弁乳母 べんのめのと 生没年未詳 本名:藤原明子

従五位下加賀守藤原順時(まさとき)の娘。母は従五位下肥後守紀敦経の娘。母方に紀長谷雄の血をひく。参議藤原兼経(道綱の子)の室となり、顕綱を生む。
長和二年(1013)、三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院)の乳母として出仕する。この時二十歳前後か。承保三年(1076)の「大井河行幸和歌」に出詠。承暦二年(1078)内裏歌合では孫の家道の代作をした。周防内侍・江侍従・源経信ら歌人との交流が知られる。関白藤原頼通とは恋歌の贈答をしている。後拾遺集初出。勅撰入集二十九首。家集『弁乳母集』がある。

枇杷殿の皇太后宮わづらひ給ひける時、所をかへて心見むとてほかにわたり給へりけるを、かくれ給ひて後、陽明門院一品内親王と申しける、枇杷殿にかへり給へりけるに、ふかき御帳のうちに、菖蒲薬玉などの枯れたるが残りけるを見て、よみ侍りける

あやめ草涙の玉にぬきかへて折ならぬねを猶ぞかけつる(千載556)

【通釈】亡き皇后宮の住んでおられた御帳のうちに、五月の節句に使った薬玉が、まだ掛けてあります。それを見ると、亡き人が思われ、涙がこぼれて止まりません。枯れてしまった菖蒲にかえて、この涙の粒を薬玉に貫いて、時ならぬ泣き声をあげてしまいました。

【語釈】◇枇杷殿の皇太后宮 藤原道長の娘で、三条天皇の后となった人。万寿四年(1027)九月十四日崩。◇陽明門院一品内親王 禎子内親王。三条天皇と枇杷殿皇太后宮の間に生れた。弁乳母はこの人の乳母であった。◇ね 菖蒲草の根と泣く音(ね)の掛詞。

故皇太后宮うせ給ひて明くる年、その宮の梅の花おもしろく咲きたりけるに、人々いと口惜しくなど言ひければ

形見ぞと思はで花を見しだにも風をいとはぬ春はなかりき(後拾遺899)

【通釈】この梅の花が、亡き皇太后の形見になろうとは。そんなことは露思わずに、毎年春になれば、この花を眺めていたものでした。そんな時でさえ、花を散らす風は嫌なものでしたが……いま皇太后の形見と思えば、なおさらです。

心かはりたる人につかはしける

恋しさはつらさにかへてやみにしを何の残りてかくは悲しき(続後撰865)

【通釈】貴男への恋しさを、すっかり辛さに代えて終わった恋だったのに、何が残ってこう悲しいのでしょうか。「辛さ」になり切らなかった「恋しさ」が残っているとでもいうのでしょうか…。

【補記】金葉集三奏本には第四句「なにのなごりに」。

題しらず

山の端をいづるのみこそさやけけれ海なる月のくらげなるかな(続千載745)

【通釈】山から出て来るのは明るいのに、海にいる月の「暗げ」なことよ。

【補記】家集の詞書は「しほゆの所に、くらげのありしを」。有馬温泉に滞在中、クラゲ(海月)を見ての即興。続千載集では誹諧歌として入集。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日