ゲストブック(やまとうた・はるのゆき芳名帳)

足跡を残して行って下されば幸いです。

掲載に不適当と判断した投稿は予告なく削除することがあります。

※画像が添付できます(ファイルサイズは120KBまで)。

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 早速のレスありがとうございます!    ..ゆゆ    
      2004/07/30(金) 20:07  No.304
 
 
水垣様、こんばんは〜!
夜遅くにレスして頂いて申し訳ないです。

空蝉のよのはかなさを思ふには猶あだならぬあさがほの花
うつせみはむなしきからも残りけりきえて跡なき朝がほの露

なるほど、為定の歌は返歌だったのですね。「むなしきからも」の「も」が引っ掛かるな、と思っていたんです。やはり、前後関係や背景を知ってこそ面白くなりますね。
空蝉と朝顔の露、儚い物合わせをしているようにも見えて、奥ゆかしいです。
悲しみも和歌の贈答で慰め合うのが、また憎い!こういう事がさらりとできる当時の人々、カッコイイですね。

ご推察の通り、奈良でしばらくサボるつもりです(笑)。奈良といっても明日香や藤原京に近い所なんですよ!明日香は昔から変わらない、のどかな風景の拡がる所です。
写真は田舎風景(笑)。階段を登りきると推古天皇の陵があります。



 暑中お見舞い申し上げます。    ..水垣    
      2004/07/30(金) 01:45  No.303
 
 
この暑さに、豪雨・雷と、大変な夏であります。皆様にはお変わりございませんでしょうか。

>ためかぬ様
> 橘の花の香通ふ朝風にさやぐ小鈴の音の涼しさ

惜しみつつ削った歌でしたが、こうして引用する機会があり、すぐさま反応を頂いて私こそ嬉しく存じます。

「雅澄の澄んだやさしい心が風と共に伝わってくるよう」、全くその通りだと思います。

ところでこの「小鈴」、ガラス(ビードロ)製の風鈴なのか、金属製の風鈴なのか、ちょっと気になります。ガラスの方が涼しげかなと最初は思ったのですが、黒っぽい鋳物製の風鈴などを思い浮かべるのも一興かなと思います。


>むらじ様

新天地にはお慣れになったでしょうか。
私もちょっと田舎の方へ移ることになりました。新しい土地が楽しみな反面、パソコン周辺の蛸足配線などを見るにつけては憂鬱になります(笑)。

>これが落ちてしまうというあたり、歌の世界の奥深さが分かるような気がいたします。

いやーその「奥深さ」の一端にでも触れ得ているのか、心もとない限りなのですが…。そんな風に言って頂けると、面映ゆく感じます。


>ゆゆ様

お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか。
大阪も暑いでしょうね。

>うつせみはむなしきからも残りけりきえて跡なき朝がほの露(為世)

これは『新拾遺集』と『草庵集』(頓阿の家集)に見える歌です。為世というのは誤りで、正しくは為定でした(後日訂正しておきます)。おばの為子が亡くなって、為定が喪に服していた頃、頓阿が蝉の抜け殻を朝顔の花につけて、歌を贈って来ました。

 空蝉のよのはかなさを思ふには
     猶あだならぬあさがほの花

「もぬけの殻になった空蝉のはなかさに比べれば、朝顔の花もまだ徒ではない」と、若くして亡くなった為子の命のはかなさを嘆いた歌です。
これに返したのが「うつせみは…」の歌で、「空蝉は空しいと言っても殻だけは残りました。跡も残さず消えてしまった朝顔の露こそははかないものです」。
詞書がないと難解な歌ですね。

ご実家は奈良でしたか。しばらくのんびりされるのでしょうか。お互い、引越しを控えて夏バテにはくれぐれも気をつけましょう。

大木、みごとな枝っぷりですね。南国らしい豪快さがありますが、風の抜けるような爽やかさも感じます。素敵な写真をありがとうございました。



 暑中お見舞申し上げます。    ..ゆゆ    
      2004/07/29(木) 19:33  No.302
 
 
水垣様、皆様、お久しぶりで〜す!お初にお目にかかる方には、初めまして〜!ゆゆと申します。
お年始の挨拶に来て以来、ご無沙汰してしまいました。
毎日暑くて、大阪のど真ん中でも蝉が鳴き続けております。
そこで思い立って「空蝉」で検索してみたら、綺麗な歌を見つけました!

うつせみはむなしきからも残りけりきえて跡なき朝がほの露(為世)

たくさん出てきた中で、目を引いて心惹かれたのですが、例によって(笑)私には意味が判然としません;
現実の身では、命が消えても殻(身体)が残ってしまうから、跡形もなく消える朝顔の露になりたい……というような意味かな?と思ったのですが、単に情景を詠んだものかも、とも。例によって、頓珍漢なとらえ方かもしれず恥ずかしいのですが、真意はどうなのでしょう……。どんな状況で詠まれたものか知りたいです。

ところで、水垣さん、引越しされるんですね。
実は私もこの秋口、会社を辞めて実家の奈良へ帰る予定なんです。お互い、バタバタしますが、和歌鑑賞を気分転換にがんばりましょう(笑)。

写真は去年の夏、徳島の祖母宅の近くで撮った大木です。徳島は夏でも風がよく通って過ごしやすかったです。



 暑中お見舞い申し上げます    ..むらじ    
      2004/07/28(水) 11:58  No.301
 
 
おひさしぶりでございます。むらじです。
お引っ越しになるんですね。小生も先日引っ越したばかりなので、大変さお察し申し上げます。

橘の花の香通ふ朝風にさやぐ小鈴の音の涼しさ

一読して詠んだ人の気持ちがスッと胸の中に入ってくるような、いい歌ですね。
これが落ちてしまうというあたり、歌の世界の奥深さが分かるような気がいたします。
本当に暑い毎日、小生もいささか暑気あたり気味です。
皆様もどうかご自愛くださいませ。



 暑中お見舞い申し上げます    ..ためかぬ    
      2004/07/27(火) 23:40  No.300
 
 
橘の花の香通ふ朝風にさやぐ小鈴の音の涼しさ

>千人万首に入れようか迷った挙句落としてしまった作ですが、

連日の猛暑の清涼剤となるような鹿持雅澄の清澄な歌を、こうして、
ご紹介いただき、うれしいかぎりです。

五月の伏見で見た橘の美しい思い出がよみがえりました。

白い花の色、香り、音の清らかさ、そして雅澄の澄んだやさしい心が風と共に伝わってくるようです。暑さと冷房でバテそうな毎日を過ごしているからでしょか。一日の始まりをありがたく迎える余裕が羨ましくも思えました。

いつもながら、ご多忙な中での更新等ほんとうにありがとうございます。



 暑中お見舞い申し上げます>紀州の姫様    ..水垣    
      2004/07/27(火) 21:25  No.299
 
 
紀州の姫様、お気遣い有り難うございます。
実は一か月前位から探し始めていて、なかなか条件に合う物件が見つからず、それこそ顔を青くしたり赤くしたりの日々でした(笑)。ところが先週末、やっと良い物件が見つかり、今日めでたく交渉成立(値段の数字は多分見間違っていないはず)、ほっと胸を撫で下ろしているところです。
下手をすると猛暑の夏を家探しで費やすことになるかと怖れていましたが、どうにか、日射病にも熱射病にも罹らずに済みそうです。
引越しは秋口になりそうです。

紅鹿背の香合のお写真も有り難うございました。さすが、何とも渋い紅ですね。「朝日焼」の名の通りと申しましょうか、半曇りの朝焼けの空の色を思わせるような、微妙な美しい色合に見とれてしまいました。
またまた良い目の保養をさせて頂きました。

南国土佐もさぞかし暑いでしょう。姫様こそお墓参りでは日射病・熱射病にくれぐれもお気をつけ下さい。

 橘の花の香通ふ朝風にさやぐ小鈴の音の涼しさ

文政五年(1822)、鹿持雅澄が十二代土佐藩主山内豊資の命に応じて詠んだ「風鈴歌」です。千人万首に入れようか迷った挙句落としてしまった作ですが、お餞別として。



 暑中お見舞い申し上げます    ..紀州の姫    
      2004/07/26(月) 17:55  No.298
 
 
水垣さま
この炎天下、家探しをなさっておられるのですね!?
顔が赤くなれば日射病、顔が青白くなれば熱射病だそうです。どちらにもお気をつけてお探し下さいませ。暑さの余り、家のお値段の数字をお間違えになられませんようにね。(^^)

実は、そんなお忙しい時に添付したものかどうか迷いましたが・・・・、する事に致しました。撮影の腕の悪さはお許し下さい。

お約束の、朝日焼・紅鹿背「橋姫香合 宇治十帖・内 豊斎」です。
二人の姫が合奏した琵琶と琴の内の琴香合です。

紅鹿背(べにかせ)に付きましては、
『襲名した時点から私なりに古朝日を目指した研究の中で、やや鉄分の多い鹿背土が様々な表情を見せる中、時折紅色の発色があり、これを「紅鹿背」と名付けました。釉の窯変よりも土自身の色が変わる、即ち「土の窯変」であります。   (十五世 松林豊斎)』

をご参考になさって下さいませ。

月末に、高知にお墓参りに行きます。
千人万首の鹿持雅澄には“夏”の歌がありませんが、土佐の雅澄を思い行って参ります。



 サイト内検索キーワード ランキング 七月分    ..水垣    
      2004/07/25(日) 20:48  No.297
 
 
暑い日が続いておりますが、皆様お元気でしょうか。
私は拠ん所ない事情から引越することとなり、毎週末、炎天下を家探しに駆け回っております。しばらくは更新も滞りがちとなるかもしれません。早く決着をつけて落ち着きたいものです。

さて今月もCo.Co.Da e-Xpressより弊サイト内検索の履歴が送られて来ました。10回以上検索が実行されたキーワードを挙げます。

50  藤原定家
47  七夕
31  小野小町
26  柿本人麻呂
19  西行
18  天の川
13  紀貫之
12  額田王
12  源実朝
11  和泉式部
11  紫式部
10  大伴家持
10  正徹
10  蝉丸

二カ月連続一位だった「紀貫之(きのつらゆき、つらゆき)」が急減し、「藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)」がトップに立ちました。
やはり今回も歌人名での検索が多かったのですが、七夕・天の川を始め、蝉・朝顔・蛍など、季節の風物での検索も目に付きました。
実朝・家持・正徹と、私の殊に好きな歌人たちが増えたのは嬉しいことでした。




 飛鳥川    ..水垣    
      2004/07/21(水) 23:12  No.296
 
 
栢森あたりは風情の残る土地ですね。飛鳥川は細流ですが、古今集の歌よろしく淵と瀬が繰り返し、小さな滝もあったりして、変化に富んだ眺めは飽きることがなかったでしょう。
稔りの多い「万葉ウォーキング」だったようで、何よりでした。

この機会に人麻呂の明日香皇女挽歌を読み直してみましたが、生前の睦まじい夫婦仲の様子が印象的でした。

 春へは 花折り挿頭(かざ)し 秋立てば 黄葉(もみちば)挿頭し
 敷栲(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず
 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし

そして残された夫忍壁皇子に対する深い思い遣り。

 ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が
 夏草の 思ひ萎えて 夕星(ゆふづつ)の か行きかく行き
 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず

また、明日香皇女の名に因む明日香川に言寄せた、無常という宿命に対する痛惜の念。

 明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば
         流るる水ものどにかあらまし

傑作の多い人麻呂の挽歌の中でも、やはり力作と呼べる作品ではないかと思いました。



 今晩は    ..一人静    
      2004/07/19(月) 20:30  No.295
 
 
飛鳥川に出かけてきました。
栢森(かやのもり)にバスを止め、そこから石舞台までを飛鳥川沿いに散策しまた。せせらぎを耳にしながら、飛鳥の山並みをながめながらの散策です。
アザミや甘草の花の咲く田舎道を歩きながら、明日香皇女の長歌を思い出すと、皇女の人柄が花となり、せせらぎとなり、とても慕わしくなります。
人麻呂の歌が美しく仕上がっていることも歩きながらしみじみと感じたことでした。
こうして、万葉の歌を学びながら、現地を訪れることができるのは楽しいものです。
最後に犬養先生の記念館に行くこともできました。
カセットで楽しんでいた犬養節をビデオで見ることができ、思い出深い一日となりました。



 暑中お見舞い申し上げます>okuchan様    ..水垣    
      2004/07/18(日) 01:15  No.294
 
 
お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか。
興味深い記事・写真を有り難うございます。黒主山、まことに豪華絢爛で眩いばかりです。「目も綾」とはこのことでしょうか。
御神体は桜の花を見上げている大伴黒主なのですね。
黒主は六歌仙の一人ですが、謎めいた人物で、様々な伝説がつきまとっています。
謡曲「志賀」は、古今和歌集の仮名序で大伴黒主につき「そのさまいやし。言はば、薪負へる山人の花の陰にやすめるがごとし」とあるのを基に、都人が花盛りの志賀の山中で木こりに出逢い、それが実は姿をやつした黒主の神霊だった、といった話になっています。
雲玉集の歌は、

 みちのべのたよりの桜をりそへて
        薪やおもき春の山人

と、これも仮名序をもとに黒主の歌として創作したものでしょうか。

粽が泥棒除けのご利益があるとは、どんな謂われがあるものかと、面白く伺いました。
「訂正」のおかげで、巡行時の素晴らしいお写真まで拝見することができました。誠に有り難うございました。



 訂正とお詫び    ..okuchan    
      2004/07/17(土) 18:10  No.293
 
 
 前投稿にて京都祇園祭り宵々山のご紹介を申し上げました。その欄で黒主山が、17日巡行に一番クジを引き先頭を行く旨の書き込みを致しましたが間違いでした。一番クジは太子山で黒主山は26番目でした。訂正しお詫び申し上げます。長刀鉾以外は、市庁舎にて事前にクジを持って順番を決める慣わしが有ります。
巡行時の様子をご紹介します。



 暑中お見舞い申し上げます!    ..okuchan    
      2004/07/16(金) 10:52  No.292
 
 
 お久し振りで御座います。
「やまとうた」に参加出来得る身では有りませんが、昨夜当京都の地での夏祭り「祇園祭り」の「宵々山」に出かけました。巡行時長刀鉾に続いて一番クジを引いた黒主山の飾りを鑑賞してきました。山を飾る見送りが新調され、胴懸け、前垂れが御神体と共に豪華絢爛と飾られていました。御神体は大伴黒主が志賀の山桜をめで詠んだ雲玉集の歌に因んだものであり、謡曲「志賀」にちなんだやまであります。
大伴黒主、雲玉集、謡曲志賀を知り得ぬ小生ですが、盗作嫌疑から御神体となり、厄除けのお守り「粽」が泥棒除けにご利益があるという処に興味を覚えました。桜を仰ぎ見る御神体と懸装品の飾りを画像にてご紹介いたします。



 RE:鹿持雅澄    ..水垣    
      2004/07/14(水) 23:20  No.291
 
 
ひよきち様、こんばんは。

総じて江戸期の国学者たちの文章は、流麗にしてかつ論理的、実に見事なものだと思います。きっと和文と漢文と両方に精通していたからこそ、あんな文章が書けたのでしょう。

雅澄の人ととなりも当然文体に反映しているでしょうが、人柄を知るには歌を読むに如くはありませんね。

>吾が盛りくだつともよし吾妹子が
     玉の光儀の旧りずありせば

雅澄がこの歌を詠んだのは、妻の菊子がちょうど三十歳を迎える正月でした。夫として妻の年齢に或る感慨を覚えずにはいなかったのではないか、と思いやられます。

結局、菊子は四十歳を迎えることなく亡くなってしまうのですね。
「玉の光儀の旧り」ぬままに逝ったのだと思ったところで、慰めにはならなかったでしょう。



 鹿持雅澄    ..ひよきち    
      2004/07/14(水) 08:35  No.290
 
 
水垣さま、おはようございます。

先だっては
拙サイトにてユニコードのことをお教え下さいまして
本当にありがとうございました。

心よりお礼申し上げます。



今 萬葉集古義を読んでおりますが
その中に書かれてあります文章の美しさに
とても心惹かれます。

雅澄とは一体どのような人であったのだろうと
様々思いを巡らしております。



吾が盛りくだつともよし吾妹子が
     玉の光儀の旧りずありせば


この歌がとても心に残ります。



この歌が妻菊子の存命中に詠われたものであると知って
安心いたしました(*^_^*)


もしもこの歌が
妻が亡くなった随分後に詠われたものであったならば

雅澄はどのような想いでこの歌を詠ったのだろうと
想像するだけでも ちょっと辛いものがありますので。








 ありがとうございました。    ..ためかぬ    
      2004/07/13(火) 21:10  No.289
 
 
『平安鎌倉私家集』次の機会、図書館で探してみることにします。

>成長を祝福するのに相応しいめでたい歌だと思います。
お墨付きをいただけたように、うれしいです。
若々しく明るい未来を思い起こさせ、やわらかく温かな光を感じた
「つのぐむ」という言葉がますます好きになりました。



 RE:毎月集    ..水垣    
      2004/07/13(火) 06:38  No.288
 
 
昨夜も比較的涼しく、寝苦しい程ではなかったですね。
以前も掲示板で少し話題になったかと思いますが、夏の暑さを取り上げた和歌は少ないのですよね。好忠はその点でも大変ユニークな歌人です。上品な中上流貴族たちが目を背けていた所にことさら目をつけ、執着したわけです。

>みしま江につのぐみわたる蘆の根のひとよのほどに春めきにけり

こういう歌は当時の歌壇にも比較的受け入れやすかったでしょうが、「つのぐむ」は万葉集にも三代集に見えない語で、多分俗語に近い言葉だったのではないでしょうか。今読むと大変イメージ喚起力のある美しい語に見えるのですが。

>みしま江や霜もまだひぬ蘆の葉につのぐむ程の春かぜぞふく

これは霜と春風を加えて、さらに喚起力豊かな歌になっています。「卒業、進級の季節にぴったり」とは、言われて初めて気づきましたが、成長を祝福するのに相応しいめでたい歌だと思います。

好忠の『毎月集』は岩波日本古典文学大系の『平安鎌倉私家集』に頭注付きで収められています。図書館には大抵置いてあります。分厚い本ですが、今なら古書店で千円前後でしょう。

私は出先で本を読むことが多いので、和歌もなるたけ文庫本サイズで読みたいのですが、そういう意味で「手軽に読める」歌集は極めて少ないですね。日頃からちょっと残念に思っていることです。



 毎月集    ..ためかぬ    
      2004/07/12(月) 21:37  No.287
 
 
ここ2日ほどは小休止といった感じですが、
梅雨を押しのけての猛暑ぶりに、いかにも夏!!
といった歌はないかと古玉聚を拝読していましたら、
>「夏の歌人」と呼びたいくらい炎暑の季節感に執着した人、
曾禰好忠の歌が心境にぴったり。
あらためて千人万首での紹介に興味をもちました。

  わぎもこが汗にそぼつる寝たわ髪夏のひるまはうとしとや見る

>およそ三代集の典雅とはかけ離れた趣である。
よくぞ残してくださいました、とうれしくなりました。

  みしま江につのぐみわたる蘆の根のひとよのほどに春めきにけり

の派生歌

  みしま江や霜もまだひぬ蘆の葉につのぐむ程の春かぜぞふく
                                     源通光

この歌は、とても好きな歌で3月卒業、進級の季節にぴったりのような気がして何度か絵葉書に添えました。

補記にある「出典は『好忠集』の中心をなす『毎月集』。一年を四季の各三カ月に、一カ月を上・中・下旬の三旬に分け、全360首を載せているが、掲出歌はその巻頭歌である。」の『毎月集』手軽に読める出版物はないのでしょうか。



 RE:作曲家の瀧廉太郎    ..水垣    
      2004/07/09(金) 22:19  No.286
 
 
紀州の姫様
お話を伺って、私も中学の音楽教室が懐かしく思い出されました。音痴の私には、結構つらい思い出もあった教室ですが(笑)。
瀧廉太郎の歌に心の故郷を見る日本人は少なくないと思いますが、音楽をお仕事になさっている方にとっては、思いの深さは格別なのでしょうね。

なお記念館の庭を「昔のまま」と書きましたが、私の勘違いだったようで、下記サイトの記事からすると、記念館再建時に新しくデザインされたもののようです。

http://www.t3.rim.or.jp/~u-minami/class/design/w.house/japan/rentaro/rentaro.html



 明日香皇女挽歌    ..水垣    
      2004/07/09(金) 22:18  No.285
 
 
一人静様、MM3210様、
こんばんは。今日も暑かったですね。

旧国歌大観番号196以下の明日香皇女の挽歌の件は、MM3210様のおっしゃる通りです。199以下の高市皇子挽歌は持統十年(西暦696年)、204以下の弓削皇子挽歌は文武三年(699)、そして明日香皇女挽歌は文武四年(700)の制作と見て間違いないので、年代順の排列としては『萬葉集古義』が正しいことになります。
MM3210様、有り難うございました。

街中の飛鳥川は溝川になってしまいましたが、少し上流に行けば、透んだ水の流れに藻の靡く様も見えるでしょうか。いつの時代のものか、稲淵あたりには石橋なども残っていました。人麻呂の歌を口ずさみながら川辺に佇めば、昔の人と共に明日香皇女を偲ぶことができそうですね。



 MM3210様    ..一人静    
      2004/07/09(金) 12:17  No.284
 
 
ありがとうございました。
確かにありました、そしてほっとしました。
年代順に編集していたのですね。
196・197・198の人麻呂の長歌、短歌も味わうと・・・またまたいい歌としみじみ思っています。
形見とされた明日香川、明日香皇女のことに思いをはせながら出かけます。
一度勉強したはずの歌ですが、今回もう一度読み返して少しは理解が深まったような気持ちです。
それが、またそのうち忘れてしまう・・・という悲しい現実があるにはあるのですが・・・

実際の明日香川をたずねるのが楽しみです。ありがとうございました。



 一人静様    ..MM3210 [URL]    
      2004/07/09(金) 09:16  No.283
 
 
>鹿持さんの万葉集には196,197,198の歌がないのですが、これは編者が意図的に削除したのでしょうか・・・

196,197,198は、206と207の間に移されています。年代順に並べるなば、こうあるべきだ、と鹿持雅澄は判断したことになります。



 作曲家の瀧廉太郎    ..紀州の姫    
      2004/07/09(金) 08:42  No.282
 
 
水垣さま
お話伺いまして、23歳で亡くなった瀧廉太郎の、その短い人生の中でも心のふるさとであった竹田に益々行きたくなっております。

春のうらゝの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

彼が作曲した「花」は、日本で初めてつくられた合唱曲だと言われています。この曲は、私にとって心のふるさとかも知れません。
このメロディーを耳にすると、必ず中学時代の音楽室の、校庭の、授業の、様々な風景が過ぎります。

杵築のお写真は、よく見ますと空と緑の色が盛夏ですね。
見る目がないもので・・・。^_^;
そして、豆腐田楽いいですね!



 暑いですね。    ..一人静    
      2004/07/08(木) 18:37  No.281
 
 
こんにちは。
いつもお尋ねすることばかりで申し訳ありません。
数日後に大和路を歩く会に参加するので、飛鳥川にちなんだ歌をしらべていたのですが、鹿持さんの万葉集には196,197,198の歌がないのですが、これは編者が意図的に削除したのでしょうか・・・
それは、なぜなんでしょう・・・

私達の生活の場所にも川が流れていて、めぐる季節とともにその風景を楽しんでいます。万葉の時代の人もまた飛鳥川は生活の場所であり、故郷であったようですね。
現地に行って、少しでも実感できることを楽しみにしているんです。

2月に軽の路を尋ねて、参加したときは、梅の花が満開でとても楽しい万葉ウォーキングができました。
そのときの私のイマイチ短歌です。

 軽の路尋ねて歩く大和路に梅は盛りと花ほころばす

最近の暑さには奈良はどうなんだろう・・と少々不安でもありますが。



 瀧廉太郎記念館    ..水垣    
      2004/07/08(木) 00:39  No.280
 
 
杵築を訪れたのは梅雨明け後の盛夏だったはずですが、今振り返れば暑かったという印象はあまりありません。

瀧廉太郎記念館は良かったですよ。少年期を過ごした屋敷が記念館になっていて、(多少は改築されているのかもしれませんが、)ことに昔のままに残っているという庭などは風情があって、佇んでいると時間を忘れそうなほどでした。
『荒城の月』のモデルになったとも言われる岡城趾には行く暇がなく、残念でした。

 春高樓の花の宴
 めぐる盃影さして
 千代の松が枝わけいでし
 昔の光いまいづこ

それと、竹田茶寮という料理旅館(劇画『美味しんぼ』にも出てきたそうなのですが)で食べた豆腐田楽の味が忘れられません。



 城下町の杵築    ..紀州の姫    
      2004/07/07(水) 10:00  No.279
 
 
風情ある武家屋敷の街並み、素敵ですね。これは初夏の頃のお写真でしょか?そして、この城下町の杵築と、是非行ってみたいと思いましたのが竹田の瀧廉太郎記念館です。

「外掘は田にすきかへされ 内掘は年毎にあせて
二百年の名残やなに 水草いる辺に槁杭朽ちて
野菊咲くかげ石ずえ残る 一の木戸か 二の木戸か あなあわれ」(古城)

大分は今まで余り興味の無い所でしたが、再認識している私です。



 RE:志高湖    ..水垣    
      2004/07/04(日) 17:38  No.278
 
 
志高湖は初耳でした。緑一色、目が洗われるようです。湖は観光地化すると湖畔に自動車道路が通ったり俗悪な建物が建ったりして景観が台無しになってしまう例が多いですが、ここは良い環境が保たれているのですね。素敵なお写真をありがとうございました。
湯布院は残念ながら行ったことがないのですが、大分と言いますと、数年前、竹田や杵築などの城下町を巡る機会がありました。武家屋敷の街並みが残っていて、大変風情のある町でした。杵築の写真を掲げます。

確かに朝日焼は渋い味わいのものが多かったですね。紅鹿背というのは拝見した記憶がないもので、あらぬ空想を膨らませてしまいました(笑)。
お写真を楽しみにしております。



 志高湖    ..紀州の姫    
      2004/07/04(日) 14:40  No.277
 
 
水垣さま
所用で大分に行って参りました。
少し時間が有り、やまなみハイウェイで別府から湯布院に行く途中にあります志高湖(写真)に寄りましたが、英国の湖水地方を思わせる風景で、日本にもこんな所があるのに驚きました。
また、湖の周りを散策致しましたが、紫陽花がどこまでも見事に咲いており、湖に鯉と白鳥が同居(?)、アヒルにカルガモに、鳥のさえずりに・・、美しい湖でした。

夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり

「折節の記」の「紫陽花をよんだ和歌」が思い出されました。

>お品が届きましたら、またお手透きの時にでも写真をアップして頂けないものでしょうか。

手元に届きましたら、写真を撮ってみます。
源氏物語にまつわるお道具の色々は殆どが金箔の入った煌びやかな物ですが、朝日焼の香合は土そのもので製作されており、一見地味かも知れません。(それが、また味わいなのですが)
余りイメージを膨らませないようになさって下さいませね。(^.^)



 遊士の愛した数式    ..MM3210 [URL]    
      2004/07/03(土) 17:29  No.276
 
 
水垣様

図々しい質問に、早速お答え頂きありがとうございます。

どうやら、すぐに気がつく真本の誤記が、間違いなく誤記であると抄本で確認できる仕組みのようですね。

それはさておき、私がこの誤記にこだわる理由を長々と述べる非常識を何卒おゆるし下さい。

この度、「歌経標式の謎の歌」と題する小論を作成中に、私は、たまたま手にした小川洋子氏の『博士の愛した数式』によって、次の4数が、それ自身を除く約数の和がそれ自身に等しい完全数であることを知り、まるで奇跡でも起ったかのように感じています。

6=1+2+3,28=1+2+4+7+14,496=1+2+4+8+16+31+62+124+248 ,8128

稗田阿礼=山上憶良と見る私は、阿礼の年28が完全数であることに興味を持ち、万葉集6番をチェックしてみました。

すると、その歌の左側に、「山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、『記に曰く…』」と、
「角沙弥記浜歌」と同じく「紀」の誤記である「記」がありました。

ところで、歌経3〜6の4首については、万葉集に対応する歌があり、藤原卿の歌番号(万1194)が藤原内大臣の歌番号(歌3)でちょうど割りきれ、商398を歌番号とする万葉集の歌が「藤原朝臣八束の梅の歌」になるのと同じようなことが起ります。

そして、その割り算の一つに、3番目の完全数を示す、
2480/5=496 があります。

8128=1+2+4+8+16+32+64+127+254+508+1016+2032+4064
については、8128/2=4064に1足した4065番の左注に、次のようにあります。

>右の一首は、山上臣作る。名を審らかにせず。或いは憶良大夫が男といふ。ただし、その正しき名いまだ詳らかにあらず。

この4065=4064+1は、次のような完全数のもう一つの特徴を想起させます。

1+2+3=3X(3+1)/2=6

1+2+3+4+5+6+7=7X(7+1)/2=28

1+2+3+4+5+6+7+8+……+30+31=31X(31+1)/2=496

1+2+3+4+5+6+7+8+……+126+127=127X(127+1)/2=8128

実は、「大神高平萬呂卿」という誤記が、このような完全数の表し方に関係いしているのです。

まず、「万」は、西域において萬の数を表すのに用いた卍が中国に入り変じたもので、古くから数の萬を表す文字でした。

したがって、「平萬」を「平万→平方」のヒントに用いることはありうるはずです。

というのも、三方沙弥の歌に割り当てられた3個の歌番号「123・124・125」は、
一位の数「3・4・5」が三平方の定理に直結するピタゴラス数になっており、
曲尺型に並ぶ【 1・2・3・4・5 】をヒントとすれば、
ピタゴラス数を求める公式が導き出せるのです。

この(123〜125)番の歌の後に、126番の歌「遊士…風流士」があり、その左注には、「風流秀絶…ここに方便を作して…裏に冒隠(ものにかくせる)の形」という、暗示的な語句が見えます。

さらに、8128/8/8=127番の歌にも「遊士…風流士…」とあり、
8128/8=1016番の歌「海原の遠き渡を遊士の遊ぶを見むとなづさひぞ来し」の左注には、次のようにあります。

>右の一首は、白き紙に書きて屋の壁に懸著(か)く。題には「蓬莱の仙媛の化れる嚢縵は、風流秀才の士の為なり。これ凡客の望み見るところならじか」といふ。

無風流鈍才の凡客が発見者となったことはまことに皮肉ですが、風流秀才の士がこのような事実に目を向けてくださることを切望する次第です。何卒よろしく。



 RE:お教え下さい>MM3210様    ..水垣    
      2004/07/02(金) 20:57  No.275
 
 
『寧樂遺文』が今見つかりませんので、日本歌学大系第壱巻を参照しました。同書は二種類(真本・抄本)のテキストを載せておりますので、それぞれの該当部分をそのまま写します。

>(1) 中西進「万葉集」には、「角沙弥記浜歌」とあるが、「記」は「紀」になっていないか。

歌学大系(真本) 角沙彌記濱歌
 〃  (抄本) 角沙彌紀濱歌

(2) 「新編国歌大観」には、「大神高平万呂卿」とあるが、「平万」は「市萬」になていないか。

歌学大系(真本) 大神高平萬呂卿
 〃  (抄本) 大神高市萬呂卿

新編国歌大観は真本を底本にしているのですね。



 お教え下さい    ..MM3210 [URL]    
      2004/07/02(金) 08:41  No.274
 
 
水垣様

Googleで「歌経標式」を検索すると、7番目に「鏡女王(鏡王女) 千人万首」、8番目に「藤原鎌足 千人万首」が出て来ます。

そんなこともあり、今回、拙論「歌経標式の謎の歌」を作成する過程で、水垣様のサイトにはずいぶんお世話になりました。

ところで、お手元の歌経標式に関する資料では、次の点がどのようになっているか、お教え下さいませんか。

(1) 中西進「万葉集」には、「角沙弥記浜歌」とあるが、「記」は「紀」になっていないか。
(2) 「新編国歌大観」には、「大神高平万呂卿」とあるが、「平万」は「市萬」になていないか。


万葉ファンの方に

歌経標式では、最初に、万葉集にはない鏡女王の歌があり、3番目に藤原内大臣の歌(歌経3)として、万葉2211の作者不明の歌が出ています。

その二首にはさまれた、つぎの小長谷鵜養の歌(歌経2)も万葉集に類歌は載っていません。

> やまとにて われはこひむひ きのくにの さかひのうみの おきつしまのと

ところが、この歌の「きのくにのさかひ」の「か」と「ひ」 の順序を入替えて「きのくにのさひか」とすると、1194の藤原卿の歌になります。

そして、藤原卿の歌番号を藤原内大臣の歌番号で割った1194/3=398を歌番号とする万葉集の歌が、「藤原朝臣八束の梅の歌」になります。

次に、鵜養の歌の「われはこひむひ」の「ひ」を「の」に替えて「われはこひのむ」とすると、万葉集巻5の最後にある、歌の作り方が山上憶良の態度に似ているので、この順序に載せた、という歌になります。

