ワーレンシュタットの湖で

 3年前のことです。チューリッヒを出てクールに向かう列車の中で、日本からの長旅でうとうとしていた私は、ふと車窓に目をやって湖と対岸の切り立った崖と、そこにかかる薄い霧に、文字どおり目も覚めて、見入ってしまいました。
 この路線にこんなところがあるということを知りませんでした。その時もっていたガイドブックにはなにも載っていないし、地図で確認すると、ワーレン湖という名前らしいということはわかったのですが…。
 その時はまだ気が付かなかったのですが、ここはあのピアノの巨人、フランツ・リストが「ワーレンシュタットの湖で」という曲に描いたところだったのです。

 帰国して調べると、その昔、辻村伊助という人が大正の時代にここを旅して書いた「スイス日記」に記述があることを知りました。彼はサン・モリッツからチューリッヒに向かう途中、私のようにうとうとしていて、それこそ「目が覚めるような」光景を私と同じように見ています。

 ところで、フランツ・リストのこの作品は「巡礼の年第1年"スイス"」としてまとめられた曲集です。第1曲が「ウィリアム・テルの聖堂」で2曲目が「ワーレンシュタットの湖で」。他にアッペンツェル地方の羊飼いの歌を基にした「田園曲」「牧歌」などや「ジュネーブの鐘-夜曲」なども含まれています。

 曲は左手の伴奏が舟の魯の動きを表わし、ゆったりと続くメロディーは、どことなく世間を超越している穏やかさが支配しています。この時、リストはダグー伯爵夫人との逃避行の最中でした。

 遥かに年の離れた夫の元から、若い22才のリストと28才の夫人はスイスに来ていました。ダグー伯爵夫人はこの曲を涙なくしては聞けなかったと、後年語っていますが、どうであれ、二人の恋の逃避行はワーレン湖畔をも駆け抜け、リストは次の恋へと移り、結局は実ることはなかったのです。

 この曲を思い出しながら、昔の恋路を追ってみてはいかがでしょうか。