藤原頼通 ふじわらのよりみち 正暦三〜延久六(992-1074) 号:宇治関白・宇治殿

御堂関白道長の長男。母は源倫子。上東門院彰子の弟。右大臣頼宗・関白教通・権大納言長家らの兄。子(養子含む)に、関白師実・権大納言通房・修理大夫俊綱(橘俊遠の養子となる)・大僧正覚円・後朱雀后嫄子(もとこ)・後冷泉后寛子ほかがいる。因幡守種茂女・具平親王女らを妻とした。
長徳四年(998)に昇殿し、侍従・春宮権大夫などを経て、長和二年(1013)、権大納言に任ぜられる。寛仁元年(1017)三月、二十六歳にして内大臣に進み、さらに父の後を継いで後一条天皇の摂政となる。同三年関白、同五年左大臣。以後、後朱雀天皇・後冷泉天皇と三代にわたり関白を務め、荘園整理などを進めた。寛仁五年(1021)、従一位。長暦元年(1037)、養女の嫄子を後朱雀天皇の中宮とする。永承六年(1051)、娘の寛子を後冷泉天皇の皇后に立てたが、結局皇子は生れなかった。永承七年(1052)、宇治平等院鳳凰堂を建立。康平二年(1059)左大臣を辞し、同四年太政大臣となったが、翌年これも辞した。治暦三年(1067)関白を辞し、延久四年(1072)四月、出家。法名は蓮花覚、のちに寂覚。引退後は宇治に住んだ。延久六年(1074)二月二日、薨去。八十三歳。
長元八年(1035)の関白左大臣頼通歌合を開催するなど、歌壇の後援者として大きな存在であった。私家集の集成や歌合類聚事業など、和歌史上の功績も大きい。後拾遺集初出。勅撰入集は十五首(金葉集は二度本で計算)。

高陽院の梅の花を折りてつかはして侍りければ   大弐三位

いとどしく春の心の空なるに又花の香を身にぞしめつる

【通釈】ただでさえ春は心がうわの空になりますのに、その上また贈って下さった梅の花の香を身に染み付けて、いっそう浮き浮きした気持ちになりました。

【語釈】◇高陽院(かやうゐん) 賀陽院とも書く。「かやのゐん」とも。二条城の東北にあたる。もと賀陽親王邸だった邸を、頼通が治安元年(1027)に自邸として拡張した。

返し

そらならばたづねきなまし梅の花まだ身にしまぬ匂ひとぞみる(新勅撰45)

【通釈】うわの空なら、ふわふわと飛んで来てくれるでしょうに。我が家を訪ねてくれないということは、梅の花の匂いが、まだ身に染みていないと思われますぞ。

【補記】頼通が自邸の梅の花を折って大弐三位のもとへ届けた。それに対し、大弐三位は皮肉を利かせた感謝の歌を贈り、頼通は相手が訪ねてきてくれないことに、感謝の思いが足りないと不満を述べた。どちらもユーモアを籠めて言っているのである。

祐子内親王家に歌合し侍りけるに、歌合などはててのち、人々おなじ題をよみ侍りけるに

有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む(後拾遺192)

【通釈】暁闇の中、ほととぎすが鳴いて、たちまち飛び去ってしまった。せめて空に有明の月が出ていたらなあ。たった一声鳴き捨てて去って行く方を、見送ることもできように。

【語釈】◇祐子内親王 後朱雀天皇第三皇女、高倉一宮と号す。母は中宮嫄子で、すなわち頼通の孫にあたる。◇有明の月 普通、陰暦二十日以降の月。月の出は遅く、明け方まで空に残る。

【補記】永承五年(1050)六月五日、頼通の賀陽院において、祐子内親王の名で主催された歌合のあと、「郭公(ほととぎす)」の題で詠んだ歌。

【他出】袋草紙、今鏡、定家八代抄

宇治入道前関白のもとより、「思ひいづいづ」とかきてつかはしたりければ   二条院宣旨

思ひ出づることはうつつかおぼつかな見はてでさめし明けぐれの夢

【通釈】思い出すとおっしゃるのは本当でしょうか、心もとないことです。途中で醒めてしまった明け方の夢のように、はかない逢瀬でしたもの。

【語釈】◇明けぐれ 夜が明けたばかりでぼんやり暗い頃。

返し

見もはてでさめけむ夢を思ふにもこれぞうつつといかで知らせむ(玉葉1516)

【通釈】最後まで見ずに醒めてしまったとおっしゃる夢を思い出すにつけ、これこそがまぎれもない現実であり、私は本気であると、どうやったらあなたに分かってもらえるのでしょう。

【補記】「宇治入道前関白」、すなわち頼通のもとから「思ひいづいづ(前夜の情事が思い出されてならない)」と手紙が来たのに対し、二条院宣旨は情事を夢と言い「おぼつかな」と型通りの返事を歌にした。それに対して頼通は、夢を「うつつ」と言い、自身が本気であることを訴えている。この歌は『弁乳母集』にも見えるので、「二条院宣旨」は弁乳母と同一人であろうという。


更新日:平成17年04月19日
最終更新日:平成22年11月06日