さらに、978番の「山上臣憶良、沈痾の時の歌一首」の左注には、山上憶良臣が痾に沈んだ時、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を遣わして病状を見舞わせたとあり、詞書と左注では「臣」の位置が入れ替わっています。

しかも、その歌番号の7と8の順序を入替えた987番では「朝臣」の位置が変わって、「藤原八束朝臣の月の歌」になっています。

このような事柄を、単なる偶然にすぎないと見過ごしてよいかどうか、お教え下さい。



 >仲麻呂様    ..水垣    
      2004/07/01(木) 21:10  No.273
 
 
>身を責めて灯し続ける蛍にも睦みし宿や草むらの月

これは含蓄が深いですね。お返しはなかなか思い付きそうもありません。

「指導」などは烏滸がましい限りで、ちょっと気の付いたことをお節介に言わせて頂いたばかりですが、お気を悪くされなかったようで、ほっとしました。

歴史的仮名遣も古典文法(文語文法)も、整然とした実に美しい体系をなしています。そのため、一般的に思われているより、習得するのはずっと簡単です。活用表の付いた古語辞書一冊あれば覚えられますし。

またお気軽にご投稿頂ければ幸甚に存じます。



 無題    ..仲麻呂    
      2004/07/01(木) 18:49  No.272
 
 
身を責めて灯し続ける蛍にも睦みし宿や草むらの月

ご指導ありがとうございます。古典仮名遣いやら文法苦労しています。投稿しつつ勉強させていただきもうしわけなくも感謝しております。機会みつけてまたよせていただきます。



 朝日山・朝日焼    ..水垣    
      2004/07/01(木) 18:41  No.271
 
 
八重葎様、

>朝日山と平等院の位置は丁度東西方向にあり
>彼岸には、その名の通り朝日山から日が昇り、阿弥陀堂の方向
>に日没するそうです。

なるほどと思いました。阿弥陀堂(鳳凰堂)が西方浄土を表わしているのは有名な話でしょうが、朝日山の「朝日」山たる所以も宇治川からの眺望にあったということですね。朝日山を詠んだ和歌を鑑賞する時にも、肝に銘じておかなくては。

紀州の姫様、

朝日焼の紅鹿背……名を聞いただけで想像が広がり恍惚としてしまいそうです(笑)。どんな色模様なのでしょう。お品が届きましたら、またお手透きの時にでも写真をアップして頂けないものでしょうか。お気が向いたらで結構ですので、どうかお願いします。

鳳翔館は数年前に開館したのですね。私もぜひ行ってみたいと思います。



 どういたしまして>MM3210様    ..水垣    
      2004/07/01(木) 18:37  No.270
 
 
いえいえ、お役に立てませず。
歌経標式の歌は『寧樂遺文』に収められているテキストをもとにしましたが、中西進氏『万葉集形成の研究』第十一章所載の訓み下しも参照させて頂きました。



 朝日焼    ..紀州の姫    
      2004/06/30(水) 23:45  No.269
 
 
八重葎さま

宇治に『宇治橋と茶師の周辺』の鑑賞や源氏ミュージアムを訪ねる予定をしていましたら、京都で宇治朝日焼松林豊斎先生のそれも宇治十帖をテーマにされた茶陶展があり、大いに興味もあり、まずそちらに出向きました。

琵琶に比べ、焼き物で琴を表現されるのは難しかったのではないかしらと思いました。焼き物の話はここでは余談となってしまいますが、私のは朝日焼の中の一つで紅鹿背という種類の香合です。
箱書きが出来、手元に来るのを楽しみに待っている所です。

平等院の宝物殿(鳳翔館)には展示の期間内に行けたらいいなと思っておりますが・・。



 朝日山    ..八重葎    
      2004/06/30(水) 12:09  No.268
 
 
紀州の姫様 水垣様

朝日焼のお話興味深く伺いました。
八の宮姉妹の香合 さぞ美しいものかと思います。

先月訪問した時は宇治市のボランティアの方が、
各所におられて、色々とお話を伺いました。
その時の話ですが、朝日山と平等院の位置は丁度東西方向にあり
彼岸には、その名の通り朝日山から日が昇り、阿弥陀堂の方向
に日没するそうです。

以前水垣様に頂いた朝日山の歌、姫様の朝日焼の話などを交え
とった写真を見返しました。



 水垣様へのお礼と万葉ファンの方へのお願い    ..MM3210 [URL]    
      2004/06/30(水) 04:55  No.267
 
 
水垣様

過日は、「伊藤博氏の真意は?」という疑問に関して、
当を得たご意見をお聞かせ頂きありがとうございました。

>面白いお話だと思いますし、どなたかご意見頂けると私としましてもありがたいです。

と、お書き添え下さったので、その効果を期待しているうちに、
お礼を述べる時期を失してしまい、大変失礼致しました。

ところで、今回、歌経標式についての小論をまとめる際、
ずいぶん千人万首のお世話になりました。

たとえば、「日本古代人名辞典」では、大神高市麻呂の歌の結句が
「由不幣己等旨呼」となっているために、訓み下せなかったのですが、
千人万首のおかげで、すっきり致しました。本当に、ありがとうございます。

万葉ファンの方へのお願い

拙論「歌経標式の謎の歌」は、読みづらく、しかも不愉快な論かもしれませんが、
どなたか、論の欠陥をご指摘戴ければ幸甚に存じます。



 はじめまして>水脈様    ..水垣    
      2004/06/29(火) 23:51  No.266
 
 
ようこそおいで下さいました。
「難しい文字のHTML表記」のこと、私自身長いこと悩んでいた問題でしたので、どうも他人事とは思えず、差し出がましい真似を致しましたが、お役に立てたのでしたら幸いでした。もっとも、私は優秀なサイトを勝手に紹介させて頂いただけで、全然大したことはしていないのですが。

かなり前から見て下さっていたとのこと、大変嬉しく存じます。
和歌の学問は専門的にかなり細分化してしまっているという素人ながらの印象があり、非専門家のこうした大雑把な大風呂敷サイトがあっても、まあ良いでしょうというような気持でやっております。気軽に遊んで頂ければ本望です。
しかし漫画の力は偉大ですね。

こちらこそどうぞよろしくお願い申し上げます。こっそりなどとおっしゃらず、たまにはお声もかけて頂ければ幸甚です。



 こちらこそよろしくお願いします。>仲麻呂様    ..水垣    
      2004/06/29(火) 23:15  No.265
 
 
早速またありがとうございます。

>蛍火の想ひが積もる夏の夜は月さへ下りて沢に浮かぶる

そうですね、やはり蛍は雲の上より水辺に置いてあげなくてはいけません。

 月は雲に蛍は草に隠れつつ更けゆく夏の水のたはむれ

なお、細かいようですが、御作の結句は文法上問題があります。
自動詞「浮かぶ」は四段活用で、「浮か−ば」「−び」「−ぶ」「−ぶ」「−べ」「−べ」と活用し、「浮かぶる」の形は取りません。「沢に浮かべり」「沢に浮かびぬ」「沢にぞ浮かぶ」などとした方がよいかと思います。
「(水が)月ぞ浮かぶる」のような他動詞としての用法なら可なのですが。

それと先の御作ですが、歴史的仮名遣では「みずから」は「みづから」と書きます。



 初めまして。    ..水脈 [URL]    
      2004/06/29(火) 23:06  No.264
 
 
初めて書き込みさせていただきます。
落合晴水さんのサイトでお声をかけていただきました水脈(みを)と申します。
その節は、難しい文字のHTML表記についてご教示いただきましてどうもありがとうございました。
出ない文字があるというここ数ヵ月ほどの疑問が氷解しました。
御礼申し上げます。

実は私、こちらへはかなり前よりこっそり伺っていたのです。
こちらは和歌に関する内容が非常に豊富で、いつも勉強させていただいております。
私はもともと歴史漫画が好きなのですが、それがきっかけで飛鳥時代に関心を持ち、必然的に万葉集にも興味を持つようになりました。
和歌に関しては全くの素人ですので、こちらのようにしっかりとしたサイト様が存在するのはとても心強いです。
これからもこっそりと通わせていただきますのでよろしくお願いいたします。



 よろしくおねがいします。    ..仲麻呂    
      2004/06/29(火) 19:47  No.263
 
 
弦月を我が片割れと慕ひてや雲のうへまでゆく蛍かな

蛍火の想ひが積もる夏の夜は月さへ下りて沢に浮かぶる

ありがとうございます。私は古典の和歌はよく知りませんが、サイトで歌人の歌(和泉式部様)返歌した歌です。雲の上までゆく蛍も
よんだことがあるようなそんな歌歴です。



 はじめまして>仲麻呂様    ..水垣    
      2004/06/29(火) 00:01  No.262
 
 
ご訪問ありがとうございます。

>みずからを燃えて見せつる蛍火にあくがれ出づる片割れの月

和泉式部の本歌取りと読みました。下句が素晴らしいと思います。

 弦月を我が片割れと慕ひてや雲のうへまでゆく蛍かな

和歌短歌の投稿は歓迎いたします。ぜひまたどうぞ。




 リンクの件>AKI様    ..水垣    
      2004/06/28(月) 23:37  No.261
 
 
こちらこそリンク有り難うございます。
今度は貴サイトを拝見することが出来ました。
またお気軽にお訪ね下さい。



 はじめまして>よーぜん様    ..水垣    
      2004/06/28(月) 23:36  No.260
 
 
よーぜん様
ようこそおいで下さいました。
ずいぶん前から見て下さっていたとのこと、大変嬉しく存じます。理想にはまだまだ遠い内容のサイトですが、些かなりともお役に立てましたら幸いです。

おっしゃるとおり、武士の世にも和歌は大変もて囃されます。戦乱の世にあって、歌道の権威は以前にも増して高まったようにさえ見えます。
しかし、よーぜん様が取り上げられている直江兼続はあまり和歌を詠まなかったのですね。当時の武将にあってはむしろ珍しいことだと思います。漢詩を見ればすぐれた詩才を備えた人ですが、敢えて和歌を作らなかったのだとしたら、それもこの人らしい潔癖さのあらわれだったのではないかとも思えます。

こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。



 RE:「宇治十帖」をテーマに    ..水垣    
      2004/06/28(月) 23:35  No.259
 
 
紀州の姫様、興趣あるお話をありがとうございます。
宇治十帖の歌に想を得て、茶の湯にまつわる陶器を制作されたわけですね。
源氏とお茶ゆかりの地、宇治なればこその趣です。

「橋姫」と言えば、晩秋の霧の深い夜、薫が宇治八宮を訪ねて大君・中君の琵琶と琴の合奏を聞く場面は、宇治十帖の中でも名シーンの一つですね。

>>小野小町ゃいまーす(Oh,no,no. 困チャイマース)

>これは、可笑しくて笑っちゃいました!(ごめんなさい・・・)(^.^)

いえいえ、ジョーク(のつもり)でしたので、笑って頂けて本望です(笑)。



 短歌つくりはじめて一年半になります。    ..仲麻呂    
      2004/06/28(月) 17:57  No.258
 
 
みずからを燃えて見せつる蛍火にあくがれ出づる片割れの月


 有難う御座います。    ..AKI [URL]    
      2004/06/27(日) 20:11  No.257
 
 
管理人さんへ
リンクの件、有難う御座います。

〉なお、「URL」をクリックしたのですが、貴サイトへ移動することができませんでした。

A)申し訳ありません。URLアドレスに@を入れてしまっていました。
http://namiki.cside.com

ではまた、やまとうたで勉強させていただきます。



 はじめまして    ..よーぜん [URL]    
      2004/06/27(日) 11:20  No.256
 
 
水垣様
初めまして。
落合さんのサイトで声をかけていただいた、よーぜんです。

実は私、ずいぶん前からこちら様では色々学ばせていただいております。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。

自分では詠みませんが、古典や歴史をやっていると、和歌はどうしても通らずにはいられないところです。
自分のサイトでは戦国時代を扱っているのですが、武士の世の中になっても、和歌は切り離せません。(ただし、私のサイトで取り上げている武将は漢詩ばかりなので、これまたちょっと厄介だったりします。)

情報量が膨大な上に、解説も丁寧で、本当にいつも助かっております。
今後ともよろしくお願い申し上げます。



 「宇治十帖」をテーマに    ..紀州の姫    
      2004/06/26(土) 23:33  No.255
 
 
ここで宇治の話題が出ました時、朝日山麓に宇治朝日焼があるとお話した事がありますが、その十五代当主松林豊斎さんが、京都にて襲名十年を記念した茶陶展をされております。今回「宇治十帖」をテーマにされ、御当主のお話によりますと瀬戸内寂聴さんからもお力添えを頂かれようですが、その中で、
「身を投げし涙の川の早き瀬をしがらみかけて誰かとどめし」(手習い)
「この春はたれにか見せむ亡き人のかたみにつめる峰の早蕨」(早蕨)
この二つの歌からはイメージを広げられ、お茶碗を。また

「橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづく袖ぞぬれぬる」(橋姫)
からは、二人の姫が合奏している琵琶と琴の香合を。

他にも色々ありましたが、私に取りましては茶道とやまとうたの合体と言いますか、同時に感じ取る事が出来、楽しい一時でした。せっかくの記念にと「橋姫」琴香合を買い求めました。

>検索スタイルはユーザーが自由に選べるようになっていますので

まだまだ新しい事や私の知らない事もありますね!色々クリックして研究しなくっちゃ・・。
それにしましても、

>小野小町ゃいまーす(Oh,no,no. 困チャイマース)

これは、可笑しくて笑っちゃいました!(ごめんなさい・・・)(^.^)



 RE:夏風    ..水垣    
      2004/06/26(土) 23:23  No.254
 
 
ためかぬ様、早速ありがとうございます。
梅雨明けはまだかなり先なのでしょうが、暑気払いのつもりでトップページの背景を替えてみました。

正徹の歌は、これを見つけた時から、いつかトップに使おうと、暖めてきたものです。雁が帰って来る季節まで、為兼の代りを務めてもらうことにしました。




 リンクの件>AKI様    ..水垣    
      2004/06/26(土) 23:21  No.253
 
 
はじめまして。ようこそいらっしゃいました。
弊サイトはリンク・フリーを謳っております。どうぞどのファイルにでもご自由にリンクなさって下さい。
なお、「URL」をクリックしたのですが、貴サイトへ移動することができませんでした。




 夏風    ..ためかぬ    
      2004/06/26(土) 21:17  No.252
 
 
風のすがたのトップページ。
蒸し暑さを忘れさせてくれ、そしてまた思いがけない(知らないことだらけゆえ)
和歌や歌人とのどんな出会いがあるやも知れないとの期待がいつにもまして
ふくらみました。
正徹の工事完成の日が待ち遠しいです。




 業平を検索しましてHPを拝見しました。    ..AKI [URL]    
      2004/06/26(土) 20:31  No.251
 
 
はじめまして、AKIと申します。

Yahoo検索にて「業平」にて検索しましたらば、此方のHPを拝見する事が出来ました。
そのボリュームにまだ一部しか拝見できておりませんが、
可能でありましたら、私のHPからリンクをさせて頂いても宜しいでしょうか?




 サイト内検索キーワード ランキング 六月分    ..水垣    
      2004/06/25(金) 19:49  No.250
 
 
今月もCo.Co.Da e-Xpressより弊サイト内検索の履歴が送られて来ました。今度は10回以上検索が実行されたキーワードを挙げてみます。

59  紀貫之
47  藤原定家
24  西行
23  小野小町
22  柿本人麻呂
21  宮内卿
19  藤原道長
18  紫陽花(あじさい、アジサイ)
17  梅雨・五月雨
15  和泉式部
13  安倍仲麻呂
12  常世
11  七夕

またも貫之がトップでした。以下然るべき大歌人が続きますが、今回は季節の風物にかかわるキーワードで検索された方も少なくなかったようです。「なでしこ(撫子)」「花橘」「まこも」「蛍」などのキーワードも目につきました。
宮内卿が突然多くなったのは、こちらの掲示板でちょっと話題になったためでしょうか。

なお、検索スタイルはユーザーが自由に選べるようになっていますので、検索結果が表示された頁で「▼スタイル設定」のタブをクリックしてお好きに設定なさって下さい。
今後とも大いにご利用頂ければ幸いです。



 小野小町ゃいまーす(Oh,no,no. 困チャイマース)    ..水垣    
      2004/06/23(水) 23:56  No.247
 
 
いえ、「困る」というのは嘘で、色々ご要望を出してもらえるのは制作者としては張合いのあることで、大歓迎です(実現するかどうかはともかくとして^^;……)

人名索引と歌い出し(初句)索引、歌集には必須ですよね。完成の暁には…と考えてはおりました。

五十音順索引の問題点は、藤原氏と源氏がやたらと多く、ずらーっと並んでしまうことですね。姓でなく名から検索できる方が良かったかとも思うのですが。

(タイトル、大変失礼をば…。)



 平高望(ひらにたかのぞみ)    ..むらじ    
      2004/06/22(火) 22:57  No.246
 
 
へんてこりんなタイトルで恐縮です。^^ゞ
お人の検索にはいちばんよいのが五十音順の検索でしょうね。
HPひとつ作ったことのない小生がどうこういうのも憚られますが、将来的には人名索引や歌い出し索引なんかがあるといいかな〜、などと。
でもこれは素人目にももの凄く大変そうですから、決してムリなさらないで下さいませ。
もっとも、英訳された和歌のもと歌がスッと出てくる水垣様のことですから、歌い出し索引なんか作らなくてもこの掲示板でお伺いすればすぐに答がでてきそうな…(笑)



 RE:フレーム版をみたくて    ..水垣    
      2004/06/21(月) 23:50  No.245
 
 
むらじ様、ありがとうございます。大変参考になります。

>和泉式部
>いまどきの歌にもありそうなくらい、正直な歌のように思いました。

そうですね。同じ「恋の歌人」でも、小野小町なんかは如何にもクラシックなんですが、和泉式部はもう現代とそんなに違わない感じがします。

>とくにサイトによってはいったんフレームつきのページを開くと、ほかのページに行ってもフレームが付きまとってとてもうるさい感じになることもあるようです。

そうなんですよね。
ですので、千人万首以外のコーナーへ移る時はフレームを外すようにしたつもりなのですが、不具合がないかどうか、今一つ心もとないところです。

>フレームつきだとそのへんはかえって人捜しが楽になるように思いました。

見つけやすくなったのでしたら幸いでした。
自分でも「あの人はどこに」としょっちゅう捜し迷っていますので、何とかしたいと思っていたのです(笑)。
まだまだ改善の余地があると思いますので、お気づきの点など指摘頂ければ有り難く存じます。



 フレーム版をみたくて    ..むらじ    
      2004/06/21(月) 18:04  No.244
 
 
和泉式部をのぞいて見ました。
つい、吸い寄せられるように目についたのが

黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき〔後拾遺755〕

でした。いまどきの歌にもありそうなくらい、正直な歌のように思いました。

いちいちの歌に訳までつけるのはじつに大変な作業ですね。
でも、読解力のいまいちな小生としてはとても、助かっています。^^ゞ

フレームをつけるとたしかに枠は狭くなりますね。
とくにサイトによってはいったんフレームつきのページを開くと、ほかのページに行ってもフレームが付きまとってとてもうるさい感じになることもあるようです。
貴サイトのばあい、そのへんはだいじょうぶそうですね。

たしかに歌人の数もこれだけ増えてくると、お目当ての人を捜すのに百人一首のかるた取り並みにうろうろすることがあります(笑)が、フレームつきだとそのへんはかえって人捜しが楽になるように思いました。

いままでののびのびとした画面も捨てがたいのですが、小生的には七三でフレーム支持…かなぁ。というところです。
ご参考になりますかどうか…



 フレーム版    ..水垣    
      2004/06/21(月) 01:08  No.243
 
 
sion様、紀州の姫様、皆様、こんばんは。

フレームを使うと当然ながら和歌を表示するウィンドウが狭くならざるを得ず、それが嫌だというのが主な理由で今まで用いなかったのですが、ちょっと前にモニタを大きめのものに買い換え、高解像度の表示が可能になると、フレームの便利さを満喫できるようになり、この度導入に踏み切った次第です。
今のところ、トップページの縦書のおしながきの「千人万首」からはノンフレーム版にリンクしておりますが、いずれ機を見てフレーム版をメインにしようかと考えております(更新が二度手間になるので、できれば目次はどちらか一方に統一したいのです。)
ノンフレーム版の方が良いというご意見もありましたら、お聞かせ下さい。



 無題    ..紀州の姫    
      2004/06/18(金) 22:33  No.242
 
 
sionさま
ご挨拶のお返しを頂き、有り難う御座います。
sionさまのお名前がありますと、紫苑、紫音・・の話の頃を思い出し、ついご挨拶をしたくなってしまったのです。^_^;

水垣さま
千人万首のフレーム版、私も拝見しました。
とても見やすくなりましたですね。



 フレーム版、便利です!    ..sion    
      2004/06/17(木) 21:39  No.241
 
 
紀州の姫さま、こんばんは!(ご挨拶のお返しがすっかり遅れて失礼しました)
たわいない私のおしゃべりに目を留めて頂いて恐縮です。
源氏物語というとつい口を出したくなるミーハーですσ(^_^;

水垣さま
>歌道家の末裔という誇りから王朝和歌への愛着も自然に身に付いていたのではないか、と思います。万葉調歌人の中でも雅澄の特異なところだったかもしれません。

なるほど納得です。飛鳥井雅経のご子孫ですものね。
むらじ様に同じく、ちょっと苦手な「万葉調」だったのですが、鹿持雅澄さんは親しみが持てました。



 鹿持雅澄    ..水垣    
      2004/06/14(月) 21:13  No.240
 
 
ためかぬ様・sion様・紀州の姫様・むらじ様・一人静様、
早速読んで下さってありがとうございます。

>ためかぬ様
>吾が盛りくだつともよし吾妹子が玉の光儀の旧りずありせば

現実としてはあり得ないことですが、人情としては当然あり得べきもので、私としても共感せざるを得ないところがあります。女性の立場からは「期待されても困る」というところかも知れませんが(笑)。

>sion様
>南国土佐の地方色も感じられれば、王朝風の優雅と気品も感じられて

そう感じて頂けたのなら、幸いでした。私自身、雅澄のそうした両面を出せたらいいなと思って歌を選んだので。
雅澄は何より土佐という故郷を愛し、和歌の故郷である万葉集を愛しましたが、歌道家の末裔という誇りから王朝和歌への愛着も自然に身に付いていたのではないか、と思います。万葉調歌人の中でも雅澄の特異なところだったかもしれません。

>紀州の姫様
>夜さへに玉藻刈るべみ鳴門の海(み)うづ潮白く月照りにけり

鳴門の渦潮は母親の田舎へ遊びに行った時連れて行ってもらいました。鳴門大橋もなかった時代で、遊覧船でぎりぎりまで近づいて見るのですが、船が巻き込まれやしないかと子供心にヒヤヒヤした記憶があります。
月夜に見る渦潮は恐ろしいほど美しいだろうなと思います。

>むらじ様
おっしゃる通り雅澄は愛妻家だったと思います(見習いたいものです)。
「男盛り」は現代の感覚とはやはり相当違うのでしょうね。いま三十七と言ったらようやく人生半ば、まだまだ若いですよね。

土佐の飛鳥井家の件は、おっしゃる通りで、応仁の乱の後、一条教房が長宗我部氏に迎えられて土佐に入り、この時京都から随行した飛鳥井家が鹿持家の祖なのだそうです。
新続古今集の撰者となった雅世には雅親・雅康の男子があり、嫡流の雅親は京に留まるのですが、弟の雅康が一条家の家臣として土佐に移住した、ということらしいですね。
雅康の孫の雅量が幡多郡に鹿持城を賜って住み、雅量の孫の雅春の時に鹿持姓を名乗って武臣となった、と私の読んだ伝記には出ておりました。雅澄は雅春から十代目になりますが、まさに「歴史の荒波にもまれた一族」の末裔ということになるのでしょう。

>一人静様
お気に入りの歌や気になる歌、皆様が挙げて下さって、私も興味深く拝見しております。

途方もなく豊饒な和歌の世界を自分なりに整理しておきたいという程度の気持で始めたコーナーだったのですが、思いのほか励ましの声を頂戴して、少しでも充実したものにしてゆこうと思っております。今後ともご愛顧頂ければ幸いです。



 今晩は。    ..一人静    
      2004/06/14(月) 18:37  No.239
 
 
今晩は。
鹿持雅澄さんが千人万首に登場し、読ませていただきました。
この欄の皆さんのお便りも楽しく拝見させていただいています。

思いがけずできたこのコーナーとのご縁を大切に歌を楽しんでいきたいとおもっています。

ちなみに、私の好きな歌は、

 妹許と夜道を来れば吾が乗れる馬の足掻に桜花散る

 つつじ花にほえる妹が抑へ指す小櫛の山は見れど飽かぬかも

です。





 はじめまして>アヤ様    ..水垣    
      2004/06/14(月) 18:02  No.238
 
 
ようこそいらっしゃいました。ご投稿ありがとうございます。

仰る通り義孝は二十一歳で亡くなってしまうのですね。若くして命を落としてしまった人が、「長くもがな」と願った歌を残したことを思うと痛々しいのですが、短すぎた人生の中でも、「君がため」と言う程の相手に出逢えたのだと思えば、少し心が慰められる気がします。

「千人万首」のコーナーは少しずつ改修工事を続けているのですが、ちょうど藤原義孝の時代あたりまで来たところです。いま選歌の見直しや再校正をしている最中ですので、しばらくしたら、また見て頂けると幸いです。



 RE:天香具山に関する意見    ..水垣    
      2004/06/14(月) 17:57  No.237
 
 
>水野孝夫様
ご意見ありがとうございます。鶴見岳のことは初耳です。
舒明天皇の歌の「海原」については、私は別段定見を持ってはおりませんが、下記雑文に引用した樋口清之氏の説が説得力あるように思いました。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html

それと、私は万葉集の世界観ということを考えるのですが、その地理的中心は大和国であり、中でも飛鳥であり平城です。
万葉集の巻頭歌は「大和の国は おしなべて 吾こそ居れ」。
三番目の歌は大和国宇智野での遊猟の歌。その後、各地への行幸の歌などが続きます。
とすると、二番目の歌は、やはり大和の国を詠んだ歌でないと、落ち着きません。




 鹿持雅澄の歌    ..むらじ    
      2004/06/13(日) 16:56  No.236
 
 
じつはまったく未知の人でした。
皆様の書き込みに誘われてさきほど、拝見いたしました。
お歌も、この人の人生も、とても清潔で端正な方なのだな、と感じました。
万葉調の歌は一見とっつきにくいのですが、詠み慣れると素朴でしみじみとした味わいがありますね。

妹許(いもがり)と夜道を来れば吾(あ)が乗れる馬の足掻(あがき)に桜花散る

晩年のお歌なのですね。お歌を見た限りはまったく気がつきませんでした。sion 様が伊達な

「ますらをぶり」

と評されましたが、まったく同感であります。たぶんここに出てくる



は、ずっと以前なくなった奥様のことなのでしょうか。
略伝を拝読するかぎり、奥様一筋の生真面目な方のように察せられます。

吾(あ)が盛りくだつともよし吾妹子(わぎもこ)が玉の光儀(すがた)の旧(ふ)りずありせば

あたりからもその愛妻家ぶりがうかがえますね。
綺麗に装った奥様の傍らで穏かに微笑んでいる顔が浮かぶようで、微笑ましいお歌と感じました。
それにしても男子三十七才にして

男盛(をざかり)の時来向(きむか)ふと初春を待ち歓べる時もありしを

となってしまうのでしょうか。人生五十年の時代のこととはいえ…うーん。複雑です。

雅澄は飛鳥井家の出とのことですが、土佐国となると少し唐突な印象がありますが。
その昔、応仁の乱のときに関白一条兼良の一男教房が幡多郡にあった荘園をたよりに都から逃れてきて以来、戦国大名となった家系がありました。
この家が一条家と主従関係にあった公家を若干、つれてきたそうです。そのなかに飛鳥井家の支流が、あったような、なかったような気がいたします…

けっきょく一条家は長宗我部元親に滅ぼされて、長宗我部家もまた山内家に交代し、その旧臣が「一領具足」といわれる身分の低い武士として山内家に残った、といいますから、雅澄の家系もそういう歴史の荒波にもまれた一族なのかもしれませんね
…と、いつもながら和歌に関係ないお話で恐縮です^^;



 土佐の鹿持雅澄    ..紀州の姫    
      2004/06/13(日) 14:49  No.235
 
 
sionさま、こんにちわ!(ちょっとご挨拶したくて・・)
源氏物語のお話の時は、とても楽しく拝見させて頂きました。(^.^)

水垣さま
私も、ためかぬ様の仰る「雅澄の名どおりのお人柄」で、sion様仰る「王朝風の優雅と気品」ある雅澄14首を拝見致しました。
そして、

「東殿君」(十代藩主山内豊策の子豊道か)の命に応じて預作した歌。
夜さへに玉藻刈るべみ鳴門の海(み)うづ潮白く月照りにけり

毎年、鳴門大橋から見下ろす見事なうず潮風景を思い出します。



 鹿持雅澄    ..sion    
      2004/06/13(日) 13:35  No.234
 
 
こちらのゲストブックで話題になって、私もひそかに楽しみにしておりました。
南国土佐の地方色も感じられれば、王朝風の優雅と気品も感じられて、とても華やかな、贅沢な14首を味わわせて頂いた気持です。

 妹許と夜道を来れば吾が乗れる馬の足掻に桜花散る

これはまた伊達な「ますらをぶり」で、絵になりますね。

ためかぬ様のベスト3に私も一票です。



 雅澄    ..ためかぬ    
      2004/06/13(日) 09:02  No.233
 
 
早々のアップ嬉しく拝読しました。
澄んだ空気が伝わってくるような、どの歌も日本画として描かれそうな印象をもちました。雅澄の名どおりのお人柄だったようですね。

  春がすみ霧らふ夕の春雨に垣内の梅の散りか過ぎなむ

  月読の光を清みわたつみの手纏の玉の乱れあへる見ゆ

  吾が盛りくだつともよし吾妹子が玉の光儀の旧りずありせば

ベスト3です。三首目は今の私の結婚生活(そのようなことを思う夫でないと確信してます)ではありえないですし、もちろん、そんな期待にも応えられません。(^^ゞ 
だからこそ歌の世界にはあって欲しいと感じるのでしょうか。



 初めまして。    ..アヤ    
      2004/06/13(日) 02:09  No.232
 
 
小倉百人一首が大好きで、リンクを飛んでやってきたアヤという者です。初めまして、お邪魔いたします。
私は特に50番の藤原義孝氏の歌が好きなのですが、此処を拝見したところ彼のほかの作品も見ることができて大変感慨深かったです。
義孝氏のページは改装中ということですが、新たに生まれ変わるのをとても楽しみに待っております。
義孝氏は21歳で亡くなってしまいましたが、亡くなるまでに『君がため〜』のような歌を送ることが出来るほどの恋愛が出来て羨ましいな、と思ったりもしています。
私も、彼の享年に届くまでにそんな恋愛ができたらいいな、とこの句を読み返すたびに思うのです。
それでは、失礼致しました。



 無題    ..ひよきち    
      2004/06/12(土) 22:58  No.231
 
 
水垣さま、こんばんは。

>白い種があるというわけではなく、変異であらわれるみたいです。

そうだったのですか。
変異であらわれるのですね?


