを棚のように架け渡して通れるようにしたもの。元亨元年(1321)、後醍醐天皇主催の内裏歌合。

【参考歌】順徳院「紫禁和歌集」
旅人の袂を霧にしをりして月にぞこゆるさやの中山


最終更新日:平成15年02月17日