【民芸館】......全国郷土玩具の旅


京都府篇(1)ー2

----KYOTO----



伏見人形と節句物

 古くから、伏見街道を往来する旅人や、稲荷詣りの人達が土産にこの人形を買い求めました。
 伏見人形が全国的に知られるようになったのは、特に節句物の土人形によってでした。
なかでも、内裏雛や立雛、八重垣姫、武者人形、金太郎、桃太郎、天神、飾り馬、などが人気のある人形で、これらを中心に伏見人形は大いに発展しました。
 江戸時代の中頃から、庶民の生活水準が上がるにともなって、節句に人形を飾る風習が各地に広まり、伏見人形の需要は急激に増えて、生産に拍車がかけられるようになります。
 これと並んで、北前船による手頃な船便が発達し、一度に大量の品が輸送されるようになります。今でも日本海沿岸の寄港地に、古い伏見人形が見られるのはそのためです。このように、江戸後期から明治初期にかけての全盛期に、この節句人形が全国各地に送られ、伏見人形は各地の土人形作りの基礎となりました。




伏見人形の成り立ち■(解説:畑野栄三)

 土人形の中で最も古い歴史をもつ伏見人形は、一体いつ頃から作りはじめられたのだろうか。
 野見宿弥(のみのすくね)による土師部(はじべ)の埴輪説はさておき、深草の地は土師部の住みついた地であることは古い記録にも記されている。
 そして、土師部の氏神と宇迦魂神(うかのみたまのかみ:食物の神)が結びつき五穀の神として、また農業神として祀られるようになったのが、今日の伏見稲荷大社の起りである。
 この神の祭祀用土器をはじめ日用雑器を付近の良質の土で焼くようになり、やがては土器から土の人形作りへと発展していったのではないだろうか。
 また、一方では天正年間(1573〜92)、豊臣秀吉の伏見城築城にさいし、城の屋根瓦職人を幡州や河内から集め、深草の地で瓦焼を始めさせた。その後、方広寺など京都市中の寺院造営に多くの瓦職人の腕が振るわれ、現在も深草には瓦町の地名が残されている。これらの瓦職人の手遊びに作り出されたのが、伏見人形のはじまりではないかとされている。

 現在最も古い伏見人形としては、天正3年(1575)の記銘の古作が「丹嘉」に収藏されている。その他にも若干桃山期の在銘のものも報告されているところから、当時、庶民の求めに応じて深草界隈で作り始められ、それが時代が落ちつきを見せる江戸初期になると、かなり商品化されて出廻るようになったものと思われる。
 稲荷社は農耕の神であり、農耕の母体となるのは土である。この稲荷社の土を持って帰り、田畑に撒けば穀物がよく穫れるといった素朴な信仰は古くからあった。土のままでは芸がなさすぎると、それを土焼きの鈴やでんぼ、つぼつぼ、さては人形に作って参道で売り始めた。そして様々な縁起や風俗に結びつけて、さらに宣伝することにより、参詣者は競って求めるようになった。

 江戸中期から時代も安定し、庶民生活にもゆとりが持てるようになり、社寺参りにかこつけての物見遊山の人達も大勢伏見街道を往還した。
 稲荷から数里南へ行けば、京の玄関口といわれた伏見京橋港である。三十石船と呼ばれた定期船が淀川を上がり下がりし、賑わう港町には遊廓までできた。
 港は稲荷詣りの旅人だけでなく、伏見街道を通じ京への旅人も多く、そうした人達が必ず土産に伏見人形を求めた。
 化政期の頃(1804〜30)から伏見人形の全盛期を迎え、街道筋には窯元や人形を売る店など、合わせて50軒余りが軒を連ねていたといわれている。
 そして、先の節句物の土人形で述べたように、北前船による大量輸送により伏見人形は全国的な地位をしめることになる。

 だが、明治22年に鉄道が開通し稲荷駅ができた頃から、伏見人形にかげりが見え始めた。旅人で賑わった伏見京橋港も次第にさびれ、やがては京都市電、京阪電車が通るようになると、伏見街道を行く旅人の姿は消えていった。
 大正・昭和にかけて転廃業する窯元も増えたが、それでも昭和の初期には20軒余りが人形の製造販売をしていた。
 太平洋戦争の激化と共に営業ができなくなり、戦後、再び窯に火を入れるようになったのは「丹嘉」と「菱屋」だけであった。

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(1998.1.19掲載)

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