>いかにも愛らしい風情の花ですが、炎暑の夏を越えて
 秋にまで咲き続けるというのですから
 特殊な強さを持った植物なのでしょうね。

仰るとおりだと思います。
どこにそんな強さを秘めているのだろうと
頼もしく、また健気に思われます。


むらじさまも書いておいでのように
撫子のお写真に心安らいでおります。

この白い撫子もとても美しく
心が洗れるようです。




 今晩は    ..一人静    
      2004/06/12(土) 22:31  No.230
 
 
万葉集の代作について
ありがとうございました。フィクションではなかったか・・・
との見解もある・・・なるほど・・・と思いました。

万葉集を多面的に見るためには、読む人の心の幅のようなものも必要かと思わされました。

私達の読書会が少ないけれど四人いる・・・のは結構意味があると思っています。それぞれの考え方の違いにお互いが刺激されるからです。

これからもいろいろお教えください。



 天香具山に関する意見    ..水野孝夫    
      2004/06/12(土) 21:56  No.229
 
 
万葉集・舒明天皇歌の香具山を奈良県飛鳥の香久山と解すると、海も鴎も見えない。
わたしは、この天の香具山を、大分県別府の裏の鶴見岳と考え、
証拠集めをしております。
アマ郡にあり、カグツチ神のご神体の山だからです。



 撫子と劔太刀    ..水垣    
      2004/06/12(土) 21:48  No.228
 
 
>むらじ様
花の写真が思いがけない形でお役に立ったようで、幸いです。

そうそう、撫子と言えば家持を忘れるわけにいきませんね。

 撫子がその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
 秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の撫子咲きにけるかも

越中に単身赴任した時も、庭に撫子を植えて心を慰めていたという長歌を詠んだりしています(18/4113)。

>劔太刀いよゝとぐべしいにしへゆ さやけく負ひて来にしその名ぞ

剣大刀や名誉のことも常に忘れなかったところがやはり家持の家持たる所以でしょうか。



 撫子    ..むらじ    
      2004/06/12(土) 00:44  No.227
 
 
>水垣様
次々登場してくる撫子の花、とても心が安らぎました。
きょうはいろいろとやなことがあって、くさくさしながら帰ってきましたが、お蔭さまですこし気分が紛れました。お礼申し上げます。
撫子、というと、平凡ですが大伴家持を思い出しますね。

劔太刀いよゝとぐべしいにしえゆ さやけく負ひて来にしその名ぞ

という歌がもっとも好きです。



 RE:万葉集の代作について    ..水垣    
      2004/06/11(金) 23:50  No.226
 
 
一人静様、こんばんは。

>万葉集の代作はどのように理解しておけばよいでしょうか・・・

笠金村の長歌の題詞には「娘子に誂(あつら)へられて」とありますね。「誂へられ」は「依頼されて」程の意でしょう。
大伴家持には「家婦が京にいます尊母に贈らむ為に、誂へられてよめる歌」と詞書された長短歌があります(巻19-4169,4170)。妻から母に贈る歌を依頼されて作った、ということですね。家持には、こうした代作歌がほかにも数首知られます。
近親者などから頼まれて代作する、ということは当時よくあったのではないでしょうか。

但し笠金村の歌は、こうした風習を利用して、実はフィクションを作り上げたのではないか、とも思われます。伊藤博『萬葉集釋注』では「この歌群は、娘子に頼まれて作った歌として行幸先で発表した物語歌ではなかったかと思われる」とし、金村はこれらの歌を披露して、行幸に従駕した人々を楽しませたのだろうと推測しています。

>当時は共感をもって受け入れられたと思いました。

おっしゃる通りと思いますが、この歌を読んで(聴いて)共感するのは女性よりもむしろ男性の方ではないでしょうか。残して来た妻の甲斐甲斐しい心情に、旅先にある男たちは安心感や懐かしさを覚え、満ち足りた思いに浸ったことが想像されます。

>また、人麻呂の歌からの模倣と思われる箇所も多くあります。

おっしゃる通りと思います。十分咀嚼した上で取り込んで、成功しているのではないでしょうか。



 RE2:撫子の花    ..水垣    
      2004/06/11(金) 23:15  No.225
 
 
ひよきち様、こんばんは。
白い撫子は私も初めて見るものでした(写真を添えます)。白い種があるというわけではなく、変異であらわれるみたいです。
一叢の中に淡紅・鮮紅・白と混ざって咲いていましたが、仰る通り、淡紅・鮮紅と言っても微妙に色合の差があったように思えます。

 夕霞たなびく山の春よりも色の千ぐさにさけるなでしこ(順徳院)

と、昔の歌人も色合の多彩さを愛でていたのですね。

>古義の中に
>「とこなつとは、春より秋まで、
>さかり久しくさきつゞくゆゑに名づく」

いかにも愛らしい風情の花ですが、炎暑の夏を越えて、秋にまで咲き続けるというのですから、特殊な強さを持った植物なのでしょうね。

拙い写真に、勿体ないお言葉、ありがとうございます。
それはきっとひよきち様の感受性が非常に豊かで、お人柄が優しく温かなので、私の写真などにまでそのように感じて頂けるのだろうと思います。



 万葉集の代作について    ..一人静    
      2004/06/10(木) 21:24  No.224
 
 
今晩は。
万葉集543について教えてください。
笠金村作の歌ですが、娘子に頼まれて作ったとされていますが、身分の高い人に頼まれたなら、歌も作るとおもいますが、娘子が金村さんより身分が高いとも思えず、万葉集の代作はどのように理解しておけばよいでしょうか・・・

歌の内容からは仕事大好き夫が嬉々として遠い地に出向き、自分のことなど忘れて仕事に没頭している・・・そんな夫をひたすら、帰る日をまっているけなげな妻・・・が想像されます。

たちてつまづく・・・忍の一字の辛抱妻
当時は共感をもって受け入れられたと思いました。

また、人麻呂の歌からの模倣と思われる箇所も多くあります。私など好きな歌の言葉に出会うと、いつか自分もこんな表現をしてみたいものだと、心の中であたためています。
それが実現している・・・と考えていいのでしょうか。

時間が許せば、お教えください。



 無題    ..ひよきち    
      2004/06/10(木) 09:21  No.223
 
 

水垣さま、おはようございます。

>先日見た植物園では白や鮮やかな紅の花も混ざって咲いていました。

白もなのですか!
驚きです(*^_^*)


>秋の野草を集めた一角で、撫子だけが花をつけていました。
 さすが「常夏」の異名を持つ花ですね。

秋の野草を集めた一角・・・。
想像しましただけでも楽しくなって参りますね。

「常夏」という名も とても惹かれる名前ですね。



>実は、下の撫子の写真は昨晩入れ替えたものなのですが
 お気づきになりましたでしょうか。

はい 気づきました・・(*^_^*)

1枚目の淡紅色を少し濃くした色。
2枚目の紅の色。
そして3枚目の淡紅色と紅との取り合わせ。

不思議なことにどのお写真をとってみましても
同じ色がないのです。

種類が違うのだろうかとか
同じ淡紅色でも光線のあたり具合で違いが出るのだろうかなど
様々なことを思いまして とても楽しゅうございました(*^_^*)



古義の中に
「とこなつとは、春より秋まで、
さかり久しくさきつゞくゆゑに名づく」

「撫子」につきましては
「撫子とは、花の形チちひさやかに、
其ノ色愛すべきを以て名く」との箇所を見つけ 
なんだか嬉しくなって参りました。



写真は撮る人の心をそのままうつし出すものではないかと思います。

水垣さまのお撮りになるお写真は優しく
拝見しておりますと 心が温かくなって参ります。






 RE:撫子の花    ..水垣    
      2004/06/09(水) 23:40  No.222
 
 
ひよきち様、こんばんは。ご訪問ありがとうございます。
私も撫子と言いますと淡紅色のイメージがありましたが、先日見た植物園では白や鮮やかな紅の花も混ざって咲いていました。

秋の野草を集めた一角で、撫子だけが花をつけていました。さすが「常夏」の異名を持つ花ですね。

実は、下の撫子の写真は昨晩入れ替えたものなのですが、お気づきになりましたでしょうか。

で、調子に乗ってまた一枚アップしてしまいました。



 撫子の花    ..ひよきち    
      2004/06/09(水) 15:47  No.221
 
 
水垣さま、こんにちは。

先日このゲストブックにて掲載なされた
撫子の花の画像をもう一度拝見したいと思い
お邪魔いたしました。

とてもきれいな色合いの撫子ですね。

それまで淡紅色の撫子しか知らなかったものですから
掲載なされた撫子の花の色合いに
とても心惹かれました。

こういう色合いもあったのですね。

とても可憐だと思いました。

水垣さまのお撮りになる花のお写真も
とても好きです(*^_^*)





 RE:桓武天皇    ..水垣    
      2004/06/09(水) 00:32  No.220
 
 
私も業平の家系を考え始めたら途端に頭が変になりそうになり、Windowsの「ペイント」で系図を作ってやっと少しスッキリしました。(むらじ様のおっしゃるように色々加えたくもなったのですが、眩暈がしてきそうで、やめました。)

そう言えば平安神宮も北野も紀州の姫様のお話に以前出てきましたね。長岡もお馴染みの場所でしたか。

「伊勢物語」は八十四段に業平と母宮の歌のやり取りが出てきます。古今集とほぼ同じ内容なのですが、むらじ様もおっしゃる通り、伊勢物語の方がしみじみしたものが伝わってくる書き方になっています。



 RE:伊都内親王と大宰府    ..水垣    
      2004/06/09(水) 00:30  No.219
 
 
>本当のところ内親王との婚姻は配流まえのことなのか、帰京後のことなのか、ちょっと気になります。

『日本古代氏族人名辞典』では、根拠はよく分かりませんが、伊都内親王の生年を延暦二十年(801)頃としています。これが正しいとすると、阿保親王が大宰府に左遷された年、伊都内親王はまだ十歳位ですから、結婚は帰京後――天長元年(824)以後――ということになりましょうか。
(また、西暦818年生れの行平は伊都内親王の子ではあり得ないことにもなりますね。)
業平が生まれるのは帰京の翌年、天長元年(824)です。

伊都内親王は薨去の時無品とあります。母平子の遺産は莫大だったようですから、経済的には何不自由なく暮らしていたのでしょうけれども。
阿保親王は贈一品ですが、これは承和の変の際に謀反を密訴したことに対する褒賞のようです。両親とも、不遇とまでは言えないにしても、「世俗的特権とは遠いところにいた」人生だったようには感じられますね。業平の生き方を考えますと、興味深いところです。

 老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな

と伊都内親王が業平に歌を送ったのは、長岡からだったとか。
打ち捨てられた旧京に住んでいたというエピソードなどは、何か時代から取り残されてしまったような侘びしさを感じさせます。



 桓武天皇    ..紀州の姫    
      2004/06/07(月) 17:35  No.218
 
 
皆様の教養高いお話に付いていけない私ですが、“桓武天皇”“1200年程前”だけが解り、興味を持ちました。
平安神宮では来年“桓武天皇1200年祭”が御座います。私は時々「平安神宮のお献茶祭」と申しますが、来年のこの日平安神宮では例年より大規模でする予定があるようです。
そんな事から、桓武天皇の方から系図の理解に挑戦してみました。
検索したり系図と照らし合わせたり、千人万首を覗いたり・・・。
頭が変になりそうでしたが、少しは系図の理解が出来ました。

また、千人万首の桓武天皇の所に“天皇は北野に遊猟し・・・”とあったり、伊都内親王の所に“長岡”が出てきたり、私の良く知っている場所でもあり、1200年前の情景を勝手に思い浮かべておりました。

本当にここでは、皆様のお話から昔苦手だった歴史や古典を楽しく勉強させて頂き、感謝です。「伊勢物語」も読まなくっちゃ・・・。



 無題    ..むらじ    
      2004/06/07(月) 09:24  No.217
 
 
>水垣様
>系図
ありがとうございます。とても参考になりました。
うーん。こうして改めて見ると、なんともすごい家系ですよねー。
これに加えるに。安殿(平城)・神野(嵯峨)・大伴(淳和)の三親王などはそれぞれ異母姉妹を妻としているわけですから、ぜんぶ描いていたらそれこそプリント配線基板のようになってしまう…



 伊都内親王と大宰府    ..むらじ    
      2004/06/07(月) 08:56  No.216
 
 
業平の父阿保親王は、業平が生まれる前年夏くらいまで大宰府に流されていたんですね。そうなるとその兄行平などはほぼ確実に、九州・大宰府生まれ、ということになります。
行平が業平の同母兄かどうかはともかく、業平の生母である伊都内親王は帰京後の阿保親王との間に業平をもうけたのでしょうか。それとも彼女も九州に下向していて、同地で業平をみごもったのでしょうか。

阿保親王が九州にやられたのはたしか二十歳そこそこのころですから、本当のところ内親王との婚姻は配流まえのことなのか、帰京後のことなのか、ちょっと気になります。
配流まえだとしたら異母兄である皇太子とくらべてかけはなれたほどの華やかな結婚ともとれますし、
逆に帰京後のことだとしたら、親王同士の婚姻といってももっと地味婚?的なものだったかもしれませんね。

業平行平とも従五位下となったのは二十代半ばのころで、当時ときめいていた嵯峨源氏と比べるのは酷にしても、そんなに目立った立身ともいえなさそうです。
たいがい生母の身分が高かったりすると官歴の最初くらいは華々しかったりすることがあるのですが、すくなくとも叙爵の段階で生母による世俗的恩恵を受けていたという印象は薄そうですね。

あるいは父母とも親王内親王の身分にありながら、そうした世俗的特権とは遠いところにいた人たちなのかもしれません。
そうして『伊勢物語』を読むと、業平と母との心情的な交流もいっそうしみじみしたものを帯びてくるような気がいたします。

話題はがらりと変わりますが、桓武のひとり相聞、いまだったらまちがいなくセクハラですよねー(笑)



 RE:伊都内親王    ..水垣    
      2004/06/03(木) 23:27  No.215
 
 
むらじ様・八重葎様、こんばんは。

>いにしへの野中古道あらためば改むらむや野中古道

こう歌いかけられた百済王明信は返歌が思い付かず、代わって天皇が自ら和して、

 君こそは忘れたるらめ和霊(にきたま)の手弱女われは常の白玉

これは男と女の関係があったとしか思えない贈答ですね(実際には自問自答なのですが)。
伊都内親王にしてみれば、父親が母親の祖母と関係を持っていたことになりますが、事情を知っていたのかどうか。

業平と言いますと父阿保親王との関係はよく取り沙汰されますが、母親が彼の人生にどんな影響を及ぼしたのか、なかなか興味深い問題ではないかと思えてきました。

業平の母方の家系を整理してみようと系図にしてみました(上の画像をクリックして下さい)



 うつせみ    ..八重葎    
      2004/06/03(木) 12:09  No.214
 
 
水垣様 むらじ様

ありがとうございます。
伊都内親王のImageが妙に肉体的特徴等を伴って
浮かび上がってきたような気が致します。

1200年程度前の方だと現代人との乖離を感じますが、
現在残っている貴重な文書により、ふと鮮やかな
その実像が得られる場合もあるようです。

叡山を開かれた最澄の戒帖にも、肘の上に幾つ黒子が
あったとか、肉体的特徴を記した部分があり、最澄その人を
偲ぶよすがとなっているようです。



 伊都内親王    ..むらじ    
      2004/06/02(水) 23:53  No.213
 
 
皆様、おひさしぶりでございます。

藤原平子は藤原乙叡の娘ですが、乙叡の生母百済王明信は桓武天皇に

いにしへの野中ふる道あらためばあらたまらむや野中ふる道

と歌を詠まれ戯れかけられたことでも知られます。
これを文字通り天皇と明信との過去の秘事、ととらえてよいとすれば、桓武はかつての愛人の孫娘をも妻とした、ということになりますね。
こんにちではちょっと信じられない話ですが、明信は桓武と同い年です。桓武は子沢山で晩年まで皇子女を儲け続けたらしく、たとえばその一人である仲野親王などはオイに当る阿保親王と同い年となりますから、まんざらなかった話でもないようですね。

伊都内親王願文の手形は、日本最古の女性による手形とのことですが、角田文衛「王朝の映像」によればその手の型は人並みよりもほっそりとした指だということです。この本、たまに神保町などでみかけますが、冒頭にカラー図版で伊都内親王の手形が掲載されています。



 無題    ..水垣    
      2004/05/31(月) 17:34  No.212
 
 
>八重葎様
>原文冒頭は、
>菩薩戒弟子従五位下 藤原朝臣平子..

この「平子」が伊都内親王のお母さんで、亡くなった時、興福寺に遺産の一部を寄進してほしいとの遺言を残した、ということですね。

>sion様
トップの背景、くしゃくしゃに丸めた紙屑に見えやしないかと気になってましたので、ほっとしました。
紫陽花の花の匂いを意識的に嗅いだことはないのですが、雨の降る中ですと、何ともいえない香りが漂うのは感じられますね。

>平安時代の歌人への関心の高さは、一般的なものなのでしょうか、それともこちらのサイトを見に来られる方に平安好きな方が多いのでしょうか。興味あるところです。

どうなんでしょうか。私も知りたく思います。
ただ、私のサイトに来て下さる方のお便りなどから感じられることですが、日本の古典的な文化に興味を持たれて、それからだんだん和歌に近づいて来られる方が少なくないという印象は持っています。



 RE:撫子図屏風14首    ..水垣    
      2004/05/31(月) 01:24  No.211
 
 
ためかぬ様、
撫子図屏風14首、ありがとうございます。八代集からの撫子詠の抜粋になっているのですね。のちほどよく味わいたいと思います。

万葉集に「柘(つみ)」とあるのがヤマボウシ(山桑)のことのようですね。

 この夕へ柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ

山などで見かけた記憶のある花でしたが、名前は植物園で教えてもらうまで知りませんでした。花は十字形で大変特徴があります。漢名は「四照花」と言うとのことですが、ぴったりの美しい名だと思いました。

神代植物公園で撮った撫子の花の写真を添えます。



 RE:能因「都鳥」    ..水垣    
      2004/05/31(月) 01:05  No.210
 
 
めるがっぱ様、こんばんは。

もちろん能因が業平の歌を知らなかったということはあり得ません。
かと言って、別にことさら「業平の歌をあえて知らない風を装った」とも思いません。

>藻塩やく海士とや思ふ都鳥
>    名をなつかしみ知る人にせむ(208)

旅先での偶詠ですから、その時の興の赴くままに詠んだ、ということではないでしょうか。業平の歌よりも、

 荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く我を(柿本人麿)
 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(藤原興風)

などの影響の方がつよく感じられますね。
「都鳥」を詠んだ業平の歌がいくら有名だからと言って、都鳥の歌を詠む時、必ずそれを踏まえなければならなかった、というわけではありません。



 梅雨入り間近    ..sion    
      2004/05/31(月) 00:05  No.209
 
 
こんばんは。
トップページが紫陽花になっていますね。今年は梅雨入りが早いそうですが、紫陽花も例年より色付きを急いでいるのでしょうか。
清少納言にあやかって、雨の季節は香を楽しもうかと思っています。

>サイト内検索キーワード ランキング
面白く拝見しました。
平安時代の歌人への関心の高さは、一般的なものなのでしょうか、それともこちらのサイトを見に来られる方に平安好きな方が多いのでしょうか。興味あるところです。
清少納言と紫式部はさすがですね(^^)



 ありがとうございました    ..八重葎    
      2004/05/30(日) 22:22  No.208
 
 
水垣様

私の記憶違いで、伊都内親王願文は興福寺への寄進に際しての
ものでした。ありがとうございます。

原文冒頭は、
菩薩戒弟子従五位下 藤原朝臣平子..
奉納山階寺東院西堂香燈読経料事..
云々
とありました。

最後に伊都とのみ あっさりと少し小さめの字で
署名されています。



 撫子図屏風14首    ..ためかぬ    
      2004/05/30(日) 09:34  No.207
 
 
  後撰和歌集 第四 夏

読み人しらす

 二葉より我しめゆひし撫子の花の盛をひとにをらすな

 ひとしれすわかしめしのの撫子ははなさきぬへきときそ来にける

 我宿のかきねにうへし撫子は花にさかなむよそへつつ見む

 常夏の花をたにみはことなしにすくす月日もみしかかりなむ

太政大臣

 なてし子はいつれともなくにほへともをくれてさくはあわれ也けり
 
  
  新古今和歌集 第三 夏歌

高倉院御歌

 しら露の玉もてゆへるませのうちにひかりさへそふとこなつの花
 

  拾遺和歌集 第二 夏

伊勢

 いつこにもさきはすらめとわかやとのやまとなてしこ誰にみせにし

  
  千載和歌集 第三 夏歌

和泉式部

 みるか猶このよのものにおほえぬはからなてしこの花にありける

  
  詞花和歌集 第二 夏

藤原経衝

 うすくこくかきほににほふ撫子の花の色にそ露も置ける

  
  後撰和歌集 第四 夏

題しらす
よみ人しらす

 なてしこの花ちりかたに成りにけりわかまつ秋にちかくなるらし

  
  詞花和歌集 第二 夏

修理大夫顕季

 たねまきし我撫子の花盛いく朝露のをきてみつらむ

  
  後拾遺和歌集 第四 秋上

中納言定頼

 常夏のにほへる庭はからくににをれる錦もしかしとそ見る

  
  後拾遺和歌集 第四 秋上

能因法師 

 いかならむ今夜のあめにとこなつのけさたに露のおもけなりつる

  
  後拾遺和歌集 第四 秋上

曽禰好忠

 きてみよといもか家路につけやらむわれひとりぬるとこなつの花


植物園の話題で思い出したのは、万葉集の花の本に載っていたヤマボウシのことが、気になりながら、植物図鑑で充分確かめられず10年もの歳月がながれたことです。掲示板を見た翌日には、新聞の花おりおりにもヤマボウシが取り上げられてました。

王朝展の撫子のことも、気になりながら、誤写がないかだけでも確かめてと、先延ばしになってしまうばかりなので、植物園の撫子にあやかって書き込ませていただきました。誤りがあってもわからないままで恐縮です。
女流歌人は艶やかですが、アクセント程度にするのが、暑くなりすぎずよいみたいですね。 



 能因:「都鳥」    ..めるがっぱ [URL]    
      2004/05/29(土) 00:14  No.206
 
 
水垣さま、以前、千載集の藤原季通について
教えて頂いたものです。
その節はありがとうございました。

さて、能因集にこんな歌がありました。

藻塩やく海士とや思ふ都鳥
    名をなつかしみ知る人にせむ(208)

「長暦四年春、伊予の国に下りて、浜に都鳥といふ鳥の
あるを見て、ながむ」と前書きにあります。

この歌に多くの人が「伊勢物語」のよく知られたエピソードと
歌を思い出すと思うのですが、不思議に能因の歌には業平の歌の
影が見えません。
「都鳥」という鳥の名にもなじみがないかのようです。

能因は11世紀、在原業平は9世紀に生きていた人物だから、
能因も「伊勢物語」の歌を知っていたかと思いますし、
まして、能因が古今集を読んでいないとは考えにくい。
能因が業平の「都鳥」の歌を知らなかったということが
あるでしょうか?
それとも、能因が業平の歌をあえて知らない風を装ったという
ことでしょうか?
水垣さまはどう思われますか?

そんなことを考えていたら、こちらの掲示板で
今日5月28日は業平忌なのだと知りました。



 サイト内検索キーワード ランキング    ..水垣    
      2004/05/28(金) 22:41  No.205
 
 
「やまとうた」トップページと「千人万首」目次ページにCo.Co.Da e-Xpressのサイト内検索窓(無料版)を設置しているのですが、先日、一か月分の検索履歴がメールで送られて来ました。リクエストランキング上位1000個の検索キーの実行回数がレポートされています。興味を持たれる方もおありかと思い、上位10キーを掲げてみます。

実行回数 検索キー

 43   紀貫之
 36   小野小町
 35   清少納言
 27   柿本人麻呂
 23   藤原定家
 16   紫式部
 15   在原業平
 15   与謝野晶子
 14   慈円
 13   大伴家持
 13   西行

と、全て歌人名でした。
例えば紀貫之の「43」は、「紀貫之」「貫之」「きのつらゆき」「つらゆき」などのキーワードで検索が実行された回数を合計した数字です。
小町・人麿・定家あたりが多いのは順当な結果と思いますが、貫之の他を引き離しての一位はやや意外でした。

与謝野晶子や山川登美子、斎藤茂吉などのキーワードで検索された方も少なからずおられましたが、当サイトは基本的に維新前の歌人しか扱っておりませんので、近現代の歌人名は「派生歌」で数例ヒットする場合がある程度かと思います。
歌人名以外では、「ほととぎす」「五月雨」「夏の夜」など、季節の風物での検索がいくつか目につく程度でした。

それにしても、せっかく検索キーがヒットしても、閲覧してガッカリされることが多いだろうと思うと、何とも申し訳ない気持です。

因みに、無料版を利用している私に知らされるのは検索キーとその実行回数のみで、他の情報(IPアドレスなど)は一切報知されることはありません。



 RE:業平の母について    ..水垣    
      2004/05/28(金) 22:39  No.204
 
 
八重葎様

五月二十七日が「百人一首の日」で、二十八日が業平忌でしたね。過去ログを見ましたら、むらじ様が教えて下さったんでした。
今年もまたうっかり過ごしてしまいました。十輪寺や不退寺にお参りするのは無理にしても、せめて杜若でも飾って業平を偲びたかったと思います。

人名辞典など見ますと、「伊都内親王願文」は興福寺に墾田等を寄進した際の願文のようです。橘逸勢の筆と伝わり、仰る通り署名は伊都内親王の自筆と見られるとのことです。「書には人柄が出る」とも言いますから、見る人が見れば、伊都内親王の性格なども推し量ることができるのでしょうか。




 土佐の高知の…    ..水垣    
      2004/05/28(金) 22:38  No.203
 
 
紀州の姫様

筆山は土佐の歴史を語るには欠かせない場所のようですね。
毎年のお墓参りはご苦労が大きそうですが、その分ご先祖様もお喜びではないでしょうか。

私は母親の故郷が徳島で、夏休み遊びに行ったついでに高知の方も廻ったことがありますが、若い頃で歴史のこともよく知らず、高知城とはりまや橋を見物し、夜は鰹のたたきを食べて、すっかり満足しておりました。

そう言えば高知は辛口の旨い酒がありますね。

 銀(しろがね)も金(くがね)も玉もよしゑやし飮みての後は欲しけくもなし

と酒好きだった雅澄も詠んでいますし、

 土佐の海とどろとどろと鳴る夜半に酌みたる酒をえこそ忘れね

これは放浪の末一時は土佐に住んだこともあった吉井勇の歌です。
鰹で一杯やりたくなってしまいました。



 業平の母について    ..八重葎    
      2004/05/28(金) 12:18  No.202
 
 
春先からなぜか業平の歌が気になり、伊勢物語等を読んでいました。

ちょうど昨日でしたか、古今集中の業平母の歌が折々の歌に出ており、
今日も業平関連の句が評されています。旧暦5・28が業平忌とのことでした。(去年このサイトでも話題になっていた気がします)

業平の母とは伊都内親王でしょうか。この方の受戒時のものと思われる願文が残っております。筆者は伝橘某とされ、ご本人の手跡は最後の署名と、手に朱をつけて押印されたものかと勝手に推察しています。
書道の方では著名なもののようです。

こんなところから、業平の母を想像するのも一興かと思われます。



 山内一豊    ..紀州の姫    
      2004/05/28(金) 10:39  No.201
 
 
水垣さま
“一豊”のつもりが“豊一”になっていまして、失礼致しました。
しっかり見直していなかったもので・・・。冷や汗タラ〜(^_^;)
修正致しました。m(__)m

『土佐藩主歴代筆頭、山内一豊の墓は、高知市の筆山公園の一番上に建立されている。いわば、筆山が山内家の墓所と考えるべきだ』

この筆山は結構大きな山で、本当に山全体にお墓があるのです。
山の入り口に「主な墓」が明記されており、山内一豊がありました。
(ちなみに、私の所は山の下の方で、もちろん主な墓には載っておりません。当たり前かな・・・・)

余談ですが、法事などありますと市内のお寺で法要し、皆運動靴に履き替え、夏だと蚊取り線香をそれぞれが持ち、もう山登り状態です。
目印は他所様のお墓だけ。道を間違えた事も何回もあります。
高知が一望できる景色だけは最高です。

小櫛山の位置を教えて頂き有り難う御座いました。
ヤマボウシの花は見事ですね!



 雅澄の歌2    ..水垣    
      2004/05/28(金) 01:35  No.200
 
 
>紀州の姫様
「土佐の姫」様ですとちょっとイメージが変わりますね(笑)。
小櫛山はネットで検索したところ、高知県幡多郡大方町上川口に小櫛山遺跡という名の縄文遺跡があり、雅澄の歌集の詞書にも「幡多郡」「上川口」の地名が見えますので、同地と見て間違いないようです。高知市よりずっと西の方ですね。
仰る通りで、雅澄の歌からは南国らしい景色が目に浮かびます。

植物園と言えば、先日東京都下の調布市へ行く機会があり、ついでに神代植物公園に寄って来ました(東京方面では結構有名な植物園です)。躑躅は終わりかけでしたが、撫子、薔薇、睡蓮などが咲いていました。写真は白い花をつけたヤマボウシです。

>一人静様
今晩は。
>手作りの葉書
歌に絵を添えたりなさるのでしょうか。ふと見れば、私のパソコンまわりは味も素っ気もないメモの切れ端ばかりです。

雅澄の歌、なかなか好評のようですので、早めのアップを心がけようと思っております。



 今晩は    ..一人静    
      2004/05/27(木) 19:13  No.198
 
 
今晩は。
鹿持さんの素敵な歌をお教えくださりありがとうございました。
早速、歌入りの手作りの葉書を作り、パソコンの前の壁に押しピンで飾りました。
気に入った歌はこうして、身近に置いてしばらく楽しんでいます。

千人万首で鹿持さんを紹介してくださる・・・私も楽しみにしています。




 土佐の高知    ..紀州の姫    
      2004/05/27(木) 11:02  No.197
 
 
牧野富太郎博士の牧野植物園には、花の美しい春と秋に行った事があります。

躑躅花にほへる妹が抑へ指す小櫛(をぐし)の山は見れど飽かぬかも

小櫛(をぐし)の山がどこか分かりませんが、私の父方の先祖代々のお墓が高知市内の筆山(ひつざん)の墓山(通称)にあり、毎年参ります。場所は違いますが、この歌の南国の青い空と緑と躑躅が目に浮かんでくるようです。
この筆山の墓山には、山内一豊のお墓もあるようです。

父よりも母の紀州が方が小さい頃から馴染みあり、“紀州の姫”を使っておりますが、ふと、“土佐の姫”でもいけるかな・・と。(^^)

一人静様同様、私も鹿持雅澄について興味がわいてきました。
千人万首に取り上げられるのを楽しみにしております。



 雅澄の歌    ..水垣    
      2004/05/25(火) 18:01  No.196
 
 
>一人静様
お返事遅くなりました。
土佐の人には独特の気風が感じられますね。
雅澄は歌人としても素晴らしいと思います。さすがに万葉調の歌が多いです。

 妹が家路近づくらしも天の河川瀬もさやに琴の音きこゆ

のような七夕を主題とする優雅な歌もあれば、

 躑躅花にほへる妹が抑へ指す小櫛(をぐし)の山は見れど飽かぬかも

のような土佐の地名を即興で詠み込んだ美しい歌もあります。当方の「千人万首」というコーナーでいずれ取り上げるつもりです。



 今晩は    ..一人静    
      2004/05/22(土) 20:49  No.195
 
 
早速お返事いただきありがとうございます。
読ませていただき、よくわかりました。
鹿持さんが高知県の誇る国学者と知り驚いたり、喜んだりです。
高知は亡き義父の出生地でもあります。
牧野博士、坂本竜馬さん、そして鹿持雅澄さん、ますます高知に親しみを感じています。
私も少し歌など作っていますので、歌人としての鹿持さんにも興味がわいてきました。
楽しみが増えました。ありがとうございました。



 はじめまして>一人静様    ..水垣    
      2004/05/21(金) 20:53  No.194
 
 
はじめまして。ようこそおいで下さいました。
万葉集の読書会をされているとのこと。楽しそうな雰囲気が伝わってきます。

>鹿持さんの万葉集を使っておられるのは何か、訳がおありでしょうか。

ワープロを使い始めた頃、ちょうど鹿持雅澄の「古義」を使って万葉集を勉強しておりましたので、タイピングの練習もかねて、古義の訓み下しに従って万葉集の歌を一つずつ入力していきました。のち、WEBサイト開設の際、せっかくだからとHTMLファイルに書き換えて公開したわけです。
「波流能由伎」の「訓読万葉集」のコーナーの「はじめに」という文章でもう少し詳しく書いておりますので、お読み頂ければ幸いです。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html

>巻4の529あたり

529番は坂上郎女の歌ですね。
巻四と言いますと、女性歌人の活躍が目立ち、華やかな印象を受けます。余裕をもって恋の贈答を楽しんでいるような歌もあって、「安心して読める」と仰るのはよく分かる気がします。

では、こちらこそどうぞよろしくお願いします。



 はじめまして。    ..一人静    
      2004/05/20(木) 13:25  No.193
 
 
初めてお便りさしあげます。50代のおばさんです。
友達4人で万葉集を読んでいます。先生はいないので、自分たちが決めた箇所を調べて話し合って楽しんでいます。
こちらのHPを読ませていただきとても参考になっています。
ありがとうございます。
さて、私たちは新日本古典文学大系を読んでいるのですが、水垣様は鹿持雅澄さんの「萬葉集古義」を使っておられるので、詞の端々が少し違っています。
鹿持さんの万葉集を使っておられるのは何か、訳がおありでしょうか。
よろしければ、お教えください。

