民芸館‥兵庫県(2)ー2
【民芸館】全国郷土玩具バーチャルミュージアム


兵庫県篇(2)ー2

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城崎の麦藁(むぎわら)細工
 城崎温泉町の「むぎせん民芸店」「かみや民芸店」などの店では、店頭に作業室があり制作風景が見られます。一般的には箱に亀甲や菱形、麻の葉を模様張りしたものが多く、昔は茶棚や鏡台、小箱などが多く作られていましたが今はほとんどみられません。
 この麦藁細工の発祥は古く、江戸時代、享保年間(1716〜36)に、因州(鳥取県)の半七という人が始めたと伝えられています。
 最初に作られていた物はどんなものであったかは不明ですが、竹笛やこま、指輪などが作られ、この辺の地名から「湯島細工」と呼ばれました。
 明治になると、富岡鉄斎、田能村直人、志賀直哉、与謝野寛夫妻、吉井勇、など多くの文化人が泊り、その助言指導により麦わら細工は、大正年間を黄金期として開花します。
 以後、何度か廃絶寸前の危機がありましたが、現在では「麦わら教室」も開かれ、専門に制作している職人さんも数名いられるようです。

制作者:前野治郎(むぎせん民芸店):城崎郡城崎町城崎温泉湯島378..TEL:0796-32-2526
    神谷 勝(かみや民芸店):城崎郡城崎町城崎温泉湯島431..TEL:0796-32-3259



北条の大羽子板と布団屋台
 大羽子板も布団屋台も、西田要太郎さんが作られいました。今は布団屋台を西田とし江さんがあとを継いで作られています。また「大羽子板」は求めに応じて作られます。とし江さんは平素は造花を作っていますが、祭りが近ずくと「北条の布団屋台」を制作されます。
 「北条の布団屋台」:加西市で4月2、3日に行われる播州の三大祭のひとつ、北条の「節句祭り」に出る布団屋台(神輿)の玩具化されたものです。
 「 大羽子板」:姫路には、正月の祝儀に男子には2個の独楽を、女子には厄除けと招福を願って幅広の大羽子板をおくる風習が伝わっていました。



「兵庫県の土人形」:県内の中央に位置する山間の集落である稲畑(いなはた)と葛畑(かずらはた)、最西部のこれも山間の集落の佐用郡上月町で、土人形が作られていました。

早瀬の土人形(廃絶)■
 県内の最西部、山間の佐用郡上月町で、「早瀬土人形」が作られていたことが、数年前に姫路市の郷土玩具収集家の故山田忠夫氏により発見されました。
 明治中期から大正中期までの30年程の期間に作られ、その後、廃絶して埋もれていた土人形です。

稲畑土人形
 4代目の赤井みさ代さんが昭和56年に他界され、5代目、赤井君代さんが継がれています。本格的に制作されているかは、この記事を書いている時点では、確かな情報が得られていません。
 受け継がれている型は、300種ほどもあるということです。稲畑土人形の特色は天神で、練(ねり)天神と土天神があります。練天神は、素焼きをしない生土(なまつち)の人形といわれる技法で作られ、土天神は素焼きの上に彩色したものです。
 この人形は、弘化3年(1846)からで、赤井若太郎忠常が京から伏見人形の職人を招き、その製法を習い制作を始めたのが最初です。
 村人にも農閑期の副業として制作を奨励したため、明治時代の最盛期には、赤井家の他にも7、8軒が作っていて、「節句人形」が丹波地方から、播州や但馬地方まで広く売られていたようです。

制作者:赤井君代:氷上郡氷上町稲畑876-2..TEL:0795-82-0741

葛畑(かずらはた)土人形 (廃絶)■
 昭和38年、神戸新聞が「ランプの下で珍しい土人形」の見出しで取り上げ、その当時、電気も引かれいなかった不便な集落で作られていた葛畑土人形 は、マニアの間で話題を呼びました。しかし3代目の前田俊夫氏が昭和56年に亡くなり、この人形は廃絶しました。
 この前田俊夫さんは戦時中は応召により中断していたが、戦後まもなく再開し、昭和43年には関宮町無形文化財に指定されました。
 初代の前田三良右衛門(別名・友助。天保11〜大正2)は、京都の伏見人形の技法を学び、瓦焼と農業のかたわら人形を作りました。
 この土人形を土地の人々は「つちびーな」と呼び、やはり雛段に飾る節句物が中心に作られていたようです。




---兵庫県篇・終り---


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(1998.10.12掲載)