小倉公雄 おぐらきんお 生没年未詳

山階左大臣実雄の息子。母は従二位藤原顕氏女。実教の父。亀山院后京極院の兄。小倉家の祖。
宝字三年(1249)、叙爵。侍従・右少将を歴任し、建長六年(1254)従四位下に叙せられる。右中将・中宮権亮を経て、弘長元年(1261)、従三位に昇る。同二年、皇后宮権大夫。文永三年(1266)、参議を拝命し、同四年には権中納言に進む。同五年に従二位、同七年に正二位と昇進を重ねたが、同九年(1272)、寵遇を受けた後嵯峨院の崩御に殉じて出家した。法名は頓覚。正中百首に詠進していることから、正中二年(1325)までの生存が確認される。
二条派の歌人として活躍。弘安・嘉元・文保・正中、各百首の作者。文永二年(1265)七月七日の白河殿七百首、同年の八月十五夜歌合、同年九月の亀山殿五首歌合、元亨三年(1323)の亀山殿七百首などにも出詠した。元亨元年(1321)外宮北御門歌合では判者を務める。続古今集初出。勅撰入集は計百十首。

暮春霞

花鳥の色音(いろね)もたえて暮るる空の霞ばかりに残る春かな(玉葉275)

【通釈】もう花の色も見えなくなり、鳥の鳴き声も聞こえなくなって、暮れてゆく空の霞にしか春は残っていないのだなあ。

【補記】三月晦日、春の最後の一日の夕。

【参考歌】今出河公顕「嘉元百首」
花鳥のなさけもすぐる故郷はかすみばかりに春ぞのこれる

立秋風といふことを

みそぎせし昨日の瀬々の川波に秋たつ風やけふわたるらし(玉葉1944)

【通釈】昨日禊ぎをした川の瀬に、さざ波が立っている。立秋を告げる風が、今日は吹き渡っているらしい。

【参考歌】藤原為家「為家集」
みそぎせしみたらし川の清き瀬にけさ立ちかはる秋の初風

百首歌たてまつりし時

もみぢ葉によその日かげはのこれども時雨に暮るる秋の山もと(続拾遺355)

【通釈】木々の紅葉に、本当の夕日とは別の明るみは残っているけれども、山の麓は時雨のうちに暮れてゆく。

【補記】時雨の降り暮らす暗い風景に、紅葉ばかりがほの明るい。いわば別世界の夕日がそこだけ射していると見たのである。弘安百首。

梅をよみ侍りける

梅が香をまたはうつさじ花の色をかへてやつるる墨染の袖(玉葉1862)

【通釈】梅の香を二度と袖に移すことはしまい。花やかな色の衣裳を捨てて、墨染の僧衣に身をやつした私の袖には。

【補記】作者は文永九年、後嵯峨院崩御に殉じて出家。時に三十歳前後。将来を嘱望された若者の落飾に、世人の同情は一方でなかったという。『増鏡』の作者はその志を「いみじくあはれ」と賞讃している。

文保三年百首歌たてまつりける時

大井川かへらぬ水のうかひ舟つかふと思ひし御代ぞ恋しき(新拾遺1920)

【通釈】大堰川の水に浮かび流れゆく鵜飼船よ――奉仕しようと思っていた御代は川水のように流れ去って帰らぬが、恋しく偲ばれてならない。

【語釈】◇大井川 桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。大堰川とも書く。◇うかひ舟 「うかひ」に「浮かび」「鵜飼」を掛ける。

【補記】大堰川の北岸に豪奢な亀山殿を造営した後嵯峨院の御代を思慕した歌。文保三年(1319)、後嵯峨院の孫後宇多院が召した文保百首。新拾遺集の掉尾を飾る。


最終更新日:平成15年01月06日