さて、私たちは現在、巻4の529あたりを読みあっています。
登場する女性達が愛の告白を堂々とするのは気持ちのいいものですね。
それに歌にとてもユーモアを感じて・・・相聞歌のこの巻は安心して読めます。
忘れては読み、読んでは忘れ・・・・人様には言えない状態の読書会ですが、恐れず続けています。
これからも参考にさせていただきますので、よろしくお願いします。



 無題    ..水垣    
      2004/05/20(木) 01:04  No.192
 
 
>ためかぬ様
どういたしまして。
手作りのミニチュア屏風とは、手先の不器用な私には思いも及びません。
挑戦のしがいもありそうですね。

>sion様
宮内卿と言えば、私もsionさんを思い出します。またsionさんの名訳を拝見する機会はないものかと、ずっと思っているのですが。

>聞くやいかに 初句切れつよき宮内卿の恋を知らざるつよさと思ふ

恋を知って弱くなってしまったと感じている現代の女性が、鎌倉時代の少女歌人の詞の「つよさ」に思いを馳せているわけですね。
面白い本歌取りと思います。



 >水垣様・ためかぬ様    ..sion    
      2004/05/18(火) 16:19  No.191
 
 
>水垣様
>「野分」の垣間見の場面に、父と対照的な夕霧の人間性がよく出ているわけですね。

素敵なシーンでしたね! 紫の上を春の霞の間から眺めた樺桜に喩えていました。そう言えば水無瀬恋十五首歌合の定家の歌にこの場面の「本説取り」がありましたね。

 忘れめや花にたちまよふ春霞それかとばかり見えし明ぼの

その後の、紫の上の面影が忘れられずに悩む、夕霧のかわゆい純情ぶりも印象に残っています。

>ためかぬ様
お久しぶりです。
宮内卿の歌で思い出して頂けるなんて、恐縮です(^^; 
「聞くやいかに」が「隅田川」に引用されていたとは知りませんでした。引用された部分は、名歌のオンパレードですね。

「千人万首」にも引かれていましたが、宮内卿の本歌取りと言えば、私は米川千嘉子さんの素敵な歌を思い出します。

 聞くやいかに 初句切れつよき宮内卿の恋を知らざるつよさと思ふ




 ありがとうございました。    ..ためかぬ    
      2004/05/17(月) 09:19  No.190
 
 
「めぐり逢う王朝文学と美術展」の為泰卿八十賀月次屏風をみて、ミニチュア屏風をつくってみたいなどと妄想をいだきました。自分が古稀をむかえるころまでには、自分のために作製できるようになりたいなと。

夏はやはり撫子なのですね。同上美術展にあった撫子図屏風の14首についても、とったメモをもとに確かめたいと思いながら、手をつけていないこと思い出しました。

>岩倉はなかなか見どころの多い土地のようですね。
詳しい情報ありがとうございました。ついこの間まで、岩倉はバスの車庫があるらしいところとのイメージしかなかったのが、はずかしくなってきました。

>sion様
お久しぶりですね。

今回 謡曲「隅田川」(人買いにさらわれた我が子を探す旅に出た母の悲劇)読んでいるなかで
 「きくやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは」

の引用があり、
(げにや人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、今こそ思ひ白雪の、道行人に言伝てて、行方を何と尋ぬらん。聞くやいかに、上の空なる風だにも、松に音する習ひあり。)

水無瀬恋十五首歌合のやりとりを懐かしく思い出しました。
宮内卿といえばsion様とも。



 光源氏、夕霧、薫    ..水垣    
      2004/05/17(月) 01:22  No.189
 
 
>八重葎様

カッコ内に特に共感をおぼえました(笑)。

薫は光源氏の影の部分ばかりを背負い込んでしまったような人物ですね。柏木の子なわけですが、光源氏の業を引き継いでしまったのは、何故か匂宮より薫に見えます。そう思えば、哀れではありますが。

>sion様

お久しぶりです。ご意見ありがとうございます。

>夕霧が紫の上を遠くから憧れるばかりなのに対して、藤壺と一線を越えてしまった父。

なるほど。「野分」の垣間見の場面に、父と対照的な夕霧の人間性がよく出ているわけですね。あそこは源氏物語でもいちばん好きなシーンかも知れません。
しかしやはり夕霧はヒーローにはなれない人物なのでしょうねえ…。

私も結論としては「光源氏なら許せちゃう」のです(笑)。




 RE:古稀    ..水垣    
      2004/05/17(月) 00:48  No.188
 
 
ためかぬ様

能宣が忠平の古稀を祝った歌ですが、「各三首」と書いたのは誤りで、よく見たら夏は二首でした。正しくは「春夏秋冬あわせて十首」です。
新編国歌大観よりそのまま引用します。

    なつ
 なつ山のこだかきかげにたちよりて
     みればちとせのかげにぞありける
 とこなつのいろのにほひはやどなれば
     うつろふあきもあらじとぞおもふ

一首目は古今集素性法師の「よろづ世を松にぞ君をいはひつるちとせのかげにすまむと思へば」の本歌取りで、「ちとせのかげ」は松の木陰を意味します。
二首目の「とこなつ」は撫子のことです。第二句は、「いろのにほへる」の誤写ではないかと思います(でないと意味が通じません)。

>岩倉山も盤座に由来する地名だったのかと気づきました。

大雲寺のそばに山住神社という名の神社がありまして、巨石信仰の遺跡があるとのことです。

http://homepage1.nifty.com/hon/2/2-060/2-060.html

岩倉はなかなか見どころの多い土地のようですね。近いうち機会があったら見に行きたいと思っております。



 光源氏と夕霧    ..sion    
      2004/05/16(日) 20:42  No.187
 
 
またまたご無沙汰してしまいました。

八重葎様と水垣様の『源氏物語』談義、楽しく拝聴いたしました。
私は、マンガ、円地訳、注釈付と読み進みましたが、やはりずいぶん長いこと光源氏には反発をおぼえていました。まさに「許せない!」でした(笑)。
その点、幼な馴染みの雲居の雁を思いやって玉鬘への恋心を抑え、女三宮との結婚も断念した夕霧には、女ながらも共感をおぼえました。
と言って、やはり光源氏の魅力には抗し難いものがあるのも事実です。
夕霧が紫の上を遠くから憧れるばかりなのに対して、藤壺と一線を越えてしまった父。禁忌を踏み越えてしまうのも、この世の人ではないような光源氏の存在感ゆえ納得してしまう部分もあるのです。

気がつけばいつしか、「光源氏なら許せちゃう」と思うようになってしまっていました (^.^)>゛

>しかし男性なら一度は六条院のようなものを
>もってみたいと考えてしまうのではないでしょうか。(笑)

やはりそうなのですか? そうなのでしょうねえ……私も男だったらそうかもしれないし……(^.^)




 六条院    ..八重葎    
      2004/05/16(日) 15:48  No.186
 
 
水垣様

奥様の憤慨もっともなことと存じます。
しかし男性なら一度は六条院のようなものを
もってみたいと考えてしまうのではないでしょうか。(笑)
(半分冗談ですが、半分本音です。)

薫という人はまったく煮え切らない、はっきりしない人で
正直いっていらいらしました。やはり光源氏とは全然
比較になりません。

ご指摘のように 読後もういちど源氏の少壮年を見直すと、
別の愛着を感じるものかもしれません。



 古稀    ..ためかぬ    
      2004/05/16(日) 09:59  No.185
 
 
古稀の御祝に添える和歌をさがしていましたら、

>天暦三年、太政大臣の七十賀しはべりける屏風によめる
たづのすむ沢べの葦の下根とけみぎはもえいづる春はきにけり
                   (後拾遺9)大中臣能宣

 能宣集によればこの時春夏秋冬三首ずつの歌が献上されており、
掲出歌はその最初の一首である。
とありましたが、夏の三首をお教えいただけないでしょうか。

社会人1年生のとき、能の鑑賞(居眠ってしまいましたが)でお世話になった知人の古稀の御祝に、添えるつもりで、謡曲集にざっと目を通し、引用されている和歌をピックアップしているところです。
われながらいつもインスタントな姿勢で(源氏物語通読の話題のでたあとでなくとも)恥ずかしいのですが、自分の器からするとそれでも精一杯です。

ひもといていた日本古典文学全集58(小学館)謡曲集1 の最後のページに「いまさら何と盤座(いわくらや)、その関の戸の夜も明け、かくありがたき夢の告げ、覚むるや名残なるらん」『三輪』とあり、「盤座」は「(何と)言わん」と掛詞であり、神の座の意だがここでは天の岩戸の意との解説がのっていました。
それで、岩倉山も盤座に由来する地名だったのかと気づきました。岩藏大雲寺のことをうかがった直後だったので、うれしい発見となりました。



 追記    ..水垣    
      2004/05/16(日) 00:26  No.184
 
 
そう言えば、ちょっと前に妻と話しておりまして(別に真面目な議論をしていたのではありませんが)、私が「源氏物語は日本人の誇り」というようなことを言いましたら、妻から「でも光源氏は許せない」と真顔で言い返されました。・・・



 RE:源氏物語    ..水垣    
      2004/05/16(日) 00:02  No.183
 
 
八重葎様
こちらこそありがとうございます。大変興味深く拝読しました。

それにしても、研究者・教師といった方たちは別として、男性で(たとえ訳文でも)源氏物語を通読した方は珍しいのではないでしょうか。読みもしないで「源氏物語なんて男の読むものでない」とか「光源氏はただの猟色家」とかの偏見を持っている人はまだ世に多いように思えます。

私が初めて全巻読んだ時は(まだ十代でしたが)、やはり所謂第二部に至ってやっと物語の大きなうねりに呑み込まれるのを感じました。そのあとはもう熱中して読んだという記憶があります。やはり少年時代の夕霧などには非常に感情移入できましたし、女性ではお転婆な玉鬘が一番のお気に入りでした(笑)。宇治十帖(第三部)に至る頃は、もう原文もかなり読み慣れてきて、この物語の虜になっていました。

光源氏・夕霧・柏木・薫・匂宮と、男の方はだんだん情けなくなってゆく感じですね。逆に言いますと、物語が進むにつれて、だんだん光源氏という存在の大きさが分かるようになってきます。

時々読み返しますが、今は「空蝉」「夕顔」「紅葉賀」「花宴」など、光源氏の青春時代の艶に豊麗とした話が良いなあと思うようになりました。和歌もこの辺から一番養分を採っているのではないでしょうか。



 源氏物語    ..八重葎    
      2004/05/15(土) 20:55  No.182
 
 
水垣様

ありがとうございます。

俊成でしたか定家でしたか
源氏を読まない歌詠みなんて...
という言葉に惹かれて別に歌詠みではありませんでしたが、
円池先生の源氏物語を以前読みました。

同性というひがみからか、はじめ光源氏とはなんと
浮ついたふざけた人かというのが実感でした。
明石の辺りでこのくらいにしておこうかと思いましたが、
これでは俗にいう須磨・明石がえしになってしまうと、
我慢して読み続けました。

それまでは紅葉賀はなるほど美しいと思い、また末摘花
の鼻を哀れと思い、ちょっと頭のおかしい近江の君の
発言に笑い、それなりに楽しみをみつけておりました。
が、女三宮が出てきた辺りから、これは単なる恋愛小説
とは云えない何かを感じました。
三宮が生んだ子供に会う源氏という図は、それまでの
源氏の生き様を読んできた者には、なんという残酷な
ものかと思いました。因果応報といってしまえばそれまでですが
もっと身につまされる仕方で、紫式部はみごとにそれを
描き出し、読者に突きつけたものと思います。

その後源氏は雲隠れし、宇治十帖につながっていく訳ですが、
これも源氏の業がずうっと後を引いているような
強い印象が残ります。

今回宇治を訪れたのには、そんなことも影響しているようです。



 宇治2    ..水垣    
      2004/05/13(木) 21:50  No.181
 
 
宇治は何度か遊びに行ったのですが、紀州の姫様と八重葎様のお話を伺って、まだまだ知らないことが多いなと思いました。

>八重葎様

喜撰山は私も登りたかったのですが、遠さに挫けました。中腹に法師の住んだ庵の跡が残っているとか、信じられないような話ですが…。確か洞窟みたいなのがあったのでしたか。

源氏物語ミュージアムは一度観に行きました。浮舟の映画とおっしゃるのは、たしかホリ・ヒロシ氏の人形を使った映画でしたね。短篇にうまくまとめ上げてありましたね。

>紀州の姫様

「ずいずいずっころばし」も宇治と関わりがあったのですね。
「茶壷におわれてトッピンシャン 抜けたらドンドコショ」でしたっけ。子供の頃に遊んだことを思い出しました。

普茶料理というのがあったのですか。京都は食の世界も深いですね。

お写真、こちらこそ有り難うございました。
歌枕紀行も楽しんで頂いたとのこと、嬉しく存じます。まとまった時間が取れたら、また何処かの紀行文を書きたいと思っております。見て頂ければ幸いです。



 『宇治橋と茶師の周辺』    ..紀州の姫    
      2004/05/12(水) 10:21  No.180
 
 
八重葎さま
ありがとうございます。
平等院の宝物殿(鳳翔館)の春の企画展『宇治橋と茶師の周辺』は7月19日までで、珍しい茶釜も展示されているようで鉄斎の「通円茶亭図」と共に是非鑑賞に行きたいと思います。
宇治には黄檗山萬福寺があり、以前は時々普茶料理(中国風精進料理)を戴きに参りました。    
なんて、なんだか観光案内みたいですね。(^^ゞ

水垣さま
先日はこちらにも待兼山写真を載せて頂き有り難う御座いました。
自分で写真を送っておきながらこうして載せて頂きますと、大変恐縮してしまって・・・。
歌枕紀行(お写真も)拝見がますます楽しくなり、また▲もその土地についてすぐ解り、宇治についても参考に拝見致しました。
宇治には水垣さまの紀行文がまだ無くて、残念でしたが・・。(^.^)



 紀州の姫様    ..八重葎    
      2004/05/11(火) 19:57  No.179
 
 
ご無沙汰しております。

宇治橋の東詰に通円というお店があり、
小生も今回立ち寄りました。
源三位頼政に付き従った家来のご子息が現在も
経営されております。一休和尚との親交やら
伺いました。

その後、平等院に行きましたら、宝物館に鉄斎が書いた
通円と宇治橋の図があり、同じ所で休憩したんだな
などと妙に感慨がありました。

実は喜撰法師の庵あとを訪ねようと真剣に考えていましたが、
朝日山の裏になるそうであきらめました。

源氏ミュージアムでは、浮舟を主人公とした映画が上映されており
よい源氏の復習となりました。



 朝日焼きと宇治茶    ..紀州の姫    
      2004/05/11(火) 13:55  No.178
 
 
以前に遠州七窯(天下の茶匠千利休、古田織部の後を継いだ小堀遠州の好みの焼き物)の一つで、朝日山麓にあります朝日焼きの窯元を尋ねました。新緑でも紅葉でもない時期でしたが、何処を歩いても聞こえる宇治川の川音はしっかり耳に残っております。

いつぞや明恵上人が茶の種を蒔き広めたという話ですが、栂尾より宇治の風土が栽培に適したようで発展し、室町時代に宇治七名園が生まれ、
「森 祝井 宇文字 川下 奥の山 朝日につづく琵琶とこそ知れ」
と歌われたのはこの地では有名です。

余談ですが、「茶壷に追われてとっぴんしゃん・・」と童謡の「ずいずいずっころばし」ですが、これは江戸時代に宇治と江戸との“茶壷道中”の様子を歌ったものだと云われています。(他にも色々な説はありますが、これが一番多く云われています)。

宇治のお話しからそんな事を思い出しておりました。
宇治市「源氏物語ミュージアム」も訪ねてみたいと思っています。
伏見、深草のお話も少し調べますとお話の内容が良く解り、楽しませて頂いております。



 朝日山    ..八重葎    
      2004/05/11(火) 11:59  No.177
 
 
水垣様

朝日山の歌ありがとうございました。
このように宇治の風景・うたを通して
古人とつながることができるのは
楽しいものです。

今度は秋の機会に訪ねたく思います。



 RE:嬉しさは忘れやはする(伊勢大輔)    ..水垣    
      2004/05/11(火) 00:55  No.176
 
 
高木 栄様
ご意見有り難うございます。
「忘れやはする」の「やは」は反語をあらわしますから、「忘れましょうか、いや忘れはしません」といった意味になります。
動詞の「しのぶ」を私は「偲ぶ」(あなたがお見舞いしてくれた秋の夕暮を偲ぶ)意に解しましたが、「忍ぶ」と解することもできるとは思います。しかし、「忍ぶ」と解したとして、作者は何を(あるいは何故)忍んでいるのでしょうか。それがよく分かりません。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/isetaihu.html



 宇治    ..水垣    
      2004/05/11(火) 00:54  No.175
 
 
>八重葎様

初夏の宇治は気持ちよさそうです。朝霧橋を渡った宇治川の右岸は、ことに趣のあるところですね。また行ってみたくなりました。
興聖寺の背後の朝日山は和歌にもよく歌われています。

       貞和百首歌に    正二位隆教
  染めあへぬ紅葉の色の朝日山
     ふかくもみえず宇治の河波(新続古今集)

とありますから、昔から楓などの紅葉が美しい所として知られていたのでしょうか。



 永福門院のお墓    ..水垣    
      2004/05/11(火) 00:54  No.174
 
 
>ためかぬ様、むらじ様

京都の詳しい地図を見ますと、左京区岩倉の実相院の北に大雲寺という名の寺があります。岩佐美代子著『京極派歌人の研究』では守子内親王の節でちょっとだけ触れておりますが、「寺は荒廃して昔日の面影はない」とのことです。因みに源氏物語で光源氏が紫の上に出逢う「北山のなにがし寺」がこの大雲寺に比定されているそうです。

伏見・深草辺りでは稲荷大社くらいしか行ったことがありません。ひどく暑い夏の日で、広い境内を観て廻っただけでくたびれてしまったという記憶しかないのが情けないです。一度、一日かけてゆっくり歩いて廻りたいところです。



 嬉しさは忘れやはする(伊勢大輔)    ..高木 栄    
      2004/05/10(月) 11:38  No.173
 
 
「嬉しさは忘れやはする忍草しのぶるものを秋のゆふぐれ」
この歌の解釈ですが、意味をそのままとって次のようにしてはいけないのでしょうか。
嬉しさは忘れてしまいます。忍草のように忍んでいるけれど。秋の夕暮れがきました。
忘れやはする、しのぶるという言葉からしのぶを思うではなく、忍んでいるととったほうがいいと思うのですが。いかがでしょうか。



 岩蔵大雲寺    ..ためかぬ    
      2004/05/10(月) 07:36  No.172
 
 
>むらじ様

早々にありがとうございます。
好きな歌から、その縁の地をたずねるなんて私としては思いもよらないことだったのですが、いつもは読むこともないタウンニュースの呼びかけがきっかけで、歴史散歩に参加しました。
熱の冷めやすいわたしですが、岩蔵大雲寺にでかけ、なにかご報告できればと思っています。



 おひさしぶりでございます    ..むらじ    
      2004/05/09(日) 21:12  No.171
 
 
>ためかぬ様
岩佐美代子著「永福門院 飛翔する南北朝女性歌人」の受け売りですが、「竹むきが記」によると
「後々の御事は岩蔵の寺にかねてより定めおかせ給ひければ、御幸の儀にて八日岩蔵に入らせ給ふ」
とあるよしで、やはり同著によれば
岩蔵大雲寺
というところだそうです。
京都の地理には疎くて、現存する寺かどうかもよく存じません。
永福門院というと伏見天皇のきさきという印象が強いのですが、実際には長生きで、鎌倉幕府が滅亡してからもなお十年近く健在だったようですね。
伏見・深草は数多くの天皇陵があるときいていたので、かねてから行ってみたいなと思っていたところです。
そういえば、もうだいぶ以前になるのですが、「御寺」といわれる泉湧寺にも天皇陵がいくつかありましたね。



 宇治より渡る木幡川    ..八重葎    
      2004/05/09(日) 20:58  No.170
 
 
私も先日関西に所要がありましたので、急ぎ足でしたが
念願の宇治にはじめて参りました。

新緑が美しく、特に朝霧橋を渡り興聖寺へ向かう道や、琴坂の
カエデは見事でした。

また宇治川の流れは矢のように速く、人麻呂のうた、宇治十帖、柴舟のイメージなどが思い起こされました。
この川音だけは昔から変わっていないのと同じように、いつまでも
宇治の自然・景観が保たれてほしいものと切に感じました



 盧橘薫風    ..ためかぬ    
      2004/05/08(土) 23:25  No.169
 
 
「伏見・深草を歩く」という歴史散歩に参加しました。
深草十二帝 深草北陵がコースに入っていたからです。伏見院のほか鎌倉・室町・桃山時代にいたる天皇十二帝が納骨されているとのことです。では永福門院はどこに葬られたんでしょう。

伊藤若冲(大阪・高島屋では年始に展覧会があったのですが、見逃してしまいました)のお墓もある羅漢の寺・石峰寺は盧橘の香りにつつまれ、その色と分かぬあはれも深草や竹のは山の秋の夕ぐれ と無品親王に詠まれた地にある欣浄寺では「伏見の大仏」で知られるという本尊 毘廬舎那仏を真近で拝み、若い頃なら憧れを持っただろう深草少将と小野小町の塚も見てきました。



 こちらこそ有り難うございました>紀州の姫様    ..水垣    
      2004/05/08(土) 00:56  No.168
 
 
季節によって柄杓も変わるのですね。道具についてのそうした細かい心遣いも茶道の奥床しいところだと思います。
「身削ぎ」と「禊」、見事な掛け詞になっていますね(笑)。英単語とか歴史の年号とか、こじつけで憶えるのは我々日本人の得意技みたいですが、百人一首に引っ掛けるとは何とも風流です。

待兼山の写真の件、お礼を申し上げるのは私の方です。
歌枕と言ってもかつての痕跡さえ残っていない場合が多いのですが、待兼山は思ったより緑豊かな場所で、その意味でもお写真を嬉しく拝見しました。
三枚送って頂いたうち一枚しか使いませんでしたが、勿体ないので、もう一枚こちらに掲載させて頂きました(勝手にすみません)。
豊中市の待兼山横の中山池を紀州の姫様が撮って下さったものです。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/matikane_u.html

上のページもどうぞ併せて御覧ください。



 みそぎぞ夏のしるしなりける    ..紀州の姫    
      2004/05/07(金) 00:09  No.167
 
 
新緑の美しい季節となりましたね。
茶道でも炉から風炉へとなり、お点前に使います柄杓も冬用から夏用へと変わります。
「柄杓の切り止めは、冬用は皮が削ってあり夏用は身が削ってある」    最初これが覚えられなくて・・・。そんな時先生が教えて下さったのが、“みそぎ(身削ぎ)ぞ夏のしるし・・”なのです。
実際は

「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」(藤原家隆)

の歌で、みそぎは“身削ぎ”ではなく“禊”ですが、なかなかのこじつけ上手で炉と風炉の変わり目になりますといつもこの歌を思い出します。

さて水垣さま、この度は写真掲載して頂き有り難う御座いました。大変恐縮しております。m(__)m



 RE:トップページ    ..水垣    
      2004/05/02(日) 23:27  No.166
 
 
ひよきち様、こんばんは。
トップページの感想ありがとうございます。

>これは昨年12月に
>このゲストブックにて掲載なされた「有明の月」のお写真でしょうか。

そうです。よくお分かりになりましたね。写真を白黒にして、透過gif画像にしたものです。

私の写真の技術は素人も良いところで、お褒め頂くようなものではありませんが、また気に入って頂けるような写真が載せられたら良いなと思っております。



 トップページ    ..ひよきち [URL]    
      2004/05/01(土) 08:58  No.165
 
 
水垣さま

おはようございます。

トップページを拝見しまして
とても素敵だな・・・と思いました。

これは昨年12月に
このゲストブックにて掲載なされた「有明の月」のお写真でしょうか。

水垣さまのお撮りになるお写真はどれも好きなのですが
あの「有明の月」のお写真は
殊に心に残っております。




 ご教示ありがとうございました。    ..ためかぬ    
      2004/04/29(木) 20:47  No.164
 
 
書き写すことが精一杯の初心者にとって、ほんとうにありがたいこととあらためてお礼申し上げる次第です。

美術品を通して、和歌に接することで、京極派でない和歌にも、関心をもったことが、一番の収穫かもしれません。
「折々のうた」も再開とのことで、美しい日本語の世界との出会いを楽しみにしたいと思っているところです。



 RE: めぐり逢う王朝文学と美術    ..水垣    
      2004/04/27(火) 23:12  No.163
 
 
>ためかぬ様

詳しいお話ありがとうございます。楽しく読ませて頂きました。紀州の姫様のご報告と合せて、展示の様子が立体的に想像出来るような気がしました。

貝づくしの畳紙は美術館のサイトでちょっとだけ見られました。

http://www.emuseum.or.jp/Pages/event_yamato.htm

暈した色合が何とも美しいですね。
書かれている歌は、伊勢斎宮良子内親王(後朱雀院皇女)が催した「斎宮貝合」から取っているようです。上のサイトの画像の歌は「こきまぜに 色をつくして よる貝は にしきのうらと みゆるなりけり」で、錦の浦に色々な貝が寄せている様をあらわしています。

「斎宮貝合」は下のページで読むことができます。

http://tois1.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i215.html

撫子図屏風・十二ヶ月蒔絵重硯箱など、どれも心惹かれます。

>定家の詠花鳥倭歌の八月の花の歌を書き損ねてました。

これは「後仁和寺宮花鳥十二首」と呼ばれているものでしょう。

   八月鹿鳴草          
 秋たけぬいかなる色とふく風にやがてうつろふもとあらの萩

「鹿鳴草(しかなぐさ)」は萩のことです。



 RE: (お詫び)和泉式部の「さしも草」の歌について    ..水垣    
      2004/04/27(火) 23:10  No.162
 
 
萌 亘 様
いえいえ。さしも草をヨモギの異称とする説(ほぼ通説のようですが)については、その根拠が判らなかったので、書かなかったまでです。

>それで「さしも草」の歌を調べましたが、統一されたイメージは無いようでした。

少なくとも恋歌での「さしも草」は、ほぼ例外なく「いつまでも燃え続ける恋心」の象徴として用いられている、と言ってよいのではないでしょうか。

 さしも草もゆるいぶきの山のはのいつともわかぬおもひなりけり
 たえずのみもゆるいぶきのさしも草なにのむくひに身をこがすらん

「いつともわかぬ」「たえずのみ」といった語句が、かく言う所以です。

また、和泉式部の歌の「もえわたる」ですが、「わたる」は空間・時間両方に言う語ですから、「広い空間にかけて萌え広がる」「長い時間かけて燃え続ける」という二つ意味を掛けて用いられているのではないかと思われます。




 詠花鳥倭歌    ..ためかぬ    
      2004/04/26(月) 22:03  No.161
 
 
>紀州の姫さま

ご報告を拝見し、ますます興味をそそられ、行ってまいりまし   た。こちらこそありがとうございました。
  本日の夕刊には、GWにあわせ細見美術館の代表的所蔵品
  「重文・豊公吉野花見図屏風」も特別公開とありました。
  惜しいことをしました。


紀州の姫さまのように頭には入らず、幸いメモ帳をもっていましたので、知らないことだらけのことを必死で書き留めたのですが・・・

定家の詠花鳥倭歌の八月の花の歌を書き損ねてました。
ご教示のほどよろしくおねがいします。



 細見美術館    ..紀州の姫    
      2004/04/26(月) 11:29  No.160
 
 
ためかぬ様へ

細見美術館にお行きになられたのですね!
私は、平安神宮献茶祭の帰りに急ぎ足で鑑賞し、その時は一生懸命頭に入れたつもりでしたが、帰宅した途端ほとんど忘れてしまい・・・。(^^ゞ
特に最初に展示されておりました着物が何だったか忘れてしまい、それも含めてもう一度再確認に行きたいと思っておりましたが、お陰さまで又細見美術館の中を鑑賞出来たような気が致します。
有り難う御座いました。



 めぐり逢う王朝文学と美術    ..ためかぬ    
      2004/04/26(月) 00:18  No.159
 
 
細見美術館行ってまいりました。
ポスターにもあった貝づくし(冷泉家時雨亭文庫蔵)は、ほんとに美しく繊細で、雅やかなものでした。
ぼかし絵の畳紙に和歌が書かれ、それにちいさな美しい貝殻がつつまれています。貝合わせとはちがった遊びにつかわれていたのでしょうか。貝の名も今とは違う趣のあるものでした。ただ書かれた和歌が読めないのが残念でした。(解説がありませんでした。)

14首の撫子の和歌が金地に書かれた撫子図屏風は、撫子の絵は控えめながら、華やかでした。後撰、新古今、拾遺、千載、後拾遺和歌集などからのまさに詞華集でした。私のなかでは「やまとなでしこ」はもはや死語になってしまってましたが、万葉集のころから、詠まれている花だったことあらためて思い起こしました。


春のよの夢にあへりとみえつれば 思ひたえにし人ぞまたるゝ 伊勢

本阿弥光悦書・俵屋宗達画で扇面の軸が地味な色彩でしたが、
意匠が私好みでした。

十二ヶ月蒔絵重硯箱(徳島藩蜂須賀家伝来 江戸中期)は
定家の月次花鳥歌を題材に蓋表の柳に鶯の正月に始まり、
各段の側面に二ヶ月毎の花鳥、蓋表に十二月の梅に水鳥の意匠という
豪華なものでした。

為泰卿八十賀月次屏風も花鳥をおもな題材に描かれたものでしたが、
五月の五月雨に田植え、糸紡ぎ 八月の塩汲みに名月というのが、
より美しさを際立たせてました。

紀州の姫さまのレポートにあった伊勢物語・源氏物語をモチーフにしたものもたくさんありました。

謡曲「鼓の滝」「鵜飼」「小督」をテーマにした御所解とよばれる
着物も素晴らしいものでした。
手仕事の確かさと作品への敬意が感じられました。



 (お詫び)和泉式部の「さしも草」の歌について    ..萌 亘    
      2004/04/25(日) 23:09  No.158
 
 
水垣 様
水垣様を「さしも草=ヨモギ」説採用者と誤解しましたことを、心よりお詫び申し上げます。
それにしてもインターネットで調べますと、さしも草=ヨモギとして「モグサがじりじり」と現代語訳されている方のなんと多いことか不思議でなりません。

「さしも草をヨモギとする根拠はあまり無い」ことを広めていただける方が、どなたかいらっしゃらないかと願っているところでございます。

「縁語」につきましては私の勉強不足でした。お教えいただきまして有難うございます。
和泉式部の歌の「縁語」の件につきましては、私なりに次のように考えておりました。

「萌ゆ」「燃ゆ」掛詞とは別に和泉式部の時代は「さしも草」は「燃ゆ、焼く、焦がす」(水垣様の教えに従って以下では「火」で代表します)と関連づけて詠むものだという習慣、慣わし、ルールが有ったのではないか。少なくとも和泉式部は縁語のように捕らえていたのではないかと。

そして「さしも草」と「火」を結びつける何か具体的なイメージ(モグサじりじりは採用したくありません。「伊吹の山のさしも草」「しめじが原のさしも草」から野焼きかもしれない。こちらの方が恋心を形容するのにふさわしいのではないか)を和泉式部は持っていたのではないかと。

それで「さしも草」の歌を調べましたが、統一されたイメージは無いようでした。そこで「今日もまた」の歌から分からないかと考え調べたのが、先に出しました「もえわたる」の調査でございます。残念ながら、和泉式部が何をイメージしていたかは分かりませんでした。

ほぼ同時代の藤原実方の「よそに燃ゆれど」の歌につきましても同様に調べましたが、「よそに燃ゆれど」の歌はこの1首しかありませんでした。しかし「よそに燃ゆれ」は延焼、類焼、飛び火を連想させ、何となく野焼き(野火)を思わせますので、野焼きは捨てがたいものがあります。

水垣様を「さしも草=ヨモギ」説採用者と誤解しましたことを、心よりお詫び申し上げます。



 RE:はじめまして    ..水垣    
      2004/04/25(日) 23:04  No.157
 
 
かわせみ様、ようこそおいで下さいました。お知らせ有り難うございます。
そうした形で活用して頂けるのは、大変歓迎するところです。
これからも当サイトがお役に立ちましたら幸いです。



 はじめまして    ..かわせみ [URL]    
      2004/04/25(日) 00:46  No.156
 
 
HP上でかな作品をアップしました。その注釈を探してこちらのサイトにたどりつきました。
在原業平の2首についての文を掲載させていただきましたのでこちらのリンクをそのページに貼りました。
リンクフリーとのことで事後報告ですがご確認の上、ご了承ください。

