ルツェルンのワーグナー

 ルツェルン近郊のトリブシェンに居を構える前に、ワーグナーは四回ほどルツェルンを訪れています。最初はドレスデン革命に加担していたとして、指名手配中の身であった頃のこと、1850年チューリッヒに滞在していた彼は、まだ最初の妻と一緒にリギ山にハイキングに行き、その帰り、ルツェルンに立ち寄ったようです。
 二度目のルツェルン訪問は1854年、スイス同盟音楽家協会の招きで(恐らくはシオンで)演奏会をした帰り、ルツェルンを経て、ゼーリスベルク(ブルンネンの対岸リュトリから丘を上がった所の村)に妻と共に立ち寄っています。
 三度目は1858年、チューリッヒで代表作の一つ「トリスタンとイゾルテ」を作曲中、ドイツのヴァイマールの大公との会見があり、恩赦とドイツ帰国の話し合いがルツェルンで持たれたのでした。しかし、何の成果もなく彼はチューリッヒに戻らなくてはならなかったのです。
 四度目はその翌年、ヴェネチアでまたもや政争に巻き込まれ、逃げてきたのですが、ヴェーゼンドンク夫人との三角関係の為にチューリッヒに戻ることもできず、今もあるシュヴァイツァーホーフに五ヶ月あまり滞在しています。別館の一階が全部、ワーグナーの為に提供され、この時の身の回りの世話をした女中がそのままトリブシェンの家の従業員となったのです。
 そして、ここで名作「トリスタンとイゾルテ」が完成します。
 マチルデ・ヴェーゼンドンク夫人とのチューリッヒでのことなどは、また今度。ともかく、ワーグナーの傑作の多くが、スイス時代に書かれたことは、よっぽどこの地が彼にとって好ましい所だったのですね。
 そして、五度目のルツェルン訪問は1866年の4月から1872年の4月までの長期に渡ってのこととなり、トリブシェンの白い家に、新しい妻と共に(移った時はまだ妻コジマの姓はビューローだったが…)転居したのです。
 二人の結婚式は、あのルードウィヒ王の立ち会いのもと、ルツェルンのマテウス教会で1870年に行われたとあります。マテウス教会はゼー橋を渡って真っ直ぐのちょっと奥まった?所の教会です。まず、この教会がガイドブックにのっていることはありませんので、探される方は、ホテルでもらえるシティガイドの地図で確認されると良いでしょう。
 こうして、泥沼の三角関係を何度となく経験して、彼はやっとここで終生の伴侶と結ばれるのですが、この終生の伴侶が、あのスキャンダル満載の鍵盤の獅子フランツ・リストの娘というのも、何かの巡り合わせでしょうかね。
 この五度目のスイス滞在は「あの大音楽家ワーグナーが我々の近くに住むことになった」と新聞にでたこともあるほどですから、当時大歓迎されていたことがわかります。
 これからルツェルンに行かれる方は、ちょっと知っているだけで、ルツェルンに更に奥深さを感じて旅行できるかも知れませんね。