藤原師輔 ふじわらのもろすけ 延喜八〜天徳四(908-960) 別称:九条右大臣・坊城大臣

貞信公忠平の二男。母は源能有女、昭子。実頼の弟、師氏・師尹の兄。醍醐天皇皇女勤子内親王・雅子内親王・康子内親王、藤原経邦女らを妻とする。子には伊尹兼通・兼家・高光・為光・公季・安子(村上天皇女御、冷泉・円融天皇の母)・登子ほかがいる。
延長元年(923)、従五位下。同二年、侍従。同六年、右兵衛佐。同九年、右近少将。承平元年(931)、蔵人頭。同三年、右近中将。同五年(935)、参議。天慶元年(938)、従三位権中納言。同五年、大納言。同八年、兼右大将。天暦元年(947)、父忠平が関白太政大臣、兄実頼が左大臣になるに従い、右大臣に昇進。天暦三年、娘の安子が村上天皇の第二皇子憲平親王(冷泉天皇)を生み、中宮となる。同九年、正二位。天徳四年五月四日、五十三歳で薨ず。早世したため右大臣に留まったが、権勢は兄を凌ぎ、「一苦しき二」(上席の実頼が心苦しくなるほどの次席の人)とまで言われた。
天暦十年(956)、「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話などが『大鏡』に記されている。家集に『師輔集(九条右大臣集)』がある。後撰集初出。勅撰入集三十五首。日記『九暦』がある。

天徳三年、内裏に花宴せさせ給ひけるに

桜花こよひかざしにさしながらかくて千歳の春をこそ経め(拾遺286)

【通釈】桜の花を今夜は髪飾りに挿したまま、こうして我らは千載の春をめでたく過ごすでしょう。

【補記】公任撰『拾遺抄』には康保三年の九条右大将の作とあり、藤原師尹の作とするのが正しいか。

女四のみこにおくりける

葦鶴(あしたづ)の沢辺に年は経ぬれども心は雲のうへにのみこそ(後撰753)

【通釈】葦原に棲む鶴のように沢辺に何年も過ごしたけれども、私の心と言えば、雲の上の人であるあなたにばかりあるのです。

【語釈】◇女四のみこ 醍醐天皇皇女、勤子内親王。◇沢辺 「雲のうへ」に対する語で、下界、すなわち臣下たる地位の隠喩。

【補記】勤子内親王の返歌は「葦たづの雲ゐにかかる心あらば世をへて沢に住まずぞあらまし」(大意:それほど雲居に寄せる心があるなら、長いこと沢辺に留まってなどいないでしょうに)。拾遺集に同じ師輔(九条右大臣)の作として「沢にのみ年は経ぬれど葦鶴の心は雲の上にのみこそ」とある。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日