ページはhttp://www.geocities.jp/yumeyafan/sakuhin.htmlです。どうぞよろしくお願いいたします。



 RE3:和泉式部の「さしも草」の歌について    ..水垣    
      2004/04/24(土) 22:41  No.155
 
 
萌 亘 様
「さしも草」が艾であるとの説に関しては特に疑う理由がありませんでしたので、注釈には通説の受け売りを書いたわけですが、歌の解釈そのものにとっては不要な(と言うより余計な)注記だったかも知れません。
いずれにしても和泉式部の注釈は中途半端なもので(和泉式部の頁に限りませんが)、お恥ずかしい限りです。

こちらこそ有り難うございました。



 和泉式部の「さしも草」の歌について    ..萌 亘    
      2004/04/24(土) 18:16  No.154
 
 
水垣 様
お教えいただきましてありがとうございます。

縁語の意味がよく理解できました。
「萌えが介在する余地はありません。」分かります。全く余地はありません。
「連想ゲームは、上記のさしも草を詠んだ歌を解釈鑑賞する上で全く不要なのです。」分かります。全く不要です。

【語釈】に「いぶきのさしも草:伊吹山でとれる艾(もぐさ)。」とあり、またモグサの燃える様子を表現する際に常套句のように使われる「じりじり」が【通釈】の中で使われていましたので、モグサ云々に対して異論を申し上げた次第ですが、まさか「私は さしも草 −火 の縁語関係を 灸のモグサ を介して考えておりません。」と言われるとは思いもよりませんでした。



 RE2:和泉式部の「さしも草」の歌について    ..水垣    
      2004/04/24(土) 15:43  No.153
 
 
別に説明不足ということはないと思います。おっしゃりたいことは、十分弁えているつもりですよ。

>「さしも草」−「火」の縁語関係を灸のモグサを介さずに説明していただけませんでしょうか。

私は「さしも草」−「火」の縁語関係を「灸のモグサ」を介して考えておりません。用例から見て、「さしも草」−「火」は直接、すんなりと縁語関係を結ぶ、と認識しております。たとえば(あまり良い例が思い浮かびませんが)、「ささがに(蜘蛛)」と「糸」が無媒介に縁語になるのと同じです。
「さしも草」「思ひ(火と掛詞)」「もえ(または「やき」「こがし」等々)」の3ピースをセットで持つ歌がたくさんあることから、「さしも草」が「火」とかかわりの深い草であることは明らかです。これは認めて頂けますね?
念のため、さらに用例を追加します。

 さしも草もゆるいぶきの山のはのいつともわかぬおもひなりけり
 あぢきなやいぶきの山のさしも草おのがおもひに身をこがしつつ
 ちぎりけん心からこそさしも草おのが思ひもえわたりけれ
 たえずのみもゆるいぶきのさしも草なにのむくひに身をこがすらん
 さしも草もゆる思ひのままならばしめぢが原やあさまならまし

「さしも草」が如何なる植物を指したかはともかく、「火がついて燃える草」としてイメージされたり認識されたりしていたことは、上のような歌から判ると思います。「さしも草、即、燃ゆる草」というわけで、その間に「萌え」が介在する余地はありません。「草」→「萌え」→「燃え」という「連想ゲーム」は、上記の「さしも草」を詠んだ歌を解釈鑑賞する上で全く不要なのです。




 和泉式部の「さしも草」の歌について    ..萌 亘    
      2004/04/24(土) 00:36  No.152
 
 
水垣 様
早速ご教示いただきましてありがとうございます。

説明不足で申し訳ございません。私の解釈法は「さしも草」と「燃ゆ、焼く、焦がす、火」との関係を「灸のモグサ」を介することなく説明する方法を提示したものです。

「さしも草」−「火」−「焼く」または「もゆ」
が縁語の関係になっていることは明らかです。
とのことですが、何回読み返しても理解できませんでした。

すみませんが、「さしも草」−「火」の縁語関係を灸のモグサを介さずに説明していただけませんでしょうか。

水垣様が例示されました歌の下3首を私の方法で解釈しますと次のようになります。
さしも草−(縁語)−萌ゆ−(同音異義語の掛詞)−燃ゆ−(同類語)−思ひ(火)
ただし「燃ゆ」と「火」が同類語か縁語かは私にはよく分かりません。

ここで「萌ゆ」と「燃ゆ」とは読者によっては両方見えますが、読者によっては片方しか見えないかもしれません。
これを両方見えなくしたのが一番上の歌です。
 「しもつけや−しめぢがはらの−さしも草−おのが思ひに−身をややくらん」
さしも草−(縁語)−[萌ゆ]−(同音異義語)−[燃ゆ]−(同類語)−焼く、思ひ(火)
[ ]内の言葉は隠されています。上記の歌の技巧から発展したものでさらに難解な謎掛け連想ゲームとなっています。上記の歌を知らないとちょっと解けそうにありません。
                 またご教示のほど宜しくお願い申し上げます。



 どういたしまして>mog様    ..水垣    
      2004/04/23(金) 22:20  No.151
 
 
天候不順で調子の悪い方が多いようですね。お気をつけ下さい。

新古今の春の歌は、それこそ和歌の醍醐味を存分に味わわせてくれると思います。
実質的な撰者であった後鳥羽院はある歌会で、「春・夏は太く大きに、秋・冬は細くからび、恋・旅は艶に優しく」と歌人たちに注文をつけたそうです。新古今にも当てはまるかどうかは分かりませんが、少なくとも春歌を読んでいますと、心が大きくなるような気持がします。

       題しらず      大納言経信
 故郷の花のさかりはすぎぬれどおもかげさらぬ春の空かな



 和泉式部の「さしも草」の歌について    ..水垣    
      2004/04/23(金) 21:14  No.150
 
 
萌 亘様、ご意見有り難うございます。

「燃え」と「萌え」が掛詞になるのはおっしゃる通りです。和泉式部の歌を解釈する場合、特に指摘は必要ないと思ったので、書きませんでした。

>さしも草→ヨモギ→灸のモグサ→燃えやわたらむ という関係ではなく、
>(さしも)草−(縁語)−萌え−(同音異義語の掛詞)−燃え(やわたらむ) です。

この点は私の考え方とは違います。
「さしも草」と「もゆ」が同時に用いられている歌の例を挙げてみます。

 しもつけやしめぢがはらのさしも草おのが思ひに身をややくらん
 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじなもゆる思ひ
 たれゆゑにもえんものかはさしも草もゆる思ひの身にしあまれば
 あさましやなどか思ひさしも草つゆもおきあへずはてはもゆらん

ほかにも沢山ありますが、これ位にします。いずれも、「思ひ」の「ひ」に「火」が掛かり、

「さしも草」−「火」−「焼く」または「もゆ」

が縁語の関係になっていることは明らかです。これらの歌の解釈鑑賞においては、「草」−「萌ゆ」の縁語関係は意識する必要がありません。
和泉式部の歌に「思ひ」または「恋(こひ)」の語は明示されていませんが、当時の常識からして、「我のみもえ」とは「思ひまたは恋(こひ)の火で私ばかりが燃えて」と解釈できますから、「さしも草」は「萌え」を介さず直接「燃え」と縁語の関係にある、と考えます。ですから私の【通釈】は「私ばかりが(伊吹のさしも草ではありませんが)じりじり心を燃やして」云々ということになります。
但し、和泉式部の歌の場合、草や緑の述語になることが多い「もえわたる」という語を用いていることから、「草」「萌え」の縁語関係は(ひっそりとですが)生きていると考えられます。この点は通釈・語釈につき再考の余地がありそうです。

それから、「もえわたる」の用例ですが、恋・思ひについて用いられた例が非常に多いことをご指摘しておきます。

 妹が名も我が名も立たばをしみこそ富士の高嶺のもえつつわたれ(万葉集)
 わが恋のきゆるまもなくくるしきはあはぬ歎やもえわたるらん(後撰集)
 から衣かくる人なみたきもののこのした人にもえやわたらん(清慎公集)

和泉式部のページはまだまだ改修が必要と感じておりました。いずれ書き直す際、貴説を参考にさせて頂くこともあるかと存じます。改めましてお礼申し上げます。



 無題    ..mog [URL]    
      2004/04/23(金) 21:12  No.149
 
 
お忙しいところ、詳しくお教え頂き、本当にありがとうございました。
このところの陽気で、ますます考えがまとまらず、御礼を申し上げるのも、遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
 春の部は、同じ題材での歌が、連なるので、その歌風など 比較して、鑑賞できるのが、楽しいです。暗い歌が少ないのも、救われます。
このサイトを読ませていただくのも、他の方の考えておられることなど、興味深いです。非日常的な時間です。



 歌の解釈に異論あり    ..萌 亘    
      2004/04/23(金) 16:07  No.148
 
 
和泉式部の「今日もまた−かくやいぶきの−さしも草−さらば我のみ−もえやわたらむ」の歌について貴【通釈】【語釈】に異論があります。

「もえわたる」と表現している平安時代の歌について「もえわたる」の使い方を調べると次のとおりです。「もえわたる」の対象と、推定される「もえわたる」の意味を書きます。
「朝立つ雲」朝焼け雲が燃え広がる?
「蚊遣火」燃え広がる?燃え続ける?
「夏草」広く生い茂る
「蛍」燃えながら飛んで行く
「春日野」野焼きが燃え広がる?燃え続ける?
「草」広く生い茂る
「ワラビ」同上
「野辺の緑」同上

これからわかることは「もえわたる」は「燃えわたる」と「萌えわたる」との両方に使うということです。
教科書によれば「草」と「萌ゆ」とは縁語とのことです。
「さしも草」は「草」ですから当然「萌えわたる」です。
一方「さらば我のみ」は「燃えわたる」です。
そこで上記の歌は「萌えやわたらむ」と「燃えやわたらむ」との掛詞であることがわかります。
上記の歌の「さしも草」と「もえやわたらむ」との関係は、
さしも草→ヨモギ→灸のモグサ→燃えやわたらむ という関係ではなく、
(さしも)草−(縁語)−萌え−(同音異義語の掛詞)−燃え(やわたらむ) です。
単に掛詞を使った言葉遊びであるということです。

藤原実方の「かくとだに−えやは伊吹の−さしも草−さしも知らじな−燃ゆる思ひを」の「さしも草」と「燃ゆる思ひを」との関係も然りです。

古今和歌六帖の「あちきなや−いふきのやまの−さしもくさ−おのかおもひに−みをこかしつつ」など「燃ゆ」ではなくその同類語である「焼く」「焦がす」を使った歌も、「萌ゆ」と「燃ゆ」との同音異義語関係を利用した言葉遊びですが、読者にとってはもう少し難解な言葉遊び(連想ゲーム)となっています。

「萌ゆ」または「燃ゆ」と詠まれる植物は全て「燃ゆまたはその同類語」と結び付けられます。
ただし「焼く」の歌は「さしも草」の歌にしか見つかっておりません。
「しもつけや−しめつのはらの−さしもくさ−おのかおもひに−みをややくらむ」

なお「さしも草」をヨモギとする根拠は「さしも草」という名前しかないようです。
「さし−も草」と分解し、「も草」はヨモギの異称(方言)であり、ヨモギは灸のモグサの原料であるから「さしも草」が「燃ゆ」「焼く」「焦がす」に繋がるというわけです。
「さしも草」をヨモギとしなければならない「動機」はありましたが、「さしも草」をヨモギとする「根拠」はなさそうです。



 「かへるかり」の歌    ..水垣    
      2004/04/20(火) 01:02  No.147
 
 
mog様、

>かへるかりいまはのこころありあけに月と花との名こそをしけれ

「帰雁」の歌は、雁との別れを惜しむのが普通ですが、この歌では「月と花との名」が惜しいと言っていますね。そこがちょっと変わったところです。

   帰雁をよめる       伊勢
 春がすみたつを見すててゆく雁は花なき里にすみやならへる

などのように、雁が美しい春の景色を見捨てて帰ることを訝しむ歌も多くあります。こうした趣向を併せ考えますと、なぜ「月と花との名こそ惜しけれ」と言っているのか、お察しがつくのではないでしょうか。「名」というのは、名誉ということです。

敢えて逐語的に現代語訳しますと、「帰る雁が、今はもう別れ行く時と心を決めているらしい、この有明にあって、(雁との別れを惜しむよりも)雁に見捨てられる月と花の名折れが惜しまれるよ」といったところではないでしょうか。



 RE: めぐり逢う王朝文学と美術    ..水垣    
      2004/04/20(火) 01:01  No.146
 
 
紀州の姫様、
>花山院愛徳の仙宮の歌
平安神宮の献茶祭での掛軸でしたね。あれからもう一年ですか。
今後もお気軽にご投稿頂ければ幸いです。

細見美術館の展覧会のレポート、ありがとうございます。興味深く拝見しました。随分多彩な展示の様子ですね。これから行かれようという方には、良い参考になるかと存じます。
ことに「塩山蒔絵硯箱」はお話から楽しく想像されました。蒔絵箱の美しさは格別ですが、絵の中に巧妙に文字を埋め込んでいたりするものもあって、謎解きや判じ絵風の面白さもありますね。昔の人はこうしたもので推理ゲームや連想ゲームまでも楽しんでいたのではないでしょうか。

ゴールデンウィーク明けまで開催中とのことですので、私も出来たら行きたいのですが、この春既に遊び過ぎたツケで、なかなか予定が立ちません。



 ご質問があるのですが。    ..mog [URL]    
      2004/04/19(月) 21:05  No.145
 
 
3度目に、お邪魔いたします。早速ですが、新古今 春上の
かえるかりいまはのこころありあけに月と花との名こそをしけれ
の、下句の部分、どうもよくわからないで、悩んでいます。大変、勉強不足な上、現代訳のついた資料も もちあわせておりませんで、無知をさらけ出し、恐縮なのですが、よろしければ、お教えねがえませんでしょうか。



 めぐり逢う王朝文学と美術    ..紀州の姫    
      2004/04/18(日) 07:54  No.144
 
 
美しい言葉を連ねた和歌や物語などから、様々の情景場面を絵にし文字にし、目で楽しむという細見美術館で鑑賞しました中から、記憶に有るものを少し書いてみます。

「するがなるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」
「時しらぬ山は富士のねいつとてかかのこまだらに雪のふるらむ」
伊勢物語の業平東下りの情景が絵(軸)になっておりました。
源氏物語の夕顔、葵などの場面は、小さな屏風だったでしょうか、
、絵と文字での情景描写でした。

小さな絵巻物もあり、それぞれの絵に言葉がついており、一つの巻物が物語りになっており、今で言う小説や漫画にあたるものという説明が付いておりました。これは、見ていて楽しいものでした。

王朝文学の意匠と言いますか、これは和歌や物語を主題とする時、キーワードとなる図柄を以って特定の物語を連想させるというものです。その一つとして「塩山蒔絵硯箱」がありました。
「「しほの山さしで」「きみがみよをばやちよとぞ」を文字で、「いそにすむ千鳥」を図柄で。
「しほの山さしでのいそにすむ千鳥きみがみよをばやちよとぞなく」
を表しています。これなどは解かりやすい方かもしれませんが、絵だけであとを想像するのもありました。
『高い教養を前提とした遊び心に富む意匠は中世以降蒔絵の分野で多く好まれた』とありました。
この他、貝づくしやカルタが2種なども。カルタの事は良く解かりませんが、その一つは、伊勢物語(だったと思いますが)が情景が描写してあり、絵が美しくて見とれていました。
他にも色々ありましたが、頭に全部入り切らず、少し記憶にあるものだけを書いてみました。時間有れば、もう一度ゆっくり鑑賞したいものです。



 平安神宮献茶祭    ..紀州の姫    
      2004/04/17(土) 10:38  No.143
 
 
花山院愛徳の仙宮の歌で、こちらのサイトに伺ってからちょうど一年となりました。
和歌について殆ど無知な私ですが、その割には大きな顔をしてこちらにお邪魔し続けているような・・、気がします。(^^ゞ

時々はとんでもない事を言ってると思いますが、水垣様の
『やまとうたのイメージとしては、「社会人の方が、たとえば仕事や家事の合間にでも、気楽に和歌の世界を逍遙できるサイト」といった感じでしょうか。』のお言葉に、恥じをかきつつも投稿(勉強)させて頂いております。

昨日、平安神宮からの帰りに近くの細見美術館「やまとうた心の美ー
めぐり逢う王朝文学と美術」を鑑賞して参りました。
屏風や扇、硯箱、着物や櫛などに和歌や物語に因むデザインが施され、まさに文字、言葉、そして絵や文様を織り成す美的世界でした。
(多くは源氏物語や伊勢物語が題材の中心となっておりました)

それにしましても・・・、鑑賞しながら改めて自分の教養の無さを
知らされました。ガックリ・・・・。
いえいえ、気を取り直して、又少しずつ学んでいきます!!

写真は、昨日の平安神宮貴賓館から見ました橋殿です。



 RE:ゆく春    ..水垣    
      2004/04/16(金) 00:50  No.142
 
 
八重葎様
こちらこそ、お忙しい中ご投稿感謝致します。
貴重なお時間を割いて見て下さっているのだなと、嬉しく拝見致しました。
春は何かと忙しい季節で、人間も「しづ心」がなかなか持てませんね。
在五中将の惜春歌もそうですが、佳い歌を読み味わいますと、きれいな空気を深呼吸でもしたような気持になることがあります。
和歌でほんの束の間でも心を休めて頂ければ幸いです。



 ゆく春    ..八重葎    
      2004/04/14(水) 12:19  No.141
 
 
つかの間の昼休みに在原業平の歌の項拝見しておりましたら、
次のような歌がありました。

をしめども春のかぎりの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな

特に複雑な内容ではないですが、こうしてさらさらと
自然に思いを連ねていけるというのは、さすが在五業平様
と思います。

こうした出会いを提供していただける水垣様にあらためて
感謝致します。



 私には何とも申せませんが>MM3210様    ..水垣    
      2004/04/07(水) 17:23  No.140
 
 
たまたま古代史に関係ある絵葉書として選ばれたのか、あるいは深謀遠慮がおありだったのか…。
伊藤博先生は筑波大学にお勤めだったはずですから、お近くの武者塚古墳の絵葉書をお持ちだったことには何の不思議もありませんけれども。

面白いお話だと思いますし、どなたかご意見頂けると私としましてもありがたいです。



 伊藤博氏の真意は?    ..MM3210 [URL]    
      2004/04/07(水) 13:29  No.139
 
 
「玉臺新詠」http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/yutai14.htmによれば、

笠金村の長歌(1787)の、「出」を意味する戯書「山上復有山」は、
『玉臺新詠』巻十に収録されている「古絶句」にあるとのこと。

そして、その詩では、「大刀頭」によって、環と同音の「還」を表わしているとのことです。

ところで、私は、10年前に、「いろは」などから山上憶良の名が読み取れることを指摘した拙著を
伊藤博氏に献本して、三累環頭太刀の写真が載る絵葉書(添付写真=文面)を頂戴しました。

伊藤氏は、「山上復有山」という句がある『玉臺新詠』巻十の「古絶句」を意識して、
絵葉書を選ばれた、と受け取ってよいものでしょうか。

どなたか、ご意見をお聞かせ下さいませんか。
宜しくお願い致します。



 こちらこそ>浦木裕様    ..水垣    
      2004/04/06(火) 21:08  No.138
 
 
風俗博物館のサイトは私も時々拝見します。服飾の時代的な変遷が解りやすいですね。

>和字も表示できるように、今度はUni-codeですよ。

そうでしたか。なるほど、日本語のエディタでソースを表示してみましたら、ほとんどの漢字が表示できました。利用価値がますます高いです。

>懐風藻ような和漢籍について、
>日本には読み下しを付けないと読めないと聞きました。

一般にはそうですね。漢字だけでも大体の意味はつかめる場合が多いですが、鑑賞となると難しいです。
御存知のように、日本では、歴史書や日記なども、漢文で書くのが正式でした。中国語を(しかも繁体字で)使われる浦木さんにとっては、日本史の学習・研究は大変都合が良いことになりますね。

それにしても「久遠の絆」の古事記と日本書紀は画像が豊富で、写真などを眺めているだけでも楽しくなります。



 どうも有り難う御座います    ..浦木裕 [URL]    
      2004/04/06(火) 12:16  No.137
 
 
水垣様:

こんにちは、浦木裕です。

衣裳の件、御指摘有難う御座います。
前は風俗博物館でチェック済であまり構いませんのですが、
(ちなみに、危なく奈良朝の服と間違いしまいました...)
人をまちがって誘導しないように、説明をつけました。
ご存知無いわけが無いと思いますが、『風俗博物館』のURLは
此方にあります。 http://www.iz2.or.jp/

>繁体字(big5)の懐風藻のテキストですね。
和字も表示できるように、今度はUni-codeですよ。
この冬休みで、システムをWin98からWin2000へ変更しました。
その故、Uni-codeの編輯はできるに成りました。
当然、中国語が表示出来る所はbig5で表示しますが、
中国語が表示出来ない所はJisで表示します。
それを一ページで揃ってなら、Uni-codeになります。

>上代の日本文学
懐風藻ような和漢籍について、
日本には読み下しを付けないと読めないと聞きました。
中国語では直接読む出来ますので、便利だと思います。

>カルタの画像
江戸時代のを借りました、蔽サイトの持統紀ページに在ります。

>持統天皇は奈良時代以前の人なのに、
>カルタの絵では平安時代の衣裳を着ているのです。
衣裳の考據について、神代は衣褌筈なのですが、
「古事記絵詞」には殆ど漢服のようです。
そして浮世絵もまたほかの衣裳を着ているのです。
どっちも面白いのですが、やっぱり説明をつける方がいいですね。

では。



 お知らせありがとうございます    ..水垣    
      2004/04/05(月) 21:44  No.136
 
 
浦木裕様

お迎えのメッセージ、ありがとうございます。

繁体字(big5)の懐風藻のテキストですね。上代の日本文学の勉強に大変有意義と思います。私も利用させて頂くつもりです。
見やすく便利で、こういうフレームの使い方は良いなと思いました。私の所の「千人万首」でも真似してみたくなりました。

「百人一首カルタ美術館」のカルタの画像は、昭和時代のもの以外、すべてフリーです。改変などもご自由になさって下さい。
ただ、御存知かも知れませんが、カルタの持統天皇の姿は、史実とは違っていますので、お気をつけ下さい。持統天皇は奈良時代以前の人なのに、カルタの絵では平安時代の衣裳を着ているのです。

こちらこそ今後ともよろしくお願いします。



 お帰りなさい    ..浦木裕 [URL]    
      2004/04/05(月) 12:17  No.135
 
 
水垣様:

こんにちは、浦木裕です。
イタリア旅行、御疲れ様でした。

此方は最近、懐風藻などをアップしました。
ページ作成中,データを探しながら、
貴サイトは時々助けになりました、本当に有難う御座います。
http://applepig.idv.tw/kuon/special/misc/kaifuu/kaifuusou.htm
何も無いですが、もし暇があれば、懐風藻を御覧ください。

また、此方は今、持統紀の紹介ページを作成しています。
「百人一首カルタ美術館」の持統天皇の絵を借りたいです。
注釈では自由使用出来ると言ったが、ここで事先報告します。

では、これからも宜しく御願いします。



 フィレンツェ    ..水垣    
      2004/04/02(金) 00:23  No.134
 
 
やはりあの辺で皆さん一枚パチリ、ですね(笑)。
フィレンツェは小さな町で、一日でほぼ見どころは廻れましたが、ウフィッツィだけはいくら時間があっても足りない思いでした。
ルネッサンスという栄光の時代をありありと目にすることのできる町が、この二十一世紀にも現存するのですから、ほんとうに驚きですね。

>若い頃は若いなりに感激ですが、今の歳だからこそ、目に心に残り
>焼きつくものもあったのではないでしょうか?(^.^)

仰る通りです。ただ、西洋美術などは、若い頃の方が入れ込んでおりましたので、あの頃訪れていたら、さぞかし感激したろうなあと、我ながら思ったのです(笑)。

今日は友人と落ち合って靖国神社を参拝し、花見をして来ました。桜はもう散り始めていました。



 お話しに、仲間入りを・・    ..紀州の姫    
      2004/04/01(木) 00:58  No.133
 
 
水垣さま、
お写真拝見して、懐かしくてアルバムを開きました。
これは何年か前のウフィッツィ美術館での写真です。
(写真の下方には、人物が入っていますので切り取りましたが・・)
同じアングルですね!って、旅に行けば皆だいたい同じアングルになるのですが・・。(^^ゞ

私は友人と二人での個人旅行で、この時はヴェネツィアから列車で
日帰りで行き、まさに時間との戦いで走り回った記憶があります。
フィレンツェはルネッサンスの香りがいっぱいある町ですね!

若い頃は若いなりに感激ですが、今の歳だからこそ、目に心に残り
焼きつくものもあったのではないでしょうか?(^.^)



 無題    ..水垣    
      2004/03/31(水) 22:14  No.132
 
 
ローマはさすがに旅先として人気が高いのですね。私はイタリアは今回が初めてでした。もっと若い頃に行けば、もっとたくさんのことを吸収できたかなとの思いもありますが、縁がなかったのだから悔やんでも仕方ないでしょう。

>sion様
写真の建物はホテルだったと思います。広場はコロンナ広場と言いましたか。
ローマから列車でフィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノと廻りました。どこもそれぞれに面白かったです。過去の遺産を大切にするイタリア人の態度は本当に徹底しておりまして、各都市の背負った伝統や文化がそのまま町の表情になっていることに感銘しました。日本では残念ながらそういう町は少ないですね。

>八重葎様
イタリアワインは美味しく、私もつい飲みすぎてしまいました。
しかし、よりによって聖地バチカンでそのような経験をされたのは、なかなか得難い、貴重な思い出と言えるのではないでしょうか(笑)。
私がバチカンに参りました日には何か行事があって、宮殿内の見学が出来ませんでした。これは大変心残りです。

今回の旅のクライマックスの一つだったフィレンツェのウフィッツィ美術館の写真を一枚、ご笑覧ください。



 お疲れ様でした    ..八重葎    
      2004/03/31(水) 12:36  No.131
 
 
水垣様

イタリア旅行お疲れ様でした。

むかし小生もローマ参り致しましたが、
ワインを飲みすぎひどい二日酔いで
バチカン美術館を拝観しました。
ご承知のようにここは午前中で終わりですので、
我慢して口を押さえながらまわったのですが、
最後の螺旋ロープのところで立往生しました。

若気の至りとはいえひどい思い出です。

また楽しいお話を期待致しております。



 遅まきながら…おかえりなさいませ    ..sion    
      2004/03/31(水) 00:25  No.130
 
 
ローマ、懐かしいです! (お写真は知らない場所ですが……(^.^)>゛
学生時代の貧乏旅行で行ったきりで「懐かしい」もないのでしょうが、生まれて初めて訪れた外国なので、思い入れが強いんです。
ローマのほかにはどちらか回られたのでしょうか?

本当にすてきなお写真ですね。建物の明り(レストランかホテルでしょうか)が暖かな感じで、旅情を誘われます。
どこかまた外国に行くチャンスがあったら、やっぱりイタリアだなーと思ってしまいました。

あっ、そんなことより、ご旅行お疲れ様でした!



 ありがとうございます    ..水垣    
      2004/03/30(火) 23:51  No.129
 
 
皆様、お出迎えのメッセージをありがとうございます。

>ためかぬ様
四月の更新は少し遅れるかもしれませんが、またよろしくお願いします。

>紀州の姫様
やはり「真実の口」には長蛇の列が出来てました(笑)。

>せきど様
写真は実は明け方に撮ったものなのです。ローマに着いた翌朝、やけに早く目が覚めてしまいまして。
カルタ美術館はまた時々入れ替えをするつもりです。

>むらじ様
たまにイタズラ投稿があるので、管理の出来ない留守中は投稿禁止にしてしまいました。悪しからず m(_ _)m
お久しぶりですが、またお忙しくなるのですね。ご帰還をお待ちしております。

またサイトの更新に励んで参ります所存ですので、皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。



 おひさしぶりでございます    ..むらじ    
      2004/03/30(火) 21:43  No.128
 
 
おかえりなさい。お疲れ様でした。
ローマに行ったのはまだ親の脛をかじっていた時分でしたが、
写真を拝見して当時のことをまた思い出してしまいました。
しかし、書き込みができないという状況はちょっと欲求不満になりますね…って、ロクに書き込みをしない私の云うべきことでもありませぬが(笑)。
いろいろ事情があってしばらく書き込みできなくなります。
帰朝後のご活躍を念じております。



 お帰りなさいませ    ..せきど    
      2004/03/30(火) 13:22  No.127
 
 
お写真は夕刻でしょうか、広場に面した建物の灯りがまだ薄青い空の色と響きあってきれいですね。

お留守の間、久しぶりにカルタ美術館拝見しました。
ずいぶん更新されていたのですね。また楽しみにしています。



 ローマの休日    ..紀州の姫    
      2004/03/30(火) 09:50  No.126
 
 
お帰りなさいませ。
ローマと聞きますと、王女アンと新聞記者ジョーのシーンが
思い出されます。(^.^)
ご旅行お疲れ様でした。



 Buona sera    ..ためかぬ    
      2004/03/29(月) 23:57  No.125
 
 
お帰りなさいませ。
次の創作短歌の更新楽しみにしております。



 再開します    ..水垣 [URL]    
      2004/03/28(日) 22:34  No.124
 
 
帰りました。ゲストブックを再開致します。
またどうぞよろしくお願いします。

ローマのホテルの部屋から広場を撮った写真を付けました。




 ゲストブック休止のお知らせ    ..水垣 [URL]    
      2004/03/13(土) 02:36  No.123
 
 
今月16日より24日までイタリアを旅行して来ます。その前後も何かとバタバタしますので、今日から月末頃まで当ゲストブックをお休みさせて頂くことに致します(閲覧は可能ですが、投稿はできない状態になります)。
メールのお返事も今月末頃まで出来なくなると思います。
よろしくご了承の程お願い申し上げます。




 お知らせ有り難うございます。    ..水垣 [URL]    
      2004/03/13(土) 02:35  No.122
 
 
椿 わびすけ様
わざわざお知らせ頂き、有り難うございます。
ご参考になったとのこと、幸いでした。
またどうぞお気軽にお立ち寄りください。



 お名前を書かせていただきました    ..椿 わびすけ [URL]    
      2004/03/12(金) 00:22  No.121
 
 
はじめまして。
やまとうたへ検索でたどり着きました。
お書きものがたいへん参考になりました。
拙サイトにnoteブックランデエヴウというささやかな日記を
もっておりまして、先ほどそこに水垣さまのお名前を書かせて
いただきました。
ひとことお礼を申し上げたくて書き込みいたしました。
かしこ





 どういたしまして    ..水垣 [URL]    
      2004/03/10(水) 23:21  No.120
 
 
酒造蔵様

ご参考になったのでしたら、幸いでした。

師弟再会ですか。こちらから貴サイトへ飛んで、昔の先生にばったり…というわけですね。
BBS管理人として嬉しいお話を伺いました。

またどうぞお気軽にお立ち寄りください。



 ありがとうございました    ..酒造蔵(みきぞう) [URL]    
      2004/03/10(水) 16:13  No.119
 
 
水垣様

ご丁寧にお教えいただき、誠にありがとうございました。
大変参考になりました。

もう、かれこれ20年ぐらい前に習字を指導していた人と、寄寓にもこちらのサイトで出会い、その人よりメールをいただき大変懐かしい思いもさせていただきました。

「お気に入り」に登録いたしました。またお邪魔させていただきます。ありがとうございました。



 大倉鷲夫の歌    ..水垣 [URL]    
      2004/03/08(月) 20:02  No.118
 
 
>酒造蔵様

『近世万葉調短歌集成』という本には次のように載っております。

 土佐の海や山かも割くと思ふまで鯨突く兒のをたけびの聲

「つく」が「突く」になっている以外は同じですね。
「山かも割くと思ふまで」は、「山割くかもと思ふまで」とほぼ同じことですが、語調を整えるため「山かも」の言い方になっているので、全く問題はありません。



 お教えください    ..酒造蔵(みきぞう) [URL]    
      2004/03/07(日) 17:17  No.117
 
 
大倉鷲夫の和歌に、「土佐の海や山かも割くと思ふまで鯨つく児のをたけびの聲」と、ありますが、この歌の一字一句に間違いはないでしょうか。「山かも」が少々ひっかかります。お教えください。


 RE:鉄斎展    ..水垣 [URL]    
      2004/03/05(金) 18:20  No.116
 
 
>八重葎様
最晩年はもう仙人そのものといった感じですね。融通無礙の境地と言ってしまえば月並でしょうが。
先の展覧会では八十八歳の時の「高士彈琴」図が殊に印象に残っております。「浦上玉堂の筆法に倣って写したが、自分は全く及ばない」といった意味の賛が付いておりましたが、透明感がありしかも豊潤な墨の色、激しく躍動するような岩山の筆致(奔出する生命力)、晩年の鉄斎の独擅場といった印象を受けました。

>紀州の姫様
同じ日だったとは奇遇ですね。袖触れ合ったのかもと思うと楽しいです(笑)。
そう言えば逸翁美術館も清荒神清澄寺も同じ阪急沿線なのですね。
蕪村や鉄斎が近くにいつでもあるなんて、羨ましい限りです。




 鉄斎展    ..紀州の姫    
      2004/03/04(木) 22:50  No.115
 
 
水垣さま

同じ日にいらしておられたのですね!
もしかして、お隣にいらした方が・・・・、なぁんて!?(^.^)

>八重葎様が仰っていたように、賛の詩文にも味わい深いものが多く、もっと余裕のある時にゆっくり見たかったと悔いが残ります。

私も、本当に本当にそう思いました。

清荒神清澄寺の鉄斎美術館の事は、先日逸翁美術館に参りました時に
御案内が有るのを見つけ、知りました。
同じ沿線にあり、また楽しみに行く事に致します。



 鉄斎 百錬    ..八重葎    
      2004/03/04(木) 12:10  No.114
 
 
水垣様 紀州の姫様

鉄斎展お疲れ様でした。

鉄斎の評伝をみますと、80才から画風が真に独自のものとなった
とあります。通常は能力がどうしても衰える時期から花を咲かせた
わけですから、これ以上晩成の人も珍しいでしょう。
長男の死を83才で迎え、うかうかできないといった覚悟も影響して
いるのかもしれませんが、藤椅子に座り読書に勤しむ眼鏡姿の写真
が印象的です。

清荒神には沢山の作品が蔵されているようですが、私は而富不奢と
ある最晩年の牡丹の図を見てみたいと念願しております。



 RE:出光美術館    ..水垣 [URL]    
      2004/03/03(水) 21:08  No.113
 
 
紀州の姫様、
実は私も昨日、都心へ出たついでに駆け足で見て来たのです。
同じく一時間ほどしか取れなかったのですが、本当にこれでは全く足りませんね。
八重葎様が仰っていたように、賛の詩文にも味わい深いものが多く、もっと余裕のある時にゆっくり見たかったと悔いが残ります。
一作品につき一時間眺めていたい位でした(笑)。

「富士山と蓬莱山」というハッキリした分かりやすい主題なので、南画にさほど親しんでいない私にも入り込みやすく、楽しめる内容でした。
その主題とは別に、大田垣蓮月の侍童をしていた頃から八十代の最晩年まで作画の展開を跡づける展示もあり、鉄斎入門にも好適な展覧会ではなかったかと思います。

屏風の「富嶽絶頂図」には私も圧倒されました。筆の運びを追っていると画の中に引き込まれ時を忘れます。
脇に解説パネルがあって、今で言うガイドブックの挿絵などを参考資料に使っていたことが分かり、意外でしたが面白く感じました。

扇面画は一息抜いて楽しめますね。屏風絵の前では息を呑んでいた人も、扇面画の前では連れの人と談笑していました。そうした楽しみ方をしたい絵だと思います。

六十代の名高い六曲一双の「富士山図」は既に展示が終了しており残念でした。これは宝塚市の清荒神清澄寺の鉄斎美術館にあるので、関西方面の方には御覧になるチャンスも多いかと思います。

http://www.kiyoshikojin.or.jp/tessai/index.html

>水垣さまのお写真の紅梅は、とっても可愛いですね。
>背景の暗さの中にも、咲いている梅が見えますね。

紅白入り交じって咲いている梅園なのですが、着いた時はもう陽が沈んでおりましたので、フラッシュ撮影になってしまいました。これは紅というより薄紅でしょうね。



 出光美術館    ..紀州の姫    
      2004/03/02(火) 23:38  No.112
 
 
急用で東京行きが入ったついでに、出光美術館に行って参りました。鑑賞時間はたったの一時間しかありませんでしたが。

富士山図はどれも素晴らしい物でしたし、水墨だけで屏風六曲一隻に
書き上げた富嶽絶頂図などはその迫力に圧倒されてしまいました。
そして、私の興味のありました扇面画も多くあり、どれも思いつくままサラサラと描いた感じがあり、一つ一つ楽しく鑑賞して参りました。

『鉄斎にとって画を描く事は、心の中の深い感動や感銘を吐露するものであった』
『晩年はゆっくりと自分の為に過ごしたい、そういう願いは誰しもある事だろう。その矢先、最愛の息子を失った鉄斎は悲しみにくれることなく、家族の暮らしを支えなければならぬと再起する。作画にかける情熱はそれまでの鉄斎の力量を大いに凌ぐほどであった』

多くの作品を通じて鉄斎の人柄はもちろん人生観、人生そのものに触れることが出来たように思います。
一時間ではとても足りませんでした。(;_;)

水垣さまのお写真の紅梅は、とっても可愛いですね。
背景の暗さの中にも、咲いている梅が見えますね。



 RE:美しや紅の色なる梅の花    ..水垣 [URL]    
      2004/02/28(土) 00:11  No.111
 
 
お写真をありがとうございます。青い着物が綺麗です。背景の梅は、仰る通り去年よりも遅いように見えますね。

>『美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある』

私が持っている本にはちょっと違った形で載っておりました。

『梅の花 紅(べに)の色にも似たるかな 阿呼(あこ)がほほにもつけたくぞある』

「あこ」は菅原道真の幼名ですね。
「梅粧」と言って頬に梅の花びらを貼り付ける化粧法がありました。お母さんなどが梅粧をしているのを見て、自分の頬にも付けてほしいとねだったのでしょうか。
『菅家文草』には十一歳で作った漢詩が載っていますが、それも梅を詠んでいて、「三つ子の魂」の諺を思わずにいられません。

写真は、近所の梅苑の紅梅です。四五日前に撮ったものですが、今頃は満開でしょうか。



 美しや紅の色なる梅の花    ..紀州の姫    
      2004/02/26(木) 22:40  No.110
 
 
菅原道真の命日であります2月25日(昨日)、京都北野天満宮の梅花祭に行って参りました。楼門には季節に応じた和歌や漢詩が掲示されているのですが、今は菅原道真が5歳の時に詠んだと言われる
『美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある』
でした。
梅は、昨年の梅花祭に比べますと遅い感じが致しましたが、境内と梅苑の紅梅・白梅とも楽しんで参りました。
この梅花祭は、毎年10万人以上の参拝客で賑わいます。

以前に添付致しました舞妓さんのお点前風景とよく似たアングルではありますが、昨日一服頂いて参りました野点の写真を添付致します。またまた、目の保養にどうぞ!!



 >むらじ様    ..水垣 [URL]    
      2004/02/25(水) 23:34  No.109
 
 
お久しぶりです。お忙しい中、ありがとうございます。
こちらこそ、これからも色々教えて頂けると幸いに存じます。

風邪はもう良くなられたのでしょうか。ご自愛下さいますよう。



 無題    ..むらじ    
      2004/02/25(水) 23:05  No.108
 
 
ご無沙汰しています。サイト開設五周年とのこと、おめでとうございます。
営々たるご努力にただただ頭が下がるばかりでございます。
二月半ばまでしょうしょう忙しく、その後風邪気味となりすっかりご無沙汰いたしておりました。これからもよろしくお教えくださいませ。



 ありがとうございます    ..水垣 [URL]    
      2004/02/24(火) 21:31  No.107
 
 
ひよきち様、こんばんは。
「記念日」という程の意識がないのでしょうか、いつも気づかぬままに過ごしてしまうのですが、こうしてご祝辞を頂けるのは大変有り難く存じます。
「やまとうた」は今日で五周年となります。今後ともどうぞよろしくお願い致します。



 おめでとうございます    ..ひよきち    
      2004/02/24(火) 06:57  No.106
 
 
おはようございます。
今日は サイト開設記念日ですね(*^‐^*)

おめでとうございます。

サイトを拝見しますのを
いつも楽しみにしております。



 RE:鉄斎と富士    ..水垣 [URL]    
      2004/02/22(日) 23:42  No.105
 
 
出光美術館で観覧されたのですね。お話を伺って、鉄斎展がますます楽しみになりました。実は私も今日あたりと思っていたのですが、結局行きそびれてしまいました。
賛の書き下し文が付いているというのは親切ですね。鉄斎はまず賛を読んでから画を見て欲しいと言っていたそうです。

富士山図を多作した日本画家では横山大観が有名ですが、鉄斎の富士の画を見た大観は呆然と立ち尽し、その後しばらく富士を描く筆を断ったと言います。
今回展示の富士山図の一部は(小さな画像ですが)下記ページで見られます。

http://www.idemitsu.co.jp/museum/monthly/sanpo200401.html

なお、鉄斎展は埼玉美術館でも開催中とのことです。

http://www.saitama-j.or.jp/~momas/3.htm



 鉄斎と富士    ..八重葎    
      2004/02/22(日) 19:54  No.104
 
 
水垣様のお話に興味を持ち、鉄斎展を見てきました。

私も富士に登ったことがありますが、非常に苦労して登山の後
噴火口を覗きみたときの 圧倒的、原始的な富士の存在感
が鉄斎の富士図をみて追体験出来ました。

殆どの鉄斎の画には賛があり、書体文体とも自由にして味わい
深く、また今回は書き下し文が呈示されていて鑑賞には好都合でした。

山中医俗(山中に俗を癒やす)とか 何気ない言葉が記憶に残りました。



 無題    ..水垣 [URL]    
      2004/02/20(金) 23:33  No.103
 
 
>紀州の姫様
扇面画、見事なものですね。本物の扇に描いたのを軸に仕立てたように見えます。
末広がりで縁起も良いので、正月のお祝いにはぴったりの「絵手紙」というわけですね。
親しい人へ向けて、いかにも楽しんで書いているような感じがします。鉄斎はこうしたものなら即興で次から次へ作ることができたのでしょう。

今回の展覧会は没後八十年を記念してとのことですが、鉄斎展はここのところ毎年のように何処かしらで開かれているようで、声価はますます高まる一方のようです。
巷で絵手紙がブームというのも面白い現象ですが、絵画の近代化の掛け声と共に一度は貶められた文人画が再評価されているのも興味深いことだと思います。

>児島様
阿部仲麻呂は隋使でなく遣唐使(留学生)です。
「天の原…」の歌に関する論考を貴サイトで見つけることが出来ませんでした。



 邪馬台国の和歌    ..児島 [URL]    
      2004/02/19(木) 20:28  No.102
 
 
管理人さんどーも有難う存じます、今回拝見させていただきました美術館はいずれも名品を所蔵されているものばかりで目の保養
が出来ました、和歌もしかりですが、古い絵画もいいですね。
水垣さんの和歌提示に少し触れてみたいと思います、いきなりぶしつけで申し訳ないです。阿部仲麻呂が随使で春日(現在の春日市)で詠んだ歌が実は邪馬台国の歌と云うのをまだ誰も知られていませんでしたが、今回の評価を気に解説も含み述べさしていただきたい。まだ邪馬台国の歌は大伴家持が桓武天皇から教えていただいた、古代の歴史とも云うべきか?がありURLの中に出した
本『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』で和歌を紹介しています
その中に先に提示の・
天の原(天子の住い土地)ふりさけ見れば(遠い祖先を振りかえ見れば)春日なる(春日市で詠んだ歌)三笠の山に(宝満山)に
いでし月かも(山の東から)と懐かしんだ歌と載せていました。
どうぞご検討下さいませ。



 美術館めぐり    ..紀州の姫    
      2004/02/19(木) 00:11  No.101
 
 
このところ、お話に出てきております美術館のサイトを覗いては、楽しんでおります。
その中でも、出光美術館の富岡鉄斎展には特に興味が御座いました。
と申しますのは、実は一月の京都北野天満宮でのお茶会で、本席の
お軸が富岡鉄斎の「鷽替(うそかえ)」でした。(添付写真です)
これは、木製の鷽替を描き、鷽替行事について書いてあります。

『鉄斎が多作であったといわれる一つの要因に、扇面画をたくさん描いては人々に贈ったことがあげられます。』

鷽替も扇面画ですが、勉強不足の私は扇面画が得意だった事は知らず
また一つ、勉強させて頂きました。

『鉄斎という画家も、「絵手紙」に長けた人であったといえます。今日のものと少し違う点といえば、それが貰った側にとっては「家宝」といえるほどの貴重な作品であったことでしょうか。』

とすると、この鷽替扇面画も「家宝」なんですね!(^.^)
それぞれの期間内に、東京までは鑑賞に行けませんが、逸翁美術館や
細見美術館には時間を取って行って見たいと思っております。



 無題    ..水垣 [URL]    
      2004/02/17(火) 22:36  No.100
 
 
>ためかぬ様
来年は和歌にとって記念すべき年だったのですね。
細見美術館の公式サイトを見ましたが、展示内容の詳細が分からず残念でした。とは言え会期が長いので、立ち寄るチャンスがあるかも知れず、楽しみにしております。

今は富岡鉄斎展(出光美術館)も開催中ですし、上野の国立博物館でも何かやってるみたいですし(定家の小倉色紙が見られるとか)、横浜では2/26から「若冲と琳派」展があり(横浜高島屋ギャラリー)、これも出来たら見たいと思っています。

まとめて備忘リンク
http://www.idemitsu.co.jp/museum/
http://www.tnm.jp/doc/Guide/Dyn/e00.html
http://mbs.jp/event/200310/jakutyu/

画像は、私の好きな伊藤若冲から一枚、「菊花流水図」です。和歌でも、

 山川の菊の下水いかなれば流れて人の老いをせくらむ 藤原興風

など盛んに詠まれた題材です。

>児島様
初めまして。記入して下さったURLは「http://」が重複していてリンクできておりませんでしたので、下にURLを転記致します。

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html



 万葉集と邪馬台国    ..児島 [URL]    
      2004/02/17(火) 17:34  No.99
 
 
大和歌詠みの皆さん始めまして邪馬台国夜須からご案内に
まいりました。
大和と深い繋がりの朝倉郡夜須町は古代の邪馬台国にて、
万葉集に詠まれる歌は夜須が何題か詠まれています。
大伴家持・阿部仲麻呂・他多数あり
詳しくはヤフー邪馬台国掲示板探索クリックして、夜須町掲示板
をクリックし内容に万葉集あり、又はURLしてご覧下さいませ
   夜須考古学よりご案内



 ご教示ありがとうございました。    ..ためかぬ    
      2004/02/16(月) 23:58  No.98
 
 
ご教示ありがとうございました。
広辞苑の「雪月花」にも「琴詩酒の友皆我を抛(なげう)つ 雪月花の時に最も君を憶(おも)ふ」の用例が載っておりましたが、そこでとどまっておりました。

「歌を描く 絵を詠む」展 羨ましいですね。

新聞でのその紹介文を読むまで、気がつきませんでしたが、2005年は「古今和歌集」から1100年「新古今和歌集」が成立してから800年を迎 えるとのこと。

記念の年を前に古典文学と美術の関連をたどる展覧会「やまと心の美-めぐり逢う王朝文学と美術」が細見美術館(京都市左京区)で2月17〜5月9日まで開催されるそうです。

記念すべき年に近づくと思うとうれしいものですね。美しい日本の伝統美にふれる機会が増えるのでは、と期待しております。



 RE:「雪月花」    ..水垣 [URL]    
      2004/02/16(月) 22:57  No.97
 
 
長くなったので別件で投稿します。
「雪月花」の出典は白氏文集で、旧友に寄せた七言律詩の第三・四句、

 琴詩酒の友皆我を抛(なげう)つ 雪月花の時に最も君を憶(おも)ふ

「琴の友、詩の友、酒の友、皆私を捨てて去った。雪の時、月の時、花の時、それぞれの時が巡ってくる毎に、とりわけ君を思い出す」

この一節が平安中期の『千載佳句』や『和漢朗詠集』に採られ、以後広まったものと思われます。

和歌では平安末期頃からこの句の「本説取り」がちらほら見えるようになります。ことに多いのは藤原定家です。

 花をまち月を惜しむとすぐしきて雪にぞつもる年はしらるる
 あくがれし雪と月との色とめて梢にかをる春の山かげ
 白妙の色はひとつに身にしめど雪月花のをりふしはみつ

同じ頃、式子内親王も詠んでいます。

 いくとせのいく万代か君が代に雪月花の友をまちけん

「月雪花」の用例もあります。

 面影もたえにし跡も移り香も月雪花にのこるころかな 土御門院

この歌もやはり白楽天の詩句を踏まえたもので、必ずしも「雪月花」「月雪花」という語が広く定着していた証とは言えないでしょう。
「四季の代表的景物を示す連結語」としては「花ほととぎす月雪」の方が早く成立定着していた、というのはその通りかもしれません。当時の人でしたら、夏の時鳥が抜けてしまうのは寂しいと思ったでしょうし。

花鳥風月なんて語もありますが、これには雪が抜けてますね。一方雪月花は雪が最初に来ます。和歌で雪が主役級(?)になるのは、やはり中世以後のことで、ことに冷え寂びた世界を艶な物として志向するようになる南北朝・室町時代以降でしょうか。雪月花が四季風物の代表として用いられるようになるのも、大体その辺からかと思います。
そうしてやがて(川端康成が『美しい日本の私』で引用していたように)日本人の自然に対する感受性を象徴する語、あるいは伝統的美意識を集約する語となり、もはや単に「四季の代表的景物を示す連結語」ではなくなりました。



 「歌を描く 絵を詠む」展    ..水垣 [URL]    
      2004/02/16(月) 22:54  No.96
 
 
ためかぬ様、こんばんは。
拙作にコメントありがとうございます。これは北欧旅行の印象から作ったと思います。

バレンタイン・デーは関東でも春一番が吹きました。
その日は東京赤坂のサントリー美術館で「歌を描く 絵を詠む 和歌と日本美術」と題された展覧会を見ました。
和歌を題材とする歌仙絵、絵巻、屏風絵、工芸品を中心に展示しています。

http://www.suntory.co.jp/sma/japanese/ex/ex_waka.html

今回印象に残ったのは、天橋立・吉野・宇治といった名所歌枕を描いた室町・桃山時代の大きな屏風絵でした。歌枕の世界に包み込まれるような感じがしました。



 「雪月花」    ..ためかぬ    
      2004/02/15(日) 23:14  No.95
 
 
 雪よりも冷やかに海は白くありき氷雨の果ての有明の空

空/雲 八首のなかでは、一番好みで、寒いのが嫌いなのになぜと苦笑い。
これも、ストックホルムのお歌だったような気がしてますが。

春一番が吹き荒れた後寒くなってしまった関西です。

四条派の写生画風の基礎を築いた「呉春と景文」(1752〜1811・1779〜1843)の展覧会が逸翁美術館(大阪府池田市)であり、冷泉為人氏の「写生画 −呉春・景文をめぐって―」の講演も拝聴できました。
最初の展示室に呉春筆の三幅対の「雪月花」がありました。

「木々の心 花の心」岩佐美代子著には
 
  心うつる情けいづれとわきかねぬ花ほととぎす月雪のとき
                    (玉葉2442)永福門院

「花ほととぎす月雪」は「雪月花」より早く、平安末〜鎌倉期に成立した、四季の代表的景物を示す連結語。とあり 以前からなんとなく気になっていたことを思い出しました。
「雪月花」の成立はいつごろで、和歌との関係はどのようなものなんでしょうか?
     



 和泉式部・式子内親王・西行    ..水垣 [URL]    
      2004/02/09(月) 22:40  No.94
 
 
ひよきち様、こんばんは。

>読む人のすぐそばまで 
>近付いてきてくれるようにも思われます。

これはうまい言い方だと思いました。和泉式部の歌を読んでいますと、作者の息遣いや体温まで感じられるような気がする時があります。

式子内親王と和泉式部は共に「恋のかぎり」を突きつめた激しい恋歌を残した歌人で、共通するところも大きいと思うのですが、式子内親王の方がやはり線は細く、内向的な印象はありますね。和泉式部の方はもっと大らかで、現実的な逞しさが感じられます(ひよきち様のおっしゃる「甘やかさ」も、彼女のそうした性格から生まれたものではないでしょうか)。
置かれた立場も時代も違いますし、どちらが良いとか、そういう問題ではありませんが。
この二人の比較は大変面白いテーマだと思います。

私が和泉式部と西行は似ているなと感じましたのは、「どうしてこんな詞が出て来たのだろう、どうしてこんな歌が出来たのだろう」とビックリさせられることが多かった所です。
それに西行は和泉式部が大変好きで、かなり影響を受けているのではないかと思います。

 あらざらんこの世のほかの思ひ出に今一たびの逢ふこともがな 泉
 いかでわれこの世のほかの思ひ出に風をいとはで花をながめむ 西

なんて、西行には珍しい本歌取りです。



 無題    ..ひよきち    
      2004/02/07(土) 23:52  No.93
 
 

こんばんは。

>白洲正子と西行と言えば、ずばり「西行」という名の本もあります。

今日、図書館に行きまして 早速この「西行」を借りて参りました(*^_^*)

白洲正子氏の文章は本当に素敵だと思います。
言い切っていて淀みがない。
今 夢中になって読んでおります。


>口絵に使っている西行像(熱海のMOA美術館蔵)

この絵も拝見いたしました。
「画家の心の中に西行のいぶきが
 まだ鮮明に残っていた頃のもの」との氏のお言葉が
印象的でございました。


「恋しきをたはぶれられしそのかみの
        いはけなかりしをりの心は」

>西行の恋の一途さはどうも子供の頑是無さ・無邪気さと
 通い合うものがあるような気がします。

仰るとおりだと思います。
西行の歌を読み進めておりますと 時折、はっと息を止めて
思わず見入ってしまう歌がございます。

歌の中に込められている「一途さ」に触れるからなのでしょうか。


>恋歌でなら、西行は式子内親王よりも
 和泉式部に比すべき歌人ではないでしょうか。

本当にそうですね・・(*^_^*)
内親王の場合「孤高の人」という印象がございますが
和泉式部の場合、何と言いましょうか・・・
(これは私自身の非常に個人的な感想でしかないのですけれど)
「甘やかさ」があるように思われます。

読む人のすぐそばまで 
近付いてきてくれるようにも思われます。




 文字化けする方へ    ..水垣 [URL]    
      2004/02/06(金) 18:42  No.92
 
 
この掲示板に投稿した直後、文字化けが起きる場合が
あるかと思いますが、この現象を避けるためには、
ブラウザの「表示」→「エンコード」欄の
「自動選択」のチェックを外せば良いみたいです。



 西行    ..水垣 [URL]    
      2004/02/06(金) 18:06  No.91
 
 
ひよきち様、こんにちは。まだ寒い日が多いですね。

「美の種まく人」は「とんぼの本」ですね。書店で見かけた覚えはあるのですが、ずっと買いそびれてしまっている本です。

白洲正子と西行と言えば、ずばり「西行」という名の本もあります。日本各地に西行の足跡を訪ねる旅を重ねつつ、西行の歌と人生に迫った書です。実はまだ拾い読みしかしていないのですが、口絵に使っている西行像(熱海のMOA美術館蔵)は西行のことを思い出すたびに見たくなる絵です。

>「いとほしやさらに心のをさなびて
>       魂切れらるゝ恋もするかな」

「さらに心のをさなびて」と言い「魂切れらるゝ」と言い、まさに西行ならではの言葉遣いですね。

「恋しきをたはぶれられしそのかみの
        いはけなかりしをりの心は」

という歌も思い出します。こっちの方は文字通りの「幼い恋」を詠んでいるのかも知れませんが、西行の恋の一途さはどうも子供の頑是無さ・無邪気さと通い合うものがあるような気がします。
恋歌でなら、西行は式子内親王よりも和泉式部に比すべき歌人ではないでしょうか。



 無題    ..ひよきち    
      2004/02/05(木) 18:22  No.90
 
 

水垣さま、皆様、こんにちは。

暦の上では春と言いながら 今日など雪もちらほらしておりました。

せきどさまご紹介の
武相荘のページを拝見しまして以来、
白洲正子氏にとても心惹かれるようになりました。

その著作である「美の種まく人」を
今 読んでいるところでございます。

その中に西行の

「いとほしやさらに心のをさなびて
       魂切れらるゝ恋もするかな」

という歌がございました。


西行と言えば 丁度昨年の初夏の頃でしたでしょうか、
このゲストブックにても様々な書き込みがなされ
とても興味深く拝見させていただいたことを覚えております。

西行の歌は繊細ではありますが
それは 式子内親王の繊細さとはまた違ったものを感じます。

和歌の世界は本当に素敵ですね。
こんな短い言葉の中に 
忘れ得ぬ想いを閉じこめることができるのですから。





 『金剛句歌詩集』    ..水垣 [URL]    
      2004/02/03(火) 21:54  No.89
 
 
のりまき様、こんばんは。
書名ご教示ありがとうございます。
無いだろうなと半ば諦めつつ「日本の古本屋」で検索したところ、なんと福岡の店に1冊だけあるとのこと。早速注文しましたところ、在庫ありとの返事です。
歌枕のコーナーで外国を詠んだ歌も集めてみたいなどと思っておりましたが、おかげさまで面白い資料を加えることができそうです。

和歌と日本の風土は興味深い問題です。仰るように自然風土が和歌を育んだという面と、逆に和歌が日本の風土を守り育てたという面もあったのでは、と思っています。例えば、一草一木も大切にするような感性を育てる上で、和歌や俳諧の果たした役割は小さくなかったのでは、などと。
また一方では、金剛山のような対象をうまく表現できないのは、和歌や俳句の弱点として考えないといけないかもしれませんね。



 人麿    ..のりまき [URL]    
      2004/02/02(月) 21:19  No.88
 
 
水垣様こんばんは。のりまきです。

金剛山を旅した人たちの俳句・短歌・漢詩集は『金剛句歌詩集』といいます。成田魯石という人が編集したそうです。

金剛句歌詩集の中の俳句・短歌作品では、私も水垣様が紹介された若山牧水の

わが立てる峰も向ひの山々も並びきほいて天かけるごとし

が白眉だと思います。
金剛山の情景を俳句や短歌にほとんど表現しきれない、『消化不良』を思わせる他の作品の中で、さすがは牧水、といったところでしょうか。

あと、水垣様の書き込みの中で、私が『なるほど、確かにそうだなあ』。と思ったのが、
>いや、柿本人麿なら金剛山を詠んだ長歌の傑作を残してくれたかもしれませんが…。
のくだりです。たしかに人麿ならば、ひょっとして金剛山のような景色を、雄大かつ情感たっぷりに詠みこなしたかも知れません。



 RE:和歌と日本    ..水垣 [URL]    
      2004/02/01(日) 15:52  No.87
 
 
のりまき様、こんにちは。
金剛山のコンテンツ、楽しみに拝見しております。

>最近、昭和初年に発行された、日本植民地時代に金剛山を旅した人々が作った俳句・短歌・漢詩を集めた本を手に入れました。

これはとても興味を惹かれます。よろしかったら書名を教えて頂けないでしょうか。
「ピンと来る作品が少ない」と仰るのは、何となく分かるような気もします。
奥様の「観察日記」で触れられていた若山牧水の

   金剛山白雲台より衆香城峰を仰ぐ
 わが立てる峰も向ひの山々も並びきほひて天かけるごとし

これだけはちょっと金剛山らしさを表わしているのではと感じます(日本の山では、こういう歌は生まれなかったでしょう)。
とは言え、日本各地を旅しての牧水の秀歌とは比較になりません。

異国で詠まれた和歌の名作と申しますと、

 いざ子ども早くやまとへ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ 憶良
 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 仲麿

の二首ですが、いずれも遣唐使として唐国にあっての望郷の歌です。
昔の歌人たちは、やまとことばが異国の風土では生きない(言霊が力を発揮しない)ことを知っていたのではないかと思えます。

いや、柿本人麿なら金剛山を詠んだ長歌の傑作を残してくれたかもしれませんが…。



 和歌と日本    ..のりまき [URL]    
      2004/01/31(土) 21:34  No.86
 
 
水垣様こんばんは、のりまきです。
少々ご無沙汰していましたが、時々拝見していました。

私は現北朝鮮の金剛山について調べているのですが、最近、昭和初年に発行された、日本植民地時代に金剛山を旅した人々が作った俳句・短歌・漢詩を集めた本を手に入れました。

読んでみて、『和歌や俳句はやっぱり日本の風土が生んだものなのだな……』という感想を持ちました。金剛山と俳句・短歌はあまり相性がよくないようで、ピンと来る作品が少ないのです。
有名な俳人・歌人も金剛山を詠んでいるのですが、やはり良い作品は少ないような気がしました。どうもこれは作り手の腕のせいばかりではなく、風土が日本と違うからのような印象を持ちました。

和歌が長い歴史の中で日本の風土の中で育まれてきたことを、ある意味再確認できました。



 補足    ..MM3210 [URL]    
      2004/01/31(土) 01:29  No.85
 
 
水垣 様

すみません。説明がまずかったので、補足します。

愛国百人一首かるたではなく、小倉かるたで坊主めくりをした記憶があるというつもりでした。

だから、わが家で愛国百人一首かるたをすぐに使い始めたのは、
ひょっとすると、小倉かるたが禁止されたからだろうかと思った次第です。

どうも、ご教示ありがとうございました。



 小倉百人一首と愛国百人一首    ..水垣 [URL]    
      2004/01/30(金) 19:55  No.83
 
 
MM3210様

愛国百人一首には女性歌人が四人しか入っておりませんから、坊主めくりをやってもなかなか札が貯まらず、面白くなかったでしょう。
四人と申しますのは、

 旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群
                  遣唐使使人の母

 わが背子は物な思ほし事しあらば火にも水にも我なけなくに
                     安倍女郎

 もろこしも天の下にぞ有りと聞く照る日の本を忘れざらなむ
                  成尋阿闍梨の母

 もののふの大和心をより合はせただひとすぢの大綱にせよ
                    野村望東尼

どれも良い歌と思いますが、戦時下という時代背景に置きますと、いかにも「銃後の妻・母」にふさわしい歌に見えることも確かではないでしょうか。

本家の小倉百首は女性歌人が二十人入っていますが、それよりも特徴的なのは恋歌が四十数首もあることで、戦時下、小倉カルタの遊戯に耽るのは不適当と当局が判断し、これに代わる物として愛国百人一首が選定された、という経緯だったと思います。
もっとも、小倉百首が「禁止」されたという話は聞きません。



 薄れた記憶    ..MM3210 [URL]    
      2004/01/30(金) 10:06  No.82
 
 
水垣様

懇切なご教示ありがとうございます。

お写真を拝見すると、なんとなく箱に見覚えがあるような気がしてきました。

空襲で町が焼かれ、戦後は百人一首のかるたで遊んだことがないのに、
坊主めくりをした記憶があるので、愛国百人一首の絵札にも作者像があったと錯覚したようです。

戦意高揚のため、小倉百人一首を禁止して、愛国百人一首に切り替えたのでしょうか。



 RE:武相荘    ..水垣 [URL]    
      2004/01/29(木) 00:29  No.81
 
 
ひよきち様、こんばんは。
武相荘のサイト、わずかな画像や文章からでも、白洲夫妻の暮らしぶりや生き方が偲ばれて、素晴らしいですね。
まことに美しく生きたお二人と思います。

>「生きることは美しい」

そんな格好いいこと言いましたっけと焦りましたが、まさしくそう言ってますね。
いや、そこだけ切って引用されると照れてしまいます。ご勘弁下さい(笑)。

ところで悪い風邪が流行っているようです。皆様お気をつけ下さい。



 愛国百人一首かるたの絵    ..水垣 [URL]    
      2004/01/29(木) 00:25  No.80
 
 
MM3210様、

>愛国百人一首の絵札には、外にも、人物像がないものがあるのでしょうか。

むしろ人物像が描かれている方が少ないのです。歌の主題に合せて風景や風物を描いた札がほとんどです。例えば宣長の「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」は桜の絵が添えてある、と言った具合です。
憶良の札の紅葉は意図不明ですが…。

ご参考までに、今度は箱に入った状態の写真を掲げておきます。
因みに、カルタの絵は日本画家西沢笛畝の手になるものです。



 武相荘    ..ひよきち    
      2004/01/28(水) 00:10  No.79
 
 
こんばんは。

せきどさまご紹介のホームページ、拝見致しました。
本当に素敵なページなのですね・・。
うっとりです。

その中に
「気に入った品々を愛でる為に障子を閉め、
 蝋燭の明かりを頼るのでした。」とございました。

とても印象的でした。
蝋燭の明かりを頼りに見入る品々。
どれほどの美しさであったことかと思います。

図書館にて「美の種まく人」がございまして
今日、早速借りて参りました。
これから楽しみに読みたいと思います。



数日前の 水垣さまのお言葉の中に
「生きることは美しい」とございました。

とても心に残りました。

私自身も 和歌や、和歌に附随する様々なものから
「美しさ」を感じとることのできる人間でありたいと
思いました。




 RE:百人一首かるたの思い出    ..MM3210 [URL]    
      2004/01/27(火) 20:13  No.78
 
 
墨の百人一首特集号の表紙を飾っているのが、白洲正子氏所蔵の百人一首かるた
であることをお教え頂き、次元の違う環境の存在を痛感しました。

それはさておき、愛国百人一首の写真をお載せ下さり、ありがとうございました。

正行の絵は、講談社の絵本か何かで見た、吉野の如意輪堂の壁板に矢じりで
歌を記している姿の方が記憶に残っていたため、アレッと思いました。

憶良の像は、きょうさんのたのしい万葉集のイラストしか見てないので、
絵札の紅葉3葉には、肩透かしを食わされたように感じ、残念でした。

愛国百人一首の絵札には、外にも、人物像がないものがあるのでしょうか。



 百人一首かるたの思い出    ..水垣 [URL]    
      2004/01/27(火) 01:04  No.77
 
 
MM3210様の御覧になったのは「墨」の百人一首特集号ですね。これの表紙を飾っているのが白洲正子氏所蔵の百人一首かるたです。

私は昭和三十四年生まれですが、子供の頃、かるた取りはお正月の家庭の遊びとしてまだ健在でした。「優雅」なんてものとは無縁な家でしたけれど、親戚が集まって大勢でやる時は楽しかったですね。得意の札は「久方の光のどけき…」のつもりでしたが、人気のある歌ですから、狙っていても取れず、悔しい思いをすることも多かったような…。

どんなカルタを使っていたか、よくは思い出せないのですが、子供の私でも読めたということは、取り札の字は活字だったのでしょう。ごく一般的な市販品だったに違いありません。子供の目にはそれでも結構はなやかに見えたもので、坊主めくりの時のお姫様(と当時は思っていました)の絵札はことに目を楽しませてくれました。
肉筆かるたの美しさを知ってしまうと、印刷物は確かに味気ないですけれども。
まあ、庶民は庶民なりに楽しんでいたのです(笑)。

写真は愛国百人一首カルタの山上憶良と楠木正行の絵札です。これはもちろん大人になってから集めたカルタの一つです。



 無愛想⇒武相荘    ..MM3210 [URL]    
      2004/01/26(月) 12:27  No.76
 
 
>『別冊太陽』で写真は見たことがあります。

確か妻の書棚にそんな雑誌があったと思い、探してしてみたところ、
白州正子氏の「定家『時雨亭』の跡を歩く」と題する文が載っている、
書と墨画のグラフ誌「墨」がありました。

その文中に、「今日の『百人一首』」という小見出しで、次のような箇所がありました。

>私が子どもの頃までは、かるた取りはお正月には欠くことのできない行事であり、
>夢中になって覚えたものである。そういう風にして、子供たちは、
>無意識のうちにやまと歌の美しさを身につけ、歌人の名前を知っていった。
  ……
>現在では、読札も取札も、およそ無味乾燥な印刷物となり、
>かるた取りは専門化されて、とても優雅な遊びとは呼べなくなった。

昭和10年生まれの私は、何度か印刷物の「愛国百人一首」で遊んだ記憶があり、
その中に、山上憶良の歌があったことを確認しようとして、当サイトを知りました。

なお、軍国主義教育の影響を受けた少年の私が狙う札は、次の歌でした。

45 かへらじとかねて思へば梓弓(あづさゆみ)なき數(かず)に入(い)る名をぞとゞむる
                           楠木(くすのき)正行(まさつら)

この度、せきど様ご紹介のサイトを拝見し、
白州夫妻のように、なき数に入る日のために
「葬式無用、戒名不用」と遺言できるか、という課題を突きつけられました。

どうも有難う御座いました。



 RE:勅撰集の撰歌基準    ..めるがっぱ [URL]    
      2004/01/25(日) 19:31  No.75
 
 

水垣さま
不躾ともとられかねない質問に丁寧な
お返事を頂き、恐縮しております。

興味本位に古典を開いているだけですので、
また何もわからずに質問させて頂くかとおもいますが、
よろしくお願い致します。

ありがとうございました。



 勅撰集の撰歌基準    ..水垣 [URL]    
      2004/01/25(日) 16:02  No.74
 
 
めるがっぱ様

>そこで不思議に思うのは、この2首、特に後者をなぜ俊成が
>千載集で取り上げなかったのかということです。

私もこれは不思議だなと思います。出来ることなら、俊成に聞いてみたいものです。
色々推測することは出来そうですが、私には裏付けになるような材料がありません。

「野分」の歌は、確かに左程の佳詠とは思えませんね。私も、歌の出来以外に何らかの要素があって選ばれたのではないかと考えます。それが作者に対する同情だったのか、あるいは編輯上のバランスを考慮してのことだったのか、即断はできませんけれども。

申すまでもないと思いますが、勅撰集の撰歌基準は、必ずしも歌の良し悪しだけではありませんでした。
例えば、藤原定家が新勅撰集の編纂をほぼ終えようとしていた時、梅を詠んだ華やかな歌が足りないことに気づき、資料を探し回った挙句、ようやく家隆の歌「いく里か月の光もにほふらん梅さく山のみねの春風」を見つけ出して喜んだ、という話が伝わっています。「ここにこんな歌がほしい」という編輯上の理由から歌が選ばれたことを示すエピソードです。
逆に、どれほどの秀歌でも、適当な場所を得なければ、不採用となることがあり得たわけです。

もちろん、政治的な思惑なども絡んで来ますし、そうした様々な制約のもとで撰者は歌の採用不採用を決定していたわけです。

お答えにはなっていないと思いますが、私が今申し上げることのできるのは、この程度のことです。



 RE:野分    ..めるがっぱ [URL]    
      2004/01/24(土) 12:05  No.73
 
 
水垣さま
さっそくのお返事をありがとうございます。
もうひとつ、ご意見を伺いたいことがあります。
先日、むらじ様からの書き込みに

いづかたと宿を知らせしときだにも逢はざりしをばいかが歎きし 
(元永二年七月十三日 内大臣忠通歌合63 平安朝歌合大成第六巻)

身の憂(うき)の歎きに恋のまさるとは泪の色の深きをぞ知る   
(長承三年九月十三日中宮亮顕輔歌合54 平安朝歌合大成第七巻)

とう千載集にない季通の歌が紹介されていました。
2首とも優れた歌と思いますし、ことに後者の「泪の色の深き」
という表現は前例のない(と思いますが)季通のオリジナリテイを
感じさせるものかと思います。
そこで不思議に思うのは、この2首、特に後者をなぜ俊成が
千載集で取り上げなかったのかということです。

(わたしの勝手な思いこみかもしれませんが)千載集の
季通の15首は玉石混交とまでは言わないものの、中には
それほど高い評価を受けるとはおもえないものがあります。
昨日お尋ねした「野分」の歌もそのひとつです。
(この歌を採用した背景には季通への同情というより白河院
への俊成の個人的な反発があったのかなどとさえ想像して
しまいます。)

千載集に15首採用とは、俊成の季通への評価は
低くなかったと思うのですが、それなら、上記2首ほどの
歌をなぜ採らなかったのかなと、首を傾げる次第です。



 RE:野分    ..水垣 [URL]    
      2004/01/24(土) 10:29  No.72
 
 
めるがっぱ様、
最初はどうかなと思ったのですが、少し考えてみますと、すごく面白い、鋭い読み方ではないかと思えてきました。

>野分(のわき)する野辺の景色を
>見る時は心なき人あらじとぞ思ふ

仰る通り、この時代以前、野分そのものの荒々しい景に詩情を見出した歌はほとんどないと思います(南北朝時代の風雅集あたりになると出て来るようですが)。
ところでこの歌の詞書には「百首歌たてまつりけるとき」云々とあり、「久安百首」と呼ばれる、崇徳院に詠進した歌の一つです。崇徳院の実父は白河院、母は待賢門院璋子です。
「久安百首」が出来たのは西暦1143〜1150年頃で、既に白河院は亡く、この間に璋子も亡くなっています。その間、季通が復権したとの徴候はないようです(この辺は詳しく調べたことがないので、よく分かりませんが)。
これらを考えますと、この歌で季通が「苦しい境遇」を訴え、崇徳院や周囲の人々の同情を惹こうとしたと見ることは、決して「不自然」とは思えなくなってきます。

こうなると、季通の久安百首歌をこの視点から読み直して再検討してみたくなります。



 武相荘・花に物思ふ春    ..水垣 [URL]    
      2004/01/24(土) 10:27  No.71
 
 
せきど様ご紹介のサイト、私も興味深く拝見しました。

>白洲正子氏所蔵の百人一首かるた

『別冊太陽』で写真は見たことがあります。実物はさぞやオーラを発しているのでしょうね。
古い由緒ある百人一首カルタはなかなか実物を見るチャンスに恵まれませんから、武相荘での展示は貴重な機会になると思います。
五枚というのは少々寂しい気もしますが、演出上、あえて控え目にしてるのかも知れませんね。余情を味わって下さいということで(?)
期間中に行けるかどうか難しいのですが、武相荘にはいつか参ってみたいと思います。

>「花にもの思ふ春」

これは私も読んだ覚えがあります。式子内親王の歌「はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば花に物思ふ春ぞ経にける」から取ったタイトルでしたね。
万葉・古今・新古今の歌風の変遷を、まさに「端的な切り口で」見事に描き出していて、鮮やかな印象が残っています。

>”和歌は本質的にはほとんど無内容の
>ものを歌いつつ、淡雪のような一点の清涼感をもたらす所に
>かけがえのない価値がある。”

上の式子内親王の歌にしても、無内容と言いますか、生の虚しさや果敢なさを詠んでいるわけですが、読むほどに詞の調べの美しさに引き込まれ、やはり生きることは美しいと感じさせてくれるところがあります。まさに和歌の「かけがえのない価値」だと思います。



 花に物思う春    ..八重葎    
      2004/01/23(金) 12:03  No.70
 
 
せきど様ご紹介の武相荘のSite拝見しました。
白州女史は非常に端的な切り口で和歌の魅力を
伝えてくれた人のように思います。

だいぶ前で記憶がうすいのですが、タイトル名の著作で
折口の言葉をひきながら、
”和歌は本質的にはほとんど無内容の
ものを歌いつつ、淡雪のような一点の清涼感をもたらす所に
かけがえのない価値がある。”
というようなくだりがあり特に印象的でした。



 野分    ..めるがっぱ [URL]    
      2004/01/22(木) 20:31  No.69
 
 
水垣さま、
先日、藤原季通について教えて頂いたものです。

千載集の258に季通の「「野分(のわき)する野辺の
景色を見る時は心なき人あらじとぞ思ふ」」という歌があります。
手元にある岩波の古典体系では「強風の吹き荒れる野の情景を
見る時は感じ入らない人はいないだろう」と大意が記載されて
います。
しかし、嵐が来る気配や過ぎ去った景色を詠んだ歌はあっても
台風の荒れ狂う様に詩情を感じ詠んだ歌はあまり見ないような
気がします。

この歌の「野分」を、先日むらじ様からご指摘頂いた、季通が
待賢門院璋子と情を交わし、白河院の逆鱗に触れたことを暗に
指しているとみることは不自然でしょうか。
つまり、この歌の真意を「嵐に翻弄される景色を見れば、法王の
逆鱗に触れて苦しい境遇にいるわたしのことを誰もが分かって
くれるでしょう」と解することは可能でしょうか。

こじつけかもしれませんが、
ご意見をお聞かせ願えれば幸いです。



 武相荘の紅梅    ..せきど    
      2004/01/22(木) 14:29  No.68
 
 
先週、旧白洲邸「武相荘」に行って参りました。
花のとぎれるこの時期、紅梅がまだ三分咲きともいえないほどひっそりと咲いていました。

お目当ては、白洲正子氏所蔵の百人一首かるた。
昨年、やまとうたのカルタ美術館で素敵な百人一首をたくさん見せていただいて、どうしても肉眼で手書きの百人一首を見てみたいと思っていた矢先、武相荘のHPを知りました。
去年は見逃したのですが、今年思いかなって?やっと見ることができました。やっぱり良いものですね〜。小さな箱に収められたそれぞれの宇宙という感じがします。残念だったのは、展示がこじんまりとしていて、五組の札しか見ることができなかったことです。(式子内親王、蝉丸、小野小町、在原業平、祐子内親王家の紀伊)百組だーーっとならべて見せてもらいたかったなぁと。

武相荘のHPはこちら
http://www.buaiso.com/index.html

不思議に落ち着けるよい空間でした。なるべく人の少ない時間帯をねらって行かれた方が良いかと思います。
展示替えがありますのでご注意ください。



 RE:紅梅と寒桜    ..水垣 [URL]    
      2004/01/21(水) 01:06  No.67
 
 
万博公園の梅はもう五分咲きですか。寒桜も今年は早いんですね。
「ニッポンの桜だより」というサイトを見たところ、沖縄の寒緋桜はむしろ例年より遅いそうです。暖冬だと却って開花が遅れることがあるみたいですね。

http://www.todays.jp/sakura/

またまた素敵なお写真を有り難うございます。
道真公の命日に梅花祭があるのですね。
舞妓さんのお点前風景、目の保養とさせて頂きました。
梅も満開、いかにも春爛漫の景ですね。



 紅梅と寒桜    ..紀州の姫    
      2004/01/20(火) 11:12  No.66
 
 
菅原道真の梅と桜の歌の学術的検証に基づくお話に、私などは
ただただ感心して拝読(勉強)させて頂きました。
そんな今朝、こちらのラジオ番組「おはようパーソナリティー道上洋三です」にリスナーからの花便りが届き、
『昨日、万博公園(大阪)で紅梅5分咲と寒桜が咲いており、カメラを持った人でいっぱいでした』とありました。
例年2月なのに、今年は早いようですね。

数日前、京都北野天満宮の紅梅も一つ二つ花が付いておりました。
添付は、その北野天満宮梅花祭にて昨年2月25日に写しました
上七軒の舞妓さんのお点前風景です。
梅花祭は毎年2月25日に御座います。
頭休め(?)に、舞妓さん写真でもどうぞ!(^.^)



 RE:梅と桜    ..水垣 [URL]    
      2004/01/19(月) 20:44  No.65
 
 
今年は梅は早いみたいですね。昨日散歩した近所の公園の梅林は二、三分咲きといったところだったでしょうか。まだ全く花をつけていない木も多く、木毎に遅速は様々のようですが。

>むらじ様

>さくら花ぬしをわすれぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ(後撰57)

歌だけを見れば、咲いていたかどうかは断定できませんね。後撰集の詞書は「桜の花に結ひつけ侍りける」とありますので、これを信じれば、花が咲いていたことになります。
但し、勅撰集の詞書というのは、撰者等が勝手に書き換える場合も多かったと思います。歌の内容から推測して、詞書を適当に作り上げるなんてこともあったかも知れません。

>MM3210様

>礼記・月令の「東風解凍」などに見える
>「春風は東から吹き氷を溶かす」という考えを前提にしている。

との指摘は重要かも知れませんね。なぜ道真は東風に拘ったのか。西国に左遷されるので都から吹く風は「東風」なわけですが、漢籍の教養の裏打ちがあったというのは確かにその通りかも知れません。

>したがって、後撰集の歌も拾遺集の歌も共に道真の実作だとすれば、
>道真の作歌態度が安易過ぎることにならないでしょうか。

同じ発想で梅と桜の歌を詠んでいることになりますね。「安易過ぎる」と言えば言えるかも知れません。
うーん、やはり「どちらも実作」と考えるのは無理があるかも知れませんね(「かも知れない」ばかりですが)。

私のヘボ推理を述べますと、やはり時代が早い分、後撰集の方が信用できるとは思うのです。で、その桜の歌はむらじ様の仰る通り、現実にはまだ咲いていない花に向かって語りかけたとも解釈できます。しかし後世の人はやはりこうも思ったでしょう。「大宰府に発った旧暦二月一日に桜の花は早すぎるし、道真公の梅好きは有名だ。御霊を鎮めるには梅の歌もあった方がよいだろう」。そんな思いから、桜の歌をヒントに「こちふかば」の歌が創られたのではないか。そしてそちらの方が口遊みやすく、親しみやすい歌だったので、有名になってしまった……と。

いずれにしても、二首ともなかなか良い歌で、どちらも残したい気持に変りはありません。



 どういたしまして    ..水垣 [URL]    
      2004/01/19(月) 17:25  No.64
 
 
>sando様
お役に立てたのでしたら幸いでした。

貴サイトのカリグラフィーを拝見しました。私の方こそ未知の扉を開いて思いがけず美しい世界を垣間見させて頂いた気持です。アルファベットと仮名漢字の違いは大きいものの、雅びな料紙に散らし書きなど趣向を凝らした和歌の色紙と、一脈通ずるものがあるように思いました。
またお気軽においで下されば幸いです。



 蜻蛉集    ..水垣 [URL]    
      2004/01/19(月) 17:24  No.63
 
 
>むらじ様
『蜻蛉集』はフランス留学中の西園寺公望の翻訳ではありませんでしたっけ。大変な稀覯本ではないでしょうか。
それにしても、むらじ様の蔵書は一体どうなっているのか、気になります。底知れぬ知識は、どれほど奥深い書棚から引き出されてくるのかと。

フランスと言うと、たしか新古今集や源実朝を翻訳・研究している有名な人がいたと思います(名前が出てきません)。西園寺公望の蒔いた種が実を結んでいるのでしょうか。

道真の梅と桜の歌のお話は、もうちょっと後で、別件として投稿します。



 RE:梅と桜    ..MM3210 [URL]    
      2004/01/18(日) 23:04  No.62
 
 
>蕾もない頃の堅い枝を見て、爛漫と咲き誇っていた去年の花を思い浮かべつつ・・

片桐洋一校注「後撰和歌集」(岩波)の57の注には、次のようにあります。

>礼記・月令の「東風解凍」などに見える
>「春風は東から吹き氷を溶かす」という考えを前提にしている。

この注によれば、次の歌も、同じ発想の歌ということになります。

>東風吹かばにほひをこせよ梅の花主なしとて春を忘るな(拾遺1006)

したがって、後撰集の歌も拾遺集の歌も共に道真の実作だとすれば、
道真の作歌態度が安易過ぎることにならないでしょうか。

また、小町谷照彦校注「拾遺和歌集」(岩波)の106の注には、
「道真は梅を愛好し、その邸宅は紅梅殿と呼ばれた」とあります。

このことからも、桜の花の歌の方は、不自然なことにならないでしょうか。



 ありがとうございました    ..sando [URL]    
      2004/01/18(日) 11:02  No.61
 
 
水垣様 
sandoです。英訳の元の和歌を教えて下さって本当にありがとうござました。こんなにすぐにお返事を頂けるとは思っておりませんでした。英訳を読んだだけで元のうたが判るなんて、感動と驚きで一杯です。ありがとうございました。
心より感謝致します。
普段、英語の詩や文章からビジュアル的に表現する作品を作っていますので、このサイトを訪れ、日本語の美しさに触れたことで、急に違う扉が開かれたような気が致しました。本当にありがとうございました。




 無題    ..むらじ    
      2004/01/17(土) 20:40  No.60
 
 
>水垣様
英訳の和歌をみてすぐにそれがどの歌だかわかるなんて、さすが水垣様ですね。
お話を拝見していて
「蜻蛉集」というような題名の、和歌をフランス語訳した本が明治か大正のころに出たのを思い出しました。
以前古本屋でみつけて買ったのですが、さすがにちょっと歯が立ちませんでした。
ちょうど仲のよかった後輩が体を壊して会社を辞め、郷里に帰ることが分かったとき、しょんぼりしながら池袋の街をさまよっているときに見つけたのですが、
いまは本棚のそうとう奥の方に眠っているようで、すぐには出てまいりませぬ・・・



 梅と桜    ..むらじ    
      2004/01/17(土) 20:33  No.59
 
 
北海道では、梅と桜はいっしょに咲いたりします(笑)
もっとも時期はゴールデン・ウィークのころですが・・・
例年の京都では、梅や桜はいつごろ咲くのでしょうか?
昌泰四年と現代とでは気候もだいぶちがっていることでしょうが・・・
ちょっと盲点を突かれるようなコメントに感服いたしました。
ただ

さくら花ぬしをわすれぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ(後撰57)

のお歌ですが、歌を詠んだとき必ずしも咲いていた、と考えるべきなのでしょうか?
まだ蕾もない頃の堅い枝を見て、爛漫と咲き誇っていた去年の花を思い浮かべつつ・・・なんて解釈はできないものでしょうか???



 RE:小野小町    ..水垣 [URL]    
      2004/01/17(土) 13:26  No.58
 
 
sando様、ようこそおいで下さいました。

Seeing the moonlight spilling down through these trees.
my heart fills to the brim with autumn

すぐ思い付くのは、

 木の間よりもりくる月の影みれば
     心づくしの秋は来にけり

という古今集の歌です。
しかしこの歌、よみ人しらずだったはずでは、と思って調べると、「小野小町集」にも載っているではありませんか(後世の増補部分ですが)。
この歌に違いない、と私は思いました。如何でしょう。

貴サイトへのリンク、wwwが抜けておりますね。

http://www.sac-gac.com



 小野小町    ..sando [URL]    
      2004/01/17(土) 09:48  No.57
 
 
カリグラフィーと言って、文章を美しくアルファベットで書き、作品を作っている者です。英語の詩集の中に 小野小町作という歌をみつけました。Seeing the moonlight spilling down through these trees. my heart fills to the brim with autumn という歌がです。本来の日本語ではどの歌なのか、調べておりますがわかりません。もしご存じでしたら教えて頂けますでしょうか。よろしくお願い致します。




 RE:梅と桜    ..水垣 [URL]    
      2004/01/14(水) 23:34  No.56
 
 
桜の開花がひどく早かったのは一昨年でしたでしょうか。確か三月初め頃にはあちこちで咲き始めたとのニュースが聞かれました。

和歌にも梅と桜が同時に咲いている(あるいは同時に散っている)様を詠んだ作がいくつか見られます。

 春なれば梅に桜をこきまぜて
   流すみなせの河の香ぞする(紀貫之)
 今年こそ梅も桜もおしなべて
   ひとつさかりと花は咲きけれ(小倉実教)

貫之のは(事実を詠んでいるとは限りませんが)延喜二年(902)か三年の三月三日に詠まれたものです。と言うことは、道真左遷の翌年か翌々年になります。同じ年だったら面白かったのですが。

今年の梅桜はどうなのでしょうね。
そう言えば初詣は湯島天神にお参りしたのですが(我が家は受験生を抱えているため学問の神様に縋りました)、境内の白梅の一部が早くも花をつけていました。お正月は暖かかったので、梅も驚いたでしょう。



 梅と桜    ..紀州の姫    
      2004/01/14(水) 11:09  No.55
 
 
昨年だったか一昨年だったか忘れましたが、暖かく桜がいつもより早いと言われている時期に京都(大山崎)に参りましたら、見事に桜と梅が同時に咲いておりました。
昌泰四年の事など私には解かりませんが、同時に咲くと言う事も
ありうる事ではありますね。
道真公の事は、天神様の話を取り上げられました時に私も深く
興味を持ちました。
何度かここでも話題になります「渡唐天神像」などは、全くの
作り話のようですが、道真公の像として長く多くの方に受け入
れられ、今日にも語り継がれております。
それほどのお人であったということでしょうね。
実作かどうか・・の難しいお話は、私には良く解かりませんが、
道真公の気持ちを表した歌として、すんなり受け入れています。



 RE:梅か桜か    ..水垣 [URL]    
      2004/01/13(火) 08:29  No.54
 
 
MM3210様

連休はちょうど菅公の「千人万首」のファイルを少しずつ改訂しておりました。タイムリーな話題を有り難うございます。
道真のファイルは下記です。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mitizane.html

>同じ家に、梅の花と桜の花が同時に咲いているのは変だと感じ、

私も今回道真の歌を分類し直してみて、初めておかしいなと気がつきました。
太陽暦2月27日でしたら梅はぴったり合いますが、桜には早すぎますね。
とりあえず、菅公左遷後、拾遺集成立までの略年譜をメモしてみました。

昌泰四年(901)2月1日 大宰府へ発つ
延喜三年(903)2月25日 大宰府にて死去
延喜五年(905)以後 「古今集」編纂(道真の歌二首入集。左遷事件に関する歌は無し)
延喜九年(909) 藤原時平死去
天暦元年(947) 北野に道真を祀る
天暦五年(951)以後 「後撰集」編纂(道真の歌三首。うち左遷時の歌一首あり)
永延元年(987) 朝廷により「北野天満宮天神」の神号が与えられる
正歴四年(993) 太政大臣を追贈される
寛弘四年(1007)以前 「拾遺集」編纂(左遷事件にまつわる道真の歌五首が入集)

これを見て思うのは、やはり拾遺集の頃には道真伝説が相当膨れ上がっていたのではないか、と言うことです。そうすると拾遺集の歌の方が伝説歌っぽいのですが……。
などと、連休中、とりとめもなく思い巡らし、結局うまい答えは見つかりませんでした。

因みに、弊サイトの「千人万首」では、古くからの伝承歌は取りあえずそのまま信じて載せる、という方針でやっております。



 梅か桜か    ..MM3210 [URL]    
      2004/01/11(日) 23:40  No.53
 
 
水垣 様

千人万首の菅原道真のページには、春の歌3首の中に、
次の2首が採られています。

>流され侍りける時、家の梅の花を見侍りて

こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな(拾遺1006)

>家より遠き所にまかる時、前栽の桜の花に結ひつけ侍りける

さくら花ぬしをわすれぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ(後撰57)

同じ家に、梅の花と桜の花が同時に咲いているのは変だと感じ、
道真が京を発った昌泰4年2月1日について調べてみたところ、
太陽暦では901年2月27日になるようです。

そうなると、後撰集の歌は、道真の実作ではないと思うのですが、
いかがでしょうか。

またまた、野暮な質問ですが、宜しくお願い致します。



 御伽草子の「君が代」    ..水垣 [URL]    
      2004/01/11(日) 16:09  No.52
 
 
mog様
明けましておめでとうございます。再びのご訪問ありがとうございます。

御伽草子の「さざれ石」、めでたいお話です。「君が代は…」が薬師如来の御詠歌として出てきますね。「国歌の出典」と言えるかどうかはともかく、庶民の間に「君が代」を流布する上で果たした役割は大きいのではないかと思います。
細かいことを申しますと、鎌倉時代の慈円の『拾玉集』等にすでに「君が代は…」の歌詞が見えますので、この頃には古今集の「わが君は…」の異文としてある程度は流布していたことが窺われます。

「さざれ石のいはほとなりて」は、誤解している人が少なくないようですね。私もこの歌の正しい意味を知ったのは、そんなに昔のことではないのですが。
「大きい石が小さくなる発想しかわかないのに、その逆をいくこの歌の悠久感」とは言い得て妙だと思います。
細かい石が長い時間をかけて堆積し、粘土などにより固く結びついて、大岩となることがあるそうです。「君が代」はそのことを歌っているようですが、「小石が大岩に育つまで」と悠久の時間を表現したのは、秀逸な発想ですね。
「苔のむすまで」と畳みかける終句も仰る通り素晴らしいですし、メロディーは荘重で、歌詞に相応しいものだと思います。

ご意見ありがとうございました。またお気軽にご投稿頂ければ幸いです。



 無題    ..mog    
      2004/01/11(日) 02:35  No.51
 
 
初春のお歓びを申し上げます。昨年、写るとも...の歌で、非常に詳しくお教えいただいたものです。(名前は簡単なものに変えました。)
改めて、その節は有難うございました。
さて、本日、暇にまかせて、御伽草子(岩波文庫)をめくっておりました所、’さざれ石’の章を読み、今まで、古今集の出典しか、しらなかったもので、’君が代...’が結構、庶民的に流布していたのかと、思いました。国歌への出典は、このあたりでしょうか。大変、お恥ずかしいことを告白させていただきますと、子供時代に学校で歌っていたころは、゜岩音鳴りて’だと思っていました。人のせいにするようですが、教育に問題があると思います。凡人は、川の流れのように、大きい石が
小さくなる発想しかわかないのに、その逆をいくこの歌の悠久感に、また、‘苔のむすまで’という終句に圧倒されます。で、melodyはというと、バロック調に聞こえます。
今日は、新しい発見があり、良かったです。ご意見を、お聞かせいただけると幸いです。よろしければ、又お便りさせて下さい。文章力がなくて無念です。







 RE:藤原季通    ..めるがっぱ [URL]    
      2004/01/11(日) 00:18  No.50
 
 
水垣さん、むらじさん

あらためてお礼を申し上げます。

HPに絵の感想を書いていて、古典は表面を
なでているだけですが、ゆっくりと時間を
かけて読んでいきたいとも思っています。

また、よろしくお願い致します。



 RE:藤原季通    ..水垣 [URL]    
      2004/01/10(土) 13:13  No.49
 
 
>むらじさん

メールもありがとうございました。

>季通は藤原璋子という、のちに待賢門院と呼ばれ崇徳・後白河の母后となる女性とごく若い頃に密通したかどで白河院によって地位を奪われ、官人としての生涯を棒に振った、といわれています。

これは存じませんでした。
季通は「今鏡」に簡単な伝記があって「上達部にも成り給はざりしぞ口惜しき。…色めき過ぐし給へりけるにや」とあり、何だろうと気になってペンディングしてあったのです。そういう事件があったわけですね。
「待賢門院璋子の生涯」は以前から気になっていた本ですが、ぜひ読んでみたいと思いました。

そうした背景を知ると、彼の恋歌も少し違って見えてきます。引用して下さった「泪の色の深き…」の歌は殊に迫るものがありますね。
国歌大観で検索してみたところ、少し語句に異同がありましたが、この歌にはひどく心を動かされましたので、千人万首の季通のファイルに追加致しました。(略伝も少し書き加えました。)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/suemiti.html

お蔭様で季通の頁が充実したものになったような気がしております。誠に有り難うございました。

>めるがっぱさん

むらじさんよりメールでご指摘頂いたのですが、詞花集の344番歌は、千載集の1129番歌とわずかな語句の違いがあるだけで、同一歌のようです。

勅撰集などの詞華集は、何度読んでもなかなか「読めた」という気持にはなれないですね。そこがまた面白いところではないかと思います。

またいつでもお気軽にどうぞ。



 藤原季通    ..めるがっぱ [URL]    
      2004/01/10(土) 03:09  No.48
 
 
水垣さん、むらじさん

さっそく教えて頂き、ありがとうございます。

特にあてもなく古典を手にとっている者です。
新古今、古今に続いて昨年、万葉集を読んだのですが、
自分には新古今の時代のほうが合っているのかなと、
目下、千載集に眼を通しております。
(万葉を「読んだ」というのはおこがましいですが)

また、教えて頂くことが多々あるかとおもいます。
よろしくお願い致します。



 RE:藤原季通    ..むらじ    
      2004/01/09(金) 20:47  No.47
 
 
ちょっと調べてみたのですが、勅撰集に採られた季通の歌は
詞花344
千載40,80,106,142,201,223,258,304,351,447,512,867,940,1128,1129
新古今287
となっています。
千載集に採られたものが圧倒的に多いですね。
ご存知かと思いますが季通は藤原璋子という、のちに待賢門院と呼ばれ崇徳・後白河の母后となる女性とごく若い頃に密通したかどで白河院によって地位を奪われ、官人としての生涯を棒に振った、といわれています。
じつはこの話、角田文衛「待賢門院璋子の生涯」の受け売りなのですが、そのなかで

いづかたと宿を知らせしときだにも逢はざりしをばいかが歎きし 
(元永二年七月十三日 内大臣忠通歌合63 平安朝歌合大成第六巻)

身の憂(うき)の歎きに恋のまさるとは泪の色の深きをぞ知る   
(長承三年九月十三日中宮亮顕輔歌合54 平安朝歌合大成第七巻)

という季通の歌があげられています。
季通の恋歌全てを待賢門院への思いを詠んだものとするのがどこまで適切なのかはさておいて、

涙の色の深さ

というあたり、破れた恋へのいまだ覚めやらぬ感情が窺えるように思えます。



 RE:藤原季通    ..水垣 [URL]    
      2004/01/09(金) 19:19  No.46
 
 
めるがっぱ様、ようこそいらっしゃいました。

藤原季通は詞花和歌集という勅撰集にも一首だけ歌を採られています。詞花和歌集は岩波書店の新日本古典文学大系から注釈付きの本が出ています。
季通の歌が最もたくさん収録されている歌集は、「久安百首」と呼ばれる百首歌です。これは『群書類従』第十一輯(続群書類従完成会 刊)に「久安六年御百首」として収められています。『群書類従』はまず書店では見かけませんが、注文すれば入手できるはずです。また、木船重昭著『久安百首全釈』(笠間書院 刊)という注釈書も出ています。

ほかに続詞花集、夫木和歌抄、鳥羽殿北面歌合、中宮亮顕輔家歌合などに季通の歌が載っています。いずれも『新編国歌大観』に収録されています。『新編国歌大観』(全10巻)を買う人はあまりいないと思いますが、大きな図書館には大抵置いてあります。



 >Naked様    ..水垣 [URL]    
      2004/01/09(金) 19:19  No.45
 
 
長崎通詞が物理学や天文学の本を翻訳したという話は聞いたことがあります。「目的」や「個人」も彼らの造語だったとは知りませんでした。
漢学の素養の上に、日頃の通訳の仕事で研ぎ澄まされた言語感覚……なればこその造語能力だったのでしょうね。

>そういえば、教科書の“交ぜ書き”をやめ、ふりがなを用いて表記することを文化審議会国語分科会が提案したそうですね。遅い! ですが、改むるに…といいますから、よい方向とみたいです。

そうですね。戦後の無理な国語改革を少しずつでも見直そうとの動きがあるのだとしたら、結構なことだと思います。



 藤原季通    ..めるがっぱ [URL]    
      2004/01/09(金) 01:26  No.44
 
 
藤原季通を検索して、こちらのサイトにたどり着きました。
めるがっぱと申します。

初めての書き込みで恐縮なのですが、千載集、新古今以外で
藤原季通の歌を読むとなると、市販ですぐ手に入るどういう
出版物があるか、教えて頂けないでしょうか。

勝って申し上げますが、よろしくお願い致します。



 Re:和歌における造語について    ..Naked    
      2004/01/08(木) 20:58  No.43
 
 
 早速に解説いただきありがとうございます。
「歌の創作において新たな語が創出され和語の語彙が増えていった、と考え」得るとのコメントで納得です。なお、本書は、おそらく水垣様にとっては“全体を通して読”むには及ばない類です(笑い)。

 幕末から明治初めは、外国ものが一気になだれ込んだので、日本語も膨大に生み出されたわけですが、実は、江戸期の長崎通詞たちの造語力がすごいのです。「鎖国」からはじまって「真空」「重力」「目的」「個人」等々たくさん発明されたとのこと。これに比べると、例の外来語の言い換え集はお粗末ですね。

 そういえば、教科書の“交ぜ書き”をやめ、ふりがなを用いて表記することを文化審議会国語分科会が提案したそうですね。遅い! ですが、改むるに…といいますから、よい方向とみたいです。



 和歌における造語について    ..水垣 [URL]    
      2004/01/08(木) 00:03  No.42
 
 
Naked様より明石散人氏の著「日本史快刀乱麻」の該当記事数頁の複製を送って頂き、拝見しましたが、やはり論旨が不明瞭で、論拠も示されておらず、私には理解に苦しむ文章でした。
たとえば明石氏は、「暖」と書いて「はる」、「丸雪」と書いて「あられ」等と訓ませる万葉仮名の多彩な書記法について述べ、その後いきなり「日本古代の文化人たちは語彙を豊かにしようとした」「なるべく創作造語を入れるという規則を課した」云々と続くのですが、話が飛躍しています。まさか著者は書記法と語彙を混同しているわけではないでしょう。
全体を通して読めば、あるいはもう少し理解が進むのかも知れませんが、あまり気が進みません。

Naked様のご質問の件に関しては、少し付け加えたいことがありました。明石氏の著より引用します。

「日本古代の文化人たちは、まだ語彙が非常に少ない日本語を豊かにするため、いかにして日本独自の言葉を増やしていくかを懸命に勘案した。そして、当時の知識人たちが採用したのが、日本の定型詩にゲーム的感性を取り入れることであった」

この辺の目の付け所は面白いなと思いました。
万葉集は語彙が豊富だと言われますが、古代日本語の語彙が豊富だったから万葉集の語彙も豊富になった、と言うよりは、歌の創作において新たな語が創出され和語の語彙が増えていった、と考える方が当っているようです。
たとえば、今ではありふれた日本語である「秋風(あきかぜ)」にしても、もとは漢語「秋風(しゅうふう)」を日本語に移植したものに違いなく、おそらく万葉時代における新造語と思われます。
明治時代に「新聞」「鉄道」など沢山の新造語が案出されたことに、或る意味では似ており、或る意味では似ていませんね。

以下、思い付くままに挙げるだけですが、「片恋」「藤波」「夏野」なども、おそらく歌人たちが歌を作るにあたり創出した語だったのではないでしょうか。
人麿の有名な歌、

 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

この「夕波千鳥」はほぼ間違いなく人麿の造語でしょう。「夕波」という語自体、人麿の案出した新語であったかも知れません。

 我が屋戸の夕影草の白露の消(け)ぬがにもとな思ほゆるかも 笠女郎

この「夕影草」は明らかに作者の造語ですし、「白露」も万葉時代の造語であったと見られます。



 お知らせ有り難うございます。    ..水垣 [URL]    
      2004/01/07(水) 02:01  No.41
 
 
玲子様
思いがけないところで弊サイトがお役に立っているらしいと伺って、大変嬉しく存じます。何よりの励みになります。
放送を拝聴できないのは残念です。さぞご苦労もおありかと存じますが、長く続けられることを願ってやみません。陰ながら応援致しております。
こちらこそ有り難うございました。



 何時も御世話になっています。    ..pitch FM83.8  玲子    
      2004/01/06(火) 09:57  No.40
 
 
 私は、愛知県の中央に位置する碧海5市向けコミュニティーFMのささやかなコーナーをボランティアで持っているものです。地元の人々の俳句、短歌と季節季節に合った有名な作品とを紹介し、若い人々に少しでも1300年の日本人のリズムに親しんでもらいたいと大それた考えから非才非能も省みず初めて1年。ずいぶん「やまとうた」水垣様のサイトには御世話になっています。一言お礼を申し上げたくメール致しました。有難う存じます。これからもよろしくお願いします。


 今年もよろしくお願いします。    ..水垣 [URL]    
      2004/01/06(火) 01:19  No.39
 
 
Naked 様
読書のお正月というのも良いですね。

英語の語彙にはフランス語がかなり流入しているんですよね。しかし英語のヒット曲の歌詞は、アングロサクソン語由来の言葉が多くを占めている、ということでしょうか。
しかしメアリ・ホプキンはウェールズの出身ですから、母語はケルト系のウェールズ語ですね。なんていう話になると、頭が混乱してきます(笑)。

>「日本古代の文化人たちは、長歌、旋頭歌、和歌に、なるべく創作造語を入れるという規則を課した。そして、このルールが日本の定型詩を爆発的に膨張させた」とありました。
 造語だけではなく、独自の表現方法も含まれるようですが、このような決まりがあったのでしょうか?

そのような決まりがあった事実は存じません。
と申しますか、ご質問にお答えする以前に、引用された文章の意味が私にはよく理解できません。
「日本古代の文化人たち」とは、具体的に、いつ頃の時代の、どういう人達を指しているのでしょうか。「規則を課した」とは、誰に課したのでしょうか。また、「日本語の定型詩を爆発的に膨脹させた」とはどういう意味でしょうか。定型詩が急速に長大化したということでしょうか、それとも急速に普及したということでしょうか?



 早々のWeb賀状ありがとうございました    ..Naked    
      2004/01/05(月) 22:37  No.38
 
 
 本年も時折はお邪魔させていただきたくご挨拶申しあげます。(欠礼中につき、愛想のない文で恐縮です)

 というわけで、正月は自宅に閑居し、渡辺昇一の「日本語の心」を読みました。
 なるほどと思ったのは、かつてメアリ・ホプキンが歌った「悲しき天使」(Those were the Days)は4語を除いて、イギリスの大和言葉というべきアングロ・サクソン語だということでした。大流行したのは、たんに耳ざわりのよいメロディーだけではなかったのだなぁと思った次第。

 もう一冊読んだ明石散人の「日本史快刀乱麻」について教えてください。「日本古代の文化人たちは、長歌、旋頭歌、和歌に、なるべく創作造語を入れるという規則を課した。そして、このルールが日本の定型詩を爆発的に膨張させた」とありました。
 造語だけではなく、独自の表現方法も含まれるようですが、このような決まりがあったのでしょうか?



 無題    ..水垣 [URL]    
      2004/01/05(月) 00:21  No.37
 
 
ゆゆ様・せきど様、明けましておめでとうございます。なつかしい(はちょっと大げさですね)お名前を拝見できて嬉しいです。お疲れの所、ご訪問ありがとうございました。

>ゆゆ様

「好きな和歌の世界が拡大した」と言って頂けるのはまさに本望です。今年もご愛顧頂ければ幸いです。

おお、ご実家は徳島でしたか。仰る通り私は母方の故郷が徳島です(阿南市椿泊という、かなり辺境の地です)。子供の頃は毎夏のように祖母の家で過ごしました。冬休みはあまり行った記憶がないのですが、田舎のお正月は良いものでしょうね。
猫の写真、何とも言えない味があります。屋根の色や造りがまた何とも風情があって、懐かしさも感じます。日向ぼっこしている猫の表情などは、猫好きにはたまりません(笑)。

>せきど様

昨年はたびたびご投稿を頂き、ありがとうございました。どうぞまたお気軽に加わって頂ければ幸いです。
目のお具合を悪くされたとのこと、どうぞ無理をなさらず、くれぐれもお大事に。早く良くなられますようお祈り申し上げます。
目にお辛いページなどありましたら、遠慮なくご指摘下さい。

ゆゆさんのお写真に便乗して、縁起のよい招き猫大集合の一枚を。もう何年も前ですが、伊勢神宮参道のおかげ横丁の店先を撮らせて頂いたものです。



 はつはるのお喜びを    ..せきど    
      2004/01/04(日) 12:18  No.36
 
 
水垣さま、皆さま、明けましておめでとうございます。
ずいぶんご無沙汰しておりますので記憶に無いかと存じますが、和歌をめぐる皆さまの尽きぬ話題に、あこがれをいだきつつ耳をかたむけている者です。

昨年後半、目の不具合でネットで遊ぶことかなわず、本も読めず書もできずのちょっとさみしい毎日でした。今年は少しずつ復活しようと思っております。皆さまのお話、また楽しく拝見できると思うだけで良い年になりそうです。
どうぞ宜しくお願いいたします。



 あけましておめでとうございます。    ..ゆゆ    
      2004/01/03(土) 12:14  No.35
 
 
水垣様、皆様、新年おめでとうございます。
大変ご無沙汰しておりました。もう忘れられてるかもしれない、ゆゆです!
美しい年賀メールをありがとうございましたv
昨年は、こちらのサイトに出会えて、私の大好きな和歌の世界が飛躍的に拡大し、もっともっと大好きになりました。
なかなか書き込みできませんが、こちらで和歌を鑑賞するのをいつも楽しみにしております。今年も和歌と「やまとうた」ファンでいきますよ!

昨日まで徳島の祖母の所へ帰省しておりました(確か水垣様のお祖母様も徳島ではなかったかしらと思うのですが、記憶違いならすみません)。
毎日、掃除に買い出しにとこき使われて、写真もほとんど撮れませんでしたが、田舎の正月を満喫できました。これは近所の猫屋敷の猫です(笑)。空家になっているお屋敷に猫がたくさん住着いているのです。



 めでたさま猿絵をありがとうございます。    ..水垣 [URL]    
      2004/01/03(土) 00:43  No.34
 
 
葉つきみかん様、あけましておめでとうございます。
お猿さんの画像、思わず頬が緩みます。絵のお上手なことは勿論ですが、絵からほんわかと暖かさが伝わってくるところが気持良いです。

弊サイトのデータをそのように活用して頂けるのは嬉しいことです。
何分個人のサイトですから限界があるとは思いますが、できる限り正確を心がけて行きたいと思っております。長い時間をかけて校正・推敲を重ねてゆくつもりでおりますので、時々改訂情報なども気にかけて頂けると幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いします。

ウェブ年賀状、ありがたいお申し出です。こんなものでよろしければ、どうぞ展示してやって下さい。



 あけましておめでとうございます!    ..葉つき みかん [URL]    
      2004/01/02(金) 17:09  No.33
 
 
水垣様、あけましておめでとうございます!

昨年は大変お世話になりました。「百人一首」の解説文を書く際に、まず水垣様がまとめてくださったものを下敷きにして、その上で自分が調べた事柄を加えていく事により、内容がより充実したものになりました。本当にありがとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いします。

ところで、質問なのですが、ウェブ年賀状を自サイトで展示したいのですが、よろしいでしょうか?とても綺麗で心洗われる情景なので、ぜひとも展示させていただきたいのですが・・。久しぶりの書き込みでこんな不躾なお願いをしてしまい、すみません。



 新年のご挨拶    ..水垣 [URL]    
      2004/01/01(木) 23:26  No.32
 
 
明けましておめでとうございます。皆様、旧年中はありがとうございました。こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

今年は寝正月と決め込んでいたのですが、お屠蘇に酔った勢いで今までろくに出したことも無い年賀メールを出しまくってしまいました。と申しましても、昨年中メールでご挨拶下さった方と、掲示板投稿時にメールアドレスをお書き込み下さった方に向けてだけなのですが。ご迷惑をおかけしたとしたら、申し訳ありませんでした。
(なお、メール送信を受け付けてもらえなかったケースが数件ありました。)

ウェブ年賀状ですが――sionさんとMM3210さんのお讃めの詞のあとではかなり出しづらいのですが――下記リンクいたします。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/heisei16.html



 謹賀新年    ..MM3210 [URL]    
      2004/01/01(木) 23:04  No.31
 
 
新年明けまして、おめでとうございます。

美しいウェブ年賀状を拝見させていただきました。

短歌と写真の相乗効果が素晴しいですね。

早速、家持の歌を手元の本で確認したところ、
3999番と1000番違いの2999番が「も・の・は」3個の辞を闕く歌
であることの意味を探ろうとした書き込みがありました。

同じ万葉集に対して、こんなに落差の大きい接し方しかできない小生ですが、
本年もよろしくお導き下さるようお願い致します。



 明けましておめでとうございます    ..紀州の姫    
      2004/01/01(木) 21:45  No.30
 
 
和歌については、こちらの皆様のお話を拝見し、ただただ勉強さ
せて頂くだけの私ですが、今年も楽しみながら少しでも皆様に
付いて行きたいと思っております。
どうぞ宜しくお願い致します。



 新年おめでとうございます。    ..ためかぬ    
      2004/01/01(木) 21:15  No.29
 
 
新年おめでとうございます。

『忘られぬべき 雲の上かは』

から 何のためらいもなく きん斗雲が私の頭にうかび
今年の年賀状は

 幾月日 いく山河を へだつとも 
      忘られぬべき 雲の上かは 京極爲兼

にしました。

浅く偏愛にとどまりがちですが、私なりに和歌の世界を  
すこしでも広げ味わえるようになりたいと思っております。
どうぞ 今年もよろしくお願いします。


>素敵なウェブ年賀状
 ぜひ拝見したいものです。



 春のはつ花    ..八重葎    
      2004/01/01(木) 20:05  No.28
 
 
水垣様 皆様

新年おめでとうございます。

本年もいろいろ やまとうたについて
勉強させていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

谷風のとくる氷のひまことに
    うち出る浪や春のはつ花
        源まさすみ









 謹んで新春のお慶びを申し上げます    ..sion    
      2004/01/01(木) 19:06  No.27
 
 
あけましておめでとうございます。
永らくご無沙汰しているにもかかわらず、新年早々ご挨拶のメールをありがとうございました。素敵なウェブ年賀状、拝見しました。山も川も空も、(もちろん歌も)心が吸い込まれそうに美しいです。

新しい掲示板も、うれしいです。昨年後半は環境の激変で、ネットから遠ざかってしまいましたが、そろそろ新生活にも慣れ、また皆様とお話できたらいいなと思っています。
それでは本年もどうぞよろしくお願いいたします。



 明けましておめでとうございます    ..ひよきち [URL]    
      2004/01/01(木) 16:29  No.26
 
 

新年明けましておめでとうございます。

昨年は 水垣さま、皆様にお世話になりまして
誠にありがとうございました。

本年もどうぞよろしくご指導下さいませ。




 謹賀新年    ..むらじ    
      2004/01/01(木) 16:07  No.25
 
 
あけましておめでとうございます。
旧年はロムしてばかりのことが多い1年でしたが、
本年はすこしでも皆様のお話の輪に加われるようがんばりたいと思います。
宜しくお教えくださいませ。
平成16年 元旦



 新年おめでとう!    ..浦木裕 [URL]    
      2004/01/01(木) 03:42  No.24
 
 
水垣久さま:

明けましておめでとう御座います。
こんにちは、浦木裕です。
そう言えば、今度はこのBBSで初めての書き込み。
以前は不明の原因で、このBBSへアクセスできませんでした。
いつも水垣さんから世話頂けまして、本当に有難う御座います。

蔽サイトは、新年のお見舞いを差し上げます。
メインはアニメなどのネタが申し訳有りません。
http://applepig.idv.tw/kuon/special/contribution/uraki/mimai/2664sin-nen/2664-sin-nen.htm

また、最近が作りましたの平家系図は此方にどっぞ:
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/chara/character_top.htm

では、今年も宜しくお願いします。

                        浦木裕 拝



 >紀州の姫様    ..水垣 [URL]    
      2003/12/22(月) 01:40  No.23
 
 
心に響く歌を見つけて下さったとお聞きすると、私も勇気づけられます。

> わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る

何度も暗誦していると、少しは自分の心も強く高くなったような気持になります。

>今年5月のサンクトペテルブルグ・ネバ川での白夜(夜11時)

うっすらと青みがかった光の色が何とも美しいですね。薄明の運河、舟、建ち並ぶ古い建築。大変心を揺さぶられます。町の空気や水の匂いまで伝わってくるようです。
白夜に近いものは北欧を旅した時に経験しましたが、時間を得したような、不思議な気分になるものですね。
サンクトペテルブルグと言えばドストエフスキー、「白夜」という小説もありましたっけ。以前からの憧れの街ですが、いつかどうにかして行ってみたくなりました。
素敵なお写真を誠に有り難うございました。



 極楽へまだ我が心ゆきつかず    ..紀州の姫    
      2003/12/21(日) 14:31  No.22
 
 
私も「慈円」を拝見致しました。
自分の思いと同じ気持ちの歌を拝読しました時は、
勇気づけられたり、納得したり・・。

> わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る

今の自分自身の心に言い聞かせております。

山路ふかく憂き身のすゑをたどり行けば雲にあらそふ峰の松かぜ(拾玉集)
極楽へまだ我が心ゆきつかずひつじのあゆみしばしとどまれ(新古)

雲のお写真を拝見し、雲の流れがとても良く感じ取れました。
また、月の光に、少し似ている一枚があるのを思い出しました。
今年5月のサンクトペテルブルグ・ネバ川での白夜(夜11時)
です。
覚えた添付作業を、またしてみます・・・。(^^ゞ



 慈円2    ..水垣 [URL]    
      2003/12/21(日) 01:56  No.21
 
 
>ためかぬ様

>思ふことなどとふ人のなかるらん仰げば空に月ぞさやけき

澄んだ冬空がよく眺められる季節になりましたね。
近頃は月の出が遅いので、星が一層輝いて見えるのでしょうか。

> わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る

>結局、このことに正面から向きあえきれず、天を仰いでしまいます。

なかなか慈円のようには言えませんね。でも、慈円にしても自分を叱咤するような思いで詠んだのかもしれない、とも思えます。

ところで慈円は非常な多作家で、秀歌の数も大変多く、最初「千人万首」にアップしました時は、実は八十首くらい載せていたのです。ところが、なにしろ作風の多彩な人なので、どう選んでも、統一感が取れないと言いましょうか、ごちゃごちゃした感じになり、その後雑歌以外は思い切って切り詰めて、五十首にまで減らしてしまいました。いつかまた選び直したいと思っております。

(写真は、今朝、と言うか日が替って昨日の朝の有明の月です。月というより雲が見事でしたので、思わずベランダに出てデジカメで撮りました。)



 慈円1    ..水垣 [URL]    
      2003/12/21(日) 01:54  No.20
 
 
>ひよきち様

こんばんは。

>お花見の席などよりも、そういう静かな時の方が 
>桜の美しさをより感じられるように思います。

そうですね。
吉野山くらい深い桜の森になりますと、静寂の中一人で桜に浸りきるのはきっと恐ろしいと思うのですが、あの公園程度のこぢんまりした林でしたら、頭がおかしくなる心配もありません(笑)。

引用して下さった慈円の歌は、私もことに印象深く残っている二首です。

>最近 梅原猛氏の「古代幻視」を読みまして 
>慈円について興味を持ち始めたところです。

「北野天神縁起」の企画者を慈円とする説を唱えておられましたね。私にはちょっと信じられない説でしたが、慈円が仏教者の顔の背後に何か暗く大きなものを抱えていたことは、残した和歌からも感じられるところです。
和歌はそうした大きな心のほんの一角を見せているに過ぎないかも知れませんが、「声までも聴こえてくるような気がする」というのは全く同感です。



 わが行く道は    ..ためかぬ    
      2003/12/20(土) 22:34  No.19
 
 
本来の寒い冬となりましたね。
ひよきちさまのご紹介に、私も「慈円」を拝見しました。 

 思ふことなどとふ人のなかるらん仰げば空に月ぞさやけき

昨夜は、とても澄んだ冬空で、またたくオリオンの星々に同じような思いを抱きながら家路に着きましたので、なんだかうれしくなりました。

 立ちかへる世と思はばや神風やみもすそ川のすゑの白波

>これは玉葉集の巻末歌。

知らなかったので、思わずチェック印を入れました。(^-^*)

 わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る

結局、このことに正面から向きあえきれず、天を仰いでしまいます。



 わが行く道はわれのみぞ知る    ..ひよきち [URL]    
      2003/12/20(土) 11:13  No.18
 
 

こんにちは。

>早朝に行けば、静寂の中思う存分桜に浸れます。

「静寂の中で」とのこと、とても素敵だと思いました。
お花見の席などよりも、そういう静かな時の方が 
桜の美しさをより感じられるように思います。



   わが心奥までわれがしるべせよ
わが行く道はわれのみぞ知る(拾玉集)


   まことふかく思ひいづべき友もがな
        あらざらん世の跡のなさけに(拾玉集)


最近 梅原猛氏の「古代幻視」を読みまして 
慈円について興味を持ち始めたところです。

改めて千人万首の「慈円」を拝見しておりましたところ 上記の2首が大変心に残りました。


歌というものは本当に不思議なものですね。

数多くの歴史上の人物。
その一人一人の歌を拝見しておりますと 
歴史年表の隙間から その人の声までも聴こえてくるような気が致します。



 吹かば散りなむ風のまにまに    ..水垣 [URL]    
      2003/12/20(土) 00:03  No.17
 
 
八重葎様

お久しぶりです。新しいゲストブックでもよろしくお願いします。

十一月が暖かかったせいで紅葉・落葉も遅れたのでしょうか。今月に入っても各地で紅葉見物ができたようですね。
銀杏は私の近所(横浜)では日本大通と山下公園前の通りという、ちょっとした名所があります。半月程前に見た時は美事に黄葉しておりました。そんな写真を載せられると良かったのですが。

ところで、ここは実際には所謂「ゲストブック」とは異なる性質のBBSになっているのかも知れませんが、あくまでもゲストの方々が主役ということで、今後もこの名称で通させて頂きたいと思っております。



 時雨する夜も 時雨せぬ夜も    ..八重葎    
      2003/12/19(金) 12:32  No.16
 
 
水垣様

ご無沙汰しております。異動等がありなかなか投稿できませんでした。
あたらしいゲストブック開設 お疲れ様です。
何か面白い添付がありましたら、私もTRYしてみたいと思います。

近所では、今ごろ銀杏の黄色い葉が散り、道に積もっております。
やはり暖冬で異常気象が気になる今日このごろです。



 >むらじ様    ..水垣 [URL]    
      2003/12/15(月) 21:03  No.15
 
 
こちらの方へもご訪問頂き、ありがとうございます。
旧BBSの投稿の件はどうぞお気になさらず。

画像添付と過去ログのダウンロードが簡単にできる掲示板を探していて、適当なのが見つかったので早速引越しというわけです。利用しやすくなっていれば幸いです。
これからもどうぞよろしくお願いします。



 無題    ..むらじ    
      2003/12/14(日) 17:30  No.14
 
 
こちらでは始めまして。
いやー、失礼いたしました。
読んでいながらついいつものクセで古いほうに書き込みをしてしまって・・・
いったい何をやっているんだか・・・
それにしても丁寧なレスまで頂戴し、大変恐縮であります。
こんどは写真も貼れるからいいですね。
ともあれ、新ページの開設おめでとうございます。



 >紀州の姫様    ..水垣 [URL]    
      2003/12/09(火) 22:56  No.13
 
 
添付作業、お見事でした。もしや分かりづらくてお悩みになるのではと、実は気がかりだったのですが。
ましてや楽しんでやって頂けたのなら、まことに幸いでした。
また楽しい写真などありましたら、宜しくお願いします。

>根津美術館
菅原通濟氏の蒐集品というのは初めて知りましたが、渋いコレクションだなあと思いました。作品を通して蒐集家の美意識を味わうというのも、この種の展示会の面白さでしょうね。



 >遥様    ..水垣 [URL]    
      2003/12/09(火) 22:55  No.12
 
 
せっかく来て下さったのに、こちらこそごめんなさいです。


 添付作業楽しかったです(^.^)    ..紀州の姫    
      2003/12/09(火) 09:20  No.11
 
 
水垣さま
写真の方、撮影が下手でピントは都鳥香合ではなくお箱の方に
合っているような気がしますが・・、お許しを。(^_^;)
初めての添付にしては何とか上手く出来たのではないでしょうか。
楽しいですね!
確かに、この都鳥はユリカモメとは少し違いますね。
これも、一度陶芸家の先生に伺ってみたいです。

根津美術館は、私など知識無く充分に味わいきれては居ませんが
墨書は見応えがありました。
またそれらの軸装が一つ一つ素晴らしかったです。
もう一つ、こちらで話題になりました束帯天神像や渡唐天神像が
いくつもあり、それも見応えがありました。



 そうですか・・・    ..    
      2003/12/09(火) 01:34  No.10
 
 
分かりました。ごめんなさい。
本当に失礼致しました。



 はじめまして >遥様    ..水垣 [URL]    
      2003/12/08(月) 22:24  No.9
 
 
ようこそいらっしゃいました。管理人の水垣です。
上に書いてありますとおり、「ご質問」は歓迎致しますけれども、今回の件は「執筆依頼」ということになるのでしょうか?
そういった文章は、まとまった暇な時間ができるまで、書けそうにありません(と言うか、書きたくありません)。
いつになるとも分かりませんが、それまでお待ち頂けるのでしたら、お引き受けいたします。



 急かしたみたいで申し訳ありません(^^;    ..水垣 [URL]    
      2003/12/08(月) 21:54  No.8
 
 
紀州の姫様
綺麗なお写真を有り難うございます。
思ったより早く拝見でき、やはりゲストブックを新しくして良かったです(笑)。
立てた尾羽が何とも可愛いですね。微妙な色合と言い、羽毛の細やかな描き方と言い、実に念の入った趣向で、見飽きません。
鳥の形としてはユリカモメや水鳥系を予想しておりましたので、その点は意表をつかれました。
こういうのをいくつも集めたら楽しいだろうなあと思います。
さぞかしお茶席を引き立ててくれるでしょうね。

>先日、根津美術館(港区南青山)に行ってきました。

東下りしておられたのですか。
興味深い展覧会をやっているのですね。美術館の公式サイトを見ましたところ、石山切伊勢集なども展示されているようです。今週末までとのことですが、チャンスがあれば行ってみたいと思います。

>「歳暮」
>ゆくとしのをしくもあるかなますかがみ
>      みるかげさへにくれぬと思えば  (貫之)

一年の経つのがどんどん速くなってゆくようで、本当に「ゆくとしのをしくもあるかな」を実感する今日この頃です。



 はじめまして。    ..    
      2003/12/08(月) 21:40  No.7
 
 
はじめまして。遥という者です。
いきなりで失礼なのですが、

詞花167
清原元輔
「松島の磯にむれゐる蘆鶴の、をのがさまざまみえし千代かな」

こちらの歌の解説・鑑賞などを頼んではいけないでしょうか??
今大学のゼミで松尾芭蕉・おくのほそ道と関わりがある歌というのを調べていて、
この歌の歌枕は有名な松島という事もあって調べようと思いました。
是非よろしくお願いいたします



 きらきら短歌    ..きらきら短歌 [URL]    
      2003/12/08(月) 14:17  No.6
 
 
突然失礼いたします。
きらきら短歌事務局です。
現在、iモードを短冊にみたて短歌を詠むコンテスト「きらきら短歌」を開催いたしております。
このコンテストも今回5回目を迎えており、皆様から非常にご好評いただいております。
是非ご参加ください。
■タイトル
i短歌コンテスト「きらきら短歌」
■日程
応募 平成15年11月20日〜平成15年12月19日
投票 平成15年12月20日〜平成15年12月23日
審査結果発表 平成15年12月24日
■応募方法
iモードからのみ応募可能
■参加費
無料
■URL
iモード http://www.docomo-dml.com/ → 「イベント」 → 「きらきら短歌」
PC http://www.docomo-dml.com/ → 「きらきら短歌」
■問合わせ
きらきら短歌事務局 ドコモモバイルメディアラボ京都
住 所 京都市下京区四条柳馬場京都フコク生命四条柳馬場ビル
電 話 075-254-3766
メール tanka-info@manabi-i.net



 こちらにお邪魔します    ..紀州の姫    
      2003/12/08(月) 00:41  No.5
 
 
水垣さま
掲示板は新年に新しくなると思っていましたので、写真添付は
まだまだのつもりでいましたら、急に新しくなり、焦りました。
ともかく「都鳥」香合を写しましたので添付してみますが、
なにしろ初挑戦!失敗しましたらごめんなさい!m(__)m

先日、根津美術館(港区南青山)に行ってきました。
菅原通濟「粋美の世界」が14日までやっており、
平安時代(西行筆、藤原俊成筆など)の墨書や室町時代の
墨画などを鑑賞して参りました。
お茶席の設えもあり、その床のお軸は紀貫之の墨書でした。

「歳暮」
ゆくとしのをしくもあるかなますかがみ
      みるかげさへにくれぬと思えば  (貫之)



 紅葉と桜    ..水垣 [URL]    
      2003/12/08(月) 00:26  No.4
 
 
ひよきち様、早速ありがとうございます。

竜田川の周辺は残念ながら自然林は残っていないのですが、江戸時代から地元の人々が楓など紅葉の美しい樹を増やし育て、保護してきたとのことです。撮影した一画では、仰る通り緑から赤までの微妙なバリエーションが楽しめました。

近所の公園の桜林は戦後の植林だそうです。もとは競馬場だったとか。
桜の季節はさすがに花見客で混みますが、早朝に行けば、静寂の中思う存分桜に浸れます。こういう公園が近所にあるのは嬉しいことです。



 素敵です    ..ひよきち [URL]    
      2003/12/07(日) 00:46  No.3
 
 
こんばんは。早速お写真を拝見いたしました。
本当に素敵ですね(*^_^*)

竜田川の様子も、
葉の色を見てみますと 同じ「緑」は一つとしてなく
そして「黄」も実に様々なのですね。

「赤」ともなりますと「朱」「緋」「紅」・・と、
どの字がぴったりと来るだろうかと考えますのも
とても楽しいものでございました。


>公園の桜の林 

こんなにも多くの桜が!(*^_^*)

並木ですと横に立ち並ぶだけなのでしょうが、
このように林ともなりますと 横を向いても 後ろを見ても
全て桜に囲まれることになるのですね。

周りは全て桜の木々。
そして上からは はらはらと舞い散る花。

その中を歩いてみたくなりました。




 もう一枚    ..水垣 [URL]    
      2003/12/06(土) 22:12  No.2
 
 
写真をもう一つ。よく散歩する近所の公園の桜の林です。



 ご挨拶    ..水垣 [URL]    
      2003/12/06(土) 22:06  No.1
 
 
ゲストブックを新しくしました。今度のは画像が簡単にアップできたり(試していませんがお絵かきまでできるそうです)、検索や過去ログのダウンロードが可能になったりと、いくつか便利になっていると思います。

と申しましても、以前のゲストブックと運営方針は別段変わりません。これまで同様ご愛顧頂ければ幸いです。

というわけで今後ともどうぞよろしくお願い致します。

(写真は、以前のゲストブックで少し話題になった竜田川です。写真をクリックすると拡大されます